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自分で自分を楽しませる人は最強である。――『ひとりあそびの教科書』

かつて、フランフランの社長だった高島郁夫さんが『遊ばない社員はいらない』という本を書かれた。経営者は、少しでも社員に働いてもらいたいものだが、高島さんは、あえて「遊び」の重要性を強調された。仕事だけしていてもいい仕事ができない。このメッセージは、薄々多くの人が感じていたであろうが、それを表立って発言されるあたり、いかにも高島さんらしい。

翻って、先日『ひとりあそびの教科書』という本が発売された。著者は、批評家の宇野常寛さんであり、『母性のディストピア』『遅いインターネット』などの著書とともに、近年では『水曜日は働かない』という書籍も執筆されている。サブカルからメディア、社会まで広く批評するとともに、最近は、働き方にも問題意識をお持ちのようだ。

本書『ひとりあそびの教科書』は、河出書房新社より「14歳の世渡り術」のシリーズとして刊行されたのだが、これは中学生が読む本と位置づけると、非常にもったいないと思う。年齢を問わず、むしろというか、働いている人には極めて読む価値があるのではないだろか。この「ひとりあそび」という普通の言葉には、いま僕らが隘路にハマっている状況がいくつも炙り出す力があるのだ。

「ひとり」と「あそび」

まずは「ひとり」である。
SNSで「つながる」コストが劇的に下がったいま、どこで何をやっていても、必要な人と連絡が取り合えるようになっている。これにより「友達と一緒に過ごす」ことのコストは劇的に下がり、むしろ、一時的にでも繋がりを切断することが極めて難しい。社会には見えない糸電話が無数に張り巡らせていて、その人と繋がれることが、逆に「一人でいる」ことを困難にさせている。そんな中で宇野さんは「ひとり」の重要性を強調する。ここは『遅いインターネット』の主張に相通ずるが、他者の評価や周囲の空気に惑わされることなく、「ひとり」という居場所を持つこと。それによって、自分の世界があることを確かにしてくれる。

加えて「あそび」である。
遊びとは、勉強や仕事ではないもの、と位置付けているのではないだろうか。つまり「しなければいけないもの」ではないこと。なので、その重要性は低くなり、必然的に優先順位も下がる。本書で遊びの条件の一つに「目的がないこと」を挙げている。それは、何かの役に立つためにやるものでも、自分の成長や自己実現を目指してやるものでもない。なので、目的のない行為は劣後的な扱い受けるのだが、逆に言うと明確な目的のある行為だけで人生は楽しくなるかと問われているかのようである。

遊びとは能動的な行為である

そして「ひとりあそび」である。
2020年春からのコロナ禍において、社会は大きな制約を受けた。外出や他者との接触が厳しく制約され多くの人がストレスを抱えた中、何ら普段と変わらない生活をし、何ならむしろ快適さを満喫されていたように見えたのが本書の著者・宇野常寛さんだ。宇野さんは、一人で自分を楽しませる術を無数に持っているのだ。

本書がこのコロナ禍の最中に書かれたのか定かではないが、ここには、宇野さんのひとりあそびの例がいくつも紹介されている。ランニング、虫取り、旅、フィギア、プラモデル 、レゴブロック、ゲームなどなどだ。本書はこれら個別の活動を推奨するものではなく、むしろ一例として「ひとりあそび」を提唱しているのだが、自身の遊びの記述はイキイキとしている。原稿を綴るキーボードを、どれほど軽やかに叩いたのだろうか。

この中で僕が一番好きなところは、「シュライヒ」というドイツの動物フィギュアを使って、自分の農場を作る話だ。写真も掲載されているが、背景も作り込み、人間のフィギュアも加えて架空の農場をつくりあげ、自ら「宇野ファーム」と名づける。しかも、この農場に独自のポリシーを掲げ、たどりついた二人の男女の背景にあるストーリーまで作り込む。この空想の世界を作りあげほくそ笑む著者の姿を想像すると、呆れるほど笑える。

「ひとりあそび」とは自分で自分を楽しませる行為なのだ。それは友達と一緒にいて楽しい時間を過ごすこととは対照的で、かつ、テレビや映画など見るひと時とも違えば、マッサージやサウナのような癒される時間とも異なる。

「ひとりあそび」は極めての能動的である。仕事や勉強が「やらなくてはいけないこと」なのであれば、それらの行為は受け身となる。そして前述の通り「目的がないものが遊び」であるのなら、それでもやりたい行為であり、これほど人間として能動的な行為はないだろう。遊びは時間があるからやるものはなく、誰から指示や称賛をされなくてもやりたくなる、人生を掛けた行為なのである。

本書で、著者はゲームや映画鑑賞、さらに読書も「ひとりあそび」として紹介されているが、著者のこれらは、誰かの作ったものを受け身的に堪能しているのではなく、能動的に楽しんでいる。ここに「遊ばれる」と「遊ぶ」の違いが明確にある。

中学生向けに書かれた「遊び」の本から大袈裟かもしれないが、本書は、人生の楽しみとな何かを投げかける。よく「友達」を持つことが幸福な人生の大きな要件のような記述を見るが、本書を読むと、著者は大切な友達をあたかも自分の内面に持っているかのようだ。蛇足で付け加えるなら、宇野さんは人嫌いでも、友達がいない人でもなく、むしろ誰とでも楽しい時間を過ごせる人である(けれど人とつるまない)。

かつて、あるブロガーの方が「一人旅ができない人と一緒に旅行をしたくない」と語っていたが、まさに「ひとりあそび」が持つ可能性の広がりは計り知れない。「ひとりあそび」が示唆するのは、人生を幸福にする術であり、自分で自分を楽しませる術であり、自分をご機嫌にする術である。そして、それらを目的にするものでもなく、湧き上がってきたものに能動的に取り組む、そのプロセスにすぎない。ただし、このプロセスを積み重ねることで得られる世界はどうなのか。その広大さと清純さを描いた本である。


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