音の力/感性のダイバーシティ
小さいときから音楽には触れてきた.小1からバイオリンを習っていた.そのときは練習するのが嫌だったが今は弾くことが楽しい.
音というのは不思議だ.雑音という音もあればわざわざ聴きに行く音もある.例えばアパート,マンションなどで隣人の騒音に苛立つこともあるかもしれない.たとえそれが自分の好きな音楽だったりその場にいると心地よい音でさえも.わざわざ聴きに行く音というのは,コンサート等のことであろう.
全ての音に音階があるのだろうか.”音楽”は音階はあるのは自明だ.だが,何かに躓いた時の”音”には音階というものは存在するのだろうか.
音には,音階が同じでも柔らかい音と硬い音があるのもなんとなく感覚で分かるだろう.楽器によって出る”音階”が一緒でも”音”が違うのも分かるだろう.楽器というのは音を作り出すために作られたものであろう.楽器として認識されないもの(例えばPCやペン,壁などのことである.)でも叩けば”音”は出るし,それはまた楽器とも違う”音”で,しかもそれぞれが違う”音”を出すだろう.これはとても面白いことだと思う.何種類かのペンを机に叩いても,中の空洞の大きさなどによって出る音は違うだろう.
何においても全て,音は違うものだ.ここには,無限に近いダイバーシティがあるのではないか.今日の世界でダイバーシティという言葉をとても頻繁に聞くように,使うようになったが,勿論,人だけに使う言葉ではないだろう.確かに日本では皆均一に育てられ,育っていく傾向にあるとは思う.日本でダイバーシティという言葉を使っているのをよく見るのは障害を持った人たちを話題にするときや,LGBTQをテーマにしたりする時ではないか.人においては,すべての人間が違ったヒトなのだから,人類自体がダイバーシティに満ちていると考えられる.
少し音の話から逸れてしまったので軌道を戻す.モノから出る音がすべてにおいて違うことは明らかだが,また,それを聞く(聴く)側にとってもそれぞれが違うだろう.同じ音を聞いても感じるものに差は必ずあるだろう.それは育った環境や土地,もっとマクロにみると触れてきた国特有の文化などの影響もうけることも少なくない.人は必ず何かしらの影響を受けて五感を育む.特にファーストインプレッションによる影響は大きいのではないだろうか.そこから何度も見聞きすることで自分の中でのエクスペリエンスを更新していくわけだが,ほとんどのものに関しては一度見聞きしただけで深堀することはないかもしれない.その場合,ファーストインパクトがそのままそれの印象としてその時は記憶されるが,数日もすれば記憶から消されてしまう.音も,何度も聞くことによってこの音は心地よくて好きだとか,ざらざらしているから好きではないだとか感じるのは最初が一番大きいはずだし,心地よいと感じ何度も同じ音を聞いても,その感動が一番大きいのは最初だと個人的に感じる.
五感の中で,初めに消えていく記憶が聴覚による情報らしい.(対人の記憶)街ゆく人々がイヤホンをつけて闊歩しているのを見ると音の中でも音楽がヒトに与える情報は多く,影響が大きいのが分かる.(聴いているのが音楽でないヒトももちろんいるだろうが.)
少し時期尚早に感じてはいるが,クリスマスツリーの展示が始まった.日曜日ということもあり,多くの人が展示を見ていたのだが,スマートフォンを 手に写真,動画を撮ることに夢中だった.彼らは何を撮っているのだろうか.装飾されたクリスマスツリーのライトアップが美しく感じてなのか.子供をクリスマスツリーで写真に収めたいからなのか,恋人との思い出にクリスマスツリーを用いたいからなのか.どれも人それぞれだが,それを訪れようとして見て写真を撮っているようには見えなかった.ついでとしてなんか綺麗なクリスマスツリーがあるから写真でも撮ろう,という感覚なのだろう.偶然見つけたものにも美しさを感じることはもちろんある.写真を撮りたくなるのも理解できる.ただ,何を見て何を撮っているのか.(それは聞いてみたいが少し人見知りなもので聞けなかった.)
音の話をするつもりが少し拡張して文字に起こしてみた.もし共感などしてくれたらもちろん嬉しい.共感できなくてもただ一個人の感じるところとしてこんな人類もいるんだとダイバーシティの一部として受け取ってもらえればよいと感じて.
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