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731 令和6年度東京大学学部入学式 総長式辞

令和6年度東京大学学部入学式 総長式辞

令和6年度東京大学学部入学式 総長式辞

新入生のみなさん。ご入学おめでとうございます。みなさんの新たなスタートを、ここで共に祝えることをたいへん嬉しく思います。

これから始まる大学生活でみなさんが獲得するものは、これまでの学校での学習とは性質の異なるものになるでしょう。大学は、確立した知識をただ学ぶところではありません。なぜなら学問は、未知なるものに挑む試みだからです。過去に遡って世界と人類の歴史を明らかにする、現在の社会・文化を分析する、過去から未来にもつながっていく生命の仕組み、宇宙や物質の真理を探究するなど、東京大学はさまざまな未知に取り組んでいます。

人類はその長い歴史の中で、ものごとの観察を通して、知見を蓄積し共有する、学問の手法を進歩させてきました。たとえば、ニュートリノの存在は、1930年にはじめて理論として提唱され、1956年に原子炉から、1970年には太陽からのニュートリノが観測されます。1987年に、東京大学が中心となったカミオカンデグループが、16万光年先の超新星爆発によるニュートリノの観測に成功し、1998年には、それが質量を持つことを示す「ニュートリノ振動」が発見されました。そしていま、高感度化したスーパーカミオカンデのもとで、「ニュートリノ天文学」、さらには重力波や他の観測ともあわせて探求を進める「マルチメッセンジャー天文学」という学問分野が発展しています。極小の素粒子ニュートリノにより、無限大の宇宙の謎を解き明かすというアプローチは、スケールの大小の差異をこえて物理の世界がつながっていることを感じさせます。

ノーベル物理学賞で広く知られるようになったアト秒は、100京分の1秒の単位ですが、アト秒パルスを用いると、物質の中の電子の瞬間的な移動をとらえることができます。化学反応への理解が深まり、「アト秒科学」という新たな分野の開拓が期待されています。このように、コンピュータの計算速度、測定の時間解像度、人工知能による技術革新などさまざまな次元で、より細かく、より速く、より精緻な測定を実現し、解像度を上げていくことは、学問の重要な試みのひとつです。

しかしながら学問に必要な解像度は、時間・空間の物理的な尺度や次元にとどまるものではありません。

社会や文化の測り方も大切です。ある地域を、たとえばエスニシティの観点から分析すると、さまざまな差異や構造が見えてきます。ただ、その結果だけで、そこで暮らす人びとを理解できるでしょうか。「セクシュアリティ」「世代」「教育」「ジェンダー」「社会経済状況」など、他の要素で分析すれば、また別な差異が浮かびあがるでしょう。ひとは複数のアイデンティティを持っていて、社会は多種多様な人びとから構成されていますので、ひとつの側面から見ることで、別の側面が見えにくくなってしまうことがありえます。あるマイノリティ性における差別をそこだけ切り取っても、それを充分に理解したとはいえません。なぜなら、そのひとが持つ他の属性によって、受ける差別の深刻さが変わるからです。差別されるという経験が、複数の属性のあいだで交錯するため、そのリアリティをそれぞれの次元の足し算だけでとらえることはできません。

このように、人間の多次元性とそれらの関係性に着目して、その力の社会的な作用を分析する枠組みを、インターセクショナリティ(交差性)といいます。インターセクショナリティは、いくつもの要因が多次元でからみあう複雑な関係性をとらえる、重要な概念のひとつです。そして、解像度が問われる次元そのものが社会によって構築され、また自覚しにくいものであることにも注意が必要です。

医学や神経科学の分野では、人びとの脳の機能や行動の差異を一義的にではなく、多様性の形として尊重することも重要だとされています。ニューロダイバーシティとよばれるこの考え方に基づくと、発達や学習において、疾患や障害とされているような脳の機能も、ひとが持つ多次元の特性のひとつとしてとらえなおすことができます。また同じ疾患でも、困難を感じる機能とその程度が、個人ごとに異なることを前提にしてはじめて、個々のニーズと状況に応じた対策が可能になります。

物事を多次元的にとらえる姿勢は、学問分野をこえて他の分野とコラボレーションする場合にも重要です。

たとえば、工学分野である半導体の微細加工技術を用いたマイクロ流体デバイスの開発と、医学の分野における、さまざまな臓器由来の細胞培養の研究は、一般には異なる学問分野と考えられています。しかしながら、私自身の研究では、これらの分野の境界をこえ、マイクロ流体デバイス上で臓器由来の細胞を培養し、薬の効果をテストすることが可能となりました。壇上に座っておられる南學正臣医学部長と共同研究をしたこともあります。この分野はOrgan-on-a-Chipとよばれますが、一見異なる学問分野の知が交差する場所で、これまでにない発見やブレイクスルーが起こることを示しています。

世界が多次元であることの重視は、ある課題に対する答えが必ずしもひとつでない、ということを広く理解することにもつながります。パンデミックへの対策、社会問題、国家間の関係、気候変動への対応など地球規模の課題解決において、正解はひとつであるという考え方の強制が分断を招いてしまうことがあります。自分が強い意見を持っている場合でも、そうでない視点もふくめて考えてみることが大切です。解決すべき問題自体も多次元であることを認識しつつ、さまざまな属性を持つ人びとの存在に思いをはせ、対話を通して合意形成を目指す態度が必要です。

自分がこれまで信じ、いまも正しく感じていることを、客観的に評価しなおすことは簡単ではありません。

ひとには、これまでの経験や固定観念に影響され、合理的でない情報の処理や判断をおこなう性質、いわゆる「認知バイアス」があるからです。情報過多の現代社会では、認知バイアスがフェイクニュースの拡散やマスメディア情報の解釈などに大きく作用します。ある社会問題について特定の意見を持つひとは、その意見を支持する情報を探しあつめ、それに反する情報を無視する傾向があることが指摘されています。またひとは記憶に新しく、印象に残った情報に基づいて判断を下す傾向があるため、ニュースやSNSでの拡散に大きな影響を受けます。自分自身の知識や能力を過大評価するバイアスもあります。

認知バイアスの存在は、多次元性に目を向けることを難しくします。学問においても生活においても、私たち自らが持つ認知バイアスを可能なかぎり自覚し、調整する姿勢が重要です。

ここで、みなさんを迎え入れる東京大学という「社会」に、目を向けてみましょう。

東京大学では、大学の進むべき方向を示したUTokyo Compassのもと、世界の誰もが来たくなるキャンパスを創るという理念を掲げています。2022年6月には、「東京大学 ダイバーシティ&インクルージョン宣言」を公表、また今年2月には「東京大学における性的指向と性自認の多様性に関する学生のための行動ガイドライン」を策定するなどして、すべての構成員が差別されることがない公正な環境を実現すべく動き出しています。この4月には多様性包摂共創センターを開設し、教育、研究そして実践を通して、そのための取り組みを具体的に推進する体制をととのえたところです。

その一方で、東京大学の入学者の性別には、大きな偏りがあります。そして、その偏りは文科よりも理科でさらに大きくなっています。その基礎には、そもそも受験する女性が少ないという状況もあります。東京大学が、女性のみなさんをはじめ多様な学生が魅力を感じる大学であるか、多様な学生を迎え入れる環境となっているかについても、問わなければなりません。

昨年の内閣府男女共同参画局の発表によると、日本の女性国会議員の割合は16.0%で、世界139位です。上場企業の役員における女性比率は10.6%で、政治も経済も、いまだに意思決定にかかわる女性の数が圧倒的に不足しています。教育においても、女性の進学や理系受験をさまたげるような障壁の存在が指摘されています。

このように、特定の属性を持つひとが、等しい機会を得られずに排除され、あるいは人一倍の努力をせざるをえない状況を「構造的差別」といいます。この構造的差別から脱却すべく、経団連は、2030年までに役員に占める女性比率を30%以上にする目標を掲げました。東京大学も、2020年に30% Club Japanのメンバーとなり、UTokyo Compassにおいても、学生における女性比率を30%とすることや、新たに採用する研究者の女性の割合を30%以上とし、教員における女性比率を向上させるという目標を明記しています。

なぜ30%という数値目標なのかということですが、ハーバードビジネススクールのロザベス・モス・カンター教授は、ビジネスの場に関する研究において、女性が15%に満たない組織では、女性一人ひとりの能力や技能が、女性という集団的な属性に関係づけられる傾向があること、そして女性の比率が30%を超えるとそうした傾向が変わりうることを指摘しました。すなわち、女性個人としての能力や技能に応じた貢献が可能になり、意思決定プロセスに影響をあたえ、組織のさまざまな変革を推進できるようになるということです。

であればこそ、その状況ゆえに活躍できない少数派の女性の割合を30%にまで上げることが、公正な社会実現に向けた最初の目標となるでしょう。

社会的・文化的性別の次元ではマジョリティの集合に属しているひとも、障害の有無、貧しさ、エスニシティ、性的指向・性自認などの別な次元ではマイノリティであるかもしれません。しかし、複雑化した現代社会には、単一次元の指標では測定できない、複合的な構造的差別が存在しており、複数のマイノリティ性を持つひとが、交差する次元の中で、さらに弱い立場に追いやられてしまうような事態も見すごすことはできません。

私たちには、これまで触れてきたような構造的差別の再生産と拡大とを断ち切り、あらゆる構成員が等しく権利を持つ社会を実現する責任があります。多様な人びとが活躍することで、社会はより豊かなものになるからです。その社会に生きる者たち自身が、責任をもって構造的差別を解消していくという考え方はきわめて重要です。現実を観察する解像度を上げ、考え、行動していくことが強く求められます。

「障害の社会モデル」という言葉があります。障害は、身心の機能不全という個人的な特性に由来するものではなく、むしろ機能不全をうけいれようとしない社会によってつくられるものであり、社会にはその障壁をとりのぞく責務がある、という考え方です。そこでは、社会的排除が問われ、制度的な障壁の除去や、偏見の克服が試みられます。東京大学はこの考え方を重視し、合理的配慮のもとさまざまな構成員が活動できるよう環境を整備する方策を進めています。さまざまな構造的差別は自然には解消されないので、私たちがそれを認識し、自省し、アクションをとる必要があります。

最初に述べたように、学問は未知への挑戦から始まります。ここに集まった新入生のみなさんが、「構造的差別」のいまどこに位置しているのかを知ることは、それぞれにとって最初の宿題かもしれません。構造を知る者は、同時に、その構造を変える力を持ちます。ぜひ、現在の社会構造をみんなで望ましい方向に変えていくにあたって、自らが持ちうる力を探っていただきたいと思います。

みなさんが前期課程で通う駒場キャンパスでは、インターセクショナリティ、ジェンダー、法律、障害、政治などに関する、さまざまな科目を開講しています。女性や性的マイノリティをふくむ多様な学生が、安心感と帰属感を持って学べる場である「駒場キャンパスSaferSpace」というコミュニティもあります。基礎科目や総合科目に加え、語学の授業などを通しても、異なるさまざまな文化に触れる機会が豊富にあるはずです。

一見、関連性が低いと思えた科目が、具体的な問題解決のなかでつながっていることに気づくことがあるかもしれません。答えがないかもしれないし、あったとしてもひとつではないかもしれません。点と点をつないでみることは、先に述べたOrgan-on-a-Chipの例のように、新たなブレークスルーのきっかけにもなりえます。

多様な属性を持つ人びとが暮らすこの社会で、仲間の輪を広げていくことも大切です。大学生活で出会うさまざまなひとは、みなさんの未来を豊かにする財産でもあります。挑戦を恐れず、自らの力と可能性を信じて進んでください。

みなさんには、この東京大学において、多くのひとと出会い、多様な知に触れることで、解決すべき問題の多次元性に思いを馳せ、よりよい社会の実現に向け、それぞれの力を発揮していただきたいと思っています。のびのびと大学生活を楽しんでください。入学、おめでとうございます!

令和6年4月12日
東京大学総長
藤井 輝夫



令和5年度東京大学学部入学式 祝辞(グローバルファンド 保健システム及びパンデミック対策部長 馬渕 俊介 様)


新入生の皆さん、そしてご家族、ご親族の皆さま、おめでとうございます。
私自身も東大の卒業生ですので、入学時の受験戦争からの解放感、新しい学生生活を始めるわくわく感は、今もよく覚えています。

長い受験勉強が終わって、ついに自由。たくさん遊んで、恋人作って、ガンガンやっていいと思います。

同時に、大学の4年間は、「自分で創り、自分で切り拓く、自分の人生」のスタート地点です。そしてこれからの皆さんの人生の中で、一番自由に、自分の器を広げ、自分の夢を探して突き進める時期でもあります。

私は東大卒業後、発展途上国を日本の立場から支援する国際協力機構JICA、民間の経営コンサルティング会社のマッキンゼーの日本オフィスと南アフリカオフィス、世界銀行、それからビル・ゲイツがマイクロソフトを辞めて、途上国の保健医療の問題を解決するために作ったゲイツ財団で、世界の貧困や感染症に立ち向かう仕事をやってきました。最近では、WHOの独立パネルに参加して、新型コロナのような感染症の壊滅的な大流行を二度と起こさないための国際システムの改革を提案して、去年の3月からは、世界の感染症対策をリードするグローバルファンドという国際機関で、途上国の保健医療システムを強化して、感染症のパンデミックを起こさないように備える部局の長をやっています。

今日は皆さんに祝辞をお伝えできるということで、はるばるスイスからやってきました。この機会に、私が皆さんより少し人生を先に生きてきて、とても大事だと感じていること、大学に入るときに知っておきたかったと思うことを、2つのお話しを通して共有します。

一つは「夢」について。もう一つは「経験」についてです。

まずは、夢について。

私は、東大に一浪して入りました。学力が特別あったわけでもありません。特に最初は英語が全然ダメで、英会話の授業では、体育会の友人と二人で、一番後ろの席で下を向いて、先生に当てられないようにやり過ごしていました。 ただ東大に入るときにはっきり決めていたのは、大学の4年間で、人生をかけて取り組むことを決めたい、ということでした。何も考えずに野球だけをしていた中学、高校時代の生活への反省もあったと思います。

興味が湧いた授業をすべて試してみる中で、文化人類学の授業でパプアニューギニアの先住民のギサロという儀礼を見たんですね。そこで、すさまじい衝撃を受けました。めちゃくちゃ格好いいと。こんなに我々と全く違う世界観の社会に住む人々がいるのかと。そういう異文化に飛び込んでそこから学ぶ、文化人類学者になりたい、と思うようになりました。それからすべての学校の休みを使って、途上国を一人で旅しまくりました。グアテマラの山奥の少数民族の村にアポなしで行って、ホームステイさせてもらいながら、フィールドワークもやったりました。

でもそこで見たのは、子どもが病気になっても医者も薬もない状況、毎日の重労働と日焼け、栄養不足でおばあさんのような顔をしている若いお母さん、地域に根深く残る差別から仕事の機会がなくて、くすぶっている同年代の若者など、美しい洗練された文化の裏にある、多くの理不尽でした。自分は、学者としてそこから学ぶだけで終わりたくない。人々が自分たちの文化に誇りを持ちながら、理不尽と戦って、日本なら簡単に治せる、あるいはかかることもない病気に命や可能性を奪われずに人生を生きられる、そのサポートをしたいと思うようになりました。大学時代に抱いたこの夢は、その後のキャリアの中で徐々に形になって、今も続いています。

「夢」について皆さんにお伝えしたいことは2つです。1つは、夢に関わる、心震える仕事をして欲しいということ。修行のために敢えて途上国の支援とは関係のない仕事をしたときに実感したのですが、自分の夢に関わる本当に好きなことをやらないと、それを徹底的に突き詰めることはできません。また、好きなことをやってないと、幸せの尺度が「自分が他人にどう評価されているか」になってしまう。それではうまくいかないときに持たないです。他人の評価を気にする他人の人生ではなく、自分がやりたいことに突き進む自分の人生を生きてください。

もう一つお伝えしたいのは、夢は、探し続けて行動し続ける人にしか見つけることはできないということです。夢が見つけられないというのは、ほとんどすべての人が抱え続ける悩みですが、夢は、待っていれば突然降ってくるものではありません。探し続けて、行動してみて、その中で少しづつ「彫刻」のように形作っていくものだと思います。周りに流されず、自分の興味のままに、探し続けてください。そしてそれが一番自由にできるのは、今からの4年間です。

二つ目のお話は、「経験」についてです。

貧困や感染症、気候変動のような世界の問題に立ち向かう仕事は、問題がいつも無茶苦茶に複雑なので、「自分のやっていることが、本当に問題の解決に役立っているのか」という疑問と常に向き合うことになります。その中で私が「世界は変えられるんだ」と希望を持てたのは、西アフリカのエボラ出血熱緊急対策の仕事でした。

エボラ出血熱という病気はご存じかもしれませんが、2014年にギニア、リベリア、シエラリオネの西アフリカの3か国で大流行し、先進国にも飛び火して、世界を震撼させました。私は37歳の時に、世界銀行で、この大流行を止めるための、緊急対策チームのリーダーを任されました。

エボラの恐ろしいところは、感染者の約半分が死に至るということです。それは、自分や家族が感染すると、高い確率で、家族の誰か、あるいは全員が死ぬということです。私が対策チームを作った2014年の8月の時点で、感染者数、死者数は指数関数的に跳ね上がっていました。あとでリベリアのエレン・ジョンソン・サーリフ大統領が「私たちは全員死ぬと思った」と話されたほどの、危機的な状況でした。

緊急対策に当たって2つの難題に直面しました。一つ目は、時間です。感染症対策はスピードが命ですが、感染が爆発した3か国にはお金がなくて、大きな海外援助も遅れていました。世界銀行の資金が頼みの綱だったのですが、通常のプロセスでは、200億円近い大きな資金を効果的な形で届けるには、1年半かかります。そんなに待てるはずがない。そこで、経営コンサルティング会社、マッキンゼーで身に着けたオペレーション改革のノウハウを総動員して、プロセスを無くす、減らす、後回しにする、数倍の速さで回す、そして今何で遅れているかを全て目で見えるようにして、45日ですべてを完了させました。

もう一つの、より大きな難題は、死者の埋葬による感染の拡大でした。

エボラは人が亡くなったときに感染力が一番高く、お葬式で死者に触れてお別れをするのがその地域の非常に大切な儀式だったので、それを通じて感染が爆発しました。

この問題への医学的に効果的な対策は、死者に消毒液を掛けて、ビニールバッグに入れて、そのまま火葬することなのですが、このやり方は現地の人たちの大切な価値観に反するもので、全く受け入れられませんでした。その結果、死者の報告をしない、死体を隠すということが広がり、感染がさらに拡大しました。

この医学的な解と社会的な解との折り合いをつけるために、文化人類学者と現地の宗教リーダー、コミュニティリーダー、それから感染症対策の専門家と共同で、これなら感染のリスクを無くしたうえで、人々が尊厳ある死を迎えられるという、「安全な尊厳ある埋葬」というやり方を開発しました。それを宗教リーダー、コミュニティリーダーから、この方法でよいのだ、この方法で我々の尊厳と安全を守るのだというメッセージを発信してもらいました。

これが普及したことによって、埋葬による感染が防がれ、爆発していた感染が一気に落ちて行きました。2年後に、3か国すべてでエボラ感染を無くすことができ、死者も最悪のシナリオでは70万人を超えていつ終わるかわからないという予想だったのを、1万人強にとどめることができました。

この話でお伝えしたかったことは、皆さんはこれからいろいろな学問や仕事で身に着けた力、「経験」を組合わせて、そのすべてで問題解決に挑むということです。私のエボラ対策の例では、文化人類学の考え方、感染症対策の専門性、民間の経営コンサルティングのスピード感と問題解決力の3つを組合わせで持っていたことが、大きな助けになりました。民間と公共の壁や、医療と文化、社会の壁などを「越境」した経験を持って、問題解決をまとめる力は、問題がどんどん複雑になるこれからの世界では、本当に重要になります。

一つの分野で世界のナンバーワンになることは、とても難しい。ですが、いくつかの重要な分野の経験やスキルを、自分だけにユニークな組合せとして持っていて、それらを掛け算して問題解決に使えるのは自分だけという「オンリーワン」には、なることができます。

そこでとても大切なことは、「環境が人を作る」ということです。人間は弱くも強くもあり、自分のいる環境をたった一人で突き抜けて大きく成長していくことはとても難しいですが、逆に凄い人たちの中で、あるいは修羅場に身を置いて、難しい挑戦を続けていると、それが普通にできるようになって、その次のさらに大きな機会に手が届くようになります。環境は、「わらしべ長者」のように力をつけて、「経験を組合わせ」ながら得ていくものです。私の場合はそうやって徐々にできることを増やしていって、今に至っています。

最後に、人生のリスクについてお話しします。

私はずいぶん前のセミナーで、大手商社に内定しているという大学生から、「馬渕さんは、どうしてそんなにリスクをとれるんですか。」という質問をされました。ここで言う「リスク」ってなんでしょうか。

Dropboxというウェブサービスの創業者が、MITの卒業式のスピーチで、こんなことを言っていました。人生は日にちに換算すると、3万日しかないと。私はすでに、1万7千日を使っています。皆さんは、大体すでに7千日近く使っています。そして次の1万日は、もの凄く速く過ぎていきます。

時間がすごく限られている中で、考えるべきリスクは、何かに失敗するリスクではなくて、難しい挑戦に踏み込まないことで、成長できず、なりたい自分になれないリスク、世界に対してしたい貢献ができないリスク、行動を起こさずに「現状に留まることのリスク」だと思います。

これから皆さんが生きる世界は、これまでと比べて圧倒的に不確実で不安定で、危険が多く、逆にとてつもない可能性にも満ちた世界です。人類がこの先も長く生きられるかどうかは、次の数世代にかかっているとも言われています。

人類が未来に希望を持って生きていくためには、世界の最高の頭脳が、気候変動や世界の不平等、感染症との戦いなど、世界の最大の問題に立ち向かっていかなければいけません。日本の最高の頭脳である皆さんにも、世界の、そして日本の最大の問題に立ち向かっていって欲しいです。

パナソニックを創業した経営の神様、松下幸之助の「道」という、私の座右の詩があるのですが、そこで彼はこんなことを言っています。一部を引用します。

“自分には自分に与えられた道がある。
どんな道かは知らないが、ほかの人には歩めない。
自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがいのないこの道。

他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。
心を定め、懸命に歩まねばならぬ。それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。”

皆さんの東大での4年間が、皆さんだけのかけがえのない道を、悩みながら心を定めて懸命に歩む、その一番最初の充実した時間になることを、心からお祈りしています。

改めまして、おめでとうございます。どうもありがとうございました。

(“”は、『道をひらく』(松下幸之助著、PHP研究所、1968年)より引用)

令和5年4月12日
グローバルファンド 保健システム及びパンデミック対策部長
馬渕 俊介


ビル&メリンダ・ゲイツ財団
グローバル・デリバリー部門 シニア・アドバイザー(インタビュー当時)
馬渕 俊介  [まぶち しゅんすけ]

1977年米国ペンシルバニア州生まれ。2001年東京大学教養学部卒業(文化人類学専攻)、国際協力機構(JICA)入構。2007年ハーバード大学ケネディスクールMPP取得。2007年~2010年マッキンゼー・アンド・カンパニー日本支社、南アフリカ支社勤務。2011年ジョンズ・ホプキンス大学修士号取得。2011年世界銀行入行。2016年ジョンズ・ホプキンス大学公衆衛生博士号取得。2018年ビル&メリンダ・ゲイツ財団入団、デリバリー部門の戦略担当副ディレクター(2018-2019)、グローバル・デリバリー部門のシニア・アドバイザー (2019-現在)、2020年10月〜2021年4月COVID-19対応検証独立パネル事務局。

――大学では文化人類学を専攻、文化相対主義に共感

馬渕:私は学者の家庭で育ったので、普通に会社に入ってサラリーマンになる、ビジネスをやるというイメージはなく、将来は好きなことを探してチャレンジしようと考えていました。中学・高校時代は野球、大学では文化人類学にのめりこみました。きっかけはパプアニューギニアの部族の儀礼の映像を見たことで、冒険心が駆り立てられました。そこには今までの自分の価値観では計り知れない文化があり、文化に優劣はなく、それぞれの文化、社会の合理性があるという文化相対主義に共感し、文化人類学者を目指して休暇中は世界中を旅してまわりました。

振り返るとこの経験が、開発の仕事をする原点になっています。グアテマラで先住民族の家庭にホームステイしたとき、家族の健康状態が医療アクセスがないためによくなかったこと、ネパールの山奥で知り合った青年はすごく優秀なのに低いカーストなのでいい仕事につく見込みが全くないこと。自分はいかに恵まれているかを知り、その立場を活かして途上国の人びとの生活をサポートできる仕事につきたいと思いました。自分で考え自分でプランをつくる一人旅で視野が広がり成長できたと思います。それが人生を自分でどんどん切り拓いていく今のスタイルにつながる最初の経験でした。

――2001年国際協力機構(JICA)入構

馬渕:JICAに入構、社会開発調査部に配属され、教育や地域開発のプロジェクトに参加し若手でもいきなりプロジェクトをやらせていただけたので、チャレンジは無限にありすごくおもしろかった。
ただ、これは私の力不足でもあるのですが、国内でコンサルタントの方から日本語で多くを学びながら一緒に問題解決をしていく段階ではうまくいきましたが、英語力も専門性も足りないので、外に出て現地の保健大臣、世界銀行の専門家と議論するとなると、途端に議論についていけず、中身の貢献が全くできませんでした。百戦錬磨のコンサルタントに助けてもらう状態で、このままでは開発業界をリードできるような人材になれない、世界を舞台に活躍できないと痛感しました。また開発業界自体がJICAだけではなく、結果に対する執着、インパクトにつなげるための考えが浅く、本当に開発事業で途上国の役に立てているのかという疑問が出てきました。英語力と専門性を身につけたいと思いハーバード・ケネディスクールに留学、JICAには4年半お世話になりました。

――ハーバード・ケネディスクールの学びで次の目標が決まる

馬渕:エキサイティングな日々で非常に充実していました。学生の国際問題に対する意識が高く、知識が豊富。目線の違い、行動力の違いに驚きました。私は、パブリックセクターのベストプラクティスを学びたいと思っていましたが、パブリックセクターを改革しているのは民間の人が民間の組織改革のノウハウでやっていることが多く、民間セクターの方が、洗練された手法をつかって結果を出している。特に経営コンサルティングから来ている人は、大変効率的にプロジェクトを回していました。民間企業の修羅場で問題解決にたちむかって力を磨く経験をしたいと思い、卒業後マッキンゼーに行くことにしました。

――マッキンゼーでは日本支社に1年、南アフリカ支社に2年在籍、グローバルヘルスに関心が広がる

馬渕:マッキンゼーには、優秀な若手がたくさんいて、研ぎ澄まされた問題解決アプローチ、すばらしいノウハウが蓄積されています。大変刺激を受けましたが、仕事に慣れてくるうちに、将来的に世界を舞台に活躍するには英語でマッキンゼーレベルの問題解決ができるようにならないといけないと思い、海外に出る道を考えました。そのタイミングで、ハーバードで知り合った途上国経験豊かな女性と結婚したので、彼女がUNICEFでの仕事を始める際に同じ勤務地を探し、私はマッキンゼーの南アフリカ支社、彼女も南アフリカのオフィスにアプライして二人で着任しました。
南アフリカは気候もよく自然が美しい、しかし仕事は大変でした。チームリーダーを任されていたのでチームをリードしなくてはいけない。私以外は英語ネイティブで、頭の回転が速いメンバーの英語を聞き取って考えて発信するというプロセスが間に合わなくてとても苦労しましたが、ここでの苦労が、その後の仕事で本当に活きました。また、組織のオペレーションシステムをどう改革するかを一貫して学べたのは大きな収穫でした。ある日マッキンゼーOBのアフリカ人が、マッキンゼーで培ったオペレーション改革のノウハウをつかってアフリカのHIV/エイズ対策で大活躍したという記事をみつけました。またゲイツ財団の仕事も請け負い、医療のバックグラウンドがなくても、組織改革のノウハウがグローバルヘルスで活かせるというイメージがわき、グローバルヘルスに関わりたいと思うようになりました。


――ファイナンス・戦略部門のオファーはあったが、途上国のプロジェクトに関わるには専門知識とラベルが必要

馬渕:途上国の保健医療サービスの改善に取り組みたいと思いましたが、グローバルヘルスの専門知識がないと入口さえないことに直面しました。ファイナンス、戦略部門のオファーはありましたが、それは私のやりたいことではありません。ラベルと専門知識を見つけるには、再度大学院留学が必要と考えました。学費は高く家族がいる身で悩みましたが、面白い人材と思ってもらえたのか、ジョンズ・ホプキンズのブルームバーグ・スクールの奨学生に選ばれ、学費と生活費をすべてカバーしてもらえて、留学が叶いました。入学に当たって、4つの目標を決めました。グローバルヘルスの知識を身につけ、ラベルがないとは言わせない、海外のジャーナルに論文を1本書く、就職を決める、博士過程にも合格する。二回目の留学で、かつマッキンゼーの海外オフィスで修羅場をくぐっていたこともあり、楽しみながら4つとも達成できました。加えて、学生団体のリーダーをやったり、東日本大震災が起きた際に、大学での寄付金を募りつつ、友人とともに海外の人々が信頼できる日本のNGOに寄付をできるようにガイドする寄付金サイトを立ち上げたりもしました。
修士に比べて、世界銀行のフルタイムスタッフをしながらこちらもフルタイムで挑戦したジョンズ・ホプキンズの博士課程は大変でした。公衆衛生では評判の高いところで、学術的にも厳しく、仕事の激務に加えて3人の子育ても加わり、何度も挫折しかけましたが、家族はじめ多くの人びとの助けを得て、2016年には博士号を取得しました。

――世界銀行に入行、ナイジェリアとリベリアでプロジェクト経験を積む。ポリオを制圧、エボラ出血熱対策のチームリーダーとして結果を出す

馬渕:修士課程在学中に世銀のキャリアリクルートミッションに参加、民間のノウハウでグローバルヘルス分野のオペレーション改革に貢献できることをアピールし、採用が決まりました。最初仕事は決まっていなくて、そこで活躍している人はだれか、仕事が難しくて困っている人はだれかを聞いて、自分から積極的にアプローチして、ナイジェリアとリベリアの仕事が決まりました。これがすごく面白くてナイジェリアに1年滞在、ポリオ制圧のプロジェクトで当時の世銀ではありえなかったスピードで対策を講じ、その経験が評価され、次に西アフリカのエボラ出血熱対策のチームリーダーに抜擢されました。世界を震撼させたエボラでしたが、今までの経験をフル回転させて乗り切りました。
マッキンゼーで学んだスキルを総動員して、通常1年半かかる予算執行を45日で1億2千万ドル完了、またダイナミックな問題解決にも従事しました。エボラが西アフリカで感染爆発した理由のひとつが、死者を見送る伝統的な儀式。医学的見地から一番安全なのは、家族を引き離して、遺体を消毒、バッグに入れて焼却することですが、それは文化的に受け入れられず、家族が遺体を隠す事態が発生しました。尊厳ある安全な埋葬、家族が納得できる埋葬を文化人類学者と宗教指導者とコミュニティリーダーと一緒に考え、遺族の理解が得られ、安全な埋葬ができるようになりました。

シエラレオネでの汚職対策には信頼できるアカウンティング会社に政府の中に入ってもらい、すべて管理してもらいました。また、国を挙げた対策の効果は、薄給で非常にリスキーな仕事を担うエボラの対策ワーカーがきちんと働き続けられる環境をつくれるかどうかにかかっていました。ストライキが頻発し、道に遺体を並べるといったカオスな状況がおこりました。ワーカーの勤務状況のデータは存在せず、彼らは銀行口座を持っていません。汚職なく早いスピードでフェアなリスク補償金を全員に届けるため、1回目は現金をトラックで全国中に運んで、警察と汚職対策班とIT企業とUNDPのスタッフがセットで給与を支払いながらIDを発行、登録データベースをつくる。それと並行して、電波と携帯電話と現金がある村のKIOSKを利用して、KIOSKのスタッフがエボラ対策ワーカーへの支払いを肩代わりし、その支払い分と手数料をスタッフの銀行口座に送金するローテクなモバイルペイメントの仕組みを構築し、安定した支払いを可能にしました。
民間企業と開発組織と政府が一丸になって問題解決でき、非常に面白い経験でした。その後、途上国の保健医療システムに深い知見があり、マッキンゼーで培った戦略を立てる力もあり、重要なパートナーである世銀のこともよくわかっていることが魅力となり、ゲイツ財団から声がかかり、現在に至っています。

2020年の10月からゲイツ財団を休職して、COVID-19対応検証の独立パネルに参画、半年間事務局の中心メンバーを務めましたが、これもやはり今までの経験の積み重ねが評価されたのだと思います。パンデミック対策は、原子力兵器対策や気候変動のように、世界で最も重要なグローバル・イシューの一つとして取り組まなければなりません。パネルが提案した具体的な対策に、世界各国がどこまで合意できるか。各国政府の意思とリーダーシップにかかっています。

――活躍の舞台は世界中にある。失敗を恐れず、修羅場を乗り越えてひとつずつ積み上げると、結果はついてくる

馬渕:英語の壁は確かにあって、私も苦労しています。大学院、マッキンゼー、世銀、ゲイツ財団と求められるスキルはどんどん高くなりましたが、修羅場を乗り越えるたびに私自身もグレードアップしていると思います。論理で押し切らない日本人の特性、相手の立場を考え、共感して話を持っていく和の精神は、国際開発の仕事をするうえで、大きな武器になります。相手のことを尊重し、その立場を理解しながら、それに寄り添った形の解決策を提案できる日本人は、アジア・アフリカ諸国の政治家や高官から信頼されます。ゲイツ財団のような欧米カルチャーが非常に強いところでも、チームの和を作る能力は重要です。ただそれを本当に活かしてチームリーダーとしてしっかりメンバーを引っ張っていくには、欧米的な問題解決がきちんとできる、ビジョンを示し主張すべきは主張するためのスキルをしっかり身につけておくことが重要です。日本型のリーダーシップの勝ちパターンは、どれだけ早くしっかりと欧米的な「ストロングリーダー型」のスタイルをスキルとして身につけられるかにかかっていると思います。そうでないとスペシャリストとして活躍できても、国際舞台で効果的なチームリーダーにはなれません。
グローバルヘルスの課題は医療者だけが解決できるものではありません。つまり医療だけの問題ではなく、すでにある安価で効果的な医療サービスが人々に届かないことが問題の本質です。理由として組織自体やデリバリーの効率性、ファイナンシングの仕組みに問題があり、解決するには様々な専門性を持った人々が必要です。ゲイツ財団でみると経営コンサルタント、製薬会社、サイエンティスト、デザイナー、キャンペーンマネージャーなど多種多様な人がいます。世界の中で最も難しい課題の一つであるグローバルヘルスの分野で、世界中の人と一緒になって解決するやりがい、大きな仕事ができる醍醐味を、他の多くの日本人にも味わってほしいと願っています。

インタビュアー 清水眞理子


さようなら、全てのエヴァーノート

やったこと
2011年6月10日、Evernoteを使用開始。
2014年9月19日、有料プランに加入。
2024年3月23日、クソみたいなメールが届く。

プラン、廃止

いつも Evernote をご利用いただき、ありがとうございます。このたびは今後の Evernote 登録プランに関する変更についてご案内させていただきます。

お使いの Evernote アカウントは Plus から Personal に移行されました。Evernote Plus など、一般のお客様に数年間ご利用いただけなかった従来の登録プランが廃止となったためです。この変更により、Personal プランで利用可能な機能すべてをご利用いただけます。

今後はAnnualの登録プランが現在の Evernote Personal プランの料金 129.99 USD/Yearに合うように更新されます。この料金は次の更新日である2024/4/19から有効となります。お客様側で必要な操作はございませんが、登録プランは「アカウント概要」でいつでも管理できます。

Evernote の機能が変わらないにもかかわらず料金が上がるというわけではないのでご安心ください。この変更は、ご愛用いただいている製品のパフォーマンスと信頼性の改善を継続するために役立たせていただきます。当社ですでに行っている重要な作業については、こちらのブログ記事をご覧ください。当社製品をご愛用いただいている皆さまにおいては、Evernote の今後にご期待いただければ幸いです。

当社では質の高いサービスを皆さまに提供できるよう今後も邁進してまいりますので、今後とも変わらぬサポートをよろしくお願いいたします。何かご不明な点がございましたら、いつでもお問い合わせください。詳細については、ヘルプセンターでご確認いただけます。

よろしくお願いいたします。
Evernote チーム

俺はEvernoteに長く課金してきた。2014年9月19日より年額45ドル「プレミアム」に加入。途中でプランを見直し、年額34.99ドル「プラス」に変更。2023年にプラスは年額49.99ドルに値上がりしたが許容する。他のメモアプリに移ることは考えなかった。俺がEvernoteに金を支払っている間にも様々な変更があり、そのたびに「改悪」という声が上がっていた。特に2023年12月の無料プラン大幅制限は記憶している人も多いと思う。それでも有料プランに入っている俺は関係ないと、使用継続の意思は変わらなかった。だが、さすがに今回は無理だ。年額49.99ドルから年額129.99ドルという大幅アップ。「Evernote の機能が変わらないにもかかわらず料金が上がるというわけではないのでご安心ください」なんて書いてあるが、俺からしてみれば「使い方は変わらないにもかかわらず料金が2.6倍に上がる」のだ。こんなの許されるはずがない。昔ならいざ知らず、現在はEvernoteからの移行先になりそうなメモアプリは多数ある。もしかしたら俺にとってより最適なアプリがあるかもしれない。俺はこれを変化の機会と捉えることにした。アプリの選択をではどのメモアプリに移るべきか。いろいろと紹介記事を読む前に、まずは俺がメモアプリに求める要件をまとめてみた。MustマルチデバイスMac、Windows、iOS、Android対応クラウド同期検索機能PDFや画像ファイルの挿入チェックボックスハイパーリンクWantOCRオフラインノートWebクリップこうして整理すると、Mustな要件については大半のメモアプリが該当するのではないかと思う。Wantについてはあったほうが嬉しいが、別に無くても構わない。以上の要件を踏まえつつ、価格やその他機能を考慮に入れて移行先を選ぶことにした。最初に候補として挙げたのは以下である。Notion:見た目はEvernoteとは別物だが移行先の筆頭。OCRとオフラインノートが無い以外は完璧。無料でも十分。UpNote:Evernoteライク。オフライン対応。有料だが安い*1Joplin:Evernoteライク。オフライン対応。クラウドを自分で用意したら無料。要件的にはUpNoteかJoplinなのだろうが、俺はまずNotionを試すことにした。既に使っているためである。他2つはインストールするところから始め、操作方法を学ばなければいけない。対してNotionなら学習コストが0である。それに情報が一箇所に集約されるというのも大きい。複数のメモアプリを使うとなると情報が分散し、検索性が悪くなる。ならばNotionに一本化するのが正解ではないか。Notion、微妙2週間ほど試し、Notionは俺の使い方だとEvernoteの移行先にならないことが分かった。最も使用頻度の多い、日記での使い勝手が悪いためだ。上の記事で書いた通り、俺は日記をつけている。まず1日の始めに、ノートを新規作成する。それが本日のページだ。本日のページは開きっぱなしにする。画面に余裕があるなら、常に表示させておく。現在はMacBook Proの画面を分割し、一番左端に表示させている*2


豪商

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
豪商(ごうしょう)は、めざましい近世日本の経済発展の中で巨万の富を蓄えた大商人[1]

近世初期の豪商[編集]

糸割符制度」も参照
16世紀末葉から17世紀初期にかけて、初期豪商と呼ばれる特権的商人が現れた[1]織豊政権から徳川氏による江戸幕府の成立へと日本の国内統一が進み、未曾有の海外発展を遂げたこの時代、商人は権力と結んでその政策の遂行に大きく貢献した[1]。また、中央の権力者や新興の諸大名とともに桃山文化寛永文化をささえ、その担い手となったのが初期の豪商であった。

小西隆佐今井宗久津田宗及博多島井宗室および神谷宗湛豊臣秀吉に協力した[1]。小西隆佐は秀吉に財貨運用の才を認められて九州攻め文禄の役で活躍し、ジョウチンの名で洗礼を受けたキリシタンであった[注釈 1]織田信長と豊臣秀吉に仕えた今井宗久と津田(天王寺屋)宗及は茶人としても知られ、千利休(宗易)とともに秀吉の茶頭となり、天下三宗匠と称された。島井宗室と神谷宗湛の2人は秀吉の九州制圧ののちに秀吉に拝謁し、秀吉から博多復興の命を受けた。ともに南方貿易や朝鮮出兵の輸送などで活躍している。また、堺の納屋助左衛門ルソン島(現フィリピン)での交易によって巨利を得たが、秀吉から邸宅没収の処分を受けることになった。
徳川家康の時代になると、京都角倉了以茶屋四郎次郎摂津国末吉孫左衛門平野藤次郎博多大賀宗九長崎末次平蔵荒木宗太郎、堺の今井宗薫らが貿易許可をえて南海貿易(朱印船貿易)に乗り出した[1][注釈 2]。彼らは一般に、朱印状糸割符制度などといった幕府より認められた特権を活用して富をたくわえ、また、全国的に商品流通が未発達で市場が不安定であることに乗じて巨利をえた[1]。そのため、17世紀中葉に鎖国政策が進められ、の産出が減少し、その一方で交通路の整備などによって国内市場が安定化するにともない急速に没落していった[1]。その衰退が決定的になったのは承応年間から寛文年間にかけて(1652年-1673年)のことである。なお、福岡藩御用商人として博多と長崎で活躍した伊藤小左衛門が密貿易の罪で罰せられたのは寛文7年(1667年)のことであった。

元禄期以降の豪商[編集]

17世紀後葉から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688年-1704年)、新興の大商人が現れた。この時代は、文治政治への転換により幕藩体制がいっそうの安定期を迎え、三都とりわけ京・大坂を中心とする上方の経済・文化の繁栄が頂点に達した時期に相当する。元禄豪商と称される商人には2つのタイプがあり、1つは投機型の商人で、「紀文」の名で知られる紀伊国屋文左衛門、「奈良茂」といわれた奈良屋茂左衛門西廻り航路東廻り航路の整備で知られる河村瑞賢はいずれも材木商を営んだ[1][注釈 3]。彼らは明暦の大火後の復興にともなう木材需要増をあてこんで材木を扱い、とくに「紀文」と「奈良茂」はいずれも幕府の材木御用達として公共事業で利益をあげた[2]。「紀文」は老中阿部正武の信任を得て幕府に大量の材木を納め、また、駿府の商人松木屋豪蔵と提携して駿河国井川山などから樹木を伐採した[2]。元禄11年(1698年)の上野寛永寺根本中堂(東京都台東区)造営に際しては50万両もの利益をあげたといわれている[2]。「奈良茂」は天和3年(1683年)の下野国日光東照宮栃木県日光市)修理の際に巨利をあげたといわれ、尾張藩と関係深く、名古屋の商人神部分左衛門と組んで飛騨国で伐採活動をおこなった[2]。彼の遺産は13万2530両といわれている[2][注釈 4]。「紀文」と「奈良茂」の2代目はそれぞれ江戸吉原での桁外れの豪遊で知られ、のちにそれがとがめられてもいる。また、ともに緊縮財政を旨とする新井白石の「正徳の治」において土木事業が差し控えられたため、やがて廃業を余儀なくされた[2][注釈 5]。これに対し、河村瑞賢は御家人に取り立てられた。また、大坂蔵元であった淀屋蔵物の出納で富を得、店頭でが立つほどの殷賑を誇ったといわれ、井原西鶴が『日本永代蔵』にその繁栄ぶりを記しているが、宝永2年(1705年)、5代三郎右衛門が驕奢の理由で全財産を没収されている。

その一方で、堅実な経営で事業を発展・継続させていったタイプの豪商もあった。呉服両替商を営んだ三井家酒造廻船・両替・掛屋鴻池家の製錬と鉱山開発にたずさわった住友家などは着実に家業を継承して近代に入ってからも財閥として繁栄した[1]。江戸時代の豪商は、蔵元や両替商、呉服商、米商、木綿問屋、問屋、海運業などを営み、その創業当初は専門職種に携わっていたが、規模が拡大するにつれ、兼業化するものが多かった[3]。すでに伊勢国松坂(三重県松阪市)で商人として成功していた三井家の当主三井高利は寛文13年(1673年)に江戸本町一丁目に越後屋呉服店を、また、京都には呉服仕入れ店を開業した[4]。越後屋は「現金掛け値なし」の画期的な商法で人気を博し、今日の三越百貨店につながっている[4][注釈 6]。「現金掛け値なし」の店先売りは周囲の店からいやがらせを受けるほどの大評判となった[4]。三井は延宝8年(1680年)からは駿河町において両替業務をはじめ、天和3年(1683年)には呉服店を同地に移転し、さらに貞享4年(1687年)に幕府の呉服御用達を命じられるといやがらせもおさまった[4]。元禄4年(1691年)には金銀御為替御用達も命じられている[4]。越後屋呉服店は、薄利多売の営業方針に加えて「引き札」と称される広告チラシの配布、呉服地の切り売り、小切れの販売、店員の専門化などといった創意工夫により売上を増やした[4][注釈 7]
大坂の豪商鴻池家は摂津国伊丹の酒造業からおこってきた豪商である。鴻池善右衛門(3代)は、父祖の手掛けた大名貸事業を拡大して新田開発を手がけた。宝永元年(1704年)の大和川の付け替え工事の際に生じた土地の新田開発に着手、のちに鴻池新田として整備した。また市街地整備も手がけて地代を獲得し、近世日本最大の豪商として繁栄した。加島屋も大坂の豪商で、寛永の頃から御堂前で米問屋を始め、両替商も兼営し、のちに「十人両替」に列せられた。諸藩の蔵元・掛屋として大名貸で鴻池家と並び称された[4][注釈 8]。南蛮吹きの精錬によって財をなした大坂淡路町の住友家では、初代住友吉左衛門(住友家3代友信)が幕府御用の銅山師となり、その子の友芳が元禄3年(1690年)が伊予国別子銅山愛媛県新居浜市)を発見して豪商の地位を不動のものにした。
江戸期の物流を支配したのが廻船問屋であった。『日本永代蔵』で紹介された唐金屋は和泉国佐野の船問屋であり同郷の食野(のちの和泉屋次郎左衛門)などとともに大船を用いて、越中国加賀国能登国などで産する米を運び、巨富を得た[5]。元禄12年(1699年)段階で泉佐野だけで300石以上の廻船が80艘以上あったという[5]。廻船問屋の出身地としては、塩飽諸島忽那諸島など、かつて村上水軍が拠っていた瀬戸内海に面した諸港は数・規模において、これを上まわる[5]。寛文12年(1672年)、江戸の米不足に際して出羽国庄内地方の米を江戸に運んで航路を開いたのは塩飽諸島の航海者であり、歌にうたわれた笠島の丸屋もこの流れのなかに位置づけられる[5]。彼らは、庄内から日本海を南西に航海して瀬戸内海を経由し、さらに紀伊半島から江戸へと向かう長大な航路を航行したのである[5]菱垣廻船や酒荷用の樽廻船を駆使した問屋商人は、株仲間を結成して不正防止や事故防止を共同でおこなうとともに営業の独占を図った。
諸藩の蔵屋敷がたちならび、蔵元・掛屋が集中する大坂は「天下の台所」と称されるにふさわしく、大坂の豪商たちは寛政前後に活躍した儒学者蒲生君平が「大坂の豪商一度(ひとたび)怒って天下の諸侯憚(おそる)るの威あり」と著述するほどの社会的影響力をもった。
寛文2年(1662年)に江戸の日本橋(東京都中央区)に開業した白木屋呉服店、享保2年(1717年)に京都伏見京町(京都市伏見区)に開業した大文字屋呉服店(現在の大丸)は、近代には百貨店として発展している[3]
江戸期にあっては、地方にあっても豪商と称される大商人が現れた。加賀藩の御用商人銭屋五兵衛出羽国酒田本間光丘盛岡藩小野組などが著名である。江戸時代後半に入ると、幕府も諸藩も財政難におちいったが、その際これを支えたのが豪商による御用金であった。

近代以降の豪商[編集]

政商」および「財閥」も参照

近代以降の展開は複雑である。日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約が調印されたのち、自由貿易が本格化したが、その際とくに目だった現象としては、商人のなかに輸入品取扱業者が出現したこと、および近世の豪商が財閥へと発展したことである[3]。前者の例としては、菜種油問屋が石油卸売にたずさわったり、和紙問屋が洋紙問屋となったりした事例がある[3]。後者に関しては、三井家や住友家などが多角経営と政商化によって財閥化に成功した事例であったが、三井財閥住友財閥はやがて財界を成し、その財力は国政に対しても一定の影響力を有した[3]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 武将として知られた小西行長は小西隆佐の次男である。

  2. ^ 角倉了以は高瀬川京都府)や天竜川静岡県愛知県)・富士川(静岡県)の水運をひらいたことでも知られる。荒木宗太郎は、コーチの王族のグエン氏一族の娘と結婚するなど現地での信頼があつかった。

  3. ^ 紀伊国屋文左衛門は、紀伊国産のみかん江戸に回送したことで巨利を得たという「みかん船」の逸話で有名であるが、これは幕末期の『黄金水大尽盃』という小説のなかでの話であり、史実ではない[2]

  4. ^ 最盛期の「奈良茂」の資産はもっと多かったろうと推測されている[2]

  5. ^ 「奈良茂」は宝永7年(1710年)に材木商を廃業し、貸家業に転じた。「紀文」も正徳元年(1711年)頃に材木商を廃業、次男の新四郎は東海道保土ヶ谷宿本陣をつとめた苅部家に持参金付きで養子入りしている[2]

  6. ^ 当時は節季払いが一般的で、年に2、3度まとめて商品代金を支払う商慣行であったが、その価格には掛け値(支払い期日までの利息)まで含まれていたため、現金の即日払いにすれば掛け値の分だけ代金価格が割安になった[4]

  7. ^ 元禄7年(1694年)に三井高利が死去した際にのこした資産は金8万両余であったが、正徳4年(1714年)には三井家の資産は総額24万両余にのぼったといわれる[4]

  8. ^ 加島屋は、明治維新に際して新政府に援助し、明治期には加島銀行を設立しているが昭和恐慌により廃業した。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 五味・野呂(2006)p.75

  2. ^ a b c d e f g h i 竹内(2002)pp.290-291

  3. ^ a b c d e 胡桃沢(2004)

  4. ^ a b c d e f g h i 小沢(2002)pp.280-281

  5. ^ a b c d e 奈良本(1974)pp.23-25

参考文献[編集]


「この会社、終わってる」キーエンスから実家の町工場を継いだ3代目、絶望からの光が見えるまで

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超優良企業として知られる大手メーカー・キーエンスで順調に出世し、32歳の若さで営業所長に抜擢されたにも関わらず、その地位を捨てて実家の小さな製造業を継ぐ決意をした人物がいる。自動車の濾過フィルターや工作機械用フィルターなどの製造・販売を手掛ける株式会社トーユーの三代目で、現在は製造部長を務める戸山智徳さんだ。
トーユー入社後は、評価制度や教育制度などを大胆に改革。現場の効率化や職場環境の改善、社員のモチベーションアップなどを果たし、着任して1年間で営業利益を前年度の4倍に伸ばすという成果を出してみせた。
「実家を継ぐ気は全くなかった」という戸山さん。なぜ、家業を継ぐ決意を固め、工場の改革に熱意を注ぐのか。その思いを聞いた。
株式会社トーユー 取締役兼製造部長 戸山智徳さん
大学卒業後、2005年に大手メーカーのキーエンスに入社。営業職としてキャリアを積み、11年に課長職、12年に営業所長に就任。17年末に退社。18年より現職。2022年に父親を継いで社長に就任することが決まっている

「継ぐ気はない」から「親孝行がしたい」へ心境が変化

トーユーは、57年前に戸山さんの祖父が創業した工業用フィルターのメーカーだ。現在は父親が社長を務めており、彼は三代目に当たる。だが本人は「正直言って、家業を継ぐつもりは一切なかった」と振り返る。
「親に頼らず、自分の力でやっていきたい。そう思っていたので、大学卒業後にキーエンスに入社しました。入社後は営業ひと筋。お客さまであるメーカーの工場へ足を運び、実際に現場を見ながら課題を洗い出して、解決策を提案する。それが私の仕事でした」
戸山さんはすぐに営業として頭角を現し、20代でリーダー、30歳で課長職とスピード出世。32歳の若さで営業所長に抜擢される。人がうらやむキャリアを歩んでいた戸山さんだったが、一方でその頃から実家との関係が変化し始めた。
「私が就職するまで、父は一度も家業を継げとは口にしませんでした。ただ今思うと、『一度就職して社会経験を積んだら、そのうち実家に戻ってくるだろう』と内心期待していたんじゃないかと。でも私が営業所長という責任あるポジションに就いたことを知り、『もう戻ってこないかもしれない』と焦ったんでしょうね。その頃から、実家に帰るたびに『うちの会社もいいものだぞ』とアピールが始まりました(笑)」

最初のうちは聞き流していたものの、自分を説得する父親の姿を見るうちに、戸山さんの心境にも変化が訪れる。
「自分の力で勝負したいという思いで頑張ってきたし、営業所長になれたのも私自身の努力によるものだという自負はあります。ただ私が大手企業に就職できたのは誰のおかげかと考えると、教育にコストをかけて成長の機会を与えてくれた親のおかげです。その恩返しをするとしたら、私にできる一番の親孝行は、祖父の代から続くこの会社をさらに大きくすることではないか。そう考えるようになり、35歳になる直前で会社を辞める決断をしました」

「この会社、終わってる」改革に向けて腹を括った

次世代を担う若手のホープが突然退職を申し出たことに周囲は驚き、役員からは思いとどまるよう説得を受けた。すでに結婚していたので、家族からも不安の声が上がった。
「父の会社に入ると聞くと、『給料をたくさんもらえるんでしょ?』と思うかもしれませんが、とんでもない。前職時代に比べて、給料は3分の1になりました。しかも大手企業に勤めていれば社会的信用度も高く、例えば住宅ローンも有利な条件で借りられる。でもトーユーは小規模な会社で、なおかつリスクを背負う経営陣に入るとなれば、将来に何の保証もありません。妻からも心配されましたし、私自身も不安がなかったといえば嘘になります」
ところがトーユーで製造部長として働き始めると、すぐに不安は消えた。会社の経営が思ったより良好だったからではない。その逆だ。
「私が入った当時、この会社はあまりにダメ過ぎた。それにも関わらず、数字だけ見れば創業以来ずっと黒字経営を続けていて、それなりに会社が成り立ってしまっている。ならばダメなところを改善すれば、間違いなくこの会社はもっと大きくなる。そう確信できたので不安は消え去り、あとはやるべきことをやるだけだと腹を決めました」
戸山さんが転職して最初に衝撃を受けたのは、入社直後に参加した役職者会議でのこと。そこで現場から上がってきた改善提案を発表する時間があった。作業効率の向上やコスト削減につながる改善をすることは、製造業に欠かせない努力だ。
前職でさまざまなメーカーの現場を見てきた戸山さんも、これは重要な取り組みだと思い、どんな提案が出てくるかと期待したのだが……。
「上がってきた提案の数は、わずか4件でした。当時の社員は約70名いたのに、たったそれだけ。しかも効率やコストには関係のない、『壁に“危険注意”の張り紙をしましょう』といったレベルの話ばかり。
だから私ははっきり言いました。『これは何のためにやっているんですか?』と。すると参加者の一人がこう答えた。『社長がやれとおっしゃったので』。それを聞いて、この会社は終わってるなと思いましたね。何のためにそれをやるのかという意味を誰も理解せず、トップの指示にただ従うだけの組織なのですから」

「父をはじめとする経営陣にも、はっきりと『終わってる』と言いました」(戸山さん)

さらに戸山さんは、社員に話を聞いたり、時には飲みに誘ったりして、現場の声を聞いて回った。そこで分かったのは、「創業者一族が言うことは絶対だ」と考える空気が社内にあることや、社員たちが「上に悪い報告をすると待遇が下がるのではないか」と恐れて報連相をしなくなっていること。
「組織の風通しを良くして、社員全員が経営に参画する意識を持たなければ会社は成長できない」と考えた戸山さんは、さっそく改革に着手した。

成果と行動を数値化し、「頑張った人が報われる評価制度」を実現

まず取り組んだのが、社員教育だ。役職者にマネジメント研修を行なうと同時に、現場の社員たちには「なぜ改善提案が必要なのか」を一から丁寧に説明した。
「弊社の場合、営業や開発は大手企業に委託しているため、取引先を新規開拓して出荷台数を増やしたり、製品に付加価値をつけて単価を上げたりする方法で利益を上げる選択は、すぐにできません。今私たちが利益を増やすためにできるのはただ一つ、製造原価を下げることです。だから現場の改善提案が必要なのだ。これを分かりやすく説明した結果、ようやく社員たちも『社長に言われたからではなく、会社の利益を増やすために改善提案をしなければいけないのだ』と理解してくれました」

とはいえ、これまでトップの指示に従って仕事をしてきた社員たちが、すぐに革新的なアイデアをどんどん出せるわけではない。他の業界や企業で活躍する人材を採用し、外部の知恵や経験を取り入れることも必要だ。だが優秀な人材に来てもらうには、就職先として魅力がなければいけない。
そこで戸山さんがもう一つ取り組んだのが、評価制度をつくること。「頑張ったら頑張っただけ報われる仕組み」を整備し、それを武器に採用を強化しようと考えたのだ。
「公正かつ客観的な評価制度にするため、『成果』『アクション』の二つの軸を設定し、それぞれ数値化して定量評価する仕組みをつくりました。成果については、改善の提案件数、改善の効果、新しいスキルの習得などの項目を設定し、件数に応じてポイントを付けた上で、全項目を集計して偏差値に換算。月ごとにランキングを発表する仕組みにしました」
日本では大手企業でも、ここまで明確な評価基準を設定しているケースは少ない。だが、戸山さんは満足しなかった。
「この評価制度だけでは、どうしても救いきれないものが残ってしまう。例えば、同僚の具合が悪そうなのに気付いて、仕事を代わってくれた社員がいるとします。でも、こうした“ちょっといい行動”は、先ほどの評価制度では点数が付きません。そこでこのようなアクションを評価する『バリューポイント制度』も導入しました。社員同士が、良い行いを申請し合う仕組みです」
これらの評価制度では、成果とアクションの評価が50%、バリューポイントが25%、人事考課が25%という割合で総合評価が決まる。つまり、上司による査定は4分の1の影響力しかない。
「もし上司からの評価が100%だったら、部下は上司に嫌われるのが怖くて、何も言えなくなってしまう。でも人事考課が25%なら、たとえ上司が個人的に嫌っている部下がいたとしても、残りの75%は部下が実力で取り返せます。トーユーのような同族経営の会社では、経営陣が絶対的権力者となってしまうリスクがある。でも個人の主観によらない公正な評価制度があれば、そのリスクは回避できます」

4件だった改善提案は月120件以上。営業利益は1年で4倍に

外部から見ても魅力的な評価制度を作り上げた結果、「優秀な人材がトーユーの採用選考に応募してくれるようになった」と戸山さん。以前からの社員たちも明らかに意識が変わり、なんと今では改善提案が月平均で120件から130件も挙がってくるという。わずか2年前は4件しかなかったのが嘘のようだ。
現場からの改善提案に加え、在庫コスト圧縮などの施策を進めた結果、戸山さんが入社してからの1年間で、前年度1200万円だった営業利益が約4800万に大幅アップ。改革の効果を数字で証明してみせた。

だがこれだけ大胆な改革を進めれば、古くからの役職者や社員から反発や抵抗もあったのではないか。そう質問すると、戸山さんはきっぱりとこう答えた。
「私は全員に好かれようとは思っていないので。好かれたいと思うと、やるべきことができなくなる。自分がいくら嫌われようと、やる気のある社員が最大の成果を出せる環境をつくることしか考えていません
この2年で会社は大きく変わったが、戸山さんの目はさらに先を見ている。
「長期的なビジョンとしては、フィルター以外の新規事業を立ち上げたい。私は2年後に父親を継いで社長になる予定ですが、その5年後には他の人に社長を譲って自分は新規事業に専念しないと、引退までに新規事業を軌道に乗せるのは難しい。ですからあと数年で、私の代わりに経営やマネジメントを担える人たちを採用・育成していきたいと考えています」
ただし採用にあたってマネジメントの経験は必須ではなく、スキルや技術も限定しない。「スキルや技術知識は入社後に私がいくらでも教えられるので、採用の時点で何を持っているかはあまり重視しません」と戸山さんは話す。
「ただし、これを成し遂げたいとか、世間から認められたいといった、何らかの野心は持っていてほしい。『出世したい』でも『家族にいい暮らしをさせたい』でもいいんです。働く理由を明確に持っていることは、仕事で成果を出すために大事なことです。
加えて、教わったことを柔軟に吸収できる素養も持っていてほしい。役職者候補として入社した人には、研修を通じてPDCAの回し方を徹底的に教えます。目指すゴールに到達するための道筋を立てて、実行し、検証して、改善する。これはどんなビジネスでも必要とされる普遍的なスキルです。部下にはよく『このスキルを身に付ければ、どこの会社でも成功できる』と言っています。もちろん、『でも辞めないで、ずっとトーユーで働いてね』とお願いしますが(笑)」

若き三代目が起こした改革の波は、職場環境を改善し、会社は人材を大きく成長させる器としての機能を果たすようになった。革新的なリーダーのもとで、自分も改革に参画しながら会社の成長に貢献し、製造業の未来を担いたい。そう望むエンジニアにとって、トーユーは魅力的な職場になるだろう。
取材・文/塚田有香 撮影/桑原美樹

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