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「必要とされる」からの解放――書籍『2035年の人間の条件』

本は大きく分けると、「そうだよね」系と「考えもみなかった!」系に分かれる。出版されたばかりの『2035年の人間の条件』は後者の傑作ではないだろうか。

本書は、ソニーコンピュータサイエンス研究所フェロー、チーフサイエンスオフィサーの暦本純一さんとメディアアーティストの落合陽一さんとの対談である。ともに情報科学の研究者でありかつ子弟関係にある。そんなお二人の対話は、読者が「そうだよね」と共感できる部分より、脳への圧倒的な刺激がはるかに勝った本である。

実はこの本のプロデュースは僕となっているが、これは名ばかりで仕掛け人ではない。この本を企てたのは、編集者の田頭晃さんである。僕は田頭さんの発想と行動力に乗っかり、このプロジェクトに参加させてもらったという方が相応しい。ただ、これが得難い体験となった。

制作チームは、田頭さんとライターの岡田仁志さんとの3人である。岡田さんは、過去に暦本さんの本も落合さんの本も担当したことがある、まさにこの対談本にとって最適な人である。事前に3人でどんな構成で対談を進めるかを検討したのだが、あらかじめ僕らがシナリオを組み立てることをせず、大まかなテーマだけ提示して、お二人の掛け合いに委ねようという結論になった。

京都での対談

対談は、京都のソニーコンピュータサイエンス研究所京都オフィスで始まった。ここには、暦本さんが構想された茶室がある。今回の対談テーマが、「生成A Iが発展する中で、2035年に人間の条件はどうなるか」というものである。つまり近未来の人類の行方を語り合ってもらうのだが、その場所として「京都の茶室」はとても深遠な意味を持つように思われた。

茶室に集合した、暦本さんと落合さん。お二人は「どうもどうも」という感じで挨拶もそこそこでアイスブレークを必要としない。対談は世間話の延長のようにごくごく自然体で始まった。それは、全く緊張感がなく、いきなりお互いの関心ごとをぶつけ合う展開となる。こういうメディア上での対談は、えてしてお互いが聴衆を意識して、相手に話すというより、多くの聞き手相手に話す意識になりやすい。なのだが、このお二人は第三者を少しも意識しない。相手しか見ていないかのように、ピュアな対話がくり広げられる。しかも、お互いに忖度もお世辞も愛想笑いも、空気を読むこともなし。相手の話しから浮かんだ自分の考えをお互いに楽しそうに話すのみだ。なので、話は一致することもあれば、違った方向になることもある。話の方向も、お互いがどちらかに引っ張ろうという意図もまるでない。文字通りの二人の対話が続くのだが、それは純度が限りなく高い知の交換なのだ。

喩えるなら、似たような楽器を演奏する二人が、なんの決まりもなく相手の音を聞きながら自由に表現しているようであり、目の前の観衆のの存在を気にすることなく、リハーサルなしの即興演奏をしているかのようだ。

忖度、空気を読む、マウンティング、、、。これらは「他者を意識する」ことから生まれる行為である。コトやモノではなく、他人に注意が向くと、自ずと自分の中にあるものも歪曲してしまう。このお二人の対話には、それらがまるでない。ピュアな対話とはこういうものかと、そのあまりの自然なやりとりがそこにあった。

インタビューでは生まれない言葉

東京での対談も、お二人はほとんど誰にも気兼ねなく考えを出し合う。クラシック音楽の話で盛り上がるかと思えば、仏教の話へと移り、あるいは岡村靖之のラップ調の歌の話になり、次にキーボードの感触の話となる。ネコの話になれば、鳥の泣き声の話にもなるし、そこからバジルソースのパスタの話しが出れば、寺田寅彦も登場するし、荘子の話しで盛り上がる。長嶋茂雄の話とキーボードの話がつながるのは、おそらくこのお二人ならではだろう。それぞれに僕らがインタビューしても、決して出てこなかった話しが次々と出てくる。

対談の終盤で僕らは「2035年になると人間に求められるものも変わるんですか」と問いを投げかけた。ここでお二人のギアが一段と入ったようだった。それは「そもそも『求めれる』という発想が変じゃない?」ということである。そもそも人は、何かを求められないと不幸なのか?求められることが価値なのか?という根本的なテーマから疑問を呈される。ここから西洋的な人間主義の考え方から仏教の考えとの違いになり、「悩み」が生まれる背景へと話しが進む。結果的にこのあたりが本書のクライマックスかもしれない。

これらの対談で僕らは大きな手応えと当時に、「これを原稿にどうまとめるか」という大きな課題が生まれた。制作チームで打ち合わせをし、大雑把な構成を決めて、細かい部分については別個取材をし、それらをもとにライターの岡田さんが原稿を作ることになった。

ここからは岡田さんが凄かった。岡田さんが仕上げた原稿を読んで、「なんて面白いんだろう!」と他人事のように感動した。あの奔放な対談が見事に「読み物」として構成されているのだ。あの自由に、寄り道とも余談とも捉えることもできる内容を無理なく一つの筋の中に入れ、かといって、自由気ままな話の転換を隠していない。それがお二人の発想の突飛さをよく示すからだ。あの現場で感じた興奮はそのままに、かつあの場やテープ起こしの原稿では理解できなかったところも輪郭が浮き上がっているのだ。この原稿に、暦本さん、落合さんもがさらに加筆してくださり面白さがさらにアップし本書は完成した。

自由を謳歌するとは

数日前に見本本が届いて、改めて読み直した。これを読むのが3度目なのだが、まだ頭が刺激される箇所が見つかる。例えば、以下のような箇所だ。

  • これからは、例えば「夢を見ながら録音できる」とか、そんな変な妄想を実現できるかもしれない(暦本、p.49)

  • 戒名って、その人の情報を圧縮したベクトルなんですよ。戒名のあの文字列だけ入力すれば、その人になる(落合、p.66)

  • 空海の真言宗における世界認識はオブジェクト指向性が高いと思います(落合、p.75)

  • 僕はアマゾンは究極の3Dプリンターだと思っているんです。欲しいもののボタンを押すと、1日で「物質化」されるので(暦本、p.99)

  • 未来の人類は、いまの人類から考えたら「なんでそんな無駄なことしているんだ?」と首をひねるようなことをする(落合、p.125)

  • (新たな時代に「人間に必要とされる能力は何か」という問いに対して)その「必要」という概念そのものが壊れるじゃないでしょうか(暦本、p.133)

  • これまで人類は「生きていくためにこれをやることが必要だ」という義務感で教育を受けてきたけど、必要なことをAIやロボットがやってくれる社会になると、目標を変更すべきかもしれません(暦本、pp.137-138)

  • 肉体と知性が適度に交ざり合って健康であれば、自分探しをしなくても「いい人生だな」と思えると僕は信じたい(落合、p.168)

  • あえて無駄な悩みを背負うのが知性の高さだと勘違いしていた時代は、もう終わる。真の自由を謳歌できる時代が来つつある(暦本、p.172)

本書を通じて改めて思ったのが、お二人は常に能動的なのだ。世間では今「生成A Iで我々はどうなる?」という議論が盛んだが、これは典型的な受け身だ。大きなうねりであることは間違いないのだが、お二人はその登場をワクワクされているし、それらが引き起こす変化をどう活用できるかを企んでいる。それは機械だけではなく自然に対しても同様で、我々が制圧する対象でも保護する対象でもなく、その中にいることで味わえること、楽しめることを探そうとする姿勢である。そこには、自然と人工の二項対立も、人と機械の二項対立の考え方もなく、それらの中で、どう楽しもうかという子どものような発想に満ちている。



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