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それでも、おしゃべりしよう

おしゃべりが好きだ。
近ごろは家と職場の往復で、誰とも話さない廃人のような生活が続いていた。けど今週はひさびさに、たくさん話をしてくれる人がいた。うれしかった。やっぱり人と話をすることは楽しい。”いつもの自分”ってこんな感じだったなと、ハッとするような心地もした。

相手の考えていることや生活のできごとを聞くことが好き。相手のことを知りたいと思う。
お互いに似た者同士だとしても、見えている世界は違う。話し合うということは、そんなお互いの言葉を積みあって、会話を作り上げていくことだ。
その会話の中でほんの少しだけでも、相手の心を垣間見る瞬間があるんじゃないか、見えている世界が違ってもその景色に近づくことができるんじゃないか、そう期待している。
そして会話の中で相手のことを知ろうとすることは、自分のことを知っていくことにもなるのかもしれない。

綺麗な鳥

大好きなスピッツの名曲「初夏の日」の歌詞に、こんな一節がある。

君がいるってことで  自分の位置もわかる

スピッツ「初夏の日」より

お互いに言葉を共有しあう中で、相手に共感する(完全には理解できないにしても)ことも、自分の気持ちに気づくことだってあるはずだ。
すべてが移ろっていく、自分がどこにいるのか、いつもわからなくなる。だけど相手のことを知っていくことで、相対的に自分の位置がわかることもある。

自分の見えている世界が、相手の見えている世界と同じ、なんてことはありえない。誰しもが自分の色メガネを通して世界を見ているはずだ。そしてお互いの色メガネの貸し借りはできない。

絶対的なものはなくて、個々人の経験や価値観に基づいて、相対的な仕方でしか世界を見ることができない。この考え方を哲学の世界では”相対主義”と呼ぶようだけど、つまり”人それぞれ”ということだ。
人それぞれ、たしかにそうだと思う。好きなように考えて、選択して、生きていくことができる。それは素敵なことだと思う。
だけどすべてを相対的な価値基準にゆだねることは危険じゃないかと考えてみたり。少なくとも、暴力や戦争に対しては絶対的な価値基準が求められると思う。大げさな話だけど、たしかなことだ。

アスファルトに滲む光

自分に視点を戻してみても思う。
”人それぞれ”だとしても、分かり合えることもあるんじゃないか、と。同じ世界で暮らしているし、同じ世界の一部でもある。そんな私たちは意外と多くを共有している存在なんじゃないかと感じる。
本当はどうなのかわからない。でも正しさも答えもないなかで、何かを信じるということは、それはもう単なる好みだ。

繰り返しになるけど、おしゃべりが好きだ。
言葉を重ねあうなかで、お互いに分かり合える部分が見つかるような気がするから。たとえ見えている世界や感じていることが違っていたとしても、それを乗り越えることができると思う。
もちろん、普段、話をする時に、こんな難しいことを考えながら会話しているわけではない。ただ、自分がどうして人と話すことが好きなのか?その理由を内面に探ってみると、きっとこういうことなんだろう。

街と星の光

翻って、近ごろは機会もなければ気力もわかずに、人と話すということを忘れていた。本当に追い込まれると、人に頼ることもできなくなってしまう。
それでもやっぱり人と話すことは大切。話をするだけで心が軽くなった心地がする。難しいことはぬきにして、ただ人と話すことが好きだ。
自分に素直になって、誰かと話したいときはおしゃべりしよう。友達はあまりいないけど…。

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