人と交差する
新しいものへの欲
新しいipad airがほしい。
新しい家に引っ越したい。
新しいバイトをしたい。
新しい服がほしい。
新しいアニメを観たい。
物に感じる寂しさ
これらの新しい物/事に対する欲望のうち、新しい家に引っ越すには必ず今の家を手放すわけで、この時、上記の他のものには感じない寂しさが少しある。他のものよりも圧倒的に身近にあったものだろうか。
子供の時、新しいおもちゃを買ってもらってもまだ古いもので遊んでいることが多かった。
新しいテレビが家に来て古いものを処分する時も何か寂しさがあった。
人に感じる寂しさ
人に対して感じる寂しさは涙が出るほど悲しいもので、卒業式というものを幼小中高の間で4回経験した。(中高一貫校だったため中学の卒業式はあってないようなものだった)
変化していく
物に対する寂しさと人に感じる寂しさとは違うのはなぜだろう。物も古いものから新しいものへ変化し、対して目によく映る人も変わっていく。
インタラクティブ
この違いは、相互的なものの有無ではないか。
家やテレビなどは生活の一部で、こちらから何か言って返答してくれるものではないのに対し、人はコミュニケーションが取れるため仲の良い人を失うとその人の声や顔、体型や性格、私に対する話し方から態度まで全てを失う。
接触の仕方
そんな中SNSを通じて以前の友人を見かけることは少なくない。まだこの人が身近にいると勘違いさせられる。その人が何をしていようが今こちらには全く関係ない。正直なところ必要のない関係性であるが、その人たちと話しているのを思い出してみればその内容もこちらには何も損得のない話である。仲が良かったというのは、話の内容に損得がある、面白いというよりも、コミュニケーションを取る事自体、"その人"と話す、関わりを持つ事を好んでいたんだと。
人と離れることがものに比べてより悲しいのは当たり前かもしれないが文に起こしてみると面白い。
人と交差する
新しいipad airは欲しいが今の私には絶対的に必要というものでもない。人も同じでは。新しく人と関わろうとするなら関わることはできるかもしれないがし何もしなければ関わることのない人がこの世には70億人以上いる。だから、"人と関わりを持つ"というよりも"人と交差する"という方が納得がいく。交差点ですれ違う人たちは全く知らない人。
世界の人々との交差
しかし、偶然インターネット上で交差しているかもしれない。この世界で私は、周りに物理的に存在している人よりもインターネット上で交差することの方が多い。素晴らしい世界。交差し得る人が莫大にいる世界。
新しいipad airがほしい。
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