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ズビグネフ・ブレジンスキー


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ズビグネフ・カジミエシュ・ブレジンスキー

Zbigniew Kazimierz Brzeziński

生誕1928年3月28日

ポーランド ワルシャワ死没2017年5月26日(89歳没)

アメリカ合衆国 バージニア州 フォールズチャーチ職業政治学者
アメリカ合衆国国家安全保障問題担当大統領補佐官配偶者Emilie Benes Brzezinskiテンプレートを表示

ズビグネフ・カジミエシュ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski または Brzeziński [ˈzbɪɡnjɛv brəˈʒɪnski][1], 1928年3月28日 - 2017年5月26日[2])は、アメリカ在住の政治学者1966年から1968年まで、リンドン・ジョンソン大統領の大統領顧問を務め、1977年から1981年までカーター政権時の第10代国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたことで知られる[3]ポーランド出身、カナダ育ち。1958年にアメリカ市民権を取得。

ポーランド貴族だったブレジンスキー家の高貴な血筋を受け継いでおり、ポーランドに生まれ外交官だった父親に伴われてベルリンアドルフ・ヒトラーの台頭を目撃し、その後父親のモスクワ赴任に伴いヨシフ・スターリン大粛清を経験。1938年のカナダ赴任によりカナダで育ち、最終的にアメリカに定住することとなった。ブレジンスキーは祖国ポーランドがドイツ侵略されただけでなく、第二次世界大戦後はソ連体制下に置かれていることから、ソ連を心底憎悪しており、何としてもソ連を打倒したいという強烈な意志に燃えていたという。1988年から1997年にはNED全米民主主義基金)理事を務めており、ベルリンの壁崩壊ソ連崩壊などにも関与していたとされる[4]

経歴

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生い立ち

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ポーランドワルシャワに「ズビグニェフ・カジミェシュ・ブジェジンスキ(Zbigniew Kazimierz Brzeziński [ˈzbʲiɡɲɛf kaˈʑimʲɛʂ bʐɛˈʑiɲskʲi] (

音声ファイル))」として生まれる。ブジェジンスキ家は、現在はウクライナ領となっているブジェジャヌィBrzeżany)を故地とし、3つのホルンをあしらった「トロンビィ」紋章を持つポーランドの名門シュラフタ

外交官だったタデウシュ・ブジェジンスキは1931年から1935年までベルリンに赴任、ズビグニェフも父と共にドイツで過ごし、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党の台頭とその強引な政治手法を目撃した[4]

カナダへ

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その後タデウシュは一家とともにモスクワに赴任。当時のソビエト連邦ではヨシフ・スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れており、ズビグニェフはまたもや独裁者による恐怖政治を目撃することとなった[4]

その後父タデウシュは1938年にカナダへ赴任することになり、一家もカナダに移住、1939年にドイツがポーランドに侵攻したため、一家はポーランドに帰国できなくなった。第二次世界大戦後共産主義者によって祖国ポーランドが支配されたため帰国が実現することはなかった。

コロンビア大学教授

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カナダで成長したブレジンスキーは、マギル大学で学部と大学院修士課程を修了し、ハーバード大学大学院に進学する。ハーバード大学大学院では同じく欧州からの移住者であった政治学者カール・フリードリッヒに師事し、1953年に博士号を取得する。さらにのちに駐日大使となる日本生まれの東洋史研究者のエドウィン・O・ライシャワーにも学んだ。学位取得後はハーバード大学で教鞭をとったが、テニュア(終身雇用)を得ることができなかったことからコロンビア大学に移り、同学の教授(1960年~1989年)として共産主義圏の政治外交研究を行なう。

ブレジンスキーは1950年代より、ソ連の政治体制を、1) 全体主義イデオロギーの支持、2) 一党独裁、3) 秘密警察組織の浸透、4) マス・コミュニケーション手段の体制による支配、5) 武力の体制による独占、6) 中央集権的統制経済などの特徴を有する「全体主義体制」の一つであり、従来の独裁や権威主義体制とは異なるものと位置づけた。1940年代まで、全体主義という概念はナチス党政権下のドイツやファシスト政権下のイタリアを論じるために用いられる一方、ソ連研究には用いられていなかった概念であり、ブレジンスキーの研究は同時代に発表されたハンナ・アーレントの『全体主義の起源』などと呼応する形で、これらの体制間の比較研究に地平を開くこととなった。

また、1971年には日本に半年間在住した後に、急速な経済発展を遂げた日本が政治外交領域ではいまだに独立した行動をとる力を持っていない「ひよわな花」であると論じ、日本で大きな注目を浴びた。冷戦後に発表した『ブレジンスキーの世界はこう動く』[5]でも、日本に対する基本的な見方は継承されている。

研究の一方、1960年の大統領選挙以降、歴代大統領選で民主党候補者陣営の外交問題顧問に加わる、日米欧三極委員会の創設に携わるなど、実務面でも力を発揮した。この面では共和党と深い関係を持っていたヘンリー・キッシンジャーと並び称されることが多い。

カーター大統領補佐官

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1976年の大統領選においてカーターの外交政策アドバイザーを務め、カーター政権発足後に国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任。反共主義者ながら、一方で中華人民共和国との米中国交正常化に取り組み[6]、後にG2論者[7][8][9] にもなってることから親中派であったとされる。

ハト派の多い民主党の中では異色のタカ派リベラルホーク)でもあり、ソ連のアフガニスタン侵攻に対するムジャヒディンの支援やペルシャ湾をアメリカの権益と見做して中東への軍事介入も掲げたカーター・ドクトリン英語版)を策定した[10]。政権内ではサイラス・ヴァンス国務長官と外交政策を巡って対立することが多く、ヴァンスは中華人民共和国との会談の場でも疎外されるようになり、1979年のイランアメリカ大使館人質事件の対応をめぐって対立は決定的になった。結局、カーターの信任を勝ち取ったのはブレジンスキーで、ヴァンスは政権から追い出されるかたちで1980年に辞任することになった。

後任の国務長官には、故郷ポーランドからの移民の子であるエドマンド・マスキー上院議員を支持する。後にはマスキーを民主党大統領候補に推している。

さらに、レフ・ヴァウェンサをリーダーに、ソ連による支配に対抗したポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を積極的に支持し、ポーランド出身だった当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも密に連絡を取り合っていたため、事実上1989年の東欧革命の最大の黒幕ともいわれている[4]

辞任後

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カーター政権退陣後も現実政治との密接なかかわりを持ち、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)の教授を務める傍ら、戦略国際問題研究所顧問として「チェチェンに平和をアメリカ委員会」の共同代表を務めた。いわゆるネオコンとは連絡を取り合いながらも一線を画していた。

1990年代の雑誌インタビューで、日本は民主主義と人権尊重を推進することで世界の安定と国際協調を目指す方が、防衛力を増強したりPKOに参加することよりも好ましいとも、日本が経済以外の分野でアメリカと肩を並べるような超大国となることはない、とも述べている[11]

著書『The Choice』(2004年)の中で「アメリカのWASPの優位は既に完全に崩れ、WASP勢力に代わって、アメリカで支配的な勢力になったのはユダヤ人勢力である」と述べている。

2008年の大統領選で当選する民主党候補バラク・オバマ陣営の外交顧問を務めるなど、現代アメリカ政治に隠然たる力を及ぼしていた。2013年にはシリア内戦に対するアメリカの武力介入への反対を表明しており[12]、オバマ政権は結局シリアへの攻撃を諦めた。

晩年

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2016年には民間人としては最高栄誉の、アメリカ国防総省公共サービス栄誉賞を受賞した[13]。2017年5月26日に、バージニア州の病院において89歳で死去したと報道された[13][14][15]。米外交界の重鎮として知られ[16]、その実績から、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官と並ぶ戦略思想家だったとする評価もされている[14]

日本の番組出演

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1990年2月、NHKの特別番組『90年代ソビエトはどうなる』に出演する。同番組は米ソ両国の要人が偶然にも日本に滞在していることを知ったNHKが企画した特別番組で、ブレジンスキーはゴルバチョフ側近として知られたソ連外務省情報局長ゲンナージー・ゲラシーモフロシア語版英語版)と対談を行なった[17]

家族

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MSNBC朝の報道番組の生放送本番で、収監されていたパリス・ヒルトンの仮釈放に関するニュース原稿を「こんなニュースは読む価値が無い」と拒否したうえ、ライターで燃やそうとして止められ、最終的には破り捨てたうえシュレッダーにかけたことで話題となったニュースキャスター。同番組には時折ズビグネフも解説者として登場し、娘を逆に困らせたりしている。

外交専門家。弁護士ダートマス大学を卒業後、イギリスオックスフォード大学政治学博士号を取得。ビル・クリントン政権でアメリカ国家安全保障会議ロシアユーラシア局長。バラク・オバマの外交政策顧問、アメリカ合衆国駐スウェーデン大使、2022年1月よりアメリカ合衆国駐ポーランド大使。現在、McGuireWoods英語版)のパートナー

著書

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単著

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  • The Permanent Purge: Politics in Soviet Totalitarianism, (Harvard University Press, 1956).

皆藤幸蔵訳『ソヴェト全体主義と粛清』(時事通信社, 1957年)

  • The Soviet Bloc: Unity and Conflict, (Harvard University Press, 1960).

山口房雄訳『ソビエト・ブロック――その統一と対立の歴史』(弘文堂, 1964年)

  • Ideology and Power in Soviet Politics, (Praeger, 1962).

  • Alternative to Partition: for a Broader Conception of America's Role in Europe, (McGraw-Hill, 1965).

  • Peaceful Engagement in Europe's Future, (School of International Affairs, Columbia University, 1965).

  • Between Two Ages: America's Role in the Technetronic Era, (Viking Press, 1970).

直井武夫訳『テクネトロニック・エージ――21世紀の国際政治』(読売新聞社, 1972年)

  • International Politics in the Technetronic Era, (Sophia University, 1971).

  • The Fragile Blossom: Crisis and Change in Japan, (Harper and Row, 1972).

大朏人一訳『ひよわな花・日本――日本大国論批判』(サイマル出版会, 1972年)

  • Power and Principle: Memoirs of the National Security Adviser 1977-1981, ( Weidenfeld and Nicolson, 1983).

  • Game Plan: A Geostrategic Framework for the Conduct of the U.S.-Soviet Contest, (Atlantic Monthly Press, 1986).

鈴木康雄訳『ゲーム・プラン――核戦略時代の米ソ対決理論』(サイマル出版会, 1988年)

  • In Quest of National Security, (Westview Press, 1988).

  • The Grand Failure: the Birth and Death of Communism in the Twentieth Century, (Scribner, 1989).

伊藤憲一訳『大いなる失敗――20世紀における共産主義の誕生と終焉』(飛鳥新社, 1989年)

  • Out of Control: Global Turmoil on the Eve of the Twenty-first Century, (Scribner, 1993).

鈴木主税訳『アウト・オブ・コントロール――世界は混乱へ向かう!』(草思社, 1994年)

  • The Grand Chessboard: American Primacy and its Geostrategic Imperatives, (BasicBooks, 1997).

山岡洋一訳『ブレジンスキーの世界はこう動く――21世紀の地政戦略ゲーム』日本経済新聞社, 1998年)

改題『地政学で世界を読む――21世紀のユーラシア覇権ゲーム』(日経ビジネス人文庫, 2003年)

  • The Choice: Global Domination or Global Leadership, (Basic Books, 2004).

堀内一郎訳『孤独な帝国アメリカ――世界の支配者か、リーダーか』(朝日新聞社, 2005年)

  • Second Chance: Three Presidents and the Crisis of American Superpower, (Basic Books, 2007).

峯村利哉訳『ブッシュが壊したアメリカ――2008年民主党大統領誕生でアメリカは巻き返す』(徳間書店, 2007年)

  • Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power, (Basic Books, 2012).

共著

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  • Totalitarian Dictatorship and Autocracy, with Carl J. Friedrich, (Harvard University Press, 1956).

  • Political Power: USA/USSR, with Samuel P. Huntington, (Viking Press, 1964).

  • Democracy Must Work: A Trilateral Agenda for the Decade, with David Owen, Saburo Okita, Michael Stewart and Carol Hansen, (New York University Press, 1984).

  • America and the World: Conversations on the Future of American Foreign Policy, with Brent Scowcroft and David Ignatius, (Basic Books, 2009).

  • 2014: Loss of Order, with George Soros, (Project Syndicate, 2015).

編著

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  • Africa and the Communist World, (Stanford University Press, 1963).

  • Dilemmas of Change in Soviet Politics, (Columbia University Press, 1969).

  • Promise or Peril, the Strategic Defense Initiative: Thirty-Five Essays by Statesmen, Scholars, and Strategic Analysts, (Ethics and Public Policy Center, 1986).

共編著

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  • Russia and the Commonwealth of Independent States: Documents, Data, and Analysis, co-edited with Paige Sullivan, (M. E. Sharpe, 1997).

脚注

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  1. ^Pronounce – Browse all names for U.S.”. VOA News. May 29, 2017閲覧。

  2. ^元米大統領補佐官、ブレジンスキー氏死去”. 共同通信. 2017年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年5月27日閲覧。

  3. ^CSIS Mourns the Loss of Zbigniew Brzezinski”. CSIS (2016年5月26日). 2017年5月30日閲覧。

  4. ^ a b c d遂につかんだ! ベルリンの壁崩壊もソ連崩壊も、背後にNED(全米民主主義基金)が!”. Yahoo!ニュース (2023年8月21日). 2023年10月10日閲覧。

  5. ^ ズビグニュー ブレジンスキー 著、山岡洋一 訳『ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム』日本経済新聞社、1997年、294頁。ISBN 4532146313

  6. ^ブレジンスキー元補佐官死去=米外交の大御所、89歳”. 時事ドットコム. 時事通信社 (2017年5月27日). 2017年11月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年11月14日閲覧。

  7. ^Asia Times Online :: China News, China Business News, Taiwan and Hong Kong News and Business”. Atimes.com (2009年5月29日). 2017年12月4日閲覧。

  8. ^ Wong, Edward (2009年1月2日). “Former Carter adviser calls for a 'G-2' between U.S. and China”. The New York Times2017年12月4日閲覧。

  9. ^/ Comment / Opinion - The Group of Two that could change the world”. Ft.com (2009年1月13日). 2017年12月4日閲覧。

  10. ^ Brzezinski, Zbigniew. Power and Principle: Memoirs of the National Security Adviser, 1977-1981. New York: Farrar, Straus, Giroux, 1983. ISBN 0-374-23663-1. pg. 444.

  11. ^ “日本が経済以外の分野で超大国になることはない”. ニューズウィーク日本版(1992年1月16日号). TBSブリタニカ. (1992-1-16). p. 14.

  12. ^Бжезинский: провокация Катара и Саудовской Аравии”. newsland.comロシア語版)(2013年6月28日). 2013年8月12日閲覧。

  13. ^ a b Nicole Chavez (2017年5月27日). “Zbigniew Brzezinski, Jimmy Carter's national security adviser, dies at 89”. CNN. 2017年5月27日閲覧。

  14. ^ a bブレジンスキー元大統領補佐官が死去 89歳”. 朝日新聞 (2017年5月27日). 2017年5月27日閲覧。

  15. ^ブレジンスキー元補佐官が死去 米外交重鎮、89歳”. 東京新聞 (2017年5月27日). 2017年5月27日閲覧。

  16. ^ブレジンスキー氏が死去 米外交界の重鎮、元大統領補佐官: 日本経済新聞”. 日本経済新聞 (2017年5月27日). 2019年11月19日閲覧。

  17. ^90年代ソビエトはどうなる「ブレジンスキーVSゲラシモフ」”. NHKオンライン (1990年2月26日). 2019年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年4月16日閲覧。

関連項目

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アーマンド・ハマー

21の言語版

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アーマンド・ハマー
Armand Hammer

1982年

生誕1898年5月21日

アメリカ合衆国 
ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区死没1990年12月10日(92歳没)

アメリカ合衆国 
ニューヨーク州ニューヨーク市職業オクシデンタル・ペトロリウム会長配偶者ありテンプレートを表示

アーマンド・ハマーArmand Hammer1898年5月21日[1] - 1990年12月10日)はアメリカ大富豪で1957年から晩年まで石油会社オクシデンタルを経営し[2]美術品収集家、社会事業家、親ロシアの財界人である。ドクター・ハマーの愛称で知られた。

略歴

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ドクター・ハマー

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ニューヨーク州マンハッタンロシアユダヤ人の家に生まれ、父ジュリアス・ハマーは熱烈な共産主義者で、アメリカ共産党の元となった社会主義労働党 (SLP) の創設者である[3]1924年コロンビア大学医学部を卒業し、医師の資格を持つことから、以降「ドクター・ハマー」と呼ばれるようになる。

伝記作家の Carl Blumay (長年のハマーの元広報担当) によると「アーマンド・ハマー」Armand Hammer の命名の由来は、アメリカ共産党の象徴である腕とハンマー(arm and ……)であるという。ハマー自身は自伝で、父ジュリアスがアレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』の主人公の恋人アルマン・デュヴァル (Armand Duval) の名を自分につけたと述べている。

重曹のブランドArm and Hammer baking soda とは名前が非常によく似ていて、ブランドロゴもハンマーを握った腕であるが、実際には全くの偶然である。ハマーはそのブランド名を意識しており、1980年代にブランドを所有するチャーチ・アンド・ドワイト Church and Dwight の買収に乗り出し、かなりの比率の株を取得して取締役会に席を得た。

赤い資本家

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大学卒業後にハマーは医学の道に進まず、父親のつてで当時ロシア革命により成立したばかりのソビエト連邦医薬品の輸出から貿易ビジネスを起業し、1920年代には旧ソビエト連邦に移り住む。

やがて父親からの紹介を受けて知り合ったソ連の指導者であるウラジーミル・レーニンの信頼を得て、アメリカやカナダとソ連との貿易を一手に担うことになった。安価な鉛筆の生産事業とソ連対外輸出が大きなビジネスに発展すると、ソ連へのフォード車の輸出、トラクター組み立て工場の建設、穀物類のアメリカ向け輸出を一手に引き受けることとなる。

しかし1924年にレーニンが死んだ後、混乱するソ連との商売と貿易を縮小せざるを得ず、特に1930年代以降はヨシフ・スターリン政権下のソ連において粛清の嵐が吹きあふれる中、第二次世界大戦を経てスターリン死後の冷戦初期までは中断せねばならなくなった。

しかし1953年のスターリンの死後はソ連との貿易を回復し、冷戦時にタブー視されたアメリカの対ソ連貿易の中心的な存在となる。共産主義のシンボル的な存在であるレーニンの信頼を得た人物として、ソ連の影響下にある周辺衛星国などの、いわゆる東側諸国の指導者の信頼も受け、これらの国との貿易ビジネスも積極的に行い多大な収益を上げた。

他にも酒造業や美術品の売買から、石油 (後述) や原子力発電などのエネルギー産業に至るまで、様々な分野にその事業を広げることとなった。アメリカと共産圏の国々との国交改善を議会へ働きかけ、1982年には中ソ対立で進出が遅れた中華人民共和国鄧小平とも会談し経済協力を話し合った[4]

石油事業

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オクシデンタル・ペトロリウム」(略称「オクシー」OXY)は独立系石油会社で、規模は「石油メジャー」と呼ばれる7大石油会社に次ぎ原油とガスの採掘も手がける。

ハマーはソ連から帰国後、貿易で得た莫大な資産を元に、1957年にこの会社の経営権を握ると、イランモハンマド・レザー・パフラヴィー国王やリビアイドリース1世国王との深い関係を元にして石油開発、取引を行ったほか、北海油田の開発などで莫大な資産を得て、同社を世界第8位の石油会社に成長させた。

1974年、ハマーはリビアとの35年間の石油探査契約を発表したが、これは1969年9月にリビアのムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)大佐が権力して掌握以来初めてリビアが署名した協定であった[5]。ちなみに、その後リビアとアメリカは断交し、リビアにあった同社の資産はすべて接収・国有化され大打撃を受けた。アメリカは経済制裁を発動し渡航禁止措置を行ったが、2004年にアメリカ政府による渡航禁止措置が解除され、2005年1月に行われたリビアの石油・ガス権益入札でオクシデンタルとサウジアラビア系企業の連合がその多くを制し、リビアの石油・ガス権益への本格的な復帰を行うことになった。

政界とのつながり

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共和党の熱心な支持者としても知られ、リチャード・ニクソンからロナルド・レーガンまでアメリカの指導者と個人的な友好を結び、デタントの陰の立役者になった反面、ソ連で政治キャンペーンにハマーの名前が利用されると、かねてから外交問題で発言していたことから国益に反する政商ではないかと反ソ連派閥に追及される。やはり親密な関係にあったアルバート・ゴア・シニアが落選により民主党上院議員を退いてオキシデンタルの顧問弁護士に就いたときは、やはり激しい批判にさらされた。

政治献金5万4,000アメリカドルの一部が不正であったとして立件され、3000ドルの罰金と保護観察処分の有罪判決[6]が出た際も、当時大統領であったジョージ・H・W・ブッシュから恩赦が与えられる[7]など、その影響力をビジネスだけでなく政治外交にもふんだんに発揮した。

教育・研究事業

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ハマーには社会事業家の側面があり、教育、医療、芸術を支援した。手掛けた教育事業として、Armand Hammer United World College of the American Westを開学、現在のUWCアメリカ校である。

医療方面ではチェルノブイリ原子力発電所事故で救助活動に参加したロバート・ゲイル英語版)博士はArmand Hammer Center for Advanced Studies in Nuclear Energy and Healthの所長を務め(1986年-1993年)、福島第一原子力発電所事故の救援にも加わっている。

ハマーの外交感覚は個人と個人のつながりを重視すると地政学的な緊張関係を解決できるという「ヴィクトリア朝」的な信念があった。冷戦下の1980年代半ばまでハマーは身をもって信念の正しさを示そうとして、この世にレーニンとレーガンの両者と知り合いだった人物は自分をおいていないと、たびたび公の場で述べている。

死去

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90歳を超えても自家用ジェット機ガルフストリーム IIIで世界中を飛び回り、様々なビジネスに関わる多忙な日々を送っていた。東西冷戦終結後の1990年12月10日に92歳で死去した。

賞歴

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豊かな篤志家として、また外交手腕は世界で広く知られ、その一生のうちにその功績を多くの国に認められている。なお、生前熱望していたノーベル平和賞に関してであるが、1988年に候補者として発表される。その年はダライ・ラマに授与される。彼はその後、候補に挙がっていない。

その他

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小惑星(3376) Armandhammerはアーマンド・ハマーにちなんで命名された[8]

コレクターとして

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美術品収集家として印象派とポスト印象派絵画のコレクションも世界的に知られており[9][10]、1920年代にソ連との貿易をしていたころより本格的に収集を始め(商売の対価として美術品を得ることも多かった)、主にロマノフ王朝時代のロシアをはじめとするヨーロッパの絵画や彫刻などを収集する。

その傍ら、1930年代にはニューヨーク州マンハッタンに画廊をオープンするなど、趣味と実益を兼ねたビジネスを行っていた。また、後にオクシデンタル・ペトロリウムの本社があるカリフォルニア州ロサンゼルスハマー美術館英語版)を設立、主要な収蔵品を寄付してコレクションを拡充し、やがてUCLAに寄進している。

一時期はレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の1つ「レスター手稿」を所有しており、『ハマー手稿』と改名した。死後は美術館で管理されていたが、相続人が起こした訴訟によって美術館に資金不足が生じ売却された。購入したのはビル・ゲイツである。

著書

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  • アーマンド・ハマー『ドクター・ハマー 私はなぜ米ソ首脳を動かすのか』、広瀬隆訳、ダイヤモンド社 1987年

  • Edward Jay Epstein, Armand Hammer 『Dossier: The Secret History of Armand Hammer』 Random House Inc 1996年

評伝

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  • 寺谷弘壬『ドクター・ハマーが動いた!』 ベストセラーズ、1988年

脚注

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出典

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  1. ^ Armand Hammer, The Untold Story by Steve Weinberg, p. 16

  2. ^History of Occidental Petroleum Corporation”. FundingUniverse. 31 August 2014閲覧。

  3. ^ Epstein, Edward Jay (1996) (English). Dossier: the secret history of Armand Hammer. London: Orion Business Books. p. 35. ISBN 9780752813868. OCLC 850729056

  4. ^ OCCIDENTAL OIL GETS CHINA MINE CONTRACT - NYTimes.com

  5. ^ “Occidental-Libya Exploration Pact Set” (英語). The New York Times. (February 8, 1974). ISSN 0362-4331. オリジナルのOctober 11, 2022時点におけるアーカイブ。 February 3, 2022閲覧。

  6. ^ Nizer, Lois. Reflections without mirrors

  7. ^ Rampe, David (August 15, 1989). “ARMAND HAMMER PARDONED BY BUSH”. The New York Times

  8. ^(3376) Armandhammer = 1952 HP3 = 1975 XF1 = 1978 PJ4 = 1978 SZ1 = 1982 TN = 1982 UJ8”. MPC. 2021年9月12日閲覧。

  9. ^ The Armand Hammer Collection: Four Centuries of Masterpieces, published by the Armand Hammer Foundation in multiple editions (eventually becoming five centuries of masterpieces), sometimes in conjunction with museums where the collection was displayed.

  10. ^ Honore Daumier 1808–1879: The Armand Hammer Daumier Collection Incorporating a Collection from George Longstreet,1981

関連項目

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外部リンク

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ジュエリーブランド紹介「ファベルジェ/FABERGE」


https://kinkaimasu.jp/brand/column/faberge/

目次

ジュエリーブランド紹介「ファベルジェ/FABERGE」

今回ご紹介する「ファベルジェ/FABERGE」は「インペリアルイースターエッグ」で知られる「ピーター・カール・ファベルジェ」の名を冠したブランドです。

帝政ロシア最後の王朝ロマノフ家お抱え宝飾職人として活躍したファベルジェが制作した豪華なイースターエッグは、イギリス王室やメディア王フォーブスなど多くのコレクターを持ちオークションで数十億円で落札されたことも。

ロシア革命勃発後はジュエリー史の中でファベルジェの名は一度姿を消しましたが、2009年パリで復活後ファーストコレクションを発表し大きな話題となりました。

この記事を読んでいただくと

  1. デザイナープロフィール

  2. ブランドヒストリー

  3. ブランドの魅力

  4. ジュエリーコレクション

などについて知っていただけます。

またコンテンツ公開時のリファスタの推しブランドジュエリーもご紹介!

今回は「ティファニー ファイヤーワークスブローチ」について取り上げました。

本コンテンツはジュエリーやアクセサリー、宝石に興味関心のある方にはきっと面白くお読みいただけます。

ぜひご一読ください。

※記事内の写真画像はイメージです。ご了承ください

ファベルジェ ブランドヒストリー

デザイナープロフィール「ピーター・カール・ファベルジェ」

ロシア最後の王朝ロマノフ家の栄華と悲劇。

ロシア革命のなか悲劇の最期を遂げた皇帝一家とともに表舞台から消えた宝飾工房があります。

それが今回ご紹介する「ファベルジェ/FABERGE」です。

ロシア革命という巨大な渦に飲み込まれたロマノフ家の栄華と悲劇はNetFlix配信「ラスト・ツァーリ: ロマノフ家の終焉」などのドラマでご覧になった方も多いことでしょう。

幸福だった皇帝一家のよすがのひとつがインペリアルイースターエッグに代表されるファベルジェの宝飾品の数々です。

ロシア伝説の宝飾職人ファベルジェこと「ピーター・カール・ファベルジェ」はかつてヨーロッパ随一の宝飾工房の主でした。

1846年ファベルジェはロシアのサンクトペテルブルクでドイツ出身宝石商の息子として誕生。

26歳まで修業のためにヨーロッパ各国を遊学し金細工職人としての称号「マスターゴールドスミス 」 を得て帰国します。

帰国後エルミタージュ美術館の修復作業を手掛けるうちに、精緻なエナメル装飾などさまざまなロシア伝統の宝飾技術を身に着けました。

1882年父の工房を受け継ぎモスクワで開催された展覧会に出品したところ、時の皇帝アレクサンドル3世がファベルジェの作品に目を留めます。

そして1885年ロシア皇室特別御用達ブランドに採用し皇妃マリヤ・フョードロヴナイースターエッグの制作を発注。

世に名高い「インペリアルイースターエッグ」の誕生です。

1900年にはパリ万博でメダル受賞によりロシア国外にも多数の顧客を獲得し、ロシア一の大工房として絶頂期を迎えます。

しかしその後1914年ロシア革命勃発により支援者だった皇帝一家は一家全員銃殺、1918年には国政を掌握したレーニン率いるボルシェビキによって工房に関わるすべての財産が没収されるという憂き目にあいます。

そしてピーター自身は命からがらドイツに亡命するもファベルジェ一家は離れ離れ、二人の息子は投獄されます。

最期を迎える1920年にやっとファベルジェ一家はスイスで再会することができたのです。

その後50個のインペリアル イースターエッグ含めファベルジェの作品はコレクターたち(アメリカの5代コレクターが有名)イギリスやモナコ王室コレクションほか世界中に散逸することになりますがロシア政府や富豪たちが祖国の遺産を取り戻した例もあります。

たとえばサンクトペテルブルグに開設されたファベルジェ美術館には、アメリカの経済誌「フォーブス」創業者マルコム・フォーブスから買い取った9個のインペリアルイースターエッグが収められています。

ブランドのスタートから現在まで

一回の宝石商からロシア皇帝お気に入りの宮廷御用達工房に上りつめたファベルジェとはどのような歴史を歩んだブランドなのでしょうか?

ロシア史に名を遺した名門ブランドとしてのファベルジェの幸運は、アレクサンドル3世その息子ニコライ2世による手厚い庇護を得られたことにありました。

皇后の心をとらえたインペリアルイースターエッグによって皇帝一家のお気に入り職人となり、絶頂期には500人の職人とデザイナーを抱えてロシア最大の宝飾工房にまでのぼりつめました。

ロシア革命以後のファベルジェは勝手に香水メーカーにブランド名を使用されるなど苦難の歴史が相次ぎますが、1989年「ユニリーバ 」の傘下に下るも「洗剤の製品名と一緒にファベルジェの名前がトイレやキッチンに並ぶようになった」と自社サイトに繰り返しするしているようにファベルジェの末裔たちにとって一族の誇りが失われたように感じたようです。

ユニリーバとしては「エリザベスアーデン」を持つグループ買収の中にたまたまファベルジェが含まれていただけっだたのかもしれませんが。

ファベルジェがもう一度ロシア皇帝ゆかりの大ジュエラーというポジションを取り戻すきっかけとなったのが、1990年歴史あるジュエリーメーカーの「ヴィクトル・マイヤー」とのライセンス生産です。

2007年には世界トップクラスの宝石鉱山会社ジェムフィールズのバックアップ、そしてファベルジェのブランド価値を認めるスイスの有力投資会社と投資家たちのタッグによりファベルジェの本格的な再稼働がスタート。

イースターエッグの制作は敢えて止めてラグジュアリーブランドとして再出発したファベルジェは、ジュネーブやドバイに路面店を持つ高級宝飾店として多くの人々を魅了しています。

ファベルジェ ジュエリーの特徴と魅力

激動のロシア現代史にタイムトリップ

ロシア皇帝と共に表舞台から去った伝説の宝飾職人ファベルジェ。

ファベルジェはロシア革命という激動の歴史が刻み込まれた稀有なブランドです。

ニコライ二世の悲劇で幕を閉じたロシア帝政時代に思いをはせる時間こそファベルジェを手に入れる醍醐味です。

現在ヘリテージコレクションとして一般庶民にも手が届くジュエリーが販売されていますが、ファベルジェらしい精緻な手仕事が感じられるアイテムばかりです。

伝説に彩られた世界最高品質の宝石と技術をつぎ込んだ特別なジュエリーを手に入れる喜びこそファベルジェを所有する意味だといってよいでしょう。

ミニチュア好きにはたまらないサプライズ

ファベルジェのジュエリーの楽しみは仕掛けられたサプライズにもあります。

たとえば小さな卵型チャームを開けるとシロクマやペンギンが顔をのぞかせていた李。

  • アレクサンドル3世の妃マリヤフョードロヴナ皇后

  • ニコライ二世の妃アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后

彼女たちと同じように現代の私たちにも新鮮な驚きを与えてくれます。

永遠のあこがれファインジュエリー

インペリアルイースターエッグにインスピレーションを得たジュエリーだけではありません

カラーストーンやダイヤモンドをふんだんに使用したファインジュエリーコレクションも充実。

時計の神様ブレゲが考案した「ギョーシェ彫り(金属表面に格子状に彫る技術)」など細部に施された超絶技巧も注目ポイントです。

ファベルジェ ジュエリーコレクション

ファベルジェ代名詞「インペリアルイースターエッグ」

ファベルジェの名を不動の地位に押し上げたのはロシアの宝石や古来伝わるエナメル技術を駆使した豪華インペリアルイースターエッグです。

新生ファベルジェでは製作されておらず、ファベルジェによる真の意味での「インペリアルイースターエッグ」はアレクサンドル3世、そして最後の皇帝「ニコライ2世」の注文を受けて制作した総数50個のみとなります。

※例外的にロスチャイルド家など限られた優良顧客からのイースターエッグ受注歴有。

イースター=イエスキリストの復活を祝う復活祭とは、キリスト教徒にとってクリスマスと並ぶビッグイベントです。

イースターでは生命のシンボルである玉子を飾って祝う風習があり、これが現在のイースターエッグの発祥となりました。

現在ファベルジェ美術館に収められている最初に製作されたインペリアルイースターエッグは卵の中に黄金製のめんどりが鎮座し、中からダイヤのクラウンとルビーのペンダントヘッドが現れる仕掛けがあったと伝えられています。

アレクサンドル3世から結婚20周年記念ギフトとして贈られたもので、皇妃マリアが非常に喜んだことをきっかけでファベルジェに毎年注文するようになりました。

1885年以来日露戦争で中断した時期をのぞき、アレクサンドル3世は妻に、ニコライ2世は母と妻に毎年注文を続けました。

精巧な細工とアッと驚く仕掛けは、皇后や皇太子控除たちを魅了し在りし日の皇帝一家の幸せのシンボルとなりました。

ちなみに最後に製作されたインペリアルイースターエッグは本体が白樺で作られた「カレリヤの白樺」ガラスで作られた「ブルーコンステレーション」でした。

ヘリテージ コレクション

ファベルジェの代名詞ともいうべき「インペリアルイースターエッグ」にインスパイアされたのが卵モチーフの「ヘリテージコレクション」です。

2011年惜しくもガンで亡くなった専属デザイナー「フレデリックザビー」が貴重なファベルジェ作品を研究し作り上げた名作揃いです。

ペンダントチャームやブレスレット、なかにはインペリアルイースターエッグのように中から動物が飛び出すサプライズアリのデザインもあります。

ファインジュエリー コレクション

2009年のファーストコレクションでお披露目されたジュエリーは往年のファベルをほうふつとさせる絢爛豪華さでした。

ロシア皇帝御用達ブランド面目躍如となったコレクションのなかでは、5000個のダイヤモンドやサファイヤ、ルビーをふんだんにあしらった約8億円ブレスレットが話題をさらいました。

そのほかフレデリックザビーによるSV925を組み合わせた「マルチカラージェムストーンブレスレット」なども必見です。





マーク・リッチ

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マーク・リッチ
Marc Rich

生誕Marcell David Reich
1934年12月18日

ベルギーアントウェルペン死没2013年6月26日(78歳没)

スイスルツェルン職業起業家相場師純資産約15億ドル (約1335億円、2006年)[1]配偶者作詞家デニス・アイゼンバーグ・リッチ英語版)(1966年結婚1996年離婚[1]テンプレートを表示

マーク・リッチ(Marc Rich, 1934年12月18日 - 2013年6月26日)は、ベルギー出身の起業家相場師スイスの商品取引大手であるグレンコア社の創設者。

来歴

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ベルギーのアントウェルペンにて両親はユダヤ人の家庭に生まれる[2][3][4]。出生名は Marc David Reich1941年ナチを避けて一家で渡米。高校卒業後、ニューヨーク大学に進学するが、一学期で退学。すぐにディーラーとして働き始め、貴金属取引の分野で頭角を現す。

1974年、グレンコア社の前身である商品取引会社マーク・リッチを共同創業[5]パフラヴィー朝時代のイランからイスラエルに必要量の石油を極秘にパイプライン輸送で供給する合弁事業を何年にもわたって成功させた[1]イラン・イスラム革命後のイランとイスラエルとの間の非公式仲介者としても活動し、公式にはイスラエルに敵対的だったイランの最高指導者ルーホッラー・ホメイニーと友好関係にあり[6]イスラエル諜報特務庁(モサド)の活動も財政面で支援した[1]。貴金属取引の経験で培った様々な独裁国家独裁者との繋がりを使い[7]アパルトヘイト政策のために経済制裁を受けていた南アフリカ共和国へ総額20億ドル(約1780億円) 相当の石油を販売し[1]キューバフィデル・カストロナイジェリアサニ・アバチャチリアウグスト・ピノチェトリビアムアンマル・アル=カッザーフィールーマニアニコラエ・チャウシェスク中華人民共和国ソビエト連邦と取引関係を持った[8][9][10][11]

1970年代オイルショックの際には巧妙な原油取引により巨億の富を手にするも、パートナーのピンカス・グリーン英語版)と共謀して脱税イランとの不正な石油取引を行った疑いで、1983年にアメリカの検察当局から起訴される。当時、リッチはスイスにいたが、連邦捜査局(FBI)の10大指名手配犯リストに名前が載ったためにアメリカに帰ることは事実上不可能になった。1984年には欠席裁判で有罪判決を受けた。

2001年1月20日、任期終了数時間前のクリントン大統領から恩赦が与えられた[12]。しかし、これに先立ってリッチの元妻デニス・アイゼンバーグ・リッチ英語版)が民主党に総額100万ドル以上の献金を行っていたため、一部のメディアで「金で恩赦を買ったのではないか」と物議をかもした。クリントンの決定の裏側には、イスラエル政府からの嘆願や、リッチが献金していた名誉毀損防止同盟からの圧力も存在したと伝えられている。リッチは赦免を獲得するや否や、石油・食料交換計画スキャンダルに絡む事業でイラクサッダーム・フセイン政権と関わった[13]

2013年6月26日、スイスルツェルンの自宅近くの病院にて死去[5]

私生活

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長年に渡りスイスのツークで暮らした後、同国ルツェルン州メッゲンドイツ語版)市に居を移した。彼の邸宅(通称"La villa rose")はルツェルン湖の湖畔にあり、その周辺では厳重にプライバシーが守られている。スイスのほか、スペインにもスキーリゾートを所有していた。また、絵画収集を趣味とし、モネルノワールピカソの作品に囲まれて生活していた。

メディアに素顔をあらわすことは滅多にないが、一度だけ米国のテレビクルーに捕まってインタビューに応じたことがある。また、リッチの半生を描いたノンフィクションとして『メタル・トレーダー 地球を売買する男たち』(新潮文庫[14]、評伝に『キング オブ オイル』[15]がある。

参照

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  1. ^ a b c d e “「キング・オブ・オイル」の「シークレット・ライフ」を公開”. Swissinfo. (2009年11月30日) 2013年6月27日閲覧。

  2. ^ Daniel Ammann (Nov 14, 2009). “King of oil" discloses his "secret lives"”. Swiss Info. 2019年6月5日閲覧。

  3. ^ Los Angeles Times: "Pardon Reignites Jewish Stereotypes" by WALTER REICH February 25, 2001

  4. ^NS business profile: Marc Rich, Glencore's fugitive founder”. newstatesman.com. 2019年6月5日閲覧。

  5. ^ a b “米国揺るがした最強トレーダー、マーク・リッチ氏死去”. ブルームバーグL.P.. (2013年6月26日) 2013年6月27日閲覧。

  6. ^Marc Rich”. newstatesman.com (2013年7月6日). 2019年6月5日閲覧。

  7. ^ Rankin, Jennifer (June 26, 2013). "Marc Rich: controversial commodities trader and former fugitive dies aged 78". The Guardian. London.

  8. ^THE KING OF OIL The Secret Lives of Marc Rich by Daniel Ammann”. Kirkus Reviews. kirkusreviews.com. 5 July 2017閲覧。

  9. ^The King of Oil: The Secret Lives of Marc Rich”. Publishers Weekly. publishersweekly.com. 5 July 2017閲覧。

  10. ^ Ammann, Daniel (November 23, 2009). “How I met the biggest devil”. Huffington Post

  11. ^ Baghdjian, Alice (June 26, 2013). “Marc Rich, 'King of Oil' pardoned by Clinton, dies at 78”. Reuters

  12. ^ FBIは、恩赦に関する調査を2001年から2005年まで実施。2016年アメリカ合衆国大統領選挙8日前の2016年10月31日になって、129ページの調査文書を突然公開した。--“FBI、クリントン元大統領の恩赦に関する調査文書を突然公開”. AFP=時事. (2016年11月2日) 2016年11月2日閲覧。

  13. ^Marc Rich”. newstatesman.com (2001年4月26日). 2019年6月5日閲覧。

  14. ^ A.クレイグ・カピタス英語版)著、飯島宏『メタル・トレーダー―地球を売買する男たち』新潮文庫、1988年5月、原著 Metal Men: Marc Rich and the 10-Billion-Dollar Scam , Putnam Adult , 1985

  15. ^ ダニエル・アマン英語版)著、田村源二訳『キング オブ オイル マーク・リッチ アメリカを揺るがした最強トレーダー』ウェイツ、2010年11月、原著 The King of Oil: The Secret Lives of Marc Rich , St Martins Pr , 2009

関連項目

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ルサール

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この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

  • ルスアル

  • ルサル

ルサール
United Company RUSAL

種類株式会社市場情報MCX: RUAL

SEHK 00486
2010年1月27日上場

本社所在地

ロシア
モスクワ設立2007年3月27日業種非鉄金属事業内容アルミニウムアルミニウム合金ボーキサイトアルミナの生産販売代表者会長 張震遠
CEO オレグ・デリパスカ資本金10.539億米ドル売上高122.91億米ドル(2011年)決算期12月末日主要株主En+ Group (47.41%)関係する人物ヴィクトル・ヴェクセリベルク(元会長)外部リンクルサール社のホームページ (英語)テンプレートを表示

ルサールロシア語: РУСАЛ ルサール)ことロシア・アルミニウムロシア語: Русский алюминий ルースキイ・アルミーニイ)は、ロシアの世界的なアルミニウム製造メーカー。2010年度のアルミニウム生産量は408万3000トン(2009年は390万トン)、酸化アルミニウム生産量は784万トン(2009年は730万トン)で[1]カナダリオ・ティント・アルキャンに次いで世界第2位の生産量であった。(第3位はアメリカアルコア社。)なお登記上の本社を租税回避地として知られるイギリス王室属領ジャージーに置いている。

社名について、日本では「ルスアル」「ルサル」とも表記されているが、原語発音により近いのは「ルサール」である。

主力製品・事業

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  • アルミニウム圧延

主要事業所

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ルサールは5大陸19カ国に事業所を持ち、主要な工場がロシアウクライナアルメニアギニアナイジェリアガイアナオーストラリアイタリアスウェーデンなどにある。

沿革

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主要関係会社

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グレンコア

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グレンコア・ピーエルシー
Glencore plc

種類株式会社市場情報

LSE GLEN
2011年5月24日上場


SEHK 0805
2011年5月25日 - 2018年1月31日

略称グレンコア本社所在地

イギリス

スイス
バール(本社)
ジャージー(登記上の本社)設立1974年業種商品取引事業内容非鉄金属の開発及び製錬
金属鉱物、燃料資源、農作物の生産、貿易代表者最高経営責任者:アイバン・グラゼンバーグ
会長:トニー・ヘイワード資本金154億500万ドル(2008年)[1]売上高

US$217.829 billion (2023)[2]従業員数140,000 (2024)[3]主要株主

関係する人物マーク・リッチ(創業者)外部リンクhttp://www.glencore.comテンプレートを表示

グレンコア・ピーエルシー: Glencore plc)は、スイス・バールに本社を置く鉱山開発及び商品取引を行う多国籍企業である。登記上の本社は、タックス・ヘイヴンとして知られるイギリス王室属領ジャージーに存在する。グレンコア社はスイスの著名な相場師であるマーク・リッチによって、1974年にMarc Rich & Co AGとして設立された。

概要

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同社は世界最大の商品取引商社であり、亜鉛の世界シェアは60パーセント、は50パーセントに上る[5][6]。また、同社は金属や石油、石炭、天然ガスなどの鉱物に加え、麦やトウモロコシ、砂糖、食用油等の農作物の生産から取引までを行う[5]。また、同社は売上高で食品最大手のネスレを凌ぐスイス最大の企業でもあり、同国二位の金融機関であるクレディ・スイスとの関係も深く、石油デリバティブの開発・取引で提携している。[7]

かつては穀物メジャーのカーギルと並ぶ世界最大級の非公開企業であったが、2011年5月24日にロンドン証券取引所に上場し、時価総額が585億ドル(約4兆8千億円)と上場銘柄の中でも20位以内に入るため、即時FTSE100種総合株価指数の銘柄に採用された[8]。次いで、5月25日には香港証券取引所に上場した[9]。時価総額は、上場する商社としては三菱商事を上回り世界最大である。2012年3月、カナダの穀物流通大手バイテラを61億カナダドル(約5,100億円)で買収することで合意。世界でも有数の穀物産地であるカナダとオーストラリアで事業基盤を築く。

2013年5月2日に同社と、同社の関連会社で資源メジャーであるエクストラータ社の待望の合併が完了したと発表された。これにより、同社はグレンコア・エクストラータへ社名を変更し、鉱業で世界4位、商品取引で世界首位の企業が誕生した。なお、中国商務省は同年4月、1年2カ月に及ぶ審査の末、グレンコアが52億ドル相当のラスバンバス銅鉱山プロジェクト(ペルー)を売却することを条件に合併を承認している。グレンコア・エクストラータの株式は3日からロンドン証券取引所香港証券取引所で取引が開始された。

2014年5月20日、グレンコア・エクストラータは社名を再び「グレンコア」に改称した[10]

2016年12月、政府系ファンドのカタール投資庁と共同で、ロシア最大の国営石油会社ロスネフチの株式19.5%を102億ユーロ(約1兆2400億円)で取得すると発表した。

2018年1月31日、香港市場での株主の持ち株比率が低かったことなどから、香港証券取引所での上場廃止を廃止した。[11]

脚注

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  1. ^ [1]

  2. ^Annual Results 2023”. Glencore. 21 February 2024閲覧。

  3. ^Who we are”. Glencore. 11 February 2024閲覧。

  4. ^Glencore”. Marketscreener. 4 March 2023閲覧。

  5. ^ a b “The rise of Glencore, the biggest company you've never heard of”. The Guardian. (19 May 2011) 25 May 2011閲覧。

  6. ^ “Glencore's share of global commodity markets”. The Telegraph. (15 April 2011) 31 May 2011閲覧。

  7. ^ クレディ・スイス:グレンコアと石油デリバティブで提携2006/02/09 ブルームバーグ

  8. ^ 資源商社グレンコア、ロンドン証取に上場 - 2011/5/25 日本経済新聞

  9. ^ 商品取引のグレンコアが香港上場-アジアで投資家奪う動きも2011/05/25 ブルームバーグ

  10. ^Glencore drops Xstrata”. The Australian (21 May 2014). 10 September 2014閲覧。

  11. ^ GLENCORE PLC【N0805】 を保有されている投資家の皆様へ2017/11/29 大和証券 (PDFファイル)

関連項目

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