知識とスキルは習得できる。でも「センス」は厄介。
料理に必要な、知識、スキル、そしてセンス
料理を始めてみて無数の気づきがある。その一つが、知識とスキルとセンスの違いである。
料理をするには、さまざまな知識がいる。食材ごとに日持ちの長さが違うし、栄養素も違う。火が通りやすいか否かも違う。それらの知識は知っているようで、実際は知識として持ち合わせていない。これらはいわば「学習して」習得する。
スキルも無数にある。みじん切りの技術や千切りの技術から、揚げ物の温度管理や炒め物の火加減などである。盛り付けも技術の一つだ。これらのスキルは、「学習すること」より、むしろ「経験すること」がより重要となる。
チャーハンの火加減は、自ら読んだり教えてもらったりすることも大事だが、自らフライパンを持って何度も経験することで、そのスキルが獲得されるものである。
知識とスキルがあれば、それなりの料理を作ることができる。レシピを見ればそれを再現することができる。そして知識とスキルの蓄積により、料理のレパートリーはどんどん広がっていくのであろう。どんな料理もレシピさえ見れば、及第点と言われるものは作れるようになるような気がする。ただし、それは、「決められた料理」を作ることができるという意味である。
それなりの料理ではなく、自分ならではの料理にはセンスが必要になる。この場合「センス」とは、味覚が鋭かったり、手先が器用だったり、段取りが上手だったりするものとはやや違う。どちらかというと、クリエイティビティに近く、ありもので何を作るかを決める力や、レシピにない一工夫をする力、あるいはその日の気分に合わせて料理をアレンジする力である。
センスはとても属人的である。煮物をする際もレシピよりも、その日の食材に応じて味を調整して、「味を決める」のも人それぞれである。
自分が料理を始めてみて、料理が好きな人や得意な人と話すのが楽しくなってきた。それは、彼ら・彼女たちの料理のセンスの一端を思い知るからである。脂っこい豚肉もポン酢をささっと加えるなどをほとんど無意識でやっているが、細かく聞くと他の料理とのバランスを考えてそうしたと言う。ポテトサラダにサクッと余り物のチーズを加えるなど、僕のようにレシピを見ながら料理を作っている段階の人間から見ると神業に見える。こういうのがセンスだ。
習得しやすい知識とスキル、習得しにくいセンス
知識とスキルとセンス。この三つを考えてみると、知識とスキルの習得には共通点が多い。それは、いくつもの方法論が確立されていて、学習と経験を重ねることで、誰もが一定の水準に達することができるところだ。世の中に料理本やレシピ本は溢れている。ネットでもレシピは無数に存在する。それらを読みんで学び、実践することで少しずつ覚えていくことができる。つまり知識とスキルは、習うことができる、教わることができるのである。そして習得したか否かが自分でも、他人にも可視化しやすい。料理のスキル判定などは形式化できそうである。
センスがやっかいなのは、教わることや習うことが難しい点である。言い換えると正解がない。最終的にどんな味に「決める」かはその人の好みだし、余った食材から何を作るかも、極めてクリエイティブでかつ正解はなく、主観的に決めるものである。
料理の上手な人にレシピを教わることはできるが、この「センス」にあたる部分を教わるのが難しい。属人的だからであろうか? 暗黙知のままであるのか。であるならば、自分ならではの「センス」をどう身につけるのか。
料理と仕事は似ている
知識とスキルとセンスが求められる料理。これは仕事とも似ている。
知識やスキルは、習うことができる、教えることができる。僕は編集者という仕事をしてきたが、そもそも文章には文法があり、語彙には決められた意味があり、それらを正確に紡ぐことで文章は完成する。これらは知識だ。そして一つの記事には、全体を構成するオーソドックスな幾つかのパターンがある。見出しやキャッチコピーの法則もいくつかある。伝えたい文章に応じて、これらを組み合わせていくのはスキルである。
そしてテーマに対しどの切り口から見せるか、どういう人に語ってもらうか、そもそも何を取り上げるか。これらがセンスであり、これらがないとオリジナルな仕事はできない。
随分前に話だが、かつて電機メーカーだったソニーが音楽やゲーム業界に参入したときの話である。これまでとは全く異なる分野に参入する際、ソニーは「素人が始めて、玄人が加わる」ことが多かったという。ソニーミュージックの創設の頃、同社には音楽業界にいた人がほとんどいなかったという。ゲーム機器を始めた頃も同様であり、素人が見よう見まねで始めて、後から業界の人が加わり事業としての力が増していったという。
素人は知識もスキルもなかったはずである。それでも新しい事業を始める。これは推論だが、ソニーで音楽やゲーム事業を始めて人たちは、知識やスキルは十分でなかったかもしれないが、センスがあったのではないか。
いまのデジタル化とコネクト化が進む世界では、知識はより簡単に取り出しやすくなり、スキルは機械が代替しやすくなる。形式化されたものは、ますます自動化されていく。となると、人が作り出す付加価値はセンスの領域が大きくなるのではないか。
センスは伸ばすことができるか
知識やスキルは、可視化しやすく「習得できたか・できていないか」の問題だが、センスは「あるか・ないか」である。厄介なのは存在は明確でありながら、正体が見えない。知識やスキルは、方法論に従って時間を重ねれば習得可能だが、センスの習得に方法論がない。「こうすれば身についていく」というものではない。
センスを評価する軸もまちまちだ。それは評価する側の主観によるからだ。
客観的に評価しにくいけど、その存在が明確でかつ主観的にしか評価できないセンスをどう育てていくか。
この先は全く答えがない。
一つの仮説は、センスとは育てていくのではなく、芽生えるものではないか。なぜならセンスは全人格的なものだと思うからだ。客観的なものの根源は「好きか嫌いか」である。何が好きか、何が嫌いか。確実にどの人にも備わっている感覚だが、意外に自分では気がつかない。「今日何を食べたい?」と聞かれて、答えがなかなか浮かばないものだ。
どんな場所が好きか、どんな時間が心地いいか、どんな空気感が好きか、どんなコミュニケーションが好ましくて、人とのどんな付き合い方を望んでいるか。これらに答えるべき主語は、全て「私」である。
それは自分が経験の積み重ねというより、経験を通して感じてきたことの蓄積で決まる。そのため経験は必ずしも量ではなく、質、つまりインパクトを受けた経験の総量であろう。経験を通して感じてきたもの、そこでは経験の種類は問わない。旅の経験、スポーツの経験も料理のセンスに生きる。何に刺激され、何の心動かされてきた。その総体からセンスが本来でき上げっていて、それが表出した際に「センスが発揮」される。つまり芽生えるものではないか。
どうすれば芽生えるかの方法論もないが、救いはセンスには汎用性があることである。自分のセンスが芽生えれば、それが料理であろうと、仕事であろうと、あらゆるクリエイティブな作業で生かせるはずである。
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