7分26秒の孤独 佐々木勇気ー豊島将之
先日、YouTubeで見た光景が妙に忘れられなくて、ここに記録を残しておく。
将棋A級順位戦の佐々木勇気ー豊島将之戦、将棋自体は後手の豊島の快勝と言っていいかと思う。私が見たのはライブ配信の最後の方、既に豊島が勝勢になって、後はどうやって決めるか、という局面だった。時刻は24時を回っており、両者共に体力気力はほとんど残っていない状況だったと思う。ふと、この2人が戦っている世界線と自分の世界が交錯する事はあるのだろうか、と考えてしまった。
ここでトリガーになったのは、おそらく個人的に起こったある些細な出来事であろう事は間違いないと思うけど、ここでは触れないでおく。「世間の常識」であれば、先手はどう頑張ろうが特に意味はなく、ばっさり切り落とされれば早く楽になれるのに、という所だろう。2人が戦っているのは単なる将棋というゲームに過ぎず、それに価値を思う人も限られている。量子力学の頓知みたいな話だが、これを見る人が誰もいなかったら、そこに意味はあるのか、という事である。現実には自分も含めて見る人はいて、プロの対局であるからには勝敗は収入にも直結するのだが、それはまた別の話である。
ここで、自分の立場をはっきりさせておくと、自分もまたかつては将棋の世界にそれなりに浸かりそれを是とする立場だった。だが、今はもうそうではない。その世界からは離れて20年近くなるし、その頃の感覚もだいぶ薄れてきている。それでも、何かの拍子に「あちら側の世界」を思い出したりもする。書いていて気づいたが、自分にとって世界は二つあったのだ。かつてはあちら側の、今ではこちら側の。
そして、こちら側の世界に身を置いてみると、あちら側の世界というのはとても怖い世界だという事に気付く。何の見返りがあるのかも分からないのに、時間や努力、才能といったリソースを最大限にかけてフルスロットルで駆け続けなければいけない世界。我々が普段頑張れるのは、何かの見返りを得ようとする時が大抵である。何の見返りがあるのか考えもせずにひたすらに打ち込む姿は、何か修行僧のような、この世に軸を置いていては到底見ることのできない、深淵なるものに感じる。
冒頭に置いたリンクはこの将棋の最後の一手が指されてから、先手が投了するまでを映した動画である。時間にして約7分、通して見て頂くと何か感じるものはないだろうか。
豊島が△26銀を指すと佐々木は席を立ち、ややあって戻ってくる。そして再び考え始めるが、そこにはもう勝負の熱は冷め、後はただ自分と対話しているような姿がある。豊島もまた、まだ気を抜くわけにはいかないものの、自分の勝ちを半ば確信している様子が伺える。こういった時に相手の気持ちが無くなっているかどうかは、すぐに分かるものである。
記録係の声だけが響く中、2人の対局者は沈黙の空気に包まれている。佐々木は飲み物を口に含み、それを飲み終わると、投了を告げる。この1日を通して、佐々木は何を考えて、何を得て何を失ったのだろうか。私達にはそれを考えるだけの大きな余白が残され、また、それがこの将棋を生み出した2人の存在意義を示している。
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