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1027 北山耕平インタビュー
ニュー・ジャーナリズム/ソフトな奴隷制を打ち破る編集とは?北山耕平インタビュー【第1回】(赤田祐一)
雑誌『クイック・ジャパン』は1994年10月、太田出版から創刊された(編集長・赤田祐一)。その前に、赤田が私費を投じて作ったパイロット版の創刊準備号(発行:飛鳥新社)が存在する。
『クイック・ジャパン』に、『クイック・ジャパン ウェブ』にもし魂があるとしたら、それは、創刊準備号に掲載された赤田による北山耕平インタビュー「新しい意識、新しい新聞」だ。2020年の今読むと、1993年当時よりさらに編集、出版、社会について切実さを持って迫ってくる。
『クイック・ジャパン』の創刊とは、1960年代のアメリカ西海岸で起こった、ロックを聴くことと同じように読むことのできるニュー・ジャーナリズムの精神を、1990年代の日本で展開する試みだった。
ニュー・ジャーナリズムとは何か。編集とは何か。
「キュレーション」的な考え方だけが「編集」なのか。編集とは近い将来滅びてしまう概念なのか。
当時、多くの若者を虜にした雑誌『宝島』の編集長(1975年~1976年)であり、『自然のレッスン』など多数の著書、翻訳書を持つ北山耕平の言葉を通し、編集という行為について思考する歴史的なインタビューを、全5回にわたりお届けする。未来の編集者たちへ。(『QJWeb』森山裕之)
※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。
目次
新しい時代の“ジャーナリズム”聞きに行く
ほんとうの意味での“ニュージャーナリズム”および“ニューエイジ・ジャーナリズム”は、日本には、まだない。
僕たちが「まだない雑誌」を試行錯誤の上で作り出そうとしたとき、雑誌づくりのお手本になった雑誌が、1970年代の『宝島』だった。
『宝島』は僕にとって、最初の意識革命の雑誌だった。70年代の『宝島』のザラ紙の印刷の中に、僕は新しい物の見方や考え方を次々に発見した。
『宝島』は、何事かに目覚めるためのきっかけであり、そこでは目に見えない爆発が起こっていた。このような体験は、これまでなかった。そんな『宝島』を編集していたのが、伝説の編集者、北山耕平だ。
北山耕平は、あのホールデン・コールフィールドと同じ「声」で、僕たちに、何がほんとうのことで、何がそうでないのかを、伝えてくれた。北山耕平の関わった雑誌は、今も変わらない鋭さで、若い魂を持った連中の心を突いてくる。それは、今の雑誌が切らせてしまった精神(スピリット)そのものだ。
北山耕平という優れたジャーナリストの編集した雑誌に、僕は、“ニューエイジ・ジャーナリズム”の「声」を聞いた。日本のまだ見ぬ“ニューエイジ・ジャーナリズム”の歩みは、そのまま編集者・北山耕平の足跡でもあるのだ。
若者雑誌界のホールデン(『ライ麦畑でつかまえて』)は、今年(1993年)で、43歳になっていた。僕にとって、かつて若かった兄のようであり、信頼できる先輩編集者である北山耕平に、新しい時代のジャーナリズムについて、話を聞きに行った。
『ローリングストーン』の日本版が作りたい
──僕、以前、北山耕平さんのお話を聞いたことがあるんです。「C+Fコミュニケーション」というところで、10年くらい前に、ジャーナリズム講座があって、そのとき“インタビュー術”という話をされてました。あれも思い起こしてみれば“ニュー・ジャーナリズム”の講座でした。あの時期、北山さんが雑誌『写楽』(※)で、矢沢永吉のことをずっとインタビューされてたという……。
※『写楽』…1980年代に小学館が刊行していたニュー・ジャーナリズム志向の写真雑誌。北山耕平は『写楽』の創刊スタッフだった
北山 そうだね、やってたね。有名人とのインタビューは、あの時代が一番多かったんじゃないかな。最終的には、片山敬済(かたやま・たかずみ)さんをインタビューして、以後は、あんまりやってない。
──『写楽』では、けっこう、名前を出さないでインタビューの仕事をされてたんですか。
北山 やってました。雑誌『GORO』(小学館)でも、付録の「GO! ROCKING PAPER」の中で、けっこうやってましたね。
※『GORO』の付録として付いていた色彫りロック新聞。ベストセラー『日本国憲法』(1982年、小学館)を生んだ島本脩二らが編集。『ローリングストーン』を強く意識していた
──当時、北山さんの話をお聞きして「インタビューというものは、朝起きたときから始まる」と言うことをおっしゃってたのが、すごく印象に残ってるんです。
北山 難しいよね、インタビューというのは。おもしろいものをとろうと思ったらね。その瞬間に、相手側と同じになってなきゃいけないわけだから。こちら側の心の状態が、もろ、向こうに反映することだってあり得るし、向こうの心の状態が、もろにこっちに反映することだってあり得るわけだから。で、どこまで聞いていいかってことは、なかなか限界が見えないでしょ。
──北山さんは、おもしろいインタビューで覚えているのには、どんなのがあります?
北山 俺が好きだった人はね、ベン・フォン=トーレスという、『ローリングストーン』の、今、もう偉くなっちゃった人だけど。
※ニュー・ジャーナリズムの発展に、最も貢献したロック・マガジン。1967年にサン・フランシスコで創刊された
──ボブ・ディランも取材してる人ですね。
北山 そう、彼のインタビューは好きだった。ずっと好きだった。中国系アメリカ人なんだよね。上手だった、すごく上手だった。
──ディランとザ・バンドの復活全米ツアーをずっと追っかけてましたね。
北山 うん、ボブ・ディランとか、いわゆるロック・ジャーナリズムといわれるもののスタイルを確立した人だよね。あのスタイルで、たとえば『タイム』に原稿書いたりとか、そういうレベルにまでなっていっちゃった。だから『ローリングストーン』という雑誌が果たしたメディアに与えた影響というのは、大きかったと思うよ。ティム・ケイヒルというアウトドア専門のライターも『ローリングストーン』から出てるし、あと『アウトサイド』というアウトドア雑誌が『ローリングストーン』と同じスタッフで作られた時期があるよね。
そういう雑誌が自分に与えた影響ってやっぱり大きいと思うよ。一番読んでた雑誌が、そういう雑誌。あと、インタビューでおもしろかったのは、片岡義男さんが訳したジェリー・ガルシア(※)の本とかね。『自分の生き方をさがしている人のために』(1976年、草思社*1998年、新装版)。あれも『ローリングストーン』のインタビューの中のひとつだよね。
※サン・フランシスコ出身のサイケデリック・ロックバンド、グレイトフル・デッドのリーダー
それから、『レノン・リメンバーズ』だっけ? 『回想するジョン・レノン』(片岡義男訳、1974年、草思社*2001年、改訳決定版)とかいうタイトルになってる本があるよね。あれも『ローリングストーン』という雑誌に世話になった部分って、すごく大きいと思う。
──『ローリングストーン』は、当時、現役で読んでらしたんですか。
北山 そうです。『ローリングストーン』の日本語版を作りたいというのが、『ワンダーランド』(※)の始まりだからね。日本における『ローリングストーン』を、とにかく作ろうじゃないかというんで集まったのが『宝島』(※)の始まりみたいなもので。結局、版権がとれなくて、日本語版はできなかったんだけどね。3号目から、『宝島』というかたちでトライはしてみたんだけど。読者と一緒に成長する雑誌というのをやりたかったから。
※津野海太郎と平野甲賀が中心になって編集した日本初のニュースペーパー・マガジン。植草甚一責任編集の名のもとに、2号まで出た
※初期はペーパーバック・スタイルの雑誌で、「ロックンロールを子守唄に育ち、ビートルズで青春を迎えた緑色世代に贈る」というキャッチコピーが付けられていた
1970年代のあの当時はね、まだそれが可能な時代であったし、メディア自体が、今みたいに細分化されて、機械的に工場みたいなところで作るメディアには、なってなかったから。もうちょっと、大学のクラブ活動の延長みたいなかたちで、雑誌が作れてたから、生き物みたいな雑誌が作れるわけだよね。
北山耕平とフィル・スペクター
──僕なりに、ひとつ仮説を立ててきたんですけど、北山さんという人は、フィル・スペクター(※)に非常に近いんじゃないか、という気がするんです。自分がアレンジからプロデュースから、全部トータリティのある仕事をしちゃう。
※『ビー・マイ・ベイビー』などで有名なレコード・プロデューサー。ウォール・オブ・サウンド、または、スペクター・サウンドと呼ばれる独特の音づくりで知られる。天才であると同時に、とほうもなくエキセントリックな人物として伝説的に語られる
北山 そうですね。
──で、完璧主義者だと思うんですよ。
北山 そう……でもとんでもないところでヘマをやったりするけども、完全に向かおうという方向性だけはあるみたい。でも、それは、みんなあるもの。クリエイティブな仕事をしようと思えば、それがどうしても必要だろうと思うんだよね。
──北山さんの場合は、その強度みたいなものがすごく強いんです。僕が惹かれるのはその辺なんですよ。
北山 うーん……。
──完璧なんですよね。
北山 そうね、ある部分ね。
──いや、全部じゃないですか。法定文字から奥付のクレジットにいたるまで。
北山 何を読ませるかということも考えるし、どう見せるかということも同時に考えなきゃいけないし、そういう時代に生まれついてるわけだから、どちらの力もバランスとれてれば、強いものができるはずだよね。自分としては、そう思ってやってるわけだけどね。
──フィル・スペクターの伝記(『フィル・スペクター――蘇る伝説』(大瀧詠一監修、奥田祐士訳、1990年、白夜書房*2008年、増補改訂版)はご存知ですか。
北山 知ってる。厚い本。読みました。
──あれはすごい本ですね。フィル・スペクターという人は、モノラルの時代に「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」を作っちゃおうとした人みたいな感じがして、びっくりしました。
北山 変わった人だもんね。でも、ああいう人が必要なんじゃないの、やっぱり。ロックのクオリティをある程度高めたのも、ネーム・バリュー的には、ビートルズやディランほどではないにしても、ある種の次元に高めるのにものすごく有効性を持った人だよね。そういう人たちがいなければ、ロックはこういうかたちになっていかなかっただろうしあの時代の熱狂みたいなものは、なかったかもしれないね。
──スタジオでライブ録音盤を作っちゃうような、人工性の高い感じがするんです。拍手もシンセで作っちゃうみたいな感覚があって(笑)。僕は、北山さんが作る記事や単行本に、それに近いものを感じるんです。
北山 ほとんどマスターベーションみたいなもんじゃないですか(笑)。自己満足に近いものがあるから。でも、ある部分それでいいと思うの。そういう役割というものもやっぱり必要なんだろうと思うし、ほんとにそうやって見せてみないと影響与えられないでしょ。中途半端なものしか生まれないからね。雑誌がつらくなってきた理由はこれだよね。妥協しなきゃいけないんだよね、やっぱり、メジャーで作るとなると。
──広告とったりとか。
北山 そう、タイ・アップ記事作ったりとか。新製品を出さなきゃいけなかったりとか。そうすると、リアルじゃなくなっていく。それに対して編集のほうから文句言えないとかさ。「だったらおまえ、広告費の分、800万円稼いでこい」とか言われたりすると、それはそれで困っちゃうしね。
──そういう衝突は、なさらないんですか。
北山 衝突するとやめちゃうの。だって、それ以上やってもいいものできっこないってわかった時点で、そこから降りるしかないじゃない? つづければ、昔みたいに、みんな仲良くって、そういうかたちの人間関係作れるかもしれないけども、一度それやるとさ、とことんやんなきゃいけないじゃない?
で、自分としては、ある種の精神の持ってるプライドみたいなものは、持ってたいと思うし。ああいうのは一種の奴隷制、ソフトな奴隷制みたいなところが、どうしてもあるから。
──今の編集……。
北山 編集というか日本の産業自体の構造、国家自体のシステムがね。おとなしく言うこと聞くやつは可愛がってやるけど、跳ねあがり者は出てってもらわざるを得ないような環境ってあるでしょ。そしたらやっぱり、跳ねあがり者としては、出て行かざるを得ないじゃないですか。もともと、跳ねるために行ってたんだもの。
最初はそれは使えるんだけど、かたちができあがってきて、お客さんがついてくるにつれて、その部分は邪魔になるよね。そうすると、換骨奪胎して、文体だけが生き残って、どうでもいいようなことしゃべり始めるんだけど、その頃最初にそれをしゃべり始めた人間はそこにいないという状態が常でしょ。最近は、自分としては、そういう役割なんだろうなと思って。
たとえば『宝島』の「VOW!」というのは、もともとは、読者欄から始めたんだよね。Voice Of Wonderlandっていう。「VOW!」は最近は別のかたちになってきちゃったけど、あの頃付けた名前で残ってるのが結構あるんじゃないかな。『ポパイ』(※)の「POP・EYE(ポップアイ)」っていうのもそう。コラムをいっぱい集めたようなスタイルのものでさ。
※北山耕平は創刊時の『ポパイ』LA特派員として、アメリカから原稿を送っていた。初期の『ポパイ』は『宝島』の流れを汲んだ、アメリカ主義の雑誌だった。「フリスビーはコミュニケーションだ」と題したフリスビー特集など、忘れることのできない企画が多く、『ポパイ』こそが70年代の思想誌だった。
──北山さんは「ポパイ」とか『BE-PAL』(※)とか、雑誌の立ちあがりに関わることが多いようですが。
※小学館で現在も刊行しているアウトドア雑誌。北山耕平は創刊時のスタッフで、『サンシャイン・ペーパー』という雑誌内新聞を編集していた
北山 多いですね。立ちあがりから最初の2年間とか3年間ね。
──コンセプト・メーカーみたいな。
北山 一種のね。土台作り、文体作り。
──見本を見せないと、人はわからないですからね、現物がないと。
北山 そう、最初の見本を作る。一度作れば、それをうまく真似して作っていって完成していく人たちはいっぱいいるんだけど、最初、何もないところから「これ作りましょう」と言ったって、作って見せない限り誰も信用しないでしょ。それをいろんなとこでやらせてもらえたことに関しては、ありがたかったと思うよ。
文字によるオーディオ・ビジュアル
──1970年代の『宝島』は強烈で、ドラッグみたいな雑誌でした。“かぶれる”って言いますよね、影響受けるとか。ものすごく“かぶれ雑誌”だったんじゃないかって思うんですよ。
北山 そう。自分たちの言葉で自分たちのことをしゃべるっていうのが、当時、メディアの中にあんまりなかったからね。それのいわゆる先駆けというか。自分たちの意見をちゃんとしたスペースをとって表現するというのが、あまりなかったから。
一度その波長に、例えばJ-WAVEがいいという人がいっぱい出てくるように、そこに波長を合わせることができた人にとっては、そういう働きをしたんじゃないかな。ただ、合わせなかった人たちにとっては、またぜんぜん違う働きを……偏見や誤解を生んだ可能性もあるし。いろんな言葉についてね。
──北山耕平さんの文章にかぶれちゃう人も、いっぱいいたみたいですね。当時の読者欄なんか見ると、みんな北山さんの文体なんですよ。
北山 そうね。
──さかのぼればサリンジャーとか、原型はあるんでしょうけど。植草甚一(※)さんとか。『宝島』という雑誌は、ひとつの文体(キャラクター)を作ったんじゃないかと思うんです。
※物故した伝説のマガジン・ライター。『ワンダーランド』および『宝島』の責任編集長を務めていた。文章を口語体で、あたかも散歩をするように書くことを発明した。通称J・J氏。
北山 そうだね、それは言えてると思うよ。
──あと、文章をしゃべるように書くことができる、ということですね。
北山 重要だね。言文一致というのを押しすすめたという感じはしたけどね。ただ、ほんとにしゃべるように書くんじゃなくて、バランスをとって「頭の中で声が聞こえるように書く」というのが必要だという認識はあったからね。「読む」のじゃなくて「声が聞こえる」という。
──頭の中で声が聞こえる、ですか。
北山 そう。頭の中に絵が見える、頭の中に映画を見に行くみたいなもので、それがドラッグといえば、ドラッグ的な効果をもたらすものなんじゃないかな。
──映像的であり、音楽的であり。オーディオ・ビジュアルみたいな。
北山 そう。文字によるオーディオ・ビジュアル。それがたぶん可能だっていうことを、ある世代(※)以降の人には気づかせたと思う。ある世代以前の人にとっては煙(けむ)ったい存在だったかもしれないし、うるせえやつらだと思った人たちもいっぱいいるだろうし。
※第2次世界大戦後のベビー・ブームの中で育ってきたロック世代のこと。北山耕平によれば「テレビを頭のマッサージの道具として受けとめた最初の世代」で、「ひとつの地球を初めて全体として見る視点を獲得した最初の世代である」
たとえば、『ニュー・ミュージック・マガジン』(ミュージック・マガジン社)という雑誌には、俺なんか、名指しで非難されたこともあるし。
──ありましたね。あれは失礼な批判でしたね。
北山 でも、やっぱり権威というものが崩れていくときっていうのは、どうしてもああいうかたちで反応が出ざるを得ないし、本来であれば、国家という体制自体にも、ある種の恐怖感を植え付けるようなものであって欲しいと思ってた部分があるからね。そうじゃないと、先程言ったソフトな奴隷制みたいなものは打ち破れない。
それを打ち破るのが、たぶんロックン・ロールだったと思うんだ。牢屋の中にいてその人が自由だと思ってる限り、その人は絶対牢屋の中から出ようとしないから、ほんとの自由なんて知らせる必要がないって部分があるよね。日本なんか、それが特に傾向として、強いのだろうと思う。
ロック雑誌の中に「声」を探していた|北山耕平インタビュー【第2回】(赤田祐一)
2020.5.16
文=赤田祐一
『クイック・ジャパン』創刊編集長・赤田祐一が創刊準備号で行った、編集者・北山耕平の歴史的インタビューの第2回。1975年~1976年、雑誌『宝島』の編集長を務めていた北山耕平が、時代の「声」を雑誌の中に閉じ込めるように、「法定文字から奥付のクレジットにいたるまで」目の届いた雑誌を作っていた。赤田は北山の編集に強烈に惹かれた。
雑誌において、文章よりも大切なものは「声」だ。文章は洋服のようにいろいろなものを着られるが、「声」はひとつだ。
※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。
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ニュー・ジャーナリズム/ソフトな奴隷制を打ち破る編集とは?北山耕平インタビュー【第1回】(赤田祐一)
頭の中で聞こえる「声」
北山 で、そこから出る方法は、そこが牢屋だって気がついた人間しか出口を探そうとしないということだよね。そうすると、それを気づかせる方法はどこにあるのかというと、「声」だよね。鍵を握ってるのは「声」だと思う。全体に流れている「声」、裏にある「声」だと思う。
それは、文章よりも、もっと重要なもので、どの意識からその「声」が出てるのかということが、たぶんすごく重要なことなんだと思う。俺がトム・ウルフ(※)とかいわゆる“ニュー・ジャーナリズム”(※)の人たちに感じたことというのは、一貫してその「声」があるってことだよね。どんなものを書くにしろ、ある種の「声」を持ってちゃんと書いてる。
※トム・ウルフ…「ニュー・ジャーナリズム」という言葉をはやらせた張本人。1960年代中頃から『エスクァイア』、『ローリングストーン』などで活躍し、その文章のポップ・スタイルは、一世を風靡した。テレビの実況放送をしているように、ある興奮状態をレポートすることが、天才的にうまい
※出来合いの言葉ではなくて、取材した生々しい言葉で、事実を組み立てるジャーナリズムのこと。自分の周囲で起きていることを、自分の言葉で書くことが、基本姿勢である
──「スピリット」みたいなことなんですか。
北山 「声」なんだよね。頭の中で聞こえる「声」。いわゆるしゃべる声、話し声とかそういうんじゃなくて、何かがしゃべってるように聞こえるものってあるんだよね。ある種の共通した意識から、その「声」は出てきていると思う。その「声」を出せるようになった人間だけが、そういう世界で、エンタテインメントができると思うんだよね。
──じゃあ、『ニューミュージック・マガジン』の人たちは「声」がわかってない……。
北山 違う、「声」がきらいだったんですよ。きらいだったんだと思う。生理的に。自分が「声」を出してると思っても、それがただの雑音(ノイズ)でもあり得るわけだよね、ある人にとっては。雑音としてしか聞こえない人もいるわけだよね。
ロックを雑音ととるか音楽と聞くかは、やっぱりその人によって違うでしょ。その人が育ってきた環境によっても違うし。等身大であろうとすればするほど、そういう反発ってのは出てくるよね。
その「声」に対する恐怖感というのは、ある種の人たちにとっては非常に大きい問題なんだ。そこでそういう「声」が、そんな世代から出てきちゃうと、困るって人だってたくさんいるでしょう。
──新左翼的な人たちですか。
北山 難しいところだよね。新左翼とロックンロールは一致しなかったからね、日本においては。悲しいことに。
──以前、渋谷陽一さんと北山さんが若者雑誌の対談で、『いちご白書』と『日大全共闘』のドキュメント映画の比較をしていました。その発言を受けて『ニューミュージック・マガジン』で、中村とうようや戸井十月が、北山さんを非難しました。『宝島』の連中は、頭の中だけで革命起こしてる、テレビ見て、テレビの奴隷になってるんだ、と言って。
北山 でも、どっちがはっきりしてたのかということは、やっぱり時代が答えを出すことだからね。もうそろそろ、はっきりしてきてるだろうという気がする。俺は、自分がやろうとしてたことは、間違ったと思ったことは一度もないし、いいことやってきてよかったなと思うだけであって、後悔は全然ないしね。
──北山さんがずっとおっしゃってた、マクルーハンとビートルズ *14 みたいな感覚ってありますね。あれは1980年代になって、ニュー・アカデミズムと新人類を生んだと思うんです。ああいうものと直結していたと思うんですけど。
※テレビとロックによって、あるバイブレーションを知ってしまった子供たちは、それまでの世代とはまったく意識のありようが変わってしまった、ということ。北山耕平の評論集『抱きしめたいービートルズと20000時間のテレビジョン』(1976年、大和書房)に、詳しい
北山 というか、世界的なスケールでそういうものを認識しようとする動きがあったことは確かなんだよ。ただ、自分が言ったことが、それと「直結して」と言うよりも、世界的な規模で同じことを考える人たちが、同時多発的にいたんだよね。
──ものの見方というか、パラダイムみたいなものが変換してきたと。
北山 そう。だから1960年代に起こった意識革命みたいなものが、世界にどうやって伝わっていったのかということの、日本における見事な例みたいなものがここにいるだけであって。それは、早いか遅いかの違いだけだったかもしれない。ただ自分としては、どんなものであれ「声」があるものにしたいと思うし、その「声」さえ残ってれば、時代は越えられると思うんだ、これからの時代はね。
あのとき何かが始まってたんだとすれば、ほんとにそれはずっとつづいてるし、あのとき終わろうとしてたものは、かなりこの10年、20年間で、ビューティフルな死に方をしていってるはずだし。何かを終わらせるのにすごく力があったし、何かを始めるのにも力があったという意味では、ロックとすごく似てると思う。
ただ、それがポップになっちゃって、どうなっていくかというのは、たとえば自分が作った文体みたいなものが『ポパイ』とか、いろんな雑誌を経て、一般化していったわけだよね。そういうのを見ていると、おもしろいけどね。
──複雑な気持ちですか。
北山 いや、複雑な気持ちとかじゃなくて、ひとり歩きしてるから。ただ、自分だったらこんなことは言わないのに、なんでここでこういうふうに言うんだろうなとか、そういうふうに思うことは、まま、あったよね。そろそろこの店、おしまいみたいだから、ちょっと動きながら……。車の中でつづけてもいい?
──いいですよ。
(北山氏のステーション・ワゴン車の中へ移動。伊豆の山道を、ドライブしながら、インタビューを再開する)
ロック・マガジンの中に「声」を探していた
北山 俺はやっぱり、ほんとに、ロック・マガジンというものが自分に与えた影響というのは大きいと思う。あの当時のね。60年代、『クロウダディ!』(※)とか『ローリングストーン』とか、そういう雑誌の中に、やっぱり自分は「声」を探してたんだと思う。それを持ってる人たちの文章を、すごく吸収していったんだと思う。
※1966年、当時17歳の若さでポール・ウィリアムスが創刊したロック評論誌。ロックを初めて真面目に批評することに試み、優秀なロック・ジャーナリストを生んだ
──英語は当時からかなりできたのですか?
北山 今だって、できるとは言えないんだけど、片岡義男(※)さんとつき合ってたせいもあるし、ロックの雑誌やってたせいもあって、外国人とつき合うことが多かったし。ロックの評論ってその当時、翻訳って限られたものしかなくてね。だから、一所懸命、探して読んでた。
※『宝島』2代目編集長。かつては北山耕平の遊び友達であり、先生だった。北山耕平(小泉徹)との共著『ぼくらのアメリカ切抜帳』(1976年、徳間書店)もある。「ロックとは新しい物の考えかたである」ということを、日本で一番早く理解し、紹介した人。現在は、小説家
ロックの英語みたいなものは、学校では教えないよね。そういうのは、自分で勉強するしかないし、歌詞覚えたりとかそういうのもするし。そういう中でしか英語は覚えていかないんだよね。英語っていうのは、道具だし、使い方によっては、すごく有効的に使えると思うんだ。うまく使えば、発想の仕方が増えるからね。
──大学(立教大学)の時代は、どうされてたんですか。学校はロックアウトの時代ですね。
北山 ロックアウトされてました、3年間ぐらいね。だから、アルバイトとかしてました。僕は2年目ぐらいのとき、片岡義男さんと知り合ってたから、片岡さんの仕事の取材の手伝いとかね、運転手やったり、本の整理やったり。それで植草甚一さんとも知り合った。
外国の文化的なものをどうやって日本に入れるかって考えてる人たちのかなりそばにいたもんで、影響をもろに受けて。大学のときというのは、やっぱり、ロックのお勉強みたいなところが非常に多かったんじゃないかな。あのとき、世界的な規模でロックのお勉強ってのが行われてて……理解しようとしなければ理解できないもんだからね。
それじゃなければ、ただの音楽だし。だから、ロックの中にある「声」が大切なんだよ。ボブ・ディランが持ってる「声」も、さきほど言った「声」と非常に共通してる部分があるし。だから、非常に早い時期に、その「声」みたいなものに、俺は気がついたんだよね。
──「声」というのは「スタイル」ってことですか。
北山 スタイルというよりも、「声」なんだよね。文章ってのは服みたいなもんでさ、いろんな服は着れるけど、「声」はひとつでしょ。「声」っていうのは、たぶん、汎人類的っていうか、ある種の人間が共通して持ってる一種の意識だと思うんだ。
それがあるって気がついたのが、多分、1960年代の後半頃、世界的な規模で若者文化(ユース・カルチャー)ってかたちで出てきたのであって。その人たちは、基本的には、いまだに変わってないと思うよ。それは自発的に自分で学習したものなわけ。
鍵は、その「自発的に」ってところなんだよね。誰かに言われて勉強したんだと、それは自分のものにならないわけ。それを知って、自分で自発的にそれを学ぼうとした人たちだけが、その「声」を自分のものにできたんじゃないかな。今もそうだと思う、できるんだと思う。その部分って、すごく、俺は重要だと思う。
カウボーイとインディアン
──片岡義男さんは当時『ロックの時代』(※)というロック・アンソロジー集を翻訳してましたね。珍しかったんですか、ああいう本が。
※ジョナサン・アイゼンが編集した1960年代ロックのアンソロジー集。『ローリングストーン』誌の名声を築いた初期のインタビューの数々が収録されている
北山 珍しかったですよ。ロックの評論を載せるような雑誌って、ほんとになかったし。『クロウダディ!』とか、いろいろ選んでたね。『ヴィレッジ・ヴォイス』(※)とか。片岡さんは『ヴィレッジ・ヴォイス』が好きだったみたい。
※ニューヨークで現在も刊行されている(1993年当時。2017年、プリント版の発行を停止。2018年、オンライン版での発行を終了し、現在は廃刊)。タブロイド判の週刊文化新聞
俺はやっぱり、自分がアメリカ行ったときに、片岡義男さんが見たアメリカと、北山耕平が見たアメリカというのが、対極にあるという認識を持ったね。自分は、「ロンサム・カウボーイ」(※)じゃなかった。結局、やっぱり、「アメリカ・インディアン」のほうに行っちゃったという感じで。インディアンとカウボーイと分ければね。
※『ワンダーランド』創刊号から連載された片岡義男の小説。シティ・ボーイにとって必要とされる「都市の見方」を書いている(『ロンサム・カウボーイ』1975年、晶文社*1979年、角川文庫。2015年、晶文社、改版)
──片岡義男さんと北山耕平さんの差異ということを考えてみたんです。どこが違ってるかみたいな。ひとつには、ドラッグに対する姿勢だったのではないかと思うんですが。
北山 違うと思いますよ、俺は。俺と片岡さんの大きな差っていうのは、白人とインディアンの違いくらい大きな違いだと思います。俺は片岡さんとあの時代、アメリカを一緒に旅行したいという意識を持っていたんだけど、結局、それは果たせなかった。
今思えば俺は、こういう言い方は非常によくないかもしれないけど、片岡さんと一緒に旅をしなかったことは、何か運命的なものが、やっぱりあったんだろうと思う。俺が片岡さんと一緒に旅をしていたら、「ロンサム・カウボーイ」の視点で、アメリカを見ただろうと思う。
そういう視点で俺がアメリカを見なかったことに関して、俺はすごく自分にとってありがたかったと思うし、そのことで、やっと、自分が何であるのかということを考えるきっかけになったから。それは、ドラッグに対する姿勢が違うとか、そういうんじゃないと思う。
──片岡義男さんは、はっきりとドラッグを否定されてますね。以前『かもめのジョナサン』(リチャード・バック、1970年)について書評を書いていて、自分はアスピリンの香りがするものはいやだ、もっと大地を踏みしめて生きるほうを選ぶのだ、という意味のことを書いてましたが。
北山 ドラッグに対する認識というものは、植草さん、片岡さん、俺という流れから言えば、やっぱり俺が一番ラディカルですよね。ただ、そのことに関して俺は、ぜんぜん後悔してないし、そこから得るものだって大きかっただろうと思う。その分危険もいっぱいあったし。
ただ、知りたいという欲求を殺すことはできない。結局片岡さんにしろ植草さんにしろ、アルコール文化の最後に出てきた人たちっていうふうに、俺は認識せざるを得なかった。その意味では、握手してきれいに別れましょう、というかたちでしかなかったしね。永遠に、お互い理解できない部分ってあるわけだから。その一点に関してね。
結局自分が70年代にアメリカ行ってみて認識してきたことは、あのとき『宝島』なんかで言ったことは、基本的な部分では間違っていなかったと思う。ただ、あの当時、みんながドラッグを体験しなきゃいけないというふうに思ってた部分があるんだけど、それはやっぱり、Everybody must get stoned!(みんなマリワナを吸わなくてはいけない!)という言葉がディランにあるけど、そういう影響だと思うよ。
今は、そうは思わない。その人によって、いろいろあるだろうなと思う。だから、片岡さんが、ドラッグに対して半分否定的な部分を持ってたことに関しても、今だったら俺は笑って済ませられるけど、あの当時は、俺は、自分としては純粋なつもりだったからね。筋は通さなきゃいけないと思った部分もあるし。だから、その部分は、難しいよね。
自分たちの新聞を作ろう|北山耕平インタビュー【第3回】(赤田祐一)
2020.5.17
文=赤田祐一
『クイック・ジャパン』創刊編集長・赤田祐一が創刊準備号で行った、編集者・北山耕平の歴史的インタビューの第3回。
雑誌『宝島』の編集長を辞めたあと、北山耕平は雑誌『ポパイ』(マガジンハウス)、雑誌『BE-PAL』(小学館)など、各社の新雑誌の創刊に関わり、新しいスタイルの記事の編集を仲間と一緒に開発する。
雑誌『写楽』(小学館)で連載されていた「イメージ・スーパー・マーケット」という企画ページは、日本におけるニュー・ジャーナリズムの最高峰の仕事だと、赤田は言う。山の中ではなく、街で雑誌を作ってほしいと、北山に迫る。
※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。
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ロック雑誌の中に「声」を探していた|北山耕平インタビュー【第2回】(赤田祐一)
アル中雑誌文化は終わるだろう
──北山さんみたいな方は、『ポパイ』作ったりして、やっぱり都市的な人だと思うんですよ。
北山 そうだよ、俺は街で生まれて街で育ったみたいなもんだから。
──そういう人が今、伊豆の山の中に来ちゃうというのは……。
北山 街が牢屋だからですね、やっぱり。見えない牢屋、でっかいね。“ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド”ですよ(笑)。
──僕なんかは、ばい煙吸って、コカコーラ飲みながら、都会で雑誌作るほうが、自分にはあってるみたいです。
北山 そうだろうね。
──体力という問題があるんですか。
北山 ビートニクなんかもふたつに分かれたよね。ゲイリー・スナイダー(※)みたいに山に入っちゃった人たちと、アレン・ギンズバーグ(※)みたいに最後まで街でやろうとした人たちと。どちらかというと俺は、ゲイリー・スナイダーが好きだった。自分が聞きたいと思ってる「声」に近いという意味で。
都市はやっぱり人造だよね。人工的なもの、すべてが。「声」自身はさ、ものすごく自然なものだから、都市の中で「声」を聞くのは、結構体力もいるし、気力もいるし、金もいるし。こうやって長靴(北山氏の履いていた“ワークブーツ”のこと)履いてヒョコヒョコ人の前に出ていけないしさ。芸者みたいにして、人とつき合って、仕事もらってというのが、自分の体質として、どうしてもできなかったのね。
そういう生き方をしてる人たちのそばにいると、やっぱり、つらくなっちゃうことがあって。夜中まで酒飲んで……っていう編集者っているじゃない? いまだにいるんだろうけど。
※ゲイリー・スナイダー:1950年代ビート派の代表的詩人。ジャック・ケルアックの小説『ジェフィ・ライダー物語』(講談社文庫)の主人公のモデルとしても知られる。
※アレン・ギンズバーグ:ビート派の代表的詩人。1958年に発表した詩集『吠える』で注目を浴びる。ボブ・ディランや佐野元春などのロック・ミュージシャンにも多大な影響を与えた。
──いまだにゴールデン街みたいな時代錯誤な編集感覚ってありますよ。信じられないけど。
北山 俺も信じられないけどね、いまだにあるんじゃない? でも、遅かれ早かれ、終わりだよね。日本の雑誌の文化って、すごく不健康だったんだと思う。アル中が作ってる雑誌みたいなもんでさ。男が作ってる女性誌みたいなもんでさ、不健康だよね。
──たとえば、コカインとマリワナがあったら、マリワナって感じですか、志向が。
北山 そうだね。俺はマリワナに非常に教わったことが多かったですね。
──マリワナ自体じゃなくて……。
北山 志向的に言っても、そうです。
──ありますよね、アッパー系とダウナー系みたいな。ドラッグって言ったのは、たとえで言ったんです。人間にもコカイン型とマリワナ型がいて、たとえば思想家だったら、柄谷行人という人はコカイン型。で、岸田秀という人はマリワナ型だと思うんですね、ぐにゃぐにゃした。
北山 そうだね。アッパーとダウナーというふうに分ければ、ダウナーだよね。
──ウィリアム・バロウズやニール・キャサディはコカイン系で、アレン・ギンズバーグはマリワナ系で。
北山 そうだね。
──デニス・ホッパーとか奥崎謙三とか、ああいう人はコカイン系、アッパー系だと思うんです。僕は、アッパー系の都市的なジャーナリストのイメージのほうが、好きなんです。
北山 ジョン・ベルーシ(※)とかね。
※ドラッグ中毒で変死をとげたコメディアン。米NBCテレビの人気番組『サタディ・ナイト・ライブ』が人気を決定的にした。その生涯については、ボブ・ウッドワード『ベルーシ最期の事件』(集英社文庫)にくわしい。
──そうですね。かっこいいと思うんです。
北山 まあ、かっこいいだろうね。それが非常に時代とも合ってるんじゃないの。そういう意味で、そのかっこよさはね。
──ああいうスタイルはかっこいいとは思うけれど、北山さん自身は、そんなに共感できない、という感じですか。
北山 いや、共感できないというんじゃなくて、「その道行く人はくれぐれも気をつけてください」としか言えないだけであって、自分は、その道は多分、とらないだろうということしか言えないわけ。共感は持つ部分もあるよ、もちろん。いずれにしたって、突き抜けちゃう人たちだから、共感を持ってないわけじゃないんだけど、ダウン・トゥ・アースじゃなくなっちゃうと思う。
俺は、やっぱり地球にくっついていたいし、この星から外に出ていく前に、この星でやることがあると思ってる。だから、地球から切り離すようなかたちで、精神が動くというのは、自分にとっては、好ましくないと思う。
イーグルスが教えてくれたこと
──たとえばパンク・ロックなんかだめなんですか。あれは都市の生み出したものですが。
北山 パンク・ロックっていうのは、別にパンクじゃないと思うんだよね、俺は。ロックは始めからぜんぶパンク・ロックだしさ。そう言ったら、ロックっていうものはさ、常に再生を繰り返してるから、その再生のときにそれがパンク・ロックであるというふうに呼ばれたし。
ずっとつながってるものだと思うよ。ロックの延長線上にあるものだよね。俺、クラッシュとか、最初の頃は好きだった時期があるし。ただ、都市型のロックっていうのはさ、都市にいる人にとってはリアルなのかもしれないけど、都市にいない人たちにとっては、まったくリアルじゃないんだよね。
だから、都市の音楽だろうなと思うわけ。特に、ある種の都市に住んでる世代の音楽なんだよね。
──北山さんの『写楽』に書かれた一連の文章をみると、やっぱりビートルズとか、ディランとか、『ローリングストーン』が応援していたアーティストを応援するような感じが強いですね。ジョン・レノンのことも、ずいぶん……。
北山 ジョン・レノンのことは、書いてくれっていう人たちが、結構いてね。地球とつながってるロックがいいよね、俺は。やっぱり、自分として、好きなのは、イーグルス(※)。イーグルスには、ほんとにお世話になったと、今でも思ってるんだよね。
※70年代のアメリカ西海岸を象徴するロック・バンド。アルバム『呪われた夜』は、カルロス・カスタネダの著書『ドン・ファン』シリーズの雰囲気をたたえる。
──「ホテル・カリフォルニア」(1976年)ですか。
北山 違う、もっと前、「テイク・イット・イージー」(1972年)とか、あの時代からずっと。だって、イーグルスがいなければ、自分はロサンジェルスに行こうとは思わなかった。イーグルスに会いたいために、ロサンジェルスに行ったみたいなところがあるから。
で、彼らのおかげで、自分は砂漠(デザート)というもののありがたさを知ったし、砂漠に入っていくことの、ある種、特殊な経験みたいなものをさせてもらったから、その意味ですごく、俺にとっては大きかったと思う。
──片岡義男さんにとって天啓を与えたエルヴィス・プレスリーが、北山さんにとってのビートルズとイーグルスみたいな。
北山 そう。イーグルスってのは、70年代のビートルズだよね。ビートルズのある部分を引き継いだことは確かだから。パンクっていうのも、ビートルズの、ある部分を引き継いで出てきてるよね。それぞれがまた違う道を引き継いでる。
ビートルズは、ほんとに、いろんな可能性に向かって爆発したから、それぞれがどこを引き継いだかによって、そのあとの道がみんな違ってくるのは当然だと思うよ。ボブ・ディランだって、ビートルズの影響受けてる部分が大きいしね。
──日本のバンド、ザ・モッズなんかも、聞いてらしたんですか。
北山 モッズは、俺、インタビューしてたからね、最初の頃。『写楽』で、ずっとインタビューしてたのは、モッズだったからね。
──『写楽』では、モッズの4人が並んでて、モッズのバイオグラフィーと少年犯罪のバイオグラフィーを交互に並べたページがありましたね。あれは、最高でした。
北山 そうだね。ああいうのをやらせてくれたってのは、ありがたかったよね。どうやったらみんなに伝えたいことを伝えられるかということが、やっぱり編集の技術でしょ。
──あのスタイルには、たまげました。
北山 ただ、年長者には、わけわかんないことだよね。世代の断絶っていうのは、いやおうなく、あの当時からあるわけでさ。おもしろいけどね。ただ、自分はやっぱり自分と同じ道の上にいる人が、好きなんだろうね。同じものを探してるような人たち。
あと、やっぱり、アメリカ・インディアンの、とくにローリング・サンダー(※)っていう人が、俺に与えた影響ってのは大きかったと思うな。それ以前と以後では、やっぱり、かなり、考え方もはっきりしてきたしね。
※インディアン共同体の老師のこと。北山耕平は、76年に渡米したとき、この老師に運命的に出会うことで、アメリカ・インディアンの世界の見かたに触れたと言う。詳細は北山耕平の訳書『ローリング・サンダー』(平河出版社)を読まれたい。
──転機みたいな感じですか。
北山 そう、使用前・使用後みたいな感じで。マリワナよりも強烈だったよね、あの人の存在のほうが。ただ、マリワナも強烈だったけどね。
──やっぱりそういう方向に傾倒されてからの北山さんというのは、すごく“オカルトの人”みたいなイメージが強いんです。僕は、もっと北山さんに、元気のいいジャーナリズム……さっき言った『写楽』の、少年犯罪とモッズを交互に紹介していくみたいなことをやってほしいんです。
北山 だって、そういう意味では、常にそれをやってられないから。自分の場合は、やっぱり、エネルギー充電してるときと、出してるときとに分かれてくるんじゃないかな。この10年間、新しいメディアが出てくるのを、待ってたことは確かだよね。
自分が仕事したいと思えるような雑誌が出てきてほしいなと思ってたけど、結局出てこないよね。メジャーの中からも、生まれようとしなかったし。
「イメージ・スーパー・マーケット」
──北山さんたちが『写楽』で連載されていた「イメージ・スーパー・マーケット」という企画ページがありましたね。あれは、日本におけるニュー・ジャーナリズムの最高峰の仕事だと思うのです。そもそもは、新しいタイプの新聞を作ろうという試みで始めたと聞いたのですが。
※1980年に『写楽』の創刊号から始まったオール・カラーの雑誌内新聞。アメリカの全国紙『USAトゥディ』を連想させるつくりは、カラー・テレビの活字版のようであり、新しいタイプのメディアであることを宣言していた。
北山 そうです。新聞作ろう、自分たちの新聞を作ろうと。それは本来、いまだに変わってないし、日刊新聞が作れりゃ最高だな、と思ってるひとりではあるんだけど。
──ずいぶん覚えてる企画がありますね。新宿歌舞伎町で風俗営業法が試行になった日、カメラを屋上から、コマ劇場前の噴水を狙って、俯瞰で“その日”を撮ったレポートとか。
北山 みんな、頑張ってたんだよね、あの頃。
──ああいうのは、北山さんが、すべて指示されるんですか。
北山 違います。あれは6人ぐらいのスタッフがいて、その中に小学館の人間がひとり入ってて、その人が進行をやって、その6人が話し合って、俺とFLYコミュニケーションズ(※)の長野真(※)さんでセレクションして、これとこれがおもしろそうだからっていうかたちで、最終的にアンカーをやるというかたちをとってたんですよ。
※FLYコミュニケーション:写真やイラストを使ったヴィジュアルな出版物の企画編集を主として行う会社。
※長野真:雑誌『アート・ワークス』の編集長でFLYコミュニケーションの代表者。FLYの設立メンバーであり、北山耕平と共に『湘南―最後の夢の土地』(1983年、冬樹社)、『ジョン・レノン家族生活』(1990年、小学館)、『スーパー・スヌーピー・ブック』(1985年、角川書店)、『アメリカの神々 アニー・リーボビッツ写真集 』(1984年、福武書店)などを編集していた。2012年没。
──歌舞伎町の噴水を午前0時に俯瞰で撮るとか、そういう視点は、誰かがディレクションしなくては、出てこないんじゃないでしょうか。
北山 それは、みんなで話をするわけ。毎週会議があって。何かを撮るのと、公開されたメディアの中から選ぶのと、いろいろ方法があったよね。どちらかを選ばなきゃいけないときもあったけど。それをどうするかっていうのは、会議で逐一決めていったの。
──じゃあ、それやってらした頃は、「イメージ・スーパー・マーケット」一本に、かかりきりですか。
北山 そうだよ。週刊誌なんて仕事やっちゃったら、毎週水曜日、夜中から朝まで徹夜とかさ。週一遍それやってグダグダになって、2、3日ボーッとしてて、月曜日になると会議が始まって、火・水ぐらいに取材が終わってきて、水曜日の夜中に原稿書くという、クレイジーな作業だよね。
──ひと晩で書いてたんですか。
北山 ほとんどひと晩ですね、全部。全ページふたりでひと晩で16ページ作るというかたちで。『宝島』にいたときに、自分はペラ(200字詰め原稿用紙)で180枚をひと晩に書いたことがあるわけ。だから、そこまでは書けるっていう自信みたいなものがあって、だいたい「イメージ・スーパー・マーケット」だと、40~50枚くらいで済むから、そうするとだいたいひと晩で書けるんだよね。あんまり考えないほうが、いいもの書けるんですよ。時代と反応するっていう意味では。
──技巧とかレトリックとか……。
北山 あんまり考えないほうがいいわけ。考えると、考えオチでつまんなくなっちゃって、狙ったなって感じでミスすることも多いんですよね。
──「イメージ・スーパー・マーケット」のキャッチ・コピーがよかったですね。
北山 あれは長野さんと俺との共同で。あれだけしか作らなかったこともありますよ。でもあれは、意外と、みんなタイトルがおもしろかったから、もってたみたいなところがあるし。
──ああいうのは大事ですよね。
北山 大事ですよ。“タイトリスト”っていう人がアメリカの雑誌にはちゃんといるし。タイトルだけ専門につけて、おもしろいキャッチ・コピー作っていく人たちだよね。日本だと、広告のコピー・ライターになれば、ものすごいカネ稼げるでしょ。広告じゃない世界のコピー・ライターって、カネ、稼げないんだよね。ただ、そういう人たちのほうが、無意識に与える影響は、でかかったりするわけ。
──片岡義男さんも、コピーがうまいですよね。
北山 じょうずだね。
──片岡さんは、頭の中で一回英語で考えて、翻案してるんでしょうか。
北山 そういう場合もあるんじゃない? 俺だって、そういう場合もあるもの。まず英語でできて、じゃあそれをどういう日本語に置きかえるかというのを次に考える場合とか。非常に大きいですよね。そういうかたちで動くときが。
──翻案ということに興味あります?
北山 ありますよ、谷譲次(※)が好きだったから。今でも好きですよ。谷譲次の文体が俺に与えた影響ってすごく大きいと思う。文体模写をしたのが非常に役に立ったよね。谷譲次も、英語で考えて書いてた人だよ。うまかった。その意味では先駆的な人だよね。で、独特の「声」を持ってたし。
※昭和初期の流行作家。谷譲次、林不忘、牧逸馬、と3つのペンネームを使い分けて作品を発表した。本名は長谷川海太郎。中でも、谷譲次名義による「めりけんじゃっぷ」シリーズは、1920年代のアメリカにおける日本人青年の放浪生活を、コスモポリタン的な視点で、ニュー・ジャーナリズム調に報告したもの。
──ああいう人も、日本の“ニュー・ジャーナリスト”って気がしますね。
北山 そうだね。でも谷譲次の場合、ほとんど翻案だよね。
──原案があるんですか。
北山 オリジナルがあって、向こうの三文雑誌みたいなものから記事を選んで、それを小説にしちゃうとかさ。じょうずだよね。すごくそういうのがじょうずな人だったね。だから、谷譲次が牧逸馬(まき・いつま)の名前で『世界怪奇実話』とかいうのを出してたでしょ。あれも、ほとんどそうだよね。かっこいいじゃんって感じで。今の時代に合ってるんじゃないかって気がするぐらいだから。ああいう人がいなくなっちゃったのは、惜しいですよね。実におもしろいけどね。好きだった。
自分の頭で考えて、自分の目で見て、自分の手で書く|北山耕平インタビュー【第4回】(赤田祐一)
2020.5.18
文=赤田祐一
『クイック・ジャパン』創刊編集長・赤田祐一が創刊準備号で行った、編集者・北山耕平の歴史的インタビューの第4回。
日本のユース・カルチャーが成長し、カウンター・カルチャーではなくなってしまっていた1993年当時、どんなカルチャーが、ジャーナリズムが必要であるのか。その問いは、つづく30年のIT時代のカルチャー、ジャーナリズムの環境を予見し、2020年の今、さらに切実な問題として迫ってくる。
※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。
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自分たちの新聞を作ろう|北山耕平インタビュー【第3回】(赤田祐一)
若者向けのニュース通信社を
──谷譲次は鎌倉出身の作家でしたけど、北山さんも鎌倉ですよね、ご出身は。
北山 生まれはね、辻堂ってところなんですよ。
──江ノ電のあるところですか。
北山 辻堂っていうのは……江ノ電の終点が藤沢でしょ。藤沢からJRでひと駅行ったところが辻堂。それで、子供の頃よくいたのが、稲村ヶ崎っていうところですよ。俺のおじいちゃんが稲村ヶ崎に住んでて、そこの家には、日本で最初のサーフィン工房が庭にあったからね。サーフィンをシェーブする工場? シェーバーがいて。だから、サーフィンとかそういう文化に触れたのは、早かったんじゃないかな。
──北山耕平というペンネームは、『宝島』の編集長をやめたとき、ばらしたんでしたね。その北山耕平という名前を、今、例えば書泉グランデ(東京・神保町)の2階のオカルト本コーナーとか、そういうところで見る機会が多いんです。
北山 そうだね。
──もっと『写楽』で展開されたような“ニュー・ジャーナリズム”的な仕事を見たいんですが。
北山 だって、仕事する場所がないんだもの。俺、コンピュータ使って、いくらでも雑誌の仕事できる体制に今あるんだけど。そういう、俺たちがやってるようなことを書かせてくれるような雑誌って少ないよね。だってないじゃない、実際上、そういうメディアって、考えられます?
──ないですね。作んなきゃ、ないです。
北山 そうでしょ。俺は、ほんとはニュース通信社を作りたかった。いまだにそう思ってるからね。ニュース通信社を作りたい。AP、UPIに並ぶような若者文化のメジャーなニュース通信社。その中に、“ニュー・ジャーナリズム”とか入ってても、もちろん構わないわけ、フィーチャー・ゲーム(※)なんだから。「今、何が起こってるのか」ということを、ロックならロックっていう視点から集めたニュース通信社が存在しててもいいわけじゃない? 今、ニューエイジ関係の通信社を作れないかと思ってるけど。ユース・カルチャーが、成長しちゃったからね。
※フィーチャー・ゲーム:トム・ウルフが『ザ・ニュー・ジャーナリズム』の中で発明した造語。日本語にしづらいが、おそらく、フィーチャー(読み物)とフューチャー(未来)を、二重の意味で用いている。
──そうですね、今や、カウンター・カルチャーでも、なんでもないですよ。
北山 なんでもない。アメリカなんかでは、メジャーになるかもしれないところまで、きてるわけだから。
──カウンター・カウンター・カルチャーを作らないといけないんですよ(笑)。
北山 そうそう。それがパンクだったし。ジャーナリズムの中のパンクが、突然出てくるよね。それはそれでいいんだよ。お互いに、それで持ちつ持たれつなんだから。だから別に、俺は、パンクの人たちが嫌いじゃないけど、「気をつけてね」って言う。リアリティに触れるときって、やっぱり、問題が大きくなるからね。
竹中労とハンター・トンプソン
──さっきの“ニューエイジ”って話なんですけど、北山さんが編集した『ニューエイジ「大曼荼羅」』(※)(1990年、徳間書店)という本がありますね。あそこの巻頭で書いてらした”ニューエイジ“の定義と、僕の考えてる”ニューエイジ“とは、ちょっとニュアンスが違うんです。
僕のほうは、もっと知的で不良で元気な若い世代みたいな、そういう意味合いが強いんです。ジャーナリズムにおけるヌーベルヴァーグ運動のような、ホールデン・コールフィールドやハックルベリィ・フィンや『AKIRA』のカネダやテツオが隣にいる友人に語りかけるような、そんな“新しいジャーナリズム”を、目指しているんです。
雑誌を出すときに、創刊のマニフェストみたいな感じで、この雑誌の好きなものを挙げていこうと思うんですね。そのとき、ハンター・S・トンプソン(※)とかトム・ウルフとか、並べようと思うんです。たとえば、竹中労(※)さんって方がいましたね。僕は、トンプソンと竹中労さんとは、意味的に、同じニュー・ジャーナリストなのだと思うんですよ。
※『ニューエイジ「大曼荼羅」』:80年代の終わりに、情報誌『ルームガイド』内に連載された週刊新聞『グッドライフ・タイムズ』を北山耕平・編でまとめたもの。ニューエイジの思想に基づく新しい世界の見かたの提案書。
※ハンター・S・トンプソン:「ニュー・ジャーナリズム界の気狂いピエロ」の異名をとる体験派ジャーナリスト。現在『ローリングストーン』国内事件班のデスク編集者。代表作『ヘルズエンジェルズ』はニュー・ジャーナリズムの古典的傑作。
※竹中労:一昨年(1991年、掲載当時)60歳で逝去したストリート・ジャーナリスト。「元祖トップ屋」の異名をとり、今の日本の芸能ジャーナリズムの原型を作り出した。
北山 俺は、ぜんぜん違うと思う。
──……そうですか。竹中労さんも『「たま」の本』(1990年、小学館)とか、それほどいいとは思わないけど、たとえば、かつて『話の特集』(話の特集社)の臨時増刊号として刊行されたルポルタージュ『ザ・ビートルズレポート』 *33 (1982年、白夜書房)とか、『鞍馬天狗のおじさんは』 *34 (1976年、白川書院)というインタビュー集などは、非常に近いと思いますけどね。
北山 うーん……。というかね……。
──竹中労さんのケンカ・ジャーナリズムと、トンプソンのゴンゾー・ジャーナリズム *35 を繋ぐような感覚っていうのを、僕は、この雑誌に持たせたいと思っているんです。
北山 だって歌謡曲とロックぐらい違うじゃない? “ゴンゾー”っていう点で切れば一致してるかもしれないけども、トンプソンにしてもトム・ウルフにしても、記事を書いてる力っていうのは新しい意識なんだよね。竹中労さんっていうのは、古い意識だよね。古い意識の最後の段階で、一所懸命やってるって感じはするけど、よって立ってるステージが違うと思う。だから、それがまったく同列のジャーナリストであるというふうには、俺には見れないの。
──もちろん、今、竹中労と言ったのは、竹中労さんの、ほんとに良質の2、3の本ですよ。
北山 だから、“ゴンゾー”というところで切るだけだったら、ある部分ね、ほんとに一致するところは、いっぱいあるよ。そういうので、元気を出せるかもしれないけども……なんというんだろうな。現実(リアリティ)というものに、どうアプローチしてるかというと、竹中労さんは竹中労さんだし、ハンター・S・トンプソンはハンター・S・トンプソン。そのアプローチの仕方は、ちょっと違うような気がする。自分の意識を前面に押し出してジャーナリズムを竹中さん自身が展開するというかたちじゃないからね。生き方はゴンゾーかもしれないけども、本はまともだよね、極めて。ハンター・S・トンプソンは、本もまともじゃなければ、生き方もまともじゃないというところから始まってるから。
──トンプソンも、かなり、自己演出をしてるジャーナリストだと思うんですよ。
北山 あいつ、大統領に立候補したりとか、いろいろしてるわけだよね。
──最近も、ダイナマイト不法所持で、逮捕されてりしてますもんね。
北山 もともとそういうヤクザなんだ。ドラッグの不法所持で捕まったりとか、繰り返してる人間だから。
──それは、かなり演出してると思いますけどね。でなきゃ、文章、書けないと思うんですよ。
北山 でも、アメリカって、ああいうやつがいるんだよね。言行一致してる人。トム・ウルフのほうが演出してると思う。その意味ではもっと明快に演出してると思う。だからどっちがおもしろいかと言えば、俺はハンター・S・トンプソンのほうがおもしろいと思う。ハンター・S・トンプソンで、俺がほんとに感心したのは『ヘルズエンジェルズ』 *36 だよね。地獄の天使たち(ヘルズエンジェルズ)というグループの中に入って、初めてそれをルポしたときの姿勢のほうが、俺は好きだ。自分が隠れてる、自分を前面に出してないという意味において。出てるのは意識の流れだけという部分は、非常に好きだった。
トム・ウルフにしても『クール・クールLSD交感テスト』 *37 (1971年、太陽社)の中で好きだったのは、意識の流れに対して、彼自身の姿勢が非常に忠実だったというところだよね。日本の場合は、どうしても、演歌っぽくなっちゃう人だっているわけね。ヤクザとかさ。泣かせよう泣かせようという、ある種のパターンがあるでしょ。どうしても、日本人に好まれるようなものって、カラッとしてないわけ。余韻を引きずるようなものがいいとかね。
──演歌しか売れないんですか、日本では。
北山 わかんない、これからはわかんないけど、やっと変わりつつあるかもしれない。今、日本では、古いものがようやく終わろうとしている時期であって。アメリカでは、“ゴンゾー・ジャーナリズム”みたいなものは、新しいものの始まりとして出てきた。日本でも、ハンター・S・トンプソンのような人たちが出てきて、初めて次の世代のジャーナリズムというものが完成していくと思うわけ。あれに代わる人たちが、日本でも、出てくればいいんだけど。
*33 『ザ・ビートルズレポート』…ビートルズ来日時、『話の特集』の臨時増刊号として刊行されたレポート。竹中労は、来日したビートルズと同じヒルトンホテルに陣取り、6人の記者とチームを組み、7日間不眠不休で、ビートルズ・フィーバーを書き上げた。三島由紀夫、五木寛之、深沢七郎らから激賞された。
*34 『鞍馬天狗のおじさんは』…“鞍馬天狗”で有名なアラカンこと嵐寛寿郎の口調を、竹中労の情熱が、見事にすくい上げた聞き書きの最高傑作。マキノ雅弘が「世界一オモロい本や!」と折紙をつけていた(1992年、ちくま文庫。2016年、七つ森書館)。
*35 ゴンゾー・ジャーナリズム…“ゴンゾー”とはイタリア語で「やくざな」の意味で、“ゴンゾー・ジャーナリズム”とは、トンプソンが生み出した取材スタイルの呼称。トンプソンの取材法は、トンプソン自身が暴走族や鮫狩りや大統領選挙の渦中に飛びこんでいき、関係者の考えや行動をなまなましく伝える「主観的報道」である。
*36 『ヘルズエンジェルズ』…1960年代後半、カリフォルニアに出現した暴走族集団“ヘルズエンジェルズ”の中に、トンプソンが自ら18カ月間、身分を隠して潜入し、書き上げたレポート(創刊準備号にも寄稿する作家の石丸元章による翻訳版が、2011年、リトルモアより刊行 )。
*37 『クール・クールLSD交感テスト』…1960年代後半、トム・ウルフがLSDパーティに飛び込み、全米中をフラワー・チルドレンと共にバスで狂ったように走り回った記録をまとめたレポート。狂気すれすれのエネルギーが、翔んでる文体から伝わってくる(1996年、改定版)。
テレビに負けない新しい新聞を
──そういう若くて元気なジャーナリストたちの書くものを、フィーチャーする感じで、この雑誌を作ろうと思ってるんです。そのテーマを“ニューエイジ・ジャーナリズム”という言葉を使って展開していこうと思ってるんです。
北山 女の人なんかでもいます? そういうのを書く人。
──女の人は少ないですね。探してるくらいです。特に20代の女性ライターってのは少ないようですね、おもしろい人が。
北山 そうだね。たとえば、フィリピンから出稼ぎに来てる女の人たちのドキュメンタリーとか、おもしろいもの書けると思うんだよね。暗くしないで、悲惨な面だけじゃなくてさ、どうやって日本を見て、何をやってるかっていうのをさ。そういうのって、ぜんぜん、誰もやろうとしないしね。
──特に女性の署名性のあるライターは、浮上してきてない感じがしますね。
北山 みんな、エッセイストになっちゃうんだろうね。でも、俺はやっぱり、今度、ジャーナリズムってのは、ちゃんと大人になるときだと思う。日本のジャーナリズムっていうのが、子供だったとは言わないけれど、世界とシンクロしてないことは確かだし。これからの10年間、日本の“ニューエイジ・ジャーナリズム”っていうのが、ほんとに試されるときじゃない? ジャーナリズムが成長しなきゃいけない時期にあることは、確かだと思うよ。あと、やっぱり、アンカー・システム *38 というものがある限り、日本のジャーナリズムはダメだろうと思う。俺は、あれが限界だろうと思う。
──やっぱり自分で、レッグ・ワーク *39 で、足を使って、取材しないとダメですね。
北山 自分の頭で考えて、自分の目で見て、自分の手で書くというのが、本来のジャーナリズムで、それじゃないとおもしろいものができない。コピーだけのおもしろさになっちゃってたり、つまんない記事をどうやって長くして読ませるかという方法になったりすると、やっぱりやばいだろうなと思う。で、この世界って、往々にしてそうなりやすいし。そこの部分が自分にとっては、あまり見たくもないしね。
──取材対象に対して一歩踏み込んでいくようなルポってありますよね。さっき言ったトンプソンの『ヘルズ・エンジェルズ』とか。
北山 いっしょに生活してみるってことだよね。
──そうです。ゲイ・タリーズ *40 だったら『汝の父を敬え』 *41 で、マフィアの一族の中に入って2年間密着取材したりですね。そういう体験レポートは考えないんですか。
北山 考えられるよ。アメリカ・インディアンのことは、それでやろうと思ってる。自分で中に入った体験から書くしかないから。そうすれば、学者が書いたものとも違うものが書けるはずだし、もっと生の「声」を伝えられるはずだし、文化人類学の対象としてその人たちを見るんじゃなくて、ちゃんとある種の尊敬をもってその人たちを見る方法が、絶対あるはずだから。ただ、威勢のいいジャーナリズムと言われても、まず第一に場所がないことと、今の東京にそれを伝えたいようなことはいっぱいいろんなことが起こってるんだけど、それに値するようなメディアが、ほんとに見出せないというかさ。
──じゃあもし、メディアがあったら、一番やりたいというのが、日刊新聞ですか。
北山 そう。それ以外はもうあんまり興味ないからね。いっそのこと、新聞が力を持つ時代が、もう一遍来てもいいと思う。テレビに負けないような新聞だよ。読むに値する新聞。テレビのあと追いをやってるような新聞じゃなくて、ある種の知性に耐えうるような新聞。
もうひとつは、地域に根ざしたもの。日本っていうものを、きちっとターゲットに入れた日本の雑誌とかね。「今、日本で何が起こっているのか」を世界に紹介するための雑誌とかさ。それは、やったら、おもしろいんじゃないかなという気はしてる。
あとは、ニューエイジ的な世界の認識の仕方というものが使えるためのメディア。たとえば、アメリカにあるニューエイジ・マガジンとか、それに匹敵するようなものが欲しいなとは思う。別に俺は、オカルトをやってるわけでもないし、宗教やってるわけでもないんだけど、ある部分、それと抵触し合う部分があるから。
──今の北山耕平さんの仕事っていうのは、やっぱり“オカルト的”に見えてしまいますね。
北山 そうだろうね。俺はある部分、それでいいと思ってる。
──映画『ホピの予言』 *42 のスーパーバイザーをされたりとか。
北山 『ローリング・サンダー』(1991年、平河出版社)を訳したりとかね。それは、自分にとって病気の治療みたいなもんでさ、必要だったんだからしょうがないんだよ。自分が成長することにおいて、必要なことっていうのは、おカネになろうがなるまいが、やらされるからね。
*38 アンカー・システム…現場を踏むことはまったくなしに、データ原稿をもとに、記事に仕立てあげるシステム。かつては、それが、客観的に真実をとらえるスタイルだと信じられた。
*39 レッグ・ワーク…どんなに時間がかかっても、自分の足で取材し、自分の目で物を見て、自分で、原稿を書くこと。ニュー・ジャーナリズムの特色のひとつ。
*40 ゲイ・タリーズ…「ニュー・ジャーナリズムの父」と呼ばれる。都会的に洗練された文体で、主として「変貌するアメリカ」というテーマを、あたかも小説のように書くことで知られる。
*41 『汝の父を敬え』…没落するマフィア集団の内側に入りこみ、7年間にわたり、家族ぐるみの交際をして書きあげたタリーズの代表作。
*42 『ホピの予言』…アメリカ・インディアンのホピ族に伝わる予言を追いかけたドキュメンタリー映画(1986年)。監督・宮田雪。
ニュー・ジャーナリズムには人生が凝縮されている|北山耕平インタビュー【最終回】(赤田祐一)
2020.5.19
文=赤田祐一
『クイック・ジャパン』創刊編集長・赤田祐一が創刊準備号で行った、編集者・北山耕平の歴史的インタビューの最終回。
ニュー・ジャーナリズムとは何か。これまでのジャーナリズムと何が違うのか。日本においてニュー・ジャーナリズムは可能か。『クイック・ジャパン』は、ニュー・ジャーナリズムの精神を1990年代の日本で展開する試みだった。それは、創刊から25年が経った今も変わらない。
赤田は創刊準備号の特集を、「ニュー・エイジに贈るジャーナリズム讀本」と銘打った。
※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。
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自分の頭で考えて、自分の目で見て、自分の手で書く|北山耕平インタビュー【第4回】(赤田祐一)
トム・ウルフと杉村楚冠人
――以前、『ポパイ』誌上で、北山さんは“ニュー・ジャーナリズム特集” *43 を組んでましたね。「ニュー・ジャーナリズムとは音楽の世界でいえば強烈なロックなのだ!」という題で。あれを執筆されたのは、トム・ウルフ編の、“ニュー・ジャーナリズム”についての、ぶ厚いアンソロジーが出たのが、きっかけなんですか。
北山 そうですね。トム・ウルフの『ザ・ニュー・ジャーナリズム』 *44。でも、一番最初にやったのは、『宝島』で「新しい意識が鉛筆を握るとき」(1976年7月号)という、『宝島』の文章読本を作ったときです。あれが最初ですよ。
――トム・ウルフの『ザ・ニュー・ジャーナリズム』の手法を、杉村楚人冠(すぎむら・そじんかん)の『最近新聞紙学』 *45 の手法と、合体させて紹介した記事ですね。
北山 そうそう。『宝島』が最初ですよ。その次に『ポパイ』で、“ニュー・ジャーナリズム”っていうものを、きちっと紹介するやつを、一度やってみようかなと思って、あれをやったの。
――アメリカで見つけて読まれたんですか。
北山 そうそう。まだこういうちっちゃい版じゃなくて、大学の教科書みたいなやつだったけど。アンソロジーでしょ。
――この中に「ギア」ってロック・レポートがありますよね。あれを訳して、この雑誌にいずれ載っけようかと思ってるんです。ヒップな話ですね。
北山 これを書いたリチャード・ゴールドスタインも、『ローリングストーン』の有名なジャーナリストですよ。もう亡くなっちゃったんですけど。1979年か1980年ぐらいかな。追悼号が出てると思いますよ、『ローリングストーン』から。
――『ヴィレッジ・ヴォイス』の常連寄稿者ですね。読んでらしたんですか、コラムを。
北山 うん。この人がロック・ジャーナリズムの最初みたいなもんだよね。この人がロック・ジャーナリズムを初めて、ヤーン・ウエナー *46 が引き継いで、ベン・フォン=トーレスとかそういうライターが出てきた。俺は“ニュー・ジャーナリズム”の中でも、特にロック・ジャーナリズムに興味を持ってたから、その中では、リチャード・ゴールドスタインは、一番印象に残ってる人のひとりだよね。ああいうのを書けたらいいなと思ったことは覚えてる。『ザ・ニュー・ジャーナリズム』の中で、自分の興味持ったものっていくつかあって、たとえばジョージ・プリンプトン *47 とか。
――プロ・フットボール・チームに体験合宿する『ペーパー・ライオン』を書いた人ですね。
北山 そう。あとは、『裸で眠るのですか?』を書いたレックス・リード *48。レックス・リードって、今野雄二さんが好きで、日本にいっぱい紹介してたけど。
――『ゴング・ショー』に出てましたね。
北山 『ゴング・ショー』でもやってたね。やっぱり自分にとって、一番“ニュー・ジャーナリズム”で影響を与えたのは『ローリングストーン』だね。その時代が、自分にとって、すごく印象強かった。だから、これが紹介できたらいいなという思いが強かったんだよね。
*43 “ニュー・ジャーナリズム特集”…北山耕平が『ポパイ』78年22号に発表した特集記事。タリーズ、ウルフ、トンプソンなどが、じつに的確に紹介された。ニュー・ジャーナリスト志望の人は必読。
*44『ザ・ニュー・ジャーナリズム』…70年代の初め、トム・ウルフが自ら編集したアンソロジー集。ニュー・ジャーナリズムの若い書き手たちの生きのいい文章が集められている。収録された書き手は、レックス・リードからトルーマン・カポーティまで21人いる。日本ではまだ、翻訳されていない。
*45『最近新聞紙学』…『朝日新聞』および『アサヒグラフ』の発展に足跡を残した敏腕ジャーナリスト・杉村楚人冠が書いたジャーナリスト入門書。大正4年(1915年)刊。刊行された時代は古いが、ニュー・ジャーナリズムの教科書として読むことのできる秀れた本。今(当時)では復刻版(1970年、中央大学出版部)が出ている。
*46 ヤーン・ウエナー…『ローリングストーン』の編集発行人。バークレー大学をドロップアウトしたのち、1967年、弱冠21歳で『ローリングストーン』を創刊した。
*47 ジョージ・プリンプトン…文芸誌『パリス・レヴュー』の編集長。インタビューの名手であり、スポーツ・ノンフィクションに定評がある。
*48 レックス・リード…1960年代に「あなたは裸で寝ているのですか?」とスターに質問し、本誌を語らせてしまうことで有名になったインタビュアー/俳優。他に『ここでは皆狂っている』がある。
ジャーナリズム、「ニュー」と「オールド」
――日本の“ニュー・ジャーナリズム”ということで、坂本正治さんの『北緯40度線探検隊』 *49 (1977年、角川書店)を選んでますね。
北山 読んでてそう思った。あれは、意識の流れに基づいた本だよね。彼は『ポパイ』のスタッフ・ライターだったのね。
――オートバイで日本列島を北緯40度線に沿って横断するっていう、痛快な話ですね。
北山 あれは、すごくおもしろかった。ああいうのは、日本では、ノンフィクションって言われちゃうんだけど。その後、彼は、あんまり書いてないみたいだけどね。
――日本だと、あと、ノンフィクションの特集号で、『中央公論』臨時増刊 *50 がありましたね。
北山 出ました。ゲイ・タリーズの翻訳とか、トム・ウルフの短編も1本入ってたりとか。
――『グレート・シャーク・ハント』という、川本三郎さん訳の鮫狩りの話も入ってたり。
北山 あれはハンター・S・トンプソンでしょ?
――そうです。立花隆さんの『宇宙からの帰還』 *51 (1983年、中央公論社)も収録されたり。あの増刊号が出たことで、日本における“ニュー・ジャーナリズム”の流行は、終わっちゃった感じがしますね。
北山 そうね。流行みたいにしようとして、それで終わっちゃったんじゃないかね。
――流行にならないで。だって『ラスベガスをやっつけろ!』*52 なんて傑作が、2年前にやっと翻訳されたんですからね。
北山 そう。流産したみたいなもんだよね。でも、あれは翻訳は大変なんだよね。『ラスベガスをやっつけろ!』みたいなやつってのは、その世界を知ってる人じゃないと、訳せないでしょ。ムロケン *53 はじょうずだよね。すごくじょうずだなと思った。彼が初代『宝島』の編集長ですよ。
――立花隆さんなんかどう思います? 彼も、作品のテーマの流れだけ見てると、トム・ウルフのあと追いみたいなんですね。
北山 そうだよね。
――『ザ・ライト・スタッフ』 *54 のあとに『宇宙からの帰還』を書いたりとか、ゲイ・タリーズの『汝の隣人の妻』 *55 の翌年に『アメリカ性革命報告』 *56 を書いたりとか、“ニュー・ジャーナリズム”をマークし、追っかけてる印象がありましたね。
北山 彼の場合、やっぱり、新しい意識というものに興味が足りない……。いわゆる日本の伝統的ジャーナリズムにのっとった上での技法としてはすごくじょうずなんだと思うんだけどね。資料の集め方とか並べ方とかさ。ただ、それを貫くひとつの意識があるかというと、俺は、そこまでは満足いかないわけ。それはやっぱり、決定的な体験みたいなものが、何かないんじゃないかな、その人にね。たとえば、ゲイ・タリーズなんて、自分でやってるわけだよね。
――「なにごとも、試してみなけりゃわからない」と言って、『汝の隣人の妻』で、自分でマッサージ・パーラーの経営者になってみたりして。
北山 うん。で、その中からつかんだもので、やってるわけだけど、「取材して」というかたちのやり方だと評論は書けるけど、ライフ・ストーリーは書けないと思うんだよね。“ニューエイジ・ジャーナリズム”、あるいは“ニュー・ジャーナリズム”というのは、ライフ・ストーリーだと思う。人生がそこに凝縮されてる、みたいなもので。たとえばその瞬間、ある瞬間の切り方なんだけど、そこに、いかに、どのくらいの人生が凝縮されているかということ。読んだ人間がそれによって啓蒙(エンライトメント)されるか、娯楽(エンタテインメント)されるかはともかくとして、日本の場合だと、評論で、なるほどこういうふうに言ってるのか、こういうことなのか、というかたちで満足するってとこで終わっちゃう。だから、宇宙の話を書くとき、宇宙飛行士になったつもりで書けないでしょ? “ニュー・ジャーナリズム”は、それを、平気でやってるわけだよね。
――見てきたように、書きますね。
北山 ただ、どっちのほうが伝わるか、ほんとのことを伝えるか……。“ニュー・ジャーナリズム”的な手法は、非常に危険な部分はあるんだ。ようするに、片方の思い入れだけで書いちゃうみたいなことだね。トゥー・マッチな部分は出てくる可能性もあるんだけど、どちらが現実(リアリティ)というものに肉薄してるかといったら、“ニュー・ジャーナリズム”のほうが、俺は肉薄してると思う。距離を追いて評論するよりは、中に入ってある種の意識の流れのもとに書いたっていうことのほうが、リアリティを伝える方法としては、優れてると思う。今、みんなが求めてるのは、リアリティなんだと思う。それは、ある種の生きてる実感みたいなものだし、その部分をどうやって伝えるかということのほうが、どう生きるかってことを伝えるより、すごく重要なんだと思う。実際に、こうやって生きてるというかたちを、きちっとある種のリアルさを持って伝えることのほうが、すごく重要になってきてるんだと思う。
*49 『北緯40度線探検隊』…日本で初めてニュー・ジャーナリストを名のった坂本正治が『CAR GRSPHIC』に発表した、オートバイ・ノンフィクション。日本語におけるニュー・ジャーナリズムの可能性を追求した。
*50 『中央公論』臨時増刊…立花隆『宇宙からの帰還』を中心に、沢木耕太郎と柳田邦夫の対談「ニュー・ジャーナリズムをめぐって」、トム・ウルフ、ハンター・S・トンプソン、マイケル・ハーのレポートが掲載された。
*51 『宇宙からの帰還』…立花隆がアメリカの宇宙飛行士たちに行った克明なインタビューをもとに、宇宙体験が彼らに、どのような意識の変化をもたらしたのかを調査したレポート。
*52 『ラスベガスをやっつけろ!』…トンプソンのクレイジー・ロード旅行記。車のトランクいっぱいに、あらゆるドラッグとテープレコーダーを積み、「アメリカの夢」というテーマの本をまとめる目的で、ラスベガスに向かうレポート。
*53 ムロケン…『ラスベガス をやっつけろ!』の翻訳者、室矢憲治のこと。『宝島』初代編集長であり、現在(当時)は『SWITCH』 などにロックに関する文章を寄稿。日本のカウンター・カルチャーの生き証人。
*54 『ザ・ライト・スタッフ』…ウルフが、マーキュリー計画に参加した7人の宇宙飛行士を取材し、巧妙に国の英雄に仕立てあげられる経緯と、とまどいを解きあかしたレポート。
*55 『汝の隣人の妻』…タリーズが、自らマッサージ・パーラーを経営し、アメリカ人の寝室を取材したレポート。
*56 『アメリカ性革命報告』…ウーマン・リブ、チャイルド・ポルノ、ゲイ解放運動など、あらゆる性革命が行われるアメリカを、数々の資料にもとづき分析したリポート。
思想家としての片岡義男
――「ザ・ニュー・ジャーナリズム」には、トム・ウルフの序文がありましたね、ニュー・ジャーナリズム論 *57 が。あれを、常盤新平さんが以前、『海』(中央公論社)で訳してましたね。
北山 そうだね。
――一部なんですね、それも。
北山 もったいないよね。
――ほんと、もったいないですよ。宝の山みたいな本ですね、これは。
北山 そう。教科書みたいなもんだよね。あと、もう1冊、『レポーティング:ザ・ローリング・ストーン・リーダー』 *58 という本があるんだよ。俺はそっちのほうが好きだったくらいで……。
――それは『ローリングストーン』誌についての研究本ですか?
北山 違う。『ローリングストーン』に今まで書いた何人かの有名なスタッフ・ライターがいるよね。その文章使って『ザ・ニュー・ジャーナリズム』と同じように作った本なの。ポール・スキャンロンというスタッフ・ライターのひとりが序文を書いて、ロック・ジャーナリズムのやり方を、レポーティングの方法を本にした。その本のほうが俺にとっては影響を与えたよね。ペーパーバックスで出てた。すごくおもしろい本だよ。すべての新聞が“スタイル・ブック”って持ってるじゃない? その本は、『ローリングストーン』の記者に読ませるために『ローリングストーン』のスタイル・ブックみたいなかたちで編集したものなんだけど、それが自分なんかの勉強したものとしては、すごく役に立った。いまだに俺は、あの当時の『ローリングストーン』のスタイルが好きだし、そういうメディアがあるといいなと思ってたし。それは変わらないと思うんだよね。自分としても、そういうスタイル・ブックみたいなものは、いつか作らなきゃいけないんじゃないかと思ってるわけ。新しいメディアに対応するようなものをね。
――僕らにとっては昔の『宝島』がスタイル・ブックです。北山さんが作られてた頃の『宝島』が編集のお手本なんですよ。
北山 今は、あそこから始まったみたいな人が多いからね。あれがスタート地点だとしたら、俺は、あれに代わる次のものが出てきて欲しいと思うもの。
――日本で、“ニュー・ジャーナリズム”感覚のある本というのは、何かありますか。
北山 うーん……。
――僕はさっきも言ったんですけど、竹中労さんのチーム・ジャーナリズムの傑作『ザ・ビートルズ・レポート』が最高ですね。あと、北山さんが編集された『ポール・マッカートニー・ニュースコレクション』 *59 (1980年、合同出版)。『写楽』の雑誌内新聞「イメージ・スーパー・マーケット」、それから、『ローリングストーン日本版』 *60 (ローリングストーン・ジャパン)ですね。
北山 はい。俺、あの雑誌の編集長をやる予定だったんですよね。「やらないか?」って言われてたんです。あの雑誌が売れなくて、潰そうか、まだやろうかというときに、オーナーだったレックス・クボタ *61 から連絡があって、「編集長やらないか?」って言って、やろうかな……と思ったときに、雑誌が終わっちゃったんです。レックスと俺は、よく知ってたんですよ。あいつは、フィリピンで自殺したという話だけどね、誰も信じてない。レックスの一生って、絶対、俺はいい話を書けると思うんだよね。
――フリーキーな人だったそうですね。
北山 もう、めちゃくちゃですよ。
――お金持ちの息子なんでしょう?
北山 そう、貿易会社の社長の息子でね、ジョージアかなんかの大学に留学してて、オールマン・ブラザースとか、そういうところにコカイン配って歩いてたというプッシャーでね。その線で『ローリングストーン』という雑誌と繋がって、権利もらって、日本に帰ってきてやってたんだけど、売れなくて。それでもう潰れちゃうというときに、俺のところに連絡が来て。俺もやってみてもいいかなと思ってるうちに、潰れちゃったの。惜しかったんだけどね。
――惜しかったですね。可能性がありましたから。日本版の、和物と洋物をミックスした感じはヒップでおもしろかったです。やっぱり1970年代の『宝島』のライバル誌だったんですか?
北山 そりゃそうですよ。『宝島』だってもともとは『ローリングストーン』を作ろうと思ってたもの。『宝島』と『ローリングストーン日本版』が一緒になってれば、もっとパワフルな雑誌になってたと思うよ。惜しかったよね。レックスの一生というのはすごく、それこそ、”ニュー・ジャーナリズム”の格好の対象として存在してることは確かだよ。伝説の人だもんね、レックス・クボタというのは。我々の世界では。
――それはアナーキーな面においてですか。
北山 そう、生活のすべての面において完璧な”ゴンゾー”だったという意味で。日本のロック界に彼の影響受けた人って多いんじゃない? ものすごく多いと思うよ。実質的な影響受けた人ね。
――寺山修司さんの、『人生万才』(1990年、JICC出版局)ってご存知ですか。
北山 知りません。
――寺山修司さんが、70年代、『日刊ゲンダイ』の中で、毎週2ページずつ、ゲリラ・ページを作っていたんです。”宝探し”といって、東京のどこかに1万円埋めといて、そのドキュメンタリーを毎回報告するもので。
北山 ああ、見たことあります、昔。
――あれは、東京の街をおもちゃにしちゃうような感覚があるんですよ。あと、開高健さんが若い頃書いた『ずばり東京』(1982年、文藝春秋)という本があるんです。それはご存知ですか。
北山 知りません。
――昔の「週刊朝日」に連載してたもので、東京のルポなんです。毎回、開高さんが東京のどこかへ行って、見てきたことを書くというもので、毎回、文章のスタイルを変えてるんです。あるときは養鶏場のブロイラーの鳴き声で、ブロイラーがしゃべるという手法で、鶏が絞め殺されるまでを書いたり。若い開高青年が、毎回どこかに出勤していく感覚が、すごくあるんです。
北山 そうだね、動いてるっていうね。
――ワイージーって人がいますね、カメラマンの。警察無線を常に盗聴して、事件があったらすぐ現場に駆けつけて写真を撮るみたいな。そういう感じが開高さんにあって、すごくおもしろかったですね。
北山 横尾忠則さんの書く文章も、近いときがあるでしょ? “ニューエイジ・ジャーナリズム”っぽいときが。
――あれは、意識の流れを書いてますよね。
北山 そう、ずっと。だからときどきハッとするときがあるもんね。横尾忠則さんの文章って、不思議なバイブレーションを持ってる。
――横尾忠則さんのエッセイ集『暗中模索中』(1973年、河出書房新社)の中にも、そんな文章がいくつかありますね。
北山 そう、だから、非常に読んでておもしろいときがある。エンタテイメントになるときがあるし、心地よいときがある。あとは誰だろうな……。先駆的な人としては、さっき言った谷譲次だよね。『めりけんじゃっぷ商売往来』(教養文庫)とか『踊る地平線』(同)とかいろんな種類があるけれど。それから、片岡義男さんのエッセイが、そうだった。『ロンサム・カウボーイ』(1975年、晶文社)までの、片岡義男さんのエッセイ。
――北山さんが編集した『全都市カタログ』 *62 (1976年、JICC出版局)は、まず、「片岡義男」という項目から始まってましたね。
北山 そうです。それはだから、俺の独断ですよね。自分に誰が一番影響を与えたのかということをいえば、片岡義男さんだった。片岡さんは、あの当時、思想家として優れていたと思うよ。ロックというものに対する認識の仕方が、斬新だったと思う。『ぼくはプレスリーが大好き』 *63 (1971年、三一書房)、やっぱりあれが決定的だったんじゃないかな。あの本は、片岡さんの中じゃ、5本の指に入るくらいのすごい本なんじゃないかな。力のある本だよね。そのあとの小説なんかには、ないような力があると思う。人間を動かすような力があると思う。
――『ぼくはプレスリーが大好き』は、素晴らしいエピソードが詰まった、ロックと意識革命についての本でしたね。
北山 ああいうのは、片岡さん自身も、たくさんの本を読まれたし、たくさんのインタビューを見たり、雑誌を見たりしながら、ピックアップしていったものだろうと思う。それはあの当時のアメリカのカウンター・カルチャーというものを、どうやって日本に紹介するかというときの、一番うまいやり方だったんじゃないかな。それは、俺にとって、非常に影響を与えた。
あとは、同じく片岡さんの『10セントの意識革命』 *64 (1973年、晶文社)だよ。自分が影響受けたりおもしろいと思った人は結構いるんだけど、最近のほうが、かえって少なくなってきてるみたいだよね、そういう視点を持って、ものを書く人の数が。そういうのでおもしろかったのは、『ホームメイド原爆 原爆を設計した学生の手記』(1980年、ジョン・アリストートル・フィリップス/デービッド・マイケリス 著、 奥地幹雄/岡田英敏/西俣総平 訳、アンヴィエル社)という本だね。若い子が書いた“ニュー・ジャーナリズム”の本で。アメリカで最初に原爆の設計図を書いちゃった高校生の話で、その人のルポなんだけど、イラン人がすぐに設計図を買いに来たりとか、家でこれとこれとこれの材料があれば原爆作れますよっていう話。それを出したために、その人の周りに、いったい何が起こったのかというもので、すごくおもしろかったね。日本では……って言われると、ほんとに、少ないんだよね。
*57 ニュー・ジャーナリズム論…文芸誌『海』の1972年12月号に掲載されたトム・ウルフの評論。サブ・タイトルは「小説を蘇らせるもの」。
*58 『レポーティング:ザ・ローリング・ストーン・リーダー』…1977年に刊行されたペーパーバック。19本の精選したレポートをもとに「ローリングストーン式・報道」とはどういうものかを紹介している。
*59 『ポール・マッカートニー・ニュースコレクション』…マリワナ所持で来日しながらもコンサートのできなかったポール・マッカートニーをめぐる波紋を、世界中の報道記事を徹底的に集めることで再現したドキュメント・ブック。ポール本人から版元に宛てて、大量にこの本の注文が来たという。
*60 『ローリングストーン日本版』…1973年から1976年まで刊行されていた、日本初の意識革命のためのロック雑誌。本国版『ローリングストーン』の翻訳記事が、毎号のように誌面を飾っていた。
*61 レックス・クボタ…日本版『ローリングストーン』のオーナーだった人物。本名・窪田竜一。『スネークマン・ショー』のドラッグ・コメディ「盗聴エディ」に登場してくるパラノイアの男は、レックス・クボタがモデルである、との説あり。
*62 『全都市カタログ』…「シティ・ボーイはいま、都市の思想を持たなくてはならない」との考えのもとに編集された都市生活カタログ。『全地球カタログ』の影響下に生まれたもので、生き残るための「本の情報」を掲載した。
*63 『ぼくはプレスリーが大好き』…ロックが時代へのインパクトでありえた1950年代から1960年代の時代を報告した本。小説家になる以前の片岡義男のハードな面を示している。現在(当時)は『音楽風景』(1991年、シンコーミュージック)と改題され、刊行中( 1974年、角川文庫。1996年、ちくま文庫『エルヴィスから始まった』に改題 )。
*64 『10セントの意識革命』…ロック、コミック、カウボーイなど、片岡義男が1950年代から1960年代にかけて影響を受けたアメリカについて書いた評論集。北山耕平編集長時代の『宝島』のテーマだった“シティ・ボーイ”という言葉は、この本から生まれた( 2015年、再版)。j
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