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マイクロソフトの歴史
マイクロソフトの歴史
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マイクロソフトの歴史(マイクロソフトのれきし)では、多国籍のコンピュータ技術会社であるマイクロソフトの歴史について記す。マイクロソフトの事業の源流は、1975年にBASICインタプリタの開発をはじめたことにある。現在の最主力商品はMicrosoft Windowsオペレーティングシステムおよび生産性向上ソフトウェアのMicrosoft Officeシリーズである。現在ではマイクロソフトは、年商442億8000万米ドル、102の国において従業員7万6000人を抱え、全体的に成功しており、コンピュータ・デバイスのための各種ソフトウェア製品を広範囲に開発、製造、ライセンス販売を行っている。
1975年-1978年:マイクロソフトの設立
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「ポピュラーエレクトロニクス」1975年1月号に掲載されたAltair 8800の紹介記事を読んだビル・ゲイツとポール・アレンは、その新しいマイクロコンピュータの製造者であるMITSに電話をし、Altair向けBASIC言語インタプリタの実装のデモンストレーションをしたいと提案した。ゲイツの手元にはインタプリタもAltairシステムもなかったが、ゲイツはハーバード大学のコンピュータセンターに設置されていたPDP-10を用いたエミュレーションにより、ポール・アレンと共にインタプリタを開発した。実際には、アレンがAltairに搭載されているCPUであるIntel 8080のマニュアル等を元にAltair8800のエミュレータを開発し、主としてビル・ゲイツがその上で動くBASICインタプリタを書く形で開発が進められた[1]。BASICインタプリタの開発には8週間を要した[2]。
アレンは開発したBASICインタプリタを、ニューメキシコ州のアルバカーキにあるMITSに持ち込みデモンストレーションを行った。このデモについては「一度で完璧に動いた」[3]「初回のデモではインタプリタは一瞬動作した後に停止してしまった」[1]など、文献によって異なる見解が見られるが、いずれにせよ数日のうちにはバグはほぼ解消されインタプリタは概ね動作するようになった[1]。これをうけて、MITSはAltair BASICとして配布することを決定した。
1975年4月、アレンは当時勤めていたハネウェルを退社し、MITSの社員となった。これに対し、ゲイツは、ハーバード大学の学生のままであった。大学が夏休みになると、ゲイツもアルバカーキにやってきてBASICの改良を手伝ったが、9月にはハーバード大学に帰っていった[4][5]。翌1976年も、春学期、秋学期共にビル・ゲイツはハーバード大学におり、学休期間中にアルバカーキに行っていた[6][7]。
アレンがMITSの社員となった1975年4月をもってマイクロソフト社が創業されたとされることがあるが、実際には1975年4月の段階では、マイクロソフトという名前すら存在せず、そのような法人も存在していない。実際、1975年7月に、MITSとの間でBASICインタプリタに関する契約書がかわされたときには、契約の当事者は法人としてのMITSと個人であるアレンおよびゲイツであり、契約書にマイクロソフトという名称は出てこない[8]。 マイクロソフト(マイクロコンピュータとソフトウェアとのかばん語)という名称は、アレンが、1975年7月に考えだした[9]。文書に残る記録としては、1975年10月にMITS社長のエド・ロバーツがアルテアの広報誌「コンピュータ・ノート」のために書いた記事内にマイクロソフトの名称が確認されるのが初出である[10]。この時点では、Micro-softとハイフンを含む名前であった。このころのマイクロソフトは、ゲイツとアレンが私的につけたチーム名にすぎない[9] 。
マイクロソフトをパートナーシップによる経営として、ゲイツとアレンが正式に契約書を交わしたのは、1977年の2月である[11]。この時点でも、マイクロソフトはあくまでもゲイツとアレンによるパートナーシップによる経営体であり、法人ではないため、正式にはマイクロソフト「社」ではない(最終的にマイクロソフトが株式会社となって法人化するのは、1981年である)。なお、このころ(1977年2月)ゲイツはハーバード大学を休学してソフトウェア事業に専念することを決意するが、その代償として、パートナーシップ経営体に対する自身の取り分(株式会社での株の持ち分に相当)を64%とすることをアレンに了承させている[11]。(もともと、それ以前の非公式な段階では、ゲイツはMITSの社員ではなく給料をもらわないことや、BASIC自体の開発は主としてゲイツが行いアレンはエミュレータ開発が主であったことなどを主張して、BASICに対するライセンス料の分配をゲイツが60%とすることをアレンに了承させた経緯があったが[12][13]1977年2月に再度改訂したものである。)
アメリカの法律では、パートナーシップの形成にあたって登記等は必要ないため、パートナーシップとしてのマイクロソフトの設立が正確にいつであるかを特定するのは難しいが、契約書の形で確認できるのは1977年2月である。それ以前には非公式な口約束に基づく曖昧な状態であったとされる[12][11]。
マイクロソフトはMITS以外の会社からも依頼を受け、様々なマイコン向けにBASICインタプリタを開発・供給するようになったため、マイクロソフトのBASICを独占したいと考えていたMITSとは次第に疎遠になり、結局裁判により1977年9月にMITSとマイクロソフトの契約は無効と認定され打ち切られた[14]。
マイクロソフトの最初の国際オフィスは1978年11月1日に日本に「アスキーマイクロソフト」(現在は日本マイクロソフト)の名称で設立された。これに先立つ1978年6月に、アスキーの創業者である西和彦がアルバカーキのゲイツのもとを訪れており、と意気投合したゲイツは西和彦をマイクロソフト本社の副社長として迎えた。西和彦は結局1986年までマイクロソフトの副社長を務め、日本におけるマイクロソフトBASICの普及を担っただけでなく、MSXなどの規格を主導していくことになる。
1979年-1985年:本社移転とMS-DOS
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1979年1月1日、マイクロソフトはアルバカーキからワシントン州のベルビューに移転した。1980年6月11日、スティーブ・バルマーが入社し、後にゲイツの後を継いでCEOとなった。マイクロソフトは1981年6月25日に再編成し、ワシントン州の法人企業となった(さらに社名を改め「Microsoft, Inc.」とした)。再編成の一環として、ゲイツは社長兼会長となり、アレンは副社長となった。
1980年、マイクロソフトが公にリリースした最初のオペレーティングシステムは、UNIXから派生したものだった。マイクロソフトはそれを配布ライセンスに基づきAT&Tから取得し、Xenixと名づけた。さらに、複数のプラットフォームに移植するため、Santa Cruz Operations社を雇った。このオペレーティングシステムは、マイクロソフトの最初のワードプロセッサーであるMicrosoft Wordの動作環境となった。Wordは当初「Multi-Tool Word」という名称であり、WYSIWYGのコンセプトが注目を浴びた。Wordは太字テキストを表示したりといった機能をもつ最初のアプリケーションでもあった。Wordは1983年の春に発売され、無料の評価版がPC World(英語版)誌1983年11月号に付属された。これは、雑誌に付属して配布された最初のプログラムであった。しかし、Xenixは多くのソフトウェアOEMに再販売のライセンスが与えられていたにもかかわらず、エンドユーザに直接販売されることはなかった(ただし日本では、NEC・富士通などが自社PCのユーザ向けに日本語Xenixを販売している)。1980年代中盤には、マイクロソフトはUNIXビジネスから完全に撤退した。
DOS (Disk Operating System) は、マイクロソフトを真の成功へと導いたオペレーティングシステムであった。1980年ごろ、IBMは独自のパソコンを開発する計画を持っていた。当時の8bitパソコンにおいて、大きなシェアを有するオペレーティングシステムはデジタルリサーチのCP/Mであった。IBMは、予定している16bitパソコン用のオペレーティングシステムを外注することに決め、デジタルリサーチと接触したが、交渉はうまくいかなかった。その結果、マイクロソフトがIBMのパソコン用オペレーティングシステムを開発する契約をIBMと結ぶことになった。オペレーティングシステム開発の経験が乏しく、IBMが要求する納期を最小限度の人的資源で賄う必要があったマイクロソフトは、当時86-DOSと呼ばれていた16bitオペレーティングシステムのライセンスを、シアトル・コンピュータ・プロダクツ(SCP)社から購入し、これを改良することで対応した[注 1]。また86-DOSの開発者であるティム・パターソンも後にマイクロソフトに移籍した。こうして作られたマイクロソフト製オペレーティングシステムはIBMによってPC-DOSと改名され、1981年8月に発売されたIBM PCに搭載された。
デジタルリサーチは後に16bit版のオペレーティングシステムであるCP/M-86を開発し、IBMとの交渉の結果、IBMがこれを自社製パソコンに対するオプションとして提供することになった。 しかし、PC-DOSが40ドルで提供されたのに対し、CP/M-86は240ドルであったため、CP/M-86を利用する人はほとんどおらず、PC-DOSが標準となっていった。
後に、Columbia Data Products(英語版)社がIBM BIOSのクローンで成功を収め、Eagle Computer(英語版)社とコンパックがそれに続くと、市場はIBM PCのクローンであふれるようになった。IBMとの契約により、マイクロソフトはMS-DOSを自由に他社に販売する権利を与えられていた。IBM PCのクローンの製造者への積極的なマーケティングにより、マイクロソフトは弱小企業から家庭コンピュータ産業における主要なソフトウェアベンダへと成長した。
1983年5月2日のMicrosoft Mouse(英語版)の発売を皮切りに、マイクロソフトは他の市場へも製品ラインを拡大していった。 1983年前後には、多数の会社との提携により、マイクロソフトは家庭用コンピュータシステムMSXを開発した。これはMSX-DOSと名づけられた独自のDOSオペレーティングシステムを搭載していた。これは日本、ヨーロッパ、南アメリカで比較的好評を得た。
1985年-1991年:OS/2の消長
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1985年、マイクロソフトの最初の国際生産施設がアイルランドに設立された。 同年11月20日、マイクロソフトはMicrosoft Windowsの最初のバージョンを発売した。当初、これはMS-DOSオペレーティングシステムのグラフィックを拡張したものであった。8月、マイクロソフトとIBMはOS/2と呼ばれる新しいオペレーティングシステムの開発で提携を結んだ。OS/2は、IBMの独占するIBM PS/2と呼ばれる新しいハードウェアとともに発売された。1986年2月16日、マイクロソフトはワシントン州レドモンドに移転した。およそ1ヶ月後の3月13日、マイクロソフトは株式を公開し、一株あたり21.00米ドルで6100万米ドルの資金を集めた。その日の終わりには、株は28.00米ドルにまで上昇していた。1987年、マイクロソフトはOS/2の最初のバージョンをOEMにリリースした。
一方、マイクロソフトは優れたオフィス製品を発表し始めた。Microsoft Worksには、ワードプロセッサ、表計算、データベースなどのオフィスアプリケーションに見られる機能が統合された。Worksは、Macintosh向けのアプリケーションとして1986年の末に発売された。Worksは後に、Microsoft WordやMicrosoft Bookshelf(1987年に発表された辞書ソフトウェアで、マイクロソフト初のCD-ROM製品)などの他製品とともに発売されることになった。後に、1989年8月8日、マイクロソフトは最も大きな成功を収めたオフィス製品であるMicrosoft Officeを発表した。Worksと異なり、OfficeはMicrosoft WordやMicrosoft Excelなどの、個別のアプリケーションの集合であった。WordやOfficeはほとんどマイクロソフト内部で開発されていたが、他社製品に自社のブランドをつけて販売するという戦略も行われた。例えば、1988年1月13日に発売された企業向け関係データベース管理システム (RDBMS) であるMicrosoft SQL Serverは、Sybaseからライセンスされた技術に基礎を置いていた。
1990年5月22日、マイクロソフトはWindows 3.0を発売した。これは、合理化されたユーザインタフェース、80386プロセッサ向けの改良されたプロテクトモードなどの新機能を誇り、2週間の間に10万本を売り上げた。1991年5月16日に社員向けに書かれた内部メモの中でビル・ゲイツは、OS/2との提携は終わった、これからはWindowsおよびWindows NTカーネルに力を注ぐ、と発表した。一部の人々、特にWindowsを軽視してOS/2に対して資源を割いていた人々はこれに驚き、騙されたとしてマイクロソフトを告訴した。このOS/2からの転換は、この業界においてしばしば「the head-fake」と呼ばれることがある。翌年にはOS/2の人気は落ち込み、Windowsは急速に人気プラットフォームへと成長した。1991年という年はまた、計算機科学の研究組織であるマイクロソフトリサーチが設立され、法人・個人の両方に人気を得た開発製品Microsoft Visual Basicが発表された年でもあった。
1992年-1995年:法人市場の支配
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MS-DOSからWindowsへの移行期の間、マイクロソフトはMicrosoft Officeの成功によって、WordPerfectやLotus 1-2-3などといった競合するアプリケーション製品に対して優位な立場を築くことに成功した。一時WordPerfectの所有者だったノベルは、マイクロソフトは競合製品を出し抜くためにDOSやWindowsカーネルの内部の情報や公開されていないAPIを利用していると申し立てた。結局Officeはビジネススイート市場を支配し、競合製品に比較してはるかに高いシェアを獲得した。1992年3月、マイクロソフトはWindows 3.1を発売し、初めてテレビにおいて大々的な宣伝を行った。Windows 3.1は、2か月の間に300万本を売り上げた。10月には、ピア・ツー・ピアによるファイルやプリンタの共有などといったネットワーク機能が統合されたWindows for Workgroups 3.1が発売された。11月には、データベースソフトウェアMicrosoft Accessの最初のバージョンを発売した。
1993年までに、WindowsはGUIオペレーティングシステムとして世界トップのシェアを獲得した。Fortune Magazine誌はマイクロソフトを「1993年アメリカ合衆国における最も革新的な企業経営」に選んだ。この年には、Apple Computerによる4年間にわたる著作権侵害訴訟がマイクロソフトの勝訴で終結を迎えたが、同時に欧州連合における競争法違反訴訟が開始された。また、Windowsシリーズの新バージョンであるWindows for Workgroups 3.11と、サーバ用オペレーティングシステムであるWindows NT 3.1が発売された。Windows NT 3.1ではコンシューマ用のものと同じインタフェースが採用されたが、カーネルはまったく異なるものだった。ビジネス拡大戦略の一環として、3月22日、マイクロソフトはコンピュータ上で動作する初めての百科事典Microsoft Encartaを発売した。その直後、Windows 3.x向けのマルチメディアアプリケーションを包括するMicrosoft Home(英語版)ブランドが導入された。マイクロソフトは1994年、専門知識をもたない大衆に訴求するための宣伝キャンペーンの一環として、スローガンを「Where do you want to go today?」に変更した。マイクロソフトはこのキャンペーンに1億米ドルを費やした。
マイクロソフトは一般消費者に向けた戦略をとり続けた。マイクロソフトは1995年3月、初心者ユーザ向けに設計されたユーザインターフェースを採用したMicrosoft Bobを発売した。これは不評のため1996年に生産中止されたが、ビル・ゲイツは後に、この失敗はハードウェア要求が典型的なユーザにとっては高すぎたためだったと振り返った。Microsoft Bobは、マイクロソフトの歴史の中でも最も不成功な製品だったと広く認識されている。マイクロソフトはドリームワークス社とともに、インタラクティブ(英語版)なマルチメディア製品の生産のためにDreamWorks Interactive(英語版)社を新しく設立した。8月24日、マイクロソフトは主力オペレーティングシステムの新しいバージョンであるWindows 95を発売した。これは、有名なスタートボタンなどのまったく新しいユーザインタフェースが採用された。Windows 95は発売後4日間の間に100万本以上を売り上げた。
Windows 95には、ウェブブラウザはまだマイクロソフトによっては開発されていなかったため搭載されなかった。マイクロソフトはインターネットの成功に驚き、後にSpyglass(英語版)社に接近してブラウザのライセンスを取得し、それをInternet Explorerとした。Spyglassは後に、マイクロソフトは販売した部数に応じてライセンス料を支払うべきだとして契約条件に異議を唱えた。しかし、マイクロソフトはオペレーティングシステムに無料で付属させる方法を選択したため、Internet Explorerは一切販売されなかった。
Internet Explorerは、1995年8月に発売されたWindows 95 Plus!パックに初めて付属した。9月には、中国政府はWindowsを国家指定のオペレーティングシステムに採択し、中国版Windowsの標準化のための契約をマイクロソフトと交わした。マイクロソフトはまた、コンピュータハードウェア市場に進出するための試みとしてMicrosoft Sidewinder 3D Pro(英語版)ジョイスティックを発売した。
1995年-1999年:ウェブや新事業への進出
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1990年代半ば、マイクロソフトは製品ラインをWorld Wide Webやコンピュータネットワークの分野にまで拡大し始めた。1995年8月24日、AOLへの対抗サービスとしてオンラインサービスMSN (Microsoft Network) を立ち上げた。MSNはMicrosoft Passport(英語版)(後のMicrosoft アカウント)をすべてのウェブサイトの共通ログインシステムとして採用し、マイクロソフトのオンラインサービスを包括するようになった。1996年、マイクロソフトは新しい市場への進出を続け、7月15日にはNBC社との共同事業としてニュース専門放送局MSNBCを開始した。また、Michael Kinsley(英語版)の執筆によるオンラインマガジンSlate(英語版)を開始し、漫画『ドゥーンズベリー』とともに政治的・社会的な論評記事を提供した。一般消費者市場への影響力を高めるため、マイクロソフトはWebTVを買収し、テレビからウェブにアクセスするためのサービスを提供した。マイクロソフトは11月、Windows CE 1.0によってPDA市場にも参入した。これはWindowsオペレーティングシステムをゼロから書き直したもので、携帯端末や小型コンピュータなど、メモリやパフォーマンスの劣るマシン上で動作するよう設計された。1996年Windows NT 4.0が発売され、Windows NTカーネルとWindows 95のインタフェースとが統合された。
マイクロソフトは1990年代初期のインターネットの興隆に参加することに概して失敗したが、1990年代半ばになって、この市場に参入するために投資した技術のいくつかが成果を上げはじめた。その最たるものがComponent Object Model (COM) 上に構築されたAPIであるActiveXだった。この技術により、JScriptやVBScriptなどといった多くのプログラミング言語から共通のコントロールを埋め込むことができるようになった。ActiveXにはドキュメントやサーバ・ソリューションのためのフレームワークも含まれていた。マイクロソフトはまた、インターネットアプリケーションへのサポートを組み込んだMicrosoft SQL Server 6.5を発売した。1997年にはMicrosoft Office 97とInternet Explorer 4.0がリリースされ、ネットスケープの支配的だったブラウザ市場を脅かし始めた。また、Apple Computerの承認により、Internet ExplorerはWindowsだけでなくMacintoshにも付属するようになった。この年、携帯端末用Windowsの最新版であるWindows CE 2.0が発売され、多数のバグ修正や企業ユーザにとって魅力的な新機能が施された。10月、司法当局は連邦地方裁判所に対し、マイクロソフトが1994年に結ばれた協定に違反しているとの動議を提出し、裁判所に対し、Internet ExplorerがWindowsに付属するのをやめさせるよう要求した。
1998年という年は、マイクロソフトの歴史にとって重要な年だった。ビル・ゲイツがスティーブ・バルマーを社長に任命する一方、彼自身は会長兼CEOに留まった。マイクロソフトは一般消費者向けWindowsの最新バージョンであるWindows 98を発売した。Windows 98にはInternet Explorer 4.0 SP1(Windows Desktop Update(英語版)が付属した)が付属され、FAT32ファイルシステムのようにWindows 95 OSR 2.xに含まれていた機能、およびマルチディスプレイなどWindows 98で初めて追加された機能が含まれた。また、後にアメリカ合衆国に次いで二番目の規模となるインド本部を設立した。さらに、マイクロソフトの一連の内部メモがインターネットに流出すると、大規模な論争が巻き起こった。これらの文書は俗に「ハロウィーン文書」と呼ばれ、メディアによって大きく取り上げられた。この文書には、以前からオープンソースソフトウェアのアナリストや支持者から指摘されていたような、フリーソフトウェア・オープンソースソフトウェアがマイクロソフトに与える脅威について詳細に記述されており、Linuxなどのオープンソースソフトウェアへの合法もしくは非合法な対処方法についてほのめかされていた。マイクロソフトはこの文書の存在を認めたが、これらは単なる技術研究の一環であると主張した。しかし一方で、これらの研究が実際にマイクロソフトの経営戦略に取り入れられていたとする意見もある。
2000年-2005年:法律問題、XP、そして.NET
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マイクロソフトは、2000年に会社の主力のオペレーティングシステムのすべての3つの系列のために新製品を発表して、1では、それがほとんどの際立った訴訟事件である最後を告げる最初のきざしを見た。
2000年2月17日、マイクロソフトはWindows 2000をビジネス用にリリースした。
この節の加筆が望まれています。
2005年-2007年:Vistaへの道
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開発段階には「Longhorn」のコードネームで呼ばれていたWindows Vistaは、2007年1月30日、一般消費者向けに発売された。マイクロソフトはこれとともに、オフィス製品の新しいバージョンであるMicrosoft Office 2007も発売した。同年11月19日には、開発製品であるVisual Studioの新しいバージョンMicrosoft Visual Studio 2008が発売された。
2005年、Googleなどといった検索サービスへの対抗としてマイクロソフトはMSN サーチ 現:Microsoft Bing の新しいバージョンを発表した。2006年には、検索市場を開拓するための一環として、ペイ・パー・クリック広告サービスを提供するMicrosoft adCenter(英語版)を発表した。直後、マイクロソフトはオープンソースプロジェクトをホストするための協力型開発サイトであるCodePlexを立ち上げた。世界中の開発者が参加し始めるにつれて活発になっていき、2007年初頭にはAras Corp(英語版)社などの商業オープンソース企業が、マイクロソフトのプラットフォームに対し独占的にエンタープライズオープンソースソフトウェアを提供し始めた。
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2007–2011: Microsoft Azure、Windows Vista、Windows 7、Microsoft Store
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以前は開発の初期段階で「Longhorn」というコードネームが付けられていたWindows Vistaは、2007 年 1 月 30 日に消費者にリリースされたマイクロソフトは、Windows Vista とともに、Microsoft Office 2007と呼ばれる Office スイートの新しいバージョンもリリースした。同社のサーバーオペレーティング システムと開発スイートの次のバージョンであるWindows Server 2008とVisual Studio 2008は、2008 年 2 月 27 日にリリースされましたWindows Vista は重く、デスクトップ ウィジェットと Aero テーマを実行するには大量の電力が必要であると批判されました。Windows XP の安定性と処理の必要性が低いため、多くの人が Windows XP を何年も使い続けました。
2007 年 12 月 19 日、マイクロソフトはViacomと、コンテンツ共有と広告を含む5 年間、5 億ドルの契約を結びました。この契約により、Microsoft は Viacom が所有するケーブル テレビや映画スタジオの多くの番組をXbox LiveとMSNで使用するライセンスを取得することができました。この取引により、Viacom は MSN と Windows を介したカジュアル ゲームの開発と配布のための優先パブリッシャー パートナーになりました。契約の広告側では、Microsoft の Atlas 広告配信部門が、Viacom が所有する Web サイトで以前に販売されなかった広告在庫の独占的なプロバイダーになりました。マイクロソフトはまた、バイアコムが所有する放送とオンライン ネットワーク上の大量の広告を購入し、MTV とBET のプロモーションとスポンサーシップで協力しました。賞ショー、2 つの Viacom 所有のケーブル ネットワーク。
2008 年、Microsoft はYahoo を(最初は完全に、後に部分的に)買収して、Googleに対する検索エンジン市場での地位を強化したいと考えました。会社は会社を過小評価していると言って、申し出を拒否した. これに応じて、マイクロソフトはオファーを撤回しました。
2009 年、コンシューマー エレクトロニクス ショー(CES)のオープニング ショーを初めてスティーブ バルマーが主催しました。過去数年間、それはビル・ゲイツによってホストされてきました。ショーの中で、バルマーは1 月 8日にパートナーと開発者向けのWindows 7 の最初の公開ベータ テストを発表しましたが、その 2 日後には一般向けにも公開されました。2009年6月26日に、Microsoftは10月22日に発売されたWindows 7のための割引価格で予約注文を取り始め、2009年のWindows 7が上昇認めるいくつかのエディション、持っているネットブック減少し、処理能力を持つコンピュータを。
2010 年 4 月 12 日、Microsoftは 2008 年にDanger Incorporatedを買収した結果、Kin 電話回線を開始した。2010年 5 月 14 日に電話が利用可能になったが、販売不振のため 2 か月以内に廃止された。
2011 年 5 月 10 日、同社はSkype Technologiesを 85 億米ドルで買収しました。同社は2月21日、従来までは守秘義務契約を結ばないと情報提供していなかったWindows VistaやWindows Server 2008などの主力製品のAPIやプロトコルの公開を原則無料とした[16]。
この節の加筆が望まれています。
脚注
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注釈
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^ 当初マイクロソフトは25,000ドルで非独占的ライセンスを購入した。その後50,000ドルを追加して全ての権利を買い取ったが、後にSCPと訴訟沙汰となり、結局マイクロソフトはSCPに和解金として92.5万ドルを支払っている(『帝王の誕生』、400頁)。
出典
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^ a b c NHKスペシャル『新・電子立国』第1巻「ソフトウェア帝国の誕生」(相田洋著、日本放送出版協会、1996年)pp.120 - 123
^ ポール・アレン『僕とビル・ゲイツとマイクロソフト』講談社、2013年、125頁。
^ 『僕とビル・ゲイツとマイクロソフト』、133頁。
^ 『僕とビル・ゲイツとマイクロソフト』、141頁。
^ 『僕とビル・ゲイツとマイクロソフト』、148頁。
^ メインズ&アンドリュー『帝王の誕生』三田出版会、1995年、124頁。
^ 『帝王の誕生』、135頁。
^ 『帝王の誕生』、109頁。
^ 『帝王の誕生』、115頁。
^ 『僕とビル・ゲイツとマイクロソフト』、147頁。
^ 『帝王の誕生』、149頁。
^ Seattle Post-Intelligencer Staff (2005年5月18日). “Redmond council OKs Microsoft expansion”. Seattle Post-Intelligencer 2006年7月4日閲覧。
^ マイクロソフト (2008年2月22日). “マイクロソフト、相互運用性の強化に向けたテクノロジ プラクティスとビジネス プラクティスの変更を発表”. 2008年10月16日閲覧。
外部リンク
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新・電子立国
言語を追加
『新・電子立国』(しんでんしりっこく)は、1995年10月から1996年6月にかけてNHKスペシャル枠で放送されたドキュメンタリー番組。全9回。
概要
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1980年代までの日米半導体史を描いた「電子立国日本の自叙伝」の事実上の続編として企画され、前作が主にハードウェアの発達・開発を描いたのに対し、本作ではソフトウェアを主眼に置き、マイクロソフトの設立からMS-DOSの開発に至るまでの流れや、アタリ・任天堂・セガらによる家庭用ゲーム機を巡る市場での争い、一太郎・Lotus 1-2-3などのビジネスソフトの開発秘話などが描かれた。
また時代の流れを反映して、第1回では封切直後の映画『アポロ13』の映像を製作した米デジタル・ドメイン社に取材してSFX処理の様子を紹介し、第2回では組み込みコンピュータの開発、第3回ではパチンコとコンピュータの関わりを取り上げ、そして、最終回では、当時一般に普及し始めたばかりのインターネットやWorld Wide Web、PGPなどを紹介するなど、幅広い視点からコンピュータ・ソフトウェアやコンピュータ応用技術を捉えて紹介している。 また、やや特異と思える内容も含まれ、視聴者の興味を引く構成を採っている。
インタビューにはビル・ゲイツ、ポール・アレン、アラン・ケイ、スティーブ・ウォズニアック、ティム・パターソン、ジム・クラーク、ゲイリー・キルドールなど、ソフトウエア史を語る上で重要な人物が数多く登場している。中でもゲイリー・キルドールへのインタビューはキルドールが急死する2日前に撮られたという非常に貴重なものとなっている。一方でマーク・アンドリーセンへのインタビューのチャンスがありながらそれを逃したことや、スティーブ・ジョブズへのインタビューを申し入れたが断られたため過去の映像を使わざるを得なかったことなど、前作に劣らずインタビューには困難が多かったことを、ディレクターの相田洋が後に著書で明らかにしている。
番組構成
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放送回放送内容第1回驚異の画像~ハリウッドのデジタル技術~(1995年10月29日)
直近に公開された映画『アポロ13』の製作過程を取り上げ、コンピュータで精密な画像を作る様子、特殊撮影技術をコンピュータで処理する様子を紹介する。また米国のゲームメーカー・アクレイムのスタジオにおけるモーションキャプチャ技術を取り上げ、ディレクターの相田自らが実演したラジオ体操第1のモーションをキャプチャしてエイリアンでその動きを再現する模様も紹介する。
第2回マイコン・マシーン~ソフトウェアが機械を支配する~(1995年11月26日)
松下電器産業(後のパナソニック)における炊飯器用ソフトウェアの開発や、日産自動車・東芝らによる自動車用エンジンの電子制御システム(いわゆるエンジンコントロールユニット)の開発など、日頃使っている機器の中に組み込まれているソフトウェアの開発現場を紹介する。
第3回パチンコ~17兆円産業のシステム~(1995年12月24日)
パチンコの歴史を正村ゲージの時代から説き起こし、電子制御で動く現代のパチンコ機種の仕組みを説明すると共に、パチンコホールの建設から開店(タイホウバレファイブ(現タイホウグループ)TAIHO井ヶ谷店)を詳細に見ることでパチンコ・ホールの運営もコンピュータ・ソフトウェアに多くを依拠する様(いわゆるホールコンピュータなど)を紹介する。
第4回ビデオゲーム~巨富の攻防~(1996年1月21日)
ノーラン・ブッシュネルによるアタリの創業に始まり、Atari 2600の登場といわゆるアタリショックによる市場崩壊を紹介する。一方でドンキーコングによる任天堂の米国進出を経て、アタリショックの轍を踏まぬよう徹底したゲームソフトの品質管理と製品管理を行い、ゲーム用途に徹底的に特化したファミリーコンピュータの成功に至る流れを紹介する。またハドソンの創業に関わるエピソードや『スーパーボンバーマン3』の開発過程などを紹介する。
第5回ソフトウェア帝国の誕生~天才たちの光と影~(1996年2月25日)
ビル・ゲイツとポール・アレンによるAltair 8800用BASICの開発とマイクロソフトの創業から、IBM PCの誕生とそれに伴うMS-DOSの開発に至るまでの一連の流れを紹介する。また、アラン・ケイを中心にパロアルト研究所でAltoがつくられたが、ゼロックス経営陣がそれを製品化しようとせず、Appleのスティーブ・ジョブズらがアラン・ケイらを引き抜いて、LisaやMacintoshを開発、さらにマイクロソフトも同様にWindowsを開発していくGUIの流れを紹介する。
第6回時代を変えたパソコンソフト~表計算とワープロの開発物語~(1996年3月31日)
ダン・ブリックリンらがハーバード・ビジネス・スクールの授業中に「電子式表計算」の着想を得てApple II用に開発したVisiCalcを嚆矢として表計算ソフトが広まっていく様と、その中で最初の開発者が訴訟に巻き込まれて消耗する様も紹介する。一方で、浮川和宣らが率いるジャストシステムが一太郎を開発する経緯を辿ってワープロソフトや日本語変換機能の開発と普及の様子を紹介する。
第7回産業マシーン~コンピューター時代の世界商品~ (1996年4月28日)
刺繍用に使われる全自動ミシンをモチーフに、産業用ロボット等に組み込まれるソフトウェアの世界を紹介する。
第8回コンピュータ製鉄~驚異の巨大システム~(1996年5月26日)
新日本製鐵君津製鐵所を舞台に、広大な敷地に点在する事務所を気送管で結び伝票を交換する従来の事務システムを完全にコンピュータ通信に置き換えると共に製品の製造・管理をコンピュータ化するプロジェクトの進行を追い、鉄鉱石が最終製品である厚板・薄板等の形で出荷されるまでの間に関わる様々なコンピュータシステムがどの様に開発されたかを紹介する。直ちにプログラミングにかかるのではなく、対象となる業務を開発者全員で理解することが大事と紹介されている。
第9回コンピュータ地球網~インターネット時代の情報革命~(1996年6月30日)
当時一般に普及し始めたばかりのインターネット、特にティム・バーナーズ=リーが異なるコンピュータ上で共通に使える文書交換システムとして考案したWorld Wide Webの誕生からNCSA Mosaicの開発、さらにその主要メンバーがスピンアウトしてネットスケープコミュニケーションズを創業し成功を収めるまでの流れを紹介する。一方で、当初は秘密を考慮していなかったインターネットを実用に供するうえで業務上・個人の秘密を守る為の暗号ソフトとしてPGPが開発された経緯や、個人が秘密を持つことを快く思わない国家権力との対立の背景なども紹介する。
スタッフ
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語り:三宅民夫
声の出演:青二プロ
企画・編集:相田洋
撮影:玉造仁一、三宅貴
音声:影山進乙
映像技術:阿久津裕、久保木啓介
海外リサーチ:野口修司
美術:田中伸和、藤田惣一郎
コーディネーター:番地章(1.9回)
取材・構成:大墻敦、荒井岳夫、矢吹寿秀
制作統括:山本修平
エンディングテーマ
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Simple Gifts
作曲 Dan Siegel
演奏 Network Music Ensemble
アルバム "Corporate Motivation" (CD NM100,1991収録)
関連資料
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NHK出版より単行本(全6巻+別巻1巻、ISBN 4140802715 など)が発売されている。
相田洋、大墻敦『ソフトウェア帝国の誕生』 1巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1996年。ISBN 4140802715。OCLC 676256103。
相田洋、荒井岳夫『マイコン・マシーンの時代』 2巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1997年。ISBN 4140802723。OCLC 4140802731。
相田洋、大墻敦『世界を変えた実用ソフト』 3巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1996年。ISBN 4140802731。OCLC 676269298。
相田洋、大墻敦『ビデオゲーム・巨富の攻防』 4巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1997年。ISBN 414080274X。OCLC 676260672。
相田洋、大墻敦『驚異の巨大システム』 5巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1997年。ISBN 4140802758。OCLC 674539975。
相田洋、矢吹寿秀『コンピュータ地球網』 6巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1997年。ISBN 4140802960。OCLC 675076623。
相田洋、赤木昭夫『ソフトウェア・ビジネス』 別巻、日本放送出版協会〈NHKスペシャル 新・電子立国〉、1997年。ISBN 4140803339。OCLC 676395038。
なお、映像ソフトは発売されておらず、NHKアーカイブスにおいては第3回と第8回のみ視聴できる。
外部リンク
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ITゼネコン
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ITゼネコンとは、建設業界のゼネコンと同じように、情報処理産業において官公需を寡占する大手のシステムインテグレーター(SIer)のこと。またはそれらが形成する多重の下請け構造のことである[1]。
概説
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ゼネコンとは、元請負者として工事を一式で発注者から直接請負い、工事全体のとりまとめを行う建設業者を指す。現在の日本では、建設業界と同様に、IT業界においても元請け、下請け、孫受けの多重構造が形成されている[1]。
NTT系列や国内大手ITベンダー(日立、NEC、富士通)の三社、外資系ITベンダー(IBM、HP、Oracleなど)系列のSIerが大手の顧客を囲い込み、インフラ構築からコンピュータ機器の設置、納入後の運用メンテナンスに至るまでを一括受注して利益を得ており、実際のプログラミングやテスト作業を中小のSIerに丸投げしている状態となっている[2]。このようなIT業界の構造を揶揄して、「ITゼネコン」という用語が批判的文脈で使用されるケースが近年多くなってきている(なお、下請けのプログラマは「デジタル土方」という言葉で揶揄されている)。また、システムの規模の計算は、人数と日数の掛け算の「人月計算」という単純な方法で金額が決められて発注が行われるため、この点においても建設業界のゼネコンの構造と類似している。
そして何より、官公需の独占がある。経済産業研究所の報告書によると[3]、平成13年度の政府調達において、NTTグループで全体のシェアの4割、ITゼネコン大手4グループ(NTTグループ、日立グループ、NECグループ、富士通グループのいわゆる「旧電電ファミリー企業」[4])で6割、ITゼネコン大手10グループで8割を受注している。政府調達は巨額であり、市場規模は中央官庁と地方自治体を合わせて約2.2兆円にのぼる。これは日本のIT産業の約2割のシェアを占める。
スキャンダル
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1997年(平成9年) - オウム真理教の関連会社が、日本国政府機関や大企業が絡むコンピューターシステムのソフト開発業務を受注していたオウム真理教ソフト開発業務受注問題が発覚した。
2001年(平成13年) - 公正取引委員会はNTTデータ、日本IBM、日本ユニシス、松下通信工業に対して、超安値落札が不当廉売(独占禁止法第19条6項)に当たる恐れがあるとの注意を行った[6]。NTTデータは当初予算5億5210万円のシステムを1万円で落札したとされる。
2002年(平成14年) - 公正取引委員会はNTTデータ、日立、富士通に対して超安値落札が不当廉売(独占禁止法第19条6項)に当たる恐れがあるとの警告を行った[7][8][9]。
2007年(平成19年) - 年金記録問題が発覚。1967年度以来、1兆4000億円を費やしたシステム運用にかかる不備、システム化される以前の記録管理の杜撰さが顕在化された。NTTデータは1兆632億円、日立は3558億円を売り上げる一方で、15人の天下りを受け入れていた[10]。
ITゼネコン登場の背景
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通常、大手企業や官公庁の仕事を受注するには経営規模が大きい方が有利である。中小のSIerが直接受注したとしても、開発リソース等の面で要求に応えきれない[11]。また万が一システム開発に失敗し多額の損害賠償を求められた場合に、資金的なリスクを負担しきれない。例えばスルガ銀行が日本IBMに対し、システム開発失敗に伴う損害賠償として111億7000万円の支払を求める訴訟を起こした[12]。
このような問題に対しジョイントベンチャーなどで対応できる。マルチベンダー開発ともいわれるが、
ベンダー同士による連携コストが高い
機能で切り分けても共通処理・非機能要件・想定外な部分であいまいになりマネジメントしづらい
問題発生時に責任の所在が不明になりやすい
など問題もあり発注者の負担も大きくなる。結果、システム構築でマネジメント力のない発注者は大規模開発ができる大手ITベンダーに発注する流れとなっている。
技術的な問題として、各社独自の設計様式がある。メインフレームの時代、大手コンピュータメーカーの提供する大型コンピュータの仕様は非公開であり、他のメーカーは保守や改修に関わりづらかった。そのため、1つのSIerが受注した後は、同じSIerに対して費用を払い続けるという構造が成立していた[13]。その後、オープンシステムが普及し、異なるSIerがシステムの保守・運用に途中から参入することが容易になると期待された。しかしオープンシステムでも既に完成したプログラムの内部仕様を開発元以外のSIerが把握することは難しかった。技術的には、昔から出入りしていた企業の既得権益は守られやすいのである(ベンダロックイン)。
最大の要因は、政府調達制度が単年度会計原則であるため、「初年度安値落札・次年度以降随意契約ビジネスモデル」が一般的となり、次年度以降の高額な随意契約を暗黙の前提として、初年度は極端な安値落札を行うというビジネスモデルが慣習化していることである。1円入札が行われる場合すらある。このようなルールの下では、役所の仕組みに精通し、初年度の赤字に耐える経営体力のある大企業が圧倒的に有利で、中小企業の新規参入は難しい。
天下りの問題がある。ITゼネコンは官僚の天下りを受け入れたことで、官公庁との太いパイプを維持してきた。例えばNTTデータやその関連会社は、厚生労働省や社会保険庁の官僚を受け入れた一方で[14]、契約見直しの最中であったこと等から正式な利用契約の締結まで至っておらず、年間1000億円、累計1兆円もの取引を行っていたことが[15][16]、年金記録問題で明らかになった。天下りによる癒着で随意契約すら形骸化しており、天下りを受け入れていない中小のSIerの参入機会は皆無なのである。現在は各業者も見直しを行っており、天下りの受け入れは減っている。
このようにして、旧電電ファミリー企業のように昔から役所に出入りしていた大企業が利幅の大きな公共事業を押さえて、ITゼネコン化していった。
ITゼネコンの弊害
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ITゼネコンは高コストと長い開発期間によって、無駄な公共事業の元凶になっている。経済産業研究所の報告書はこれを裏付けている。また池田信夫は地球シミュレータを例に挙げて、ITゼネコンによる税金と人材の浪費を批判している[17]。この構造が非効率的でデジタル化の進展を妨げる原因であると主張されている[18]。
日本のSler業界は、古色蒼然とした業界である。情報通信白書によると[19]、売上高が80億ドル(約1兆円)を超える日本の主要ICTベンダーは、大半が1950年代以前に設立されており、1960年代以降に設立されたのはNTTから分社化した、NTTデータのみである。経済産業研究所の報告書でも、政府調達に中小企業が参入できない現状が指摘されている。
Sler業界で働く大半が指示された単純な仕事をこなすだけとなり、高度な技能を有する人材が不足する原因ともされる[1]。ソフトウェア技術者でライターでもある中島聡は自らのブログで、上流のエンジニアが設計し下流のエンジニアがコーディングするという建築業界のような下請け構造が日本のソフトウェアの国際競争力を失わせたのではないかと指摘し、批判している[20]。
政府調達制度の改革
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2001年(平成13年)12月 - 情報システムに係る政府調達府省連絡会議の設置。
2002年(平成14年)3月 - 「情報システムに係る政府調達制度の見直しについて」を策定[23]。
2007年(平成19年)3月 - 「情報システムに係る政府調達の基本指針」を決定[24]。
脚注
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[脚注の使い方]
^ a b c “私はロボット? IT人材が育たぬ国、背景に「ゼネコン体質」:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年10月29日閲覧。
^ 第23回 「ITゼネコン構造」の日本と専門職意識のインド、どちらがよい? ビジネス-竹田孝治のインドIT見聞録:IT-PLUS
^ 電気通信関係の発注で一大発注者であった電電公社(NTTの前身)の機器やメンテナンスを受注していた諸企業群を「電電ファミリー」と呼ぶ[1]。
^ 佐高信『戦後企業事件史』 ISBN 978-4-06-149191-5
^ 「社保庁システム、総額1兆4千億円 委託先に幹部天下り」 朝日新聞2007年06月14日
^ “ITゼネコンとは?下請け構造から見える課題を現場視点で解説!”. IT転職・SE転職を徹底支援するIT業界の歩き方. 2020年7月29日閲覧。
^ なお、NTTデータは契約はあったと反論している。社会保険オンラインシステムに関する一部報道について 2007年06月29日
^ “日本企業のIT化はなぜ進まないのか――日本特有のSI構造とエンタープライズITの在り方から探ってみると | データで越境者に寄り添うメディア データのじかん”. data.wingarc.com. 2024年9月20日閲覧。
^ “Life is beautiful: ソフトウェアの仕様書は料理のレシピに似ている”. 2022年8月23日閲覧。
^ “IT人材会社、技術者経歴を偽装か 「全部ウソ」証言も:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル (2020年8月28日). 2024年4月19日閲覧。
^ author (2023年4月11日). “経歴詐称をするSES企業・IT派遣会社の特徴4選|エンジニア派遣やフリーランスも要注意”. Parame Magazine. 2024年4月19日閲覧。
関連項目
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