仕事でやりがいを求めるのが困難な時代になったのか?ーー書評『ブルシット・ジョブ』
久しぶりに「ロック」な本を読んだ。なんとなく、その存在に気づいていたけど、深く考えてみなかった事柄。それをずばりと表現し、否応なくこちらが考えざるを得なくさせる。
『ブルシット・ジョブ』である。サブタイトルは、「クソどうでもいい仕事の理論」がロックな表現だ。日本では昨年7月に刊行された。
ブルシット(bullshit)とは「たわごと」「くだらん」「バカいえ!」などの意味で、「クソどうでもいい仕事」という訳語はパンチが効いている。
本書で言う「ブルシット・ジョブ」とは、客観的な評価とは別に、従事している本人がやる価値がないと思っている仕事のことである。「やる意味はあるのか?」「この仕事がなくても誰も困らないのでは?」と仕事をしている人が考える仕事なのだ。
それは、特定の職業を意味しているのではない。重要なのは、社会的に見て本当に価値があるのかないのかではないということ。その客観的な価値の測定が困難であると著者も言及し、あくまで、働くその人の主観的な「役に立たない」仕事のことを指すのである。
ブルシットジョブの特徴は、ホワイトカラーで安くない給与をもらう傾向があると言う。そして「たいてい名誉と威信に囲まれている。彼らは専門職として敬われるし、高収入の著しい成功者――自分の仕事に真っ当な誇りをもちうる類の人間――として扱われている」(p.34)のだ。
本書によると、自らの仕事を「ブルシット・ジョブ」だと思っている人には、人材コンサルタント、コミュニケーション・コーディネーター、広報調査員、財務戦略担当、企業の顧問弁護士などが挙げられているが、繰り返すが、これらの仕事についている人を指すのではなく、これらの仕事で自分の仕事をブルシットだと思う人がいたと言う例である。
単純化して言うと、ブルシットジョブは社会的に高度な仕事で、よしとされる傾向の仕事なのである。にもかかわらず、自分では「無意味な仕事」だと思い、それでも取り繕わなければならない。そこに欺瞞が生じるのも、ブルシット・ジョブの特徴である。
社会的な体裁がいい仕事でありしかも、ブルシット・ジョブには、悪くない給与が支払われる。安くて意味がない仕事であれば、すぐにでも辞めてしまえばいいが、中途半端に待遇が良いがために、無意味だと思いながらも本人も辞められない。こういうブルシットジョブ現象が生まれていることが厄介なのだ。
どうだろう。皆さんの周りでもブルシット・ジョブの存在が想像できるのではないだろうか。実際に、自分の仕事をブルシットだと思う人は世論調査で、イギリスで37%、オランダで40%もいると言う。この数字は正直、僕の想像よりも遥かに大きかった。
さらに言うと、これは民間企業での話しであり、役所で働く人に特有の現象ではない。資本主義社会で、市場での競争に晒されている中に、無視できないほど働く人が「無意味だ」と思う仕事が混ざっているのである。経済性が働けばすぐにでも排除になりそうな仕事が、蔓延している。これが高度に複雑化された企業組織の実態だ。
自分の仕事のすべてを「ブルシット」だと認めない人でも、仕事の中の一部に、「ブルシット業務」があることを実感している人は多いのではないだろうか。出席する意味を感じない会議、他部署との連携でやたらと増える決済プロセス、精緻すぎるプレゼン資料作りなど、「それって意味ある?」と言う仕事はそこかしこにありそうだ。
自分の仕事に意味があるのか??そう思ったことは自分自身、何度かあった。出版社の編集者と言うと、なんだか賢そうで知的な仕事だと思われるが、大震災が起こっても台風被害が起こっても、テレビでニュースを見ているだけで無力である。画面に映る消防士、自衛隊、緊急物資を輸送する人たち、医療関係者、さらに言うと営業を続けるコンビニやスーパーの店員なども眩しく映る。自分の仕事はこんなに無力なのかと思い知らせれる。
本書の中でも「その職種の人間が消えてしまったら、いったいどうなるか」という問いかけが出てくる。ゴミ収集人、看護師、整備士などがいなくなると壊滅的な結果となるが、あなたの仕事はどうか?と問う。ここにさらにブルシット・ジョブ現象の厄介さが示される。つまり、人や社会を支えるような仕事は、ブルシット・ジョブよりも得てして給与が低くなりがちな社会の構造である。
本書ではブルシット・ジョブという言葉と同時に、「シット・ジョブ」という言葉が登場する。それは、「労働条件の劣悪な仕事」、つまりきついのに割りの合わない仕事である。厄介な仕事という意味でこの二つは同じだが、まったく別の現象である。ブルシット・ジョブがホワイトカラーに多いのに対し、シット・ジョブはブルーカラーに多く、「一般的には、だれかがなすべき仕事とか、はっきりと社会に益する仕事に関わっている。ただ、その仕事をする労働者への報酬や待遇がぞんざいなだけである」(p.33)。
つまり、その仕事が他者に寄与する、必要となれるもので働く人もその価値を実感できる仕事は、一般に、待遇や労働条件が劣悪になってしまうという現象である。そこからシット・ジョブが生まれるのだ。介護士さんの働きぶりなどを目の当たりにすると、彼らの給与水準とのアンバランスさという矛盾に目を背けることはできない。
本書の日本での発行は、新型コロナウィルスで世界が一変した中で実にタイムリーな時期での発売となった。家で十分仕事が進むことがわかったホワイトカラーは、会社に通勤していたあの行為はなんだったのかと。そして、テレビの画面で見る医療関係者の仕事ぶりは「リモートワークで快適!」と能天気に叫んでいるだけでいいのか。社会の中で、必要とされる仕事が正当に評価されていない現実を見たのではないか。
この本を読むと、まだまだ社会は仕事を正当に評価できていないことを実感する。英語で発行された本書は日本の事情と違う面もなきにしもあらずだが、日本の働く現場に「ブルシット!」は山ほど拝見されるのではないか。そして、社会のケアにとって大切な仕事が安く叩かれる現実。あたかも、意義のあることは無償でやるのが尊いとばかりに。人としての思いやり優しさなしできないであろう仕事が、彼ら、彼女らの善意を人質にし、低い条件で働いてもらう社会が健全であるはずがない。
救いは、自分の仕事をブルシットだと思う人が想像以上に多くいることかもしれない。そんなことに無頓着で、しかも多くのブルシットジョブを作り出している人も一定数いるだろうから。ただし、そんな自覚ある人たちも、その仕事から抜け出せない強固な仕組みできあがっている。わかっているけど抜け出せない−−そんなジレンマは健全ではない。課題は、どうすれば、彼らがそんな仕事から抜け出す自由を得られるかだ。
誰かが悪いわけではない。政府が悪いと言っても始まらない。僕らは知らず知らずのうちに、小さな欺瞞を雪だるまのようにして、社会に大きなアンフェアを生み出してしまったのかもしれない。社会の健全さとはそこに欺瞞がないことである。
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