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菅原和侑ができるまで

1.プロローグ
 今までの人生を振り返ってみると,僕の人生では,中学〜社会人どの世代に居るときも,自分は身近な人に避けられ,遠いい人に好まれるような人生だったと思います.

 曲がったことが嫌いな僕は,理不尽な態度や行動に対して、どんな立場の人を相手にも変わらない強気な態度をとっていました.

 すぐに思ったことも口にしてしまって,失敗したことも成功したこともたくさんありました.

 
 『偉くなったからって,動かなくて良いのか?雑用しなくて良いのか?なんでも下っ端にさせて良いのか?なんで,ろくに発展もしない先輩を尊敬しなければならないのか?なんで,ただ自分より早く生まれただけの人が優先されるのか?』

 いつも,今でも年上が意味もなく敬われる日本に不満を持っています.

 こんな思考が身についたのは幼少期からだったと思いあます。
 二人兄弟の末っ子で生まれた僕は幼少期から年功序列に不満を持っていました.
 それは,本当に幼少期からだったと思います.
 幼稚園や小学生の時から,親に対して「なんで兄貴ばっかり優先されるんだ!?」と家庭の中でも不満を常に漏らしていました.

裕福な家庭ではなかったから,常に自分のものは兄貴からのお下がり.
いつも新品ばかりを買ってもらう兄貴に対し,ライバル心がむき出しだった.

 そんな,文句ばっかり言っていた僕も,社会人として理学療法士となり,経験年数も丸11年となる.
 いよいよ,先輩の理学療法士よりも後輩の理学療法士の方が増える時代に突入しました.

理学療法士17万人時代到来.
日本人の1000人に一人が理学療法士.
恐ろしい時代だ.


『自分がこんなに頑張っているのに,なんであの先輩は勉強しないんだ!?』 


 若い人が努力したときに言っている典型的な文句。
 いつの間にか,【言っていた側】から【言われる側の立場】に立ってしまっている.気が付かない間に自分も歳をとってしまったみたい.

 自分も優秀な若手たちに負けないように更にレベルアップをしないと.
 そんなように焦る日々を過ごしています.

 そして,今なぜこうして自分の『自叙伝』を書こうと思ったかというと,

 それは,『若いセラピスト』や『学生』に自分を超えて欲しいと思ったからです。自分が考えながら未来を予測して行動して,紆余曲折してきたこの11年間に目を通して貰えれば,若いセラピスト達は11年という長い時間を掛けずに,「もっと早く僕の立場まではなれる.」と思ったからこれを描こうと思いました.

 「先輩がいない環境で働いている人.」や「理学療法士に本当になってしまって良いのか?」と悩んでいる専門学校生.

 「理学療法士になるという夢」をもつ高校生に良いアドバイスと良いイメージができるのではないかと考えました.
 
 そしてもう一つは,自分の今までの生活を振り返ることで,更にこれからの人生でチャレンジしていこう.自分の原動力は何だったか?と振り返りたかったからです.11年も働いていると,多くの心移りや迷い,モチベーションの低下,楽しさやモチベーション急上昇など多くを経験してきた.それらをもう一度思い出すことで,自分が今後何をしたかったのか?を今一度確認したいと思っています.

 それと,おそらく僕が理学療法士として働くのもあと僅かだと思う.僕にはまだまだ叶えるべき目標があるからだ.

 だからこそ,その振り返りとしても一度まとめてみたかった.

 今回の『自叙伝』は中学生,高校生,専門学校生,社会人,現在そして未来について.
 プライベートの話から仕事の話,いじめられていた時の話し,今後に向けた自分の展望など,本当に包み隠さず書いた一冊だと思う.
 この文章が誰かの目に止まり,そして皆さんの何かの『キッカケ』になれればと思っています.


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【目次】
1.プロローグ
2.中学時代の僕
3.高校時代の僕
 ・高校生活の始まり
 ・全国大会出場を目指しているチームでサッカー高校デビュー
 ・地獄の高校2年生時代
 ・初心者サッカー部員が最高学年に
 ・理学療法士との出会い
4.専門学校時代・大学時代の僕
 ・ろくな学生ではなかった僕
 ・ブログとの出会い
 ・目標が明確になった3.4年生
5.理学療法士,社会人の僕
 ・入職
 ・北海道選抜U12,ナショナルトレセンU12のトレーナー
 ・天狗の鼻を折られた日  
 ・筋膜マニピュレーションとの出会い   
 ・メンターに東京移住を止められた日 
 ・苦手な英語を克服するために 
 ・筋膜治療の本場 イタリア短期留学(2014年9月)
 ・日本筋膜マニピュレーション協会の理事となる  
 ・OMPTコースとの出会い(2014年5月)  
 ・母校の専門学校で非常勤講師  
 ・私が非常勤講師や講習会で講師を続ける理由 
 ・結婚と子供 
 ・大学院  
 ・2019年,現在の自分  
 ・未来の自分
6.【終わりに】

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2.中学時代の僕
自分の人生を振り返ってみると,紆余曲折してきた人生だなと思う.
自分の人生を振り返ってみると,最古に記憶にあるのは【中学時代】かな.


 私の住んでいる地域は,父の勤めていたJR北海道の社宅があり,多くの同じような家族が住んでいる地域だったので,小学校から中学校へと進学する時はだいたい顔なじみの子どもたちが集まりました.

 今の皆さんからの僕のイメージは,よく僕はサッカーをやっている人だと思われているかもしれませんが,実は中学校時代は「サッカー部」ではなく「バドミントン部」に入部していました.

 小学校の頃からサッカーをはじめて将来の夢はJリーガーだ!と思っていたのですが,小学校の頃は「母親は子供のミスで他の親に自分の子供が悪口を言われるのが嫌だった.」からという理由で,小学校のサッカー少年団には入れず,周囲のサッカー少年団の子供たちと遊んでいました。

 中学生になり「よし!いざ中学校でサッカー部に入ろう!」と思った時には,すでに遅し。中学校のサッカー部の監督がとても体罰がすごい人だったという理由(入学してはじめての体育の授業で同級生が殴られてた.)でサッカー部には入りませんでした.

 そんなこともあり,とりあえず体を動かしたかった僕は,なんとなく初心者でバドミントンを始めました.
 初年度こそ良い成績を収めることが出来ませんでしたが,中学校3年になった頃には,小さい頃からバドミントンをやっていたチームメイトを差し置いて,部活では一番になっていました.
 昔から,何事も負けず嫌いな事もあって,時間を惜しまず練習に明け暮れていました。そして,徐々に結果が出てきました.
 それもきっかけとしてか,自分の記憶の中では,中学校2年生の冬ころから部活内の一部から,嫌がらせを受けていました(いじりみたいな?).

 その相手達は小学校から一緒だった仲間だったのですが,中2の冬頃から,一緒に帰っていたのに,急に帰り道に逃げられたり,隠れられたり,今思えばくだらない嫌がらせだったのですが,そんなこともきっかけとして,同じ部活内の小学校時代の友達とは距離をおいてしまいました.

 昔から,自分は来るもの拒まず,去るもの追わず的な性格だったので,「あ,これ俺はいじられているな.」と思った頃には,自分から,すっと友達を切って,別な友達と仲良くなったりしていました.

※基本的に僕はいじられることが大っ嫌いです。

 実は,専門学校時代まで,その中学生時代に僕をいじりはじめた元友達から,時々SNSなどを通じて連絡が来ましたが,基本的に僕のことをいじる人は嫌いなので中学校3年くらいから一切無視をしています.笑

 おそらく,イジってた側の人間はなんで無視されてるかがわからないのでしょうね.まぁ,僕は無視し続けましたよ.


 また,部内での小学校時代の仲間から嫌がらせを受けた理由の一つに,僕がめちゃくちゃ他校の女子バドミントン部にモテたというのも原因だったかもしれません.笑


 僕の部活では男女混合の部活だったのですが,男子部員の6倍くらいの女子部員がいました,確か50〜60人くらい。そんなこともきっかけとして,めちゃくちゃモテました。おそらく人生で一番のピークだったかもしれません.


 私は札幌市の白石区という地域に住んでいたのですが,この区の中に7校の中学校がありました. その当時, 白石区内の7校の女子バドミントン部が集まって,私のファンクラブ?親衛隊?を作ってました.そんなこともあり,区内の色々な他校の中学校の女子部員と遊んでました.(今だから言える話し。笑)


 中学校3年生の中体連では,個人戦のシングルスで決勝まで行ったのですが,その時はコート全周囲を他校の女学生も含め多くの人たちが観戦に来て応援してくれたことを思い出します.


 そんなこともあり,私は中学時代から身近な人(部内の仲間)に嫌われ,遠くの人(他校の人)に好かれる人間でした.

 皆さんのイメージをからすると,もしかしたら菅原という人間は人と戯れるのが好きで,どこに行っても,どんちゃん騒ぎをしているようなタイプに見えるかもしれません.しかし,僕はどちらかというと,この中学校時代頃から結構一人で行動をして他校に行ったり,塾の他校の友達とつるむようになっていました.今でもお祭りなどの人混みは嫌いですし,人目はばからず騒ぎ出す人は大嫌いです。

 実は33歳になった今でも,どちらかというと僕は「一匹狼」で行動し,あまり定期的に会う友達は存在しないです.
 そのため,自分がこれをやりたい!と思ったアイデアも北海道の理学療法士たちに手伝ってもらうことができません.だからこそ,職場の同僚や北海道のPTの皆さんとはあまりつるんだりせず,道外(特に東京や講習会で知り合った仲間)のPT達と飲んだり,色んな仕事をしたりすることが多いのかな,と思います.

  物質的なことや精神的なこと、気持ちまで含んだ全体的な関係を相談できる相手の事は私は【親友】と理解しています.例えば,相手(私)に対して不満があってもそれがぶつけ合える関係であったり,自分の家族の相談や悩みなどの自分の恥ずかしいところまで晒し出せる友達を私は友達ではなく【親友】だと思っています。

 ですが,周りにはそのような相談ができない【友達】を持つ人もいます.相談ができないのに友達としては付き合う。私にとってはそれは理解ができません.

※先日,私の友から「お前の文章はわかりにいから俺も必要ないのかと思った。」とお叱りを受けたので,私はそのような自分のプライベートな相談や自分の中身をさらけ出せない関係を【抽象的な友達】と呼ぶことにします.(※太字:2019年5月29日改定)

 僕は昔から『現実的』で『効率的』な人間で,自分にとってプラスにならなかったり,足を引っ張られるなと感じてしまうような人とは極力関わらないというか,簡単に距離をおいてしまう人間だったんだなと思います.だからこそ未だに【抽象的な友達】の必要性が理解できません.

無駄に【抽象的な友達】を増やすことを好んでいません。皆さんの友達の定義とはなんですか?友達100人出来るかな?本当に友達が100人も必要ですか?と思ってしまいます。


    正直,【抽象的な友達】と遊んでいる時間こそがとても無駄な時間に感じてしまい.【抽象的な友達】と遊ぶぐらいだったら,家族と過ごした方がリフレッシュできるし,仕事のアイディアを考えたりしていたほうが自分のためになるな.と未だに感じています.そのかわり,仕事関連の飲み仲間はとても多いです.アパレルだったり,新聞社だったり,テレビ局だったりと‥私はそのような人たちを【仲間】と呼んでいます. 果たして,【抽象的な友達】って必要なのかな??

 自分にとっては【抽象的な友達】を100人作るよりも,【親友】が数人いれば良いと思う. たぶん自分がこんな考えに至ったのは,幼い頃から多くの【抽象的な友達】に裏切られてきたからだと思います. 友達を作っては友達から裏切られるのが怖いからじゃないかな?だからこそ,自分から誘ったり関わったりすることに躊躇しているところもあるのかと思います.

 話は戻りますが,医療系を志したのは中学時代でした.中学校の時の夢は,僕は”看護師になりたい!”と,いつの間にか思うようになっていました.
 僕の名前の“和侑”の『侑:ゆき,ゆう,たすき,たすける』という字は「人を助ける」という意味を持っているとのことで,後から聞けば両親は私がちょっとずつ医療系を志すように種を巻いていたようでした.

 高校受験は,自分の志望校への内申点が足りず,ランクを落として,学ランが着れる何気ない近所の高校へと通うこととなりました.まさか,辛い高校生活を送ることになるとはつゆ知らず‥


3.高校時代の僕
 ❄高校生活の始まり
 自分の志望校でもないし,何気なく決めた学校だったので,平凡な高校生活を過ごすかと思っていたのですが,『思い立ったら即行動!!』の私の性格が悪い方向に出てしまったのは,この高校時代が始まりでした.

 おそらく,今の私の曲がった『現実的で効率重視』の性格を形成したのはこの『高校時代』だったと思います.

 おそらく,同じ中学から上がった友人やファンの子達は僕は高校に進学したら,多くの人たちはバドミントン部に入ると思っていたでしょう.現に,当時のバドミントン部の先輩たちも中学時代から知っている他校の先輩達だったので,入学早々僕の勧誘に来ました.というか,私が高校『白石高校』に入学すると決めたときから,その情報は高校のバドミントン部に伝わっていました.

 実はというと,中学時代から始めたバドミントンですが,中学3年の大会では地区大会で優勝し,全市大会でベスト8を取るぐらいまで成長していました.

 そんなこんなもあって,高校入学と同時に僕は高校の即戦力として,レギュラーは確約されていました。
 
しかし,先輩に入部を誘われた僕の返事は
「バドミントンは中学校でやめました。高校からはサッカー部に入ります。」
でした。

 レギュラーが確約されているスポーツの面白味の無さもそうだったのですが,サッカー部に入ろうと思った一番の理由は,実はサッカー選手の夢を諦めていなかったのです.しかし,サッカーも一切習ったことなかったので,完全な【初心者🔰】でした.ルールも動き方もわかりません.しかし,私は頑なでした.頭でそう考えてしまったらもう曲がりません.

 さっきも書いたのですが,高校への進学は志望校には内申点が届かなかったので,高校は近所で学ランが着れるという理由で選びました.
 だから,「高校3年間は何気なく,昔から好きだったサッカーを楽しもうかな!」くらいの事しか考えていませんでした.

 私の同じ中学のサッカー部の友達も6名くらい白石高校のサッカー部に入団すると聞き,それに便乗して「僕も入部しよう!」と決め,中学校時代のサッカー部と一緒に入部届を出そうと思ったのですが,その時,衝撃な事実を突きつけられました.

なんと,今年の新一年生のサッカー部の入部人数は50人!!

 「50人!?」

その時,私の壮絶な高校時代がスタートしたのでした.

私の進学した,【白石高校】は1学年400人(男女比1:1)だったので,だいたい男子生徒は200人でした。なんと,その中の50人(1/4)がサッカー部に入部したのでした。

男子の1/4がサッカー部に入部????
私は,全くその事実を理解できませんでした.

しかし,その理由がすぐにわかりました…

 当時,白石高校は高校年代の大きなサッカーの祭典である,【高校サッカー選手権大会】の全道大会へは,20数年連続出場を決めている程の強豪校で,部活の生徒では,Jリーガーも数名輩出している,道内有数の公立高校の中ではトップ中のトップのサッカー強豪校なのでした.

 入部当初のサッカー部の部員は100名弱で,部内のチーム編成でも1軍から8軍まである状態でした.

そんな部活に私は,ルールも動き方もわからないような,サッカー選手として高校デビューの状態で入部し,100名弱の部員のうち一番最下位の選手として入部しました.
私の,壮絶な高校時代が幕を開けたのでした.


全国大会出場を目指しているチームで初心者がサッカー高校デビュー

 入部当初は練習についていくのがやっとでした.おそらく,引退のその日まで練習についていくのがやっとだったと思います.

 私の母校は,公立高校だったため,私立高校を目の敵にするような部活で,ひたすら朝から晩まで走らされる軍隊のような部活でした.また,上下関係も厳しく,制服も学ランの一番上のホックまで止めなければいけないという,本当に軍隊のような監視と肉体労働が合わさった部活でした.そして,練習試合などで公立高校相手に敗戦してしまうと,有無を言わさず連帯責任で坊主になるといった地獄な日々を過ごしていました。(今の時代じゃ大問題!!)
 
 
 入部して1ケ月が経ち,5月になると50人いた同期のサッカー部も26名と半数にまで減っていました.サッカーの経験者ですら,【練習量と上下関係の厳しさ】についていくことができないほど,苦しい毎日を過ごしました.
 僕は,サッカーの技術ではチームのみんなには到底追いつけないので,早朝から学校のグランドに行ったり,部活が終わった夕方も日が沈んだ後も休むことなく,基礎練習に打ち込んでいました.(そんな事で追いつけるわけないのに…今じゃそう思う.)
 それを見ていた,同期の「水本君」に声をかけられて仲良くなりました.「水本君」は札幌から遠く離れた「根室市」から白石高校の監督にスカウトされ入部をした,いわゆる【エリート街道】まっしぐらの同級生でした.また,僕の同期のキャプテンになった「船山君」は小学校時代の同級生でした.
 実はこの二人,中学校時代に北海道や地域の選抜のメンバーに選ばれるほどの指折りの実力者で,僕が一人でコツコツと自主練をしているのを見かねて,「一緒に練習をしよう!」と声をかけてくれました.
 のちにこの二人は北海道の大学サッカーでTV中継の中,大活躍しました.

 
 そして,私の行動を見ていたのは実はこの二人だけではなかったのです.

 

 誰かというと,「部活の監督」でした.
 入部してしばらく経つまで気が付かなかったのですが,学校の体育館に体育教官室があり,その教官室に毎朝6時ころから顧問の監督がお仕事をしていたのでした.
 当時,私の高校のサッカー部は朝練は自由解放(グランドを勝手に使って各自で練習して良い.来ても来なくてもいい)であったので,僕は下手くそなので毎日行っていたのですが,同期でも5人くらいしか参加していないような朝練でした.

 そして,1年生の秋に入ったある日,私は体育の先生だった監督のいる体育教官室に呼ばれました.

 そのとき私の私の頭の中は,『終わった.練習で周りの選手の足を引っ張りすぎて足手まといでもうやめてくれと,リストラになったか…』と思っていました.

 正直,当時の監督はめっちゃめちゃ怖くて,できるだけ二人っきりにはなりたくない存在でした.そして,部内でも『怒られるのはまだまし,最終的に簡単に干される(何も言われなる).名前すら忘れてしまう.』ような事も知っていたので,監督のところに行くまでの間の授業なんて全然頭に入らず,何言われるんだろう…となんか気に食わないことしちゃったかな?ととてもナーバスな状態でした.

 しかし,監督から出た言葉は思ってもいない一言でした.

「菅原,プレーイングマネージャーになってくれ!」

 私は,全く意味がわかりませんでした。そもそも「プレーイングマネージャー』ってなに?という感じでした.

 プレイングマネジャーといえば,プロ野球などのスポーツでは『選手兼監督』がよく知られていますが,ここで監督が意図したのは『選手兼マネージャー』というものでした。

 『マネージャー』といっても,水を汲んだり,タオルを出したり,庶務的な扱いではなく,『チームをマネジメント』の仕事をする役割であった.
 いわゆる,部内の戦略や方針を立てたり,管理職として部を影から支える役目.というものでした。

 選手と監督首脳陣をつなぐパイプ役.
 簡単に言えば,監督やコーチのスパイ役(笑)に任命されました.
 
 実はこの『プレーイングマネージャー』は『キャプテン』以外に各学年に一人任命される「選手の管理職」でした.

 プレーイングマネージャーの仕事と言ったら,本当にスパイです.
 「誰と誰が付き合っている?」
 「誰と誰が仲が悪いんだ?」
 など,同期に関わるプライベートを横流しする役目でした.

 他には,公式戦の監督会議に監督とともに参加し,ユニフォームの抽選(コイントス)をしたり,公式試合の時に常に監督の後ろに立ち,監督とコーチ間の伝令を任せられたり,いかに監督やコーチを考えていることを透視して,行動に移すという仕事でした.

 
 しかし,この『プレーイングマネージャー』の就任が私の『苦しい高校2年生』を作った事件の始まりでした.


❄地獄の高校2年生時代

 それは,高校2年生の夏

 僕の所属する,白石高校サッカー部は高校総体の北海道大会で優勝し,インターハイ(全国大会)に出場を決めたのでした.

 私は,その当時はまだ到底レギュラーに入るサッカーのレベルではなく,まだまだ4軍か5軍くらいのレベルでした.
 しかし,「プレーイングマネージャー」としての仕事ぶりは監督とコーチから絶対的な信頼感を得られており,とても怖かった監督やコーチも私のことを「菅原」と呼び捨てにせず,高校時代にクラスメートの女子から付けられたあだ名「ぶんちゃん:菅原文太から命名」で呼ばれる程,親密な関係になっていました.

 結果的に,高校2年生の春から,公式戦へは選手としてではなくマネージャーとしてメンバーに登録されるくらいになっていました.そして,私がプレーイングマネージャーとして,高校総体(インターハイ)の『マネージャー』としてメンバー登録されていました.

 大会に登録可能な選手のメンバーは20名のレギュラーとベンチ組そして,1名のマネージャーが全国大会登録が可能となっていました.
 一つ上の先輩のプレーイングマネージャーはすでにレギュラーメンバーとしてDFのリーダーを張っていたので,他の3年生ではなく,2年生のプレーイングマネージャーである私が,新二年生の春から全公式戦で務めていました.

そして,苦しい一年が始まったのです.
高校総体北海道予選の優勝を決めた翌日,昼休みに監督から呼び出しがかかりました.


 監督「昨日の大会ではマネージャーの業務お疲れ様.ぶんちゃんがマネージャー
    に入るとストレスが無いから試合に集中できるよ.それで,早速なんだけ
    ど,インターハイでもマネージャーをやってもらいたいんだが,流石に長
    崎県で一人でマネージャーをやるのは大変だ.誰か一人補佐をぶんちゃん
    が選んで,決まったら教えてくれ。」

 
 その時は,自分が「全国大会に帯同できる!?」という嬉しさが上回り,あまり先のことを考えていなかった.

 しかしこれが,事件の始まりだった.

 そう.それは同期からの妬みだった.

 初心者である私が,中学校や小学校時代に北海道や地域の選抜メンバーに選ばれていた同期の仲間達を差し置いて,全国大会のメンバーに選ばれてしまったからです.

 そして,さらには全国大会に出場を決めた記念として,全国大会用のユニフォームやランニングシューズ,ドラムバッグ,移動用の制服など,全国大会出場メンバーに寄付によって支給され,マネージャーに選ばれた私も背番号入りのユニフォームと各種のセットを他の居残り部員を差し置いて頂いてしまいました.

 それがきっかけに,複数の選手たちから避けられるようになったのでした.

 あまり書きすぎると,『高校サッカー列伝』のタイトルになってしまうので,詳しい話はしませんが,同期の部員たちに認められたのは,自身が最高学年になった3年生の春でした。


❄初心者サッカー部員が最高学年に

 毎年,春になるとサッカー部では雪が溶ける前の3月頃『新チームのレギュラーメンバーの埼玉遠征組』と『雪が残る札幌のグランドでの居残り組』に分けて,春のキャンプが始まります.

 いわゆる『北海道日本ハムファイターズ』で言えば,「アメリカのアリゾナに行く1軍」と「鎌ヶ谷の練習場で居残りする2軍」に分けられるみたいなものです.

 私は埼玉遠征の直前にまた監督から呼び出しがかかりました.

 
 監督「菅原,お前は埼玉遠征には連れて行かない.私は,初心者で始めたお前の
    サッカーの実力は認めている.正直ここまでついてこれるとは思っていな
    かった.普通だったら埼玉遠征に連れて行くレベルだ.」
   「だけど,今回はチームのためにお前を連れて行かない.」
   「この学年は,問題児が多すぎる。遠征に行ったら必ず問題が起こるだろ
    う.しかし,お前がいたら,そんな問題も未然に防がれてしまう.この学
    年の一番の弱いところは自立ができていないことだ.だからこそ,お前は
    残ってくれ.」
   
   「そして,埼玉組が遠征から帰ってきたとき,お前ら(2軍)が遠征組に勝
    ってくれ.」

 

 監督からそんな言葉を頂いた.選手としてもマネージャーとしても最高な言葉だった.そして,案の定レギュラーメンバーの埼玉県合宿では問題が起こったのであった.そんなことは当たり前だった.いつも選手と監督との間に立ち連絡を取る者がいない.旅行会社の旅行に参加して添乗員さんがいない状態だ.だからこそ,合宿中では,まともな連絡の交換が選手と監督の間で行われなかった.そして,1週間が経ちレギュラーメンバーは埼玉県からの遠征から帰宅したのであった.

埼玉組(1軍)と居残り組(2軍3軍)のリーグ戦が始まった.

そして結果は,私の居た,居残り組2軍の勝利だった(1軍とは2対0)
2軍のメンバーそして,監督やコーチは泣いて喜んだ.今でも覚えている.レギュラーメンバーとの直接対決.まるで漫画のような白熱した試合だった.個の力で言えば,レギュラーメンバーと2軍は天と地の差.

だけど,チームワークとモチベーションだけで勝つことができた.

その後,やっと同期のレギュラー陣のエンジンがかかった.最終学年の公式戦に向け,練習も力強いものとなった.

そして,3年生新チームで望んだ初の公式戦の春季大会
私は,はじめて実力で背番号を勝ち取り,ユニフォームに袖を通したのでした.

全国大会出場を目指す,白石高校でサッカーの初心者が1軍になったのは,この20数年で,はじめてのことだった.

そして,高校2年生の時の全国大会への参加から,わだかまりがあった一部の同期のレギュラーメンバーからの信頼を得ることが出来,関係も修復され,1年間1軍を死守することが出来た.

今でも,サッカー部のメンバーとは交流を継続している.そして,飲み会では決まってこの「埼玉遠征組」対「居残り組」の試合内容の話だった.

身体的な苦しみ以外に,人間の脆さ,社会の形,妬み,色々なことを学んだ『サッカー部での経験』であった.

そして,私は監督やコーチとの密な関係により2つの言葉を教えていただいた.
その2つの言葉は今の私の座右の銘として,常に新しいことに挑戦するときも,社会人として自分の意志を強く持とうと思ったときも意識している言葉である.

それは,
①「集団を隠れ蓑にするな。」
②「非常識の常識」

①「集団を隠れ蓑にするな。」
 これは,100名近く部員が在籍すると,何か問題が起こったときに集団を目隠しの道具にして,100人の中に隠れるなと言う時に使っていた言葉だった.私の中では,例えば講習会で質問を求められた時に「大勢いるから誰かが質問してくれるだろう.」「誰も意見を言わないから自分も意見を言わないでおこう.」など,日本人の特徴的な人に合わせると行った行動に対して,集団と同じ行動を取ることが問題だ!自分の意志のもとに行動をしろ!という意味で教わった言葉。

②「非常識の常識」
 「非常識を常識」が,みんなが「非常識」だと思っていることも,毎日繰り返しやっているといつの間にかそれは自分たちの中の「常識」に変わる.といった言葉である.高校のサッカー部は尋常じゃないほど走らされました.おそらく,陸上部の練習よりも走らされたと思います.たとえ,それが練習の後でも試合の後でも‥
 傍から見れば,きつい練習の後に走力の練習をすることは「非常識」に見える事だけど,僕たちのサッカー部からすれば,それはすでに常識に変わっていました.「今日の走力の練習は何かな〜?」って言うくらい,練習後に走力の練習があることが当たり前になっていたのです.
 また,現代の常識は過去の非常識が積み重なったものであることも多いです.だからこそ,「常識は」時代の流れと共に移り変わっていくものです.
 今周囲から「お前の行動は非常識だ!」と言われるようなことも,「自分が正しい!」と思っているのであれば,続ければいいと思う.それはいずれ常識に変わると思うから.
 僕も13年前にブログを始めた.私でさえ,当時は「ブログを書くことは非常識だ!」と言われました.ですが,今ではブログやSNSの発信が常識なものとなり,60歳を過ぎた大御所PTでさえ,自分の意見をFacebookに載せるようになっている「非常識なことはいずれ常識に変わる可能性がある.」.
 だから,僕は集団や偉い人などの意見や反対を押し切ってでも,自分が正しいと思うことは率先して行動することにしている.

↑この2つが今の自分を形成している,【座右の銘】であることは間違いない.


❄理学療法士との出会い

 理学療法士との出会いは,高校3年生の春のことだった.
 サッカーをきっかけにスポーツに関われる,医療系を目指したいと思っていた.

 その時,一番始めに思いついたのが『スポーツドクター』だった.

 しかし,僕は頭が悪いにも程があり,ましてはこの高校にいる時点で『医者』を目指すのは皆無に等しかった.

 だから,『スポーツドクター』に近い仕事を探して行き着いたのが『理学療法士』だった.決して,自分が理学療法士からリハビリを受けたわけでもなく,ましてや『理学療法士の仕事』すら見たことがなかった.

 しかし,自分の中では「理学療法士になる!」と高校3年になった時に決めていました.

 しかし,私の時代の理学療法士は北海道でも年間200人くらいしか,入学出来ない時代だった.
 また,国公立大学の理学療法学科の滑り止めで専門学校を受ける人がほとんどだったので,入学してみると,私の高校が専門学校の40人の同級生の中で一番偏差値の低い学校でした.

 また,僕が高校3年生の時に『オレンジデイズ』というドラマで主役の妻夫木聡さんが『リハビリの学生』の役を演じていたのもあり,私の受験した専門学校の倍率が50倍(2000人中40人が合格)という狭き門でした.

 私は,3年生の秋までサッカーを現役としてやっていて,11月の高校サッカー選手権大会のベスト8で破れました.破れた翌週が入試という状態でした.

 私は中学校の頃から,英語が嫌いでほとんど勉強をしてきませんでした.高校の入試も英語の勉強を全くせず,他の4教科の点数で望むくらい,出来ませんでした.高校入試の前の日の塾で「Did」の使い方を覚えたという衝撃な事実は今でも覚えています.

だからこそ,私が受験できる理学療法士の養成校が限られていました.
「英語が』受験科目にない学校.北海道で一校だけありました.

しかし,英語がないからと言っても,相手は国公立大学を目指す人達(の滑り止め)だ.なかなか簡単には合格させてもらえない厳しい状態でしたが,私は理科(生物,化学)がとても得意で,その得意科目が入試科目としてあったので,北海道にある『西野学園 札幌リハビリテーション専門学校』に入学することが出来ました.

いよいよ,理学療法の世界に足を踏み入れました.



4.専門学校時代・大学時代の僕
❄ ろくな学生ではなかった僕

 
専門学校の僕は簡単に言えば,学校では問題児,実習では優等生でした.
専門学校への入学は,中学生,高校生とは違い,顔も名前も知らない人たちが道内各地から,40人集まって来ました.
顔も名前も知らない人達の中では,意外や意外,僕は基本的に人見知りだったので,無口な都会人を演じていました(クラスは10人が札幌,30人が地方から来た人たち).
 私の専門学校はというと,「地方の雄」と呼ばれる地方の進学校や国公立大学を目指す札幌の進学校の人たちが滑り止めとして受けるような学校でした.
 そのため,偏差値で言えば私の高校がクラスの中で一番最下位でした.しかし,理学療法士の養成校に入ると,解剖や生理学など,誰もが学んだことがない新しい教科が増えるために全員が同じスタートラインに立って授業を受けることが出来ました.

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 だからこそ,英語などの一般教養はいかんせん成績が悪かったですが,【解剖学,生理学,運動学】については成績上位でした.
 純粋に昔から,人間の身体の構造には興味があったので,楽しみながら授業に望むことができました.

 では,なぜ問題児だったか?というと,それは僕は,遅刻の常習犯だったからです.
 1年生のうちは,最低出席日数(必要単位数)を計算し,ズル休みをするなどしていました.
「8割の出席日数があれば,単位が取れるから,あと何日休める‥」みたいなことをしていました.
おかげさまで,教員には問題児として生活指導をされていました.
 
 なぜ遅刻をしていたか? 
一番の原因は【アルバイト】でした.

 僕は,専門学校の合格が決まった後,高校3年生の12月から「おしゃれな飲み屋さんのホール担当」として勤めていました.高校在学中は22時までと決められていたのですが,専門学生ともなると,フルタイムで働くことが可能となり,毎晩AM1時ころまで仕事をしていました.
 また,僕はドリンク担当のリーダーにまで昇格し,カクテルの開発をしたり,デザートメニューを考えて作製をしたり,商品の発注をしたりとバイト以上の仕事をやるまでとなっていました.
 高校時代の「プレーイングマネージャーの経験」もあり,長いものに巻かれ,ゴマすりをし,ヨイショをし,チームをサポートするような仕事をこなす力には長けていたので,バイトも楽しみながら自分のやりたい事ができていました.
 だからこそ,バイトが終わって,家に帰るのはAM2時頃.その後に就寝し,また7時に起床し,9時からの授業に出るという毎日を過ごしていました.

 そのためもあってか,授業では遅刻を繰り返し,1年のときには学校から両親に電話が入り,親が学校に呼び出され,面談をするなど,それはそれはまるでできの悪い高校生の延長のような,そんな生活をしていました.

 そんな大変な生活をしているくせに,専門学校と併用して通信制の大学(人間総合科学大学)の履修も行っていました.
 今思えば,当時から4年生の専門学校だから【高度専門士】という資格(学位)が取得できるようになっていたので,大学に併用受験する必要はなかったのですが,完全な見栄っ張りでした.
 「大学に入ったほうが将来給料が高いんじゃないか?」という安易な選択で,更に自分の生活を苦しめていました.給料なんて,全く上がりません.働きはじめてこの10年何の恩恵も受けてきませんでした.

 しかし,学生時代にこのような生活をしていたからこそ,今の自分があると思っています.
 その中でも,やっぱりやっててよかった!と思うのが,【飲み屋】でのアルバイトでした.これは,今の学生にも強くおすすめしたいアルバイトです.
 なぜ,理学療法士(や,セラピスト)が【飲み屋】でアルバイトをしたほうがいいかというと,”病院や施設で働くすべてのノウハウが学べる”からです.

「飲み屋のバイトで学べる,就職後のノウハウ」

1.アルバイトの世代別,性別,そして家庭環境が様々,多くの人との関わり,社会
  性が学べる.
2.接客が学べる(言葉遣い,笑顔,ミスした時の対応,報連相…など)
3.「酔っぱらいの対応」が「理不尽な患者やその家族の対応」に近い
4.バイト,お客との出会いが多い.
5.お酒に強くなる or お酒に弱くても,自分に会うお酒が見つかる.

①.アルバイトの世代別,性別,家庭環境が様々,多くの人との関わり,社会性が学べる.
 僕のアルバイト先では,下は高校生から,上は60歳過ぎ,大学生やアルバイトで生計を立ててる人,不良からガリ勉まで多くの人達がアルバイトをしていました.
 各々のバイトもやっている理由も違い,それぞれが持っている夢も違う.そういう人たちと,仕事やプライベートの中で関わっていくことで多くの発見ができた.

②.接客が学べる(言葉遣い,笑顔,ミスした時の対応,報連相…など
 特に飲食店による接客業では,必要なスキルとなってくるであろう,人とのコミュニケーション.その中でも,【飲み屋】では色々な世代や色々な家族環境の人たちと関わります.若い女性のグループにはどのように対応したり,会社の重役の人たちの会議にはどのように対応したりなど,言葉使いや接し方が深く学べました.これは,現在では,患者さんとコミュニケーションを取る時に生きています.
 また,ミスした時の対応がとても学べました.例えば「お酒をこぼしてしまったり」「料理をお待たせしてしまったり」本当はあってはいけないミスなのですが,必ずヒューマンエラーは起きてしまいます. 大事なことは, エラーを起こさないようにどうするか?だけではなく,エラーが起きてしまった時にどのように対処し,どのような順番で行わなければいけないか?だと思います.
 病院の業務でもそうです. 必ず,インシデントやヒヤリハットはおきます. では,あなたが重大なインシデントを起こしてしまった時にどのように対応するか?そんなミスの対応の仕方を学ぶことができました.
 私が,【飲み屋】のバイトでやってしまった,一番のミスは熱々の「石焼ビビンバ」を女性のカバンの中に落としてしまったことです.あれはとても,焦りました.笑

3.酔っぱらいの対応が理不尽な患者やその家族の対応に近い
 ②に共通することかもしれませんが,酔っぱらいの対応はとても勉強になります.酔っぱらいには常識が通じません.我々が常識だと思っていることは酔っぱらいには非常識なのです.
「閉店時間です」と言ったら怒られる.など,非常に理不尽に怒られます.しかし,彼らには怒る理由が別にあるのです.例えば,「1時間前に出した料理の出し方が悪かった」「接客の愛想がない.」など,怒る理由が別にあったのです.
 「あれ?これって患者さんに似てるな?」と就職した時にふと思いました.【リハビリの拒否】であったり,「家族の怒りを買う」場合だったり,おそらく皆さんも多く経験しているかと思います.ときには「理不尽だな!」と我々がイライラする事もあると思います.
 僕は,酔っぱらいへの対応のおかげでこのような「理不尽だ!!」と感じる怒りを抑え対処することができるようになりました.

4.バイト,お客のと出会いが多い.
  めっちゃモテて,いい思いもいっぱいしました。(以上!笑)

5.お酒に強くなる or お酒に弱くても,自分に会うお酒が見つかる.
 社会人になると,自ずと懇親会などの機会も多くなり,お酒を飲む機会が多くなると思います.これは「日本の常識」です(海外では非常識です.).
 私は,飲み屋さんのアルバイトでお酒に対してとても免疫がついたと思います.仕事柄,酒の試飲や味見などをする機会も多かったですが,飲み屋でバイトをしている人は基本的にお酒が好きな人も多かったので,同世代のアルバイト仲間と愚痴が溜まったときや給料が入ったときには飲みに行ったりもしました.そのような経験でお酒が少しずつ強くなる場合もあります.
 また,飲み屋さんの仕事をしていると自然にお酒の名前やカクテルの中に何が入っているか?アルコール濃度なども自然に覚えていくので,自分にあったお酒や強そうな名前だけど,実はアルコール濃度が低いお酒なども学ぶことが出来ます.
 社会人になると,自分にあったお酒を見つけないことには飲みの席で多くの失敗をしたり,良い話し合いをしたのに覚えてなかったりと悲しい現実にさいなまれます.
 そして,そんなこんなでアルバイトを3年生の冬の評価実習まで続けました.だいたいバイトの頻度は週に4〜5回AM1時までとなかなかハードなスケジュールをこなしていましたが,成績で赤点をとったのは苦手な英語くらいでした.

 といっても,とびきり成績が良かったわけでもなく,クラスでは中の下くらいでした.まぁ,可もなく不可もない学生ですね.しかし,先程も言ったように【解剖学,運動学,生理学】だけは成績が良かったです.

それは,純粋に楽しかったから.

 僕は昔から,暗記系の授業などはとても苦手でした.苦手というか,飽きてしまって暗記系の勉強を疎かにしていました.

「でも,解剖,生理学,運動学も暗記系じゃないか?」と思う方もいるかと思うのですが,おそらく僕の勉強の仕方にもあるとおもうのですが,とりわけ暗記!というより,物語を覚える感覚で授業を聞いていました.

 例えば,「人間は水分をとった時にどういう過程でおしっこになるか?」というのをノートに絵を書きながら学んだ気がします.または,「食べ物を食べたときにどういう過程を経て便に変わるのか?」など.
 解剖学にとっても,起始停止や神経支配を文字で覚えるんじゃなく,映像で覚えていました.あと,自分の疑問をその都度解決していたのを覚えています.

 脛骨粗面の粗面ってなに?  とか。

 大結節と大結節稜の違いって何?  とか。

このような疑問を解決していくと

 「あ〜結節って盛り上がった肥厚部で,稜って山と山から伸びる線上の隆起なんだ!」ってな感じで解決していくと,解剖学もなかなかおもしろいなと興味を持って学んでいました.

 でも,成績って言ってもとりわけ良くなかったもんで,実習前の考査でも合格ギリギリラインで,冬休み返上で学校の図書室(牢屋)にこもって勉強をさせられたぐらいでした.


❄ブログとの出会い
 今じゃ僕の代名詞となっているインターネットを使った広報.
 一番最初にブログを始めたのは専門学校の2年生のときでした.始めた理由というのも,専門学生になってから,パソコンを使ったレポート提出なども増えてきたというのもきっかけでした.

 いかんせん,キーボードを打つのは苦手で,とても文字を打つのが遅かったのです.だから,パソコンに触れる機会を作って,そして『ブラインドタッチができるようになりたい!』と始めたのがきっかけでした.

 それが今でも,ネット上には存在しているのですが,私の旧ブログ『北海道の理学療法士 カズの日記』. 当時は『PTSカズの日記』とかそんな感じの名前だったかと思います.ただただ,学校生活のことを書いていた日記だったのですが,当時はGoogleやYahooなどの検索サイトで学校の名前を入力すると,学校のWebsiteよりも上位に検索されるようなブログでした.
 
 当時は学校の先生などから呼び出しがかかり,「学校の内容などを載せないでくれ‥」と言われたこともありました.しかし,このブログを通じて,PTになった後も,「先生のブログ見ています!」や体験入学に来た高校生などからも,「先輩のブログを見て,この学校に来たいと思いました.」など,言っていただいたりもしました.
 
 些細な日々の日記と思って書いてたものでしたが,今となっては自分の名刺の一つとなっている事に気が付きました.そして,当時から「情報公開をすることで,救われる人や勉強になる人がいる」だから,そんな人達を救えるように発信したい!と,いう思いが芽生えていたのかもしれないですね.
 
 そして,今では「ブラインドタッチ」ができるようになりたい!という目標から,「プログラミング」ができるようになりたい!という目標に変わり,今まで使用していた「アメーバブログ」から「独自のWebsite」の作成ができる「Wordpress」に衣替えをしました.
 
 私は,次世代の理学療法士たちに是非「SNS」や「Website」を使って自分をもっと発信して欲しいと思います.

 そんなこんなで私もSNSをはじめて,かれこれ13年.もうすぐ14年になります.Mixiから始まり、アメーバBlogそしてTwitterそれからFacebookそしてWebsiteの運営へと至りました.

 Facebookは凄いですね.SNSとは縁がなかった中年の方々も容易に投稿してしまうそんな世の中になりました.今では選挙活動にも使えるようなものにまでなりました.

 でも,私はこの情報発信って「理学療法士を認知してもらう」ことや「困っている人を救いたい」という観点からもとても大事なことだと感じています.
 
 なぜ情報発信は大事なのか?

 それは自分自身が「情報発信」をして,困っている人の役に立てたからです.そして困っている人とコミュニケーションが取れることです.

 困っている人とは?

それは,

1.「同世代、後輩の理学療法士」
2.「理学療法士になりたい学生」
3.「怪我に困っている方」

私はこの対象者に向けて情報を発信しています.そして今回の自叙伝もそんな人達に見てもらえるように発信しています.

①.「同世代、後輩の理学療法士」そして「学生」

 自分は理学療法士になった当初からほんとうに「勉強」に苦労しました.
 先輩に恵まれていないわけでは無かった.
 どちらかと言うと先輩には恵まれていた方でした.
 しかし,できる先輩に囲まれていたせいで自分が出来た気になってしまっていたのだ.

 それに気づくまでに理学療法士になって,4年位かかった.
 そのきっかけとなったのは、道外の学会や研修に参加するようになって多くの方々とFacebookでやり取りをとるようになってからだった.

 自分の知らないことをSNSを通じて目にする.
 そして,自分と同い年の人達はどんどんどんどん自分のやりたいことを黙々と学んでいる.そんな事を目にしていた.そして、自分は何が出来るのだろう何をしてきたのだろう?と自問自答するきっかけとなった。

「勉強したい!」と思ったきっかけになった.

 そして、今 理学療法士として11年目の年になった.もうすぐ33歳になる.
 黙々と色んな研修に通い、多くの知識を学んできた.しかし,理学療法士の先輩に比べればまだまだかも知れない.しかし、同世代の中では多くを学んできたという自負はある.

『同じ世代の人たちの中で,菅原が一番すごいセラピストだね!』そう言われるために今日まで頑張ってきた.でも,まだまだわからないことも多い.

 そして、このわからないことへの探究心を失わないためにも僕はみんなのSNSから情報を得ている.

2.怪我に困っている方
 病院というものは生き物だ.去年まで整形外科専門で見ていた病院が急に循環器の病院になることだってよくあることだ.何年もの間,多くのお金を掛けて理学療法士として学んできたことが病院の経営と医者で左右されてしまう.

 せっかく学んできたことが、病院の「経営」の問題でパーになってしまう.まったくバカバカしい.病院の売り買いにより、助けれる知識がまた一から知識の付け直し(分野が変わるため)になる.

 理学療法士は基本的には医者の指示のもとにリハビリを行なう仕事だ.
 医者の指示がなければリハビリが出来ない.

 本当にそうか?
 病院に努めて10年.
 少しずつ疑問をもちはじめた.

 患者さんが自分のリハビリを希望してくれれば、リハビリをすることが出来るんじゃないか?その流れを作れば,なんとかなるんじゃないか?そう思い始めた.

 まずは、スポーツチームや団体のコネクションを使って講義などをするようになった.中学校の部活などにもボランティアで講義などを受けることもあった.高齢者の生涯学習のための団体にも呼ばれるようになった.

 リハビリを求めている人に対して自分を公開する.
 自分はここまで出来ます.と,自分はこんな技術を持っています.と,
 でも,それだけではまだ足りない.
 まず見つけてもらうために「自分に出来ることを明確に発信しよう!」と始めたのがきっかけでした.

 そうすることで,徐々に自分をあてにして患者さんが集まってくるようになった.自分が提供できる技術と患者さんが求める技術がマッチングし始めたのだ.

 時間の都合で病院で治療ができなくても,「ぜひプライベートでコンディショニングを受けたい.」という人も増えてきました.

 SNSやブログなども使ってもっと自分を知ってもらおうとも考えた.
講演に行っては,自分で作った,自分の自己紹介の冊子なども配るようになった.今思えばこの情報発信の積み重ねは本当に大事なことなんだと思う.

これも大事な僕の仕事.
患者を集める宣伝じゃない.自分を探してもらう自分の宣伝.

結論をいうと
「自分がこういう事してます!」「これが得意です!」と情報発信をすると,「こーゆーことして欲しかった!」という人が手を上げてくれます.
この独り言のように発信している情報がそれだけの人を立ち止まらせた.

有名ブロガーにとってはわずかなアクセス数かも知れない.

でもそのアクセスは、
「理学療法士」であったり
「学生」であったり
「患者さん」であったりする.

その結果、「誰かのキッカケ」につながるし、「貢献」にもつながる.

多くを体験し自分の「成長」にもつながる.
そして自分がまたひとまわり大きくなれる.

だから私は
「困っている人」の役に立つ為にも
「相手に見つけてもらえるための情報発信」をしている.
情報発信をすると、みんなが何に困って何を検索して何を求めているのかがわかってくる.

 そして,得意を発信することがとても大切.

 自分の技術にもしっかり「芯」をもってその「芯」を発信することがお互いの力になる.
「集客をしたい」「みんなにブログを見て欲しい」からって「芯」は絶対にずらしちゃいけない.

「整形が好きなら整形」「脳梗塞の患者さんを助けたいなら脳梗塞」

「芯」をずらさず,みんなが自分を見つけてくれるまで「芯」を描きつづける.

 この「芯」を描いたひとりごとも誰かのキッカケになるため,私は情報を発信し続ける.

 そういうふうにして,私はSNSで自分の得意分野を発信し続けています.
 「理学療法士がSNSを使って宣伝するなんて非常識だ!」というビンテージ理学療法士はたくさんいると思う.
 しかし,僕にとっては「患者を治せる技術があるのに,それを人に教えない事」の方が非常識だと思う.

 話はそれましたが,そんなこんなでブログを専門学校の2年生ではじめました.そして,それは今でも続けています.おそらく,僕は5年,10年経っても,ブログは続けると思う.
 なぜなら,「人を救える手段であり,大きな力となるから.」

現在のブログ↓

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❄ 目標が明確になった3.4年生
 3年生になると,少しずつ一般教養や医学の基礎的な内容だけではなく,評価学や治療学などの臨床的な授業が増えさらに,理学療法士にのめりこんでいきました.

 実はというと,私は3年生の末までは,現在得意としている整形外科疾患よりも,俄然,脳血管系の授業のほうが得意でした.だからこそ,私は将来,脳血管系のリハビリに進むのだろうかな?と考えながら,学生生活を過ごしていました.
 しかし,転機が起きたのは4年生の最初の実習(総合治療実習①)で実習先だった,現在の僕の職場でもある「札幌第一病院」との出会いでした.

 札幌第一病院の先生(特に役付きの3人)はOMPTのカリキュラム(カルテンボルン)のコースに参加しており,とても徒手療法が盛んな病院でした.目の前で「痛い痛い」言っている人たちを僕が見学している目の前でバシバシ改善させていく.そんな技術を目の当たりしました.

 自分の中で理学療法士の根本が覆った実習でした.そもそもが僕の母校では「徒手療法」に関する授業がなかったので,自分の手を使って目の前で患者さんを改善させていく.そんな事が理学療法士にできるのか!??と,いったことさえも疑問に思っていたぐらいでした.
 その当時の僕のリハビリのイメージはコツコツ筋トレとストレッチを繰り返して,少しずつ改善していくものだと思っていました.しかし,実習で見学させていただいた時,「目の前で痛くて手が上がらなかった人をスッと挙げれるようにしてしまう.」「ついさっきまで歩けなかった人が目の前で歩いて帰っていく.」


 僕は学生のときに「理学療法士ってこんな事ができるんだ!!」っと感動し,この実習のおかげで,自分の理学療法士としての理想像が定まりました.

「どんな障害,どんな病気の患者さんも自分の手を使って,改善させていく.」

今でも,それが自分の理想として持っている,理学療法士像です.

そして,臨床総合実習①を6月に終えた時,僕は決心をしました.
「札幌第一病院」に絶対就職しようと.

そのために,毎月毎月,「求人でそうですか?」と病院の先輩に確認をしたり,PTの学会に参加して,病院の先生たちを見かけたら,顔を覚えてもらうように挨拶も何度もしました.

色んな結果が実り,求人が出ることになり,念願の病院に就職することができました.


5.理学療法士,社会人の僕
❄ 入職
 社会人一年目は,与えられた仕事をこなすので精一杯でした.実習のときは1日2〜3症例の患者さんを見せてもらっていたのですが,働いてみると一日に20人近くの患者さんを見なければならない毎日でした.仕事に追われ,新人教育の課題に追われ,あっという間に1年が過ぎたような気がします.勉強の方では,北海道のマニュアルセラピー研究会という団体に入会して徒手療法の基礎をざっくりと習っていた程度でした.
 1年目の時の勉強仕方というと,各関節の代表的な疾患を2つずつと関節の運動学と解剖学をまとめて,先輩に対しプレゼンをしていました.また,技術的なものではまずはじめに触診技術を入念に学んだのを覚えています.
 社会人としてはまだまだな自分でしたが,プライドは人一倍あったような気がします.
 自分の担当の患者さんに対して,3つ上先輩が杖の高さを勝手に変えていたことが有りました.それに対して,「なんで勝手なことするんですか!?僕が何故,その高さにしていいるのか確認もしないで勝手なことをしないでください.」と反抗していた程でした.
 その時から,僕の中では役職がついていない人たちは「先輩」というより「同僚」という意識が強かったと思います.それぐらい自分が勉強していたし,周りの先輩にも負けたくないという意識がとても強かったです.

 2年目も同様に仕事はホント頼まれた仕事をこなすだけで精一杯な毎日でした.特にこれと言って,道外に勉強しに行った経験もなく,1年目と同様に北海道の徒手療法の研究会に参加して,そして職場の上司に質問するくらいの生活を行っていました.
そんな,毎日の中から2年目の冬に転機が訪れました.


❄ 北海道選抜U12,ナショナルトレセンU12のトレーナー

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 社会人の2年目から奇跡的な出会いやめぐり合いがあり,サッカーの仕事をはじめることになりました.
 内容はU-12(小学生の)北海道トレセンの専属トレーナーと言う形で,少年サッカー障害の予防と啓発そして治療を少年達と関わりながら行う仕事でした.

 転機が訪れたのは,サッカー関連の仕事をしている(当時の北海道U12の責任者)が病院に入院し,僕が担当になったのがきっかけでした.
 リハビリをしていく中で,その方の受け持っているチームの選手の悩みや改善方法などを相談に乗っていたら,その方が退院する時に,「ぜひ,選抜チームの練習を見学しに来てくれないか?」と言っていただいたのがきっかけでした.

 Drも看護師もいない環境でする医療業務はとても大変な事がいっぱいありました.
 そして,その当時まだ2年目だったので,技術も10分の1人前.必死に指導者や選手たちの要求に答え続けました.自分以外に誰も医療従事者がいない環境で合宿なども,孤軍奮闘で戦っていました.
 
 その頑張りも認められたのかわからないが、U12サッカーナショナルトレセンの仕事にも関わらせていただき継続して合宿などに参加することになりました.
 今では北海道サッカー協会の技術委員会に所属するまでとなりました.

 サッカーの仕事に携わっている経緯もあり,徐々に私の名前が北海道の人たちにも知ってもらえるようになりました.多くの指導者や教員などからも副産物的に新たな仕事をいただき講演会やサッカーのクラブチームなどの専属契約などもいただくこととなりました.

 そして,理学療法士になって10年.サッカーの仕事も長い期間続けてきました.多くの経験や仕事,認知度などもサッカー協会の仕事のおかげで得ることができました.しかし,私は次のステップに進むためにこのサッカーの仕事を辞めることに決めました.おそらく今年から,サッカー関係の仕事に関わることは無いかな?と思っています.

理由はというと,ある程度自分の中の目標が達成されたこと.そして,この仕事に限界を感じたことがきっかけです.

1.まず,目標はというと,北海道のサッカー選手からプロ,そして日本代表を作りたい!という目標がありました.その目標は,達成され,自分が昔から関わってきた選手たちはJリーガーとなって活躍しています.

2.もう一つの理由としては,サッカー協会仕事の限界を感じたことです.やはり,巨大な組織は政治力がつきものです.自分がやりたい事,進めたいこと,教えたい事があってもそれを自由に教えることはできません.いつの間にか自分の自由度がなくなり,医者の指示や理学療法士なのに,誰でもできるようなトレーナーの仕事に変容していったことも原因でした.組織を中から変えるのが困難だったと思った今,もっとスキルや知識をあげ,外部から働きかけるようにできれば,と思っています.

3.もう一つの理由は,スポーツの帯同は理学療法士の価値を下げてしまうと思ったから.簡単に言えば,スポーツはボランティア精神が溢れている世界です.自分の「スキルや知識を安売り」して,それを「やり甲斐」や「周りからの見栄え」と交換するような仕事です.時給換算すると,スポーツの仕事はとても割に合わない仕事です.自分の知識を安売りしたくない.そう思ったのも,この業界から足を洗おうと思ったきっかけでした.しかしながら,私はサッカー協会の仕事のおかげで,北海道の理学療法士にだいぶ認知してもらえる様になりました.そういった点については感謝しかありません.
 
 ですが,家庭を持ち,守るものができた今,自分の知識や能力を搾取されるわけにはいかないと思い,時給単価の安いこの大好きな仕事を辞める事に決めました.

 おそらく,学生や若いセラピスト達の中にはスポーツに関わりたい!スポーツに関わる事は凄いことだ!と思っている人がいるかも知れません.
 僕の持論ですが,「スポーツを専門に見る」というのはある意味「自分の限界を決めてしまう.」ことだと思います.
 「スポーツ選手を見たい!」という方,なぜ「整形外科を見たい!」という思考にはならないのか?
 僕は逆に言えば,一般的な整形外科疾患の治療ができないような人はスポーツ障害を見るべきではないと思っています.
 「スポーツ選手を見たい!」というのは,ある意味「若い人が見たい.」「元気な人が見たい.」という意味であり,そのような人達は,我々理学療法士に力がなくとも障害は改善していきます.

 僕の知見と偏見ですが,北海道のスポーツ関連に関わっている人たちの中で,ちゃんと整形外科の治療ができる人は見たことがありません.
 周りを見渡しても,北海道でスポーツに関わっている人たちは理学療法士としての能力ではなく,トレーナーとしての能力ばかり高めています.

 いわゆる,RICE処置【安静,冷やす,固定,挙上】そして,テーピングなど.障害に対する対処療法ばかりです.
 
 だから,僕はしっかりと理学療法士として評価,臨床診断,治療ができないような人たちはスポーツには関わるべきではないと思う.
 
 僕が理学療法士のたかが2年目にサッカー協会のトレセンのトレーナーとして,関わった経験があるからこそ,僕みたいな「ろくに評価や治療ができない」状態でスポーツ業界に関わり「勘違いの天狗さん」が生まれないようにするためにも,スポーツ選手に関わる人ほど,しっかりと自分で整形外科の疾患を評価をして,診断をつけて,治療ができるようにならなければ関わるべきではないと思います. 
 だからこそ,スポーツを見たいのであれば,まずは基礎整形を学ぶべきだと思います.


❄ 天狗の鼻を折られた日
 2012年11月(PT4年目秋)私の天狗の鼻は根本から折られました.
 サッカーの仕事も3年目となりだいぶ仕事にも慣れて来ました.サッカー協会の仕事もしていたので,今思えば2年目〜4年目までの時期は,ろくに病院での整形外科の勉強もせず,スポーツ現場のトレーナー技術【RICE処置やテーピング,ウォーミングアップやクールダウン】などの勉強ばかり行い,そして「名声」だけを追い求め,かなり調子に乗っていたと今でも思います.

 僕はみんながやりたい,サッカーの仕事をやっているマイノリティだからこそ有名になっただけで,正直,理学療法士のスキルで言ったら3流以下でした.
 
 だけど,当時はそれをわからないでいました.周りにもそういう人いますよね.

 病院に依頼が来ているスポーツの仕事や先輩に協力しているだけの仕事や友人関係や自分の母校の部活動の延長で強いチームに関わったり,病院に手術が有名なドクターが居ることでたまたま,ナショナルトレセンの選手や一流のアスリートの担当ををさせてもらうことなど.

 僕も含めて,そういう人の帯同やサポートをしているときって,自分もすごい人になったと勘違いしてしまう.だからこそ,2年目〜4年目の私の理学療法士時代は今以上に調子に乗っていたと思います.
 僕も,サッカーとして活動しているということで,スポーツが得意な理学療法士として医者に認知され,数人の日本代表スポーツの術後の理学療法士の担当をさせてもらいました.そういう経験をすればするほど,自分の天狗の鼻は伸びていました.理学療法士としてのスキルが上がっているわけではないのに,名声だけが大きくなっていきました.
 
 そして,『僕の天狗の鼻』が折れたのは,2012年11月(PT4年目)の「日本臨床スポーツ医学会」の学会発表のときでした.
 僕一人でやってきたサッカーのトレーナーの仕事をまとめて,「こんなにすごい活動をしているんだぞ!」と意気込んで,全国学会の舞台で発表しようと思い立ちました.
 北海道の理学療法士学会での発表を経て,次は全国の学会で!と意気込んでいました.しかし,結果は惨敗.惨敗というか,はじめてその時に道外に出て,日本中のPTの活動に触れました.そこで感じたことは「なんて小さな事で調子に乗っていたんだ.こっちに来てみたら恥ずかしくてたまらない.」と痛感しました.
 まるで,自分は「井の中の蛙大海を知らず」状態でした.
 北海道という小さな,理学療法士のコミュニティの中で「自分は凄いことをやってきた!」と思い込んでしまっていました.それは,県外に出れば,とても些細なこと.僕みたいな,いや僕以上の活動をしている人は何千人も居る事にその時気づきました.
 しかし,それと同時に収穫もありました.全国の学会に挑戦し,国内で活動している人たちを感じることで,自分の日本での理学療法士としての立ち位置がわかりました.
 その時,私の天狗の鼻は根本からボッキリと折れ,それと同時に,私の本州へのあこがれが強まりました.

 そして,天狗の鼻を折られた僕は,4年目の秋にしてやっと,北海道という小さなコミュニティーの世界の人達との関わりや職場や身内の研究会だけの活動ではなく,もっと道外にそして世界に目を向けていこう!と,目指すべき目標が変化していきました.
 それと同時に僕は講習会モンスターと化しました.


❄ 筋膜マニピュレーションとの出会い

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 筋膜マニピュレーション(Fascial Manipulation®)に出会ったのは2013年の2月でした.4年目も終わりが近付こうてしていた時,私は日々の臨床で疑問を持っていました.
「OMTが3人在籍している職場環境で徒手療法の知識を今まで学んできても,改善できない人達がいる.関節や靭帯,筋肉にアプローチしても,改善できない人がいる.まだ学ばなければいけない組織がある.」そう思ったのが参加のきっかけでした.

 その当時日本では,まだまだ現代のような筋膜の”き”の字も知られていなかった.たまたま,私の尊敬するメンターの上司がはじめて日本で開催された筋膜マニピュレーションの講習会2012年8月に参加し,その講習会の内容を聞いたのがきっかけでした.

 その当時は,今のような筋膜マニピュレーションの協会の理事になるなんてことは思ってもいなかった.

 しかし,講習会に参加して,その理論と技術にのめり込んでいきました.実は僕は,2013年の2月から,海外のインストラクターが日本で講習会をする場合は,現在まで毎回かかさず講習会に参加しています.おそらく,日本全国で一番筋膜マニピュレーションの講習会に参加していると思うほど,受講生の時代から,ずっと参加しています.

 それは,「理解を深めるため」でした.この手技は,私の能力では一回聞いただけでは到底理解ができない理論体系でした.だからこそ私は理解ができるようになるまで,今でも外人講師が来るたびに講習会に参加している.
 
 おかげさまで,紆余曲折し講習会運営の理事にまで登り詰めたので,交通費がかからなくなったのはとても救いです.だけど,受講生時代は何度も同じ講習会に参加し,北海道から多額の交通費や宿泊費を使い込んでいました.

 そして,まさか講習会の理事そしてアシスタントまでになると思っていなかったが,そのような立場になることになった内容は,後ほど書いていこうと思います.


❄ メンターに東京移住を止められた日
 2013年8月,メンターである職場の上司と二人でFascial Manipulation® Level2に参加しました.
 私のメンターである札幌第一病院のNo.2の小谷征輝はOMTを取得し,スキー関係の仕事に長年従事している方でした.
 3人の娘のパパで理学療法士としての能力やスキルだけではなく,インターネットや機械関係,世界の動向や政治など,どんな分野の知識も豊富なすごい先輩でした.
 
 現在は高木美帆などが在籍しているスピードスケートのナショナルチームでマニュアルセラピスととして帯同していたり,スキーモーグルのチームにマニュアルセラピストとして所属して国内外を転々と合宿や遠征で回っているような方です.
 
 私は,4年目くらいから小谷先生をメンターとして,彼に追いつき,そして追い越せるように目標としていました.Fascial Manipulationを紹介してくれたのも小谷先生でした.彼はすでにOMTの資格を取得しており,筋骨格系の理学療法士としてのスキルはとてもレベルの高いものを持っていました.

 しかしながら,小谷先生も臨床の中で”筋膜”組織治療について興味を持っており,私より先に日本初開催のFascial Manipulation®Level1に参加していました.そんなこともあり,僕は小谷先生と一緒に日本で初開催される.Fascial Manipulation®Level2に参加してきました.
 
 しかし,私の参加した目的はそれだけではなく,小谷先生に自分の将来働き方について相談に乗ってほしかったというのもあります.
  開催地であった東京では,懇親会がない日はほとんど小谷先生と行動を共にしていました.そして,夕食時に僕はある相談をしました.

僕「実は,北海道から東京に行きたいなと最近思うようになってきました.」

小谷先生「理由は?」

僕「去年の学会発表に参加した時,道外では経験することができないような事をし
  ている人たちがたくさんいました.自分も理学療法士のスキルを更に高めたい
  ので東京に行こうかと考えています.」

小谷先生「東京に行くのもいいと思うけど,東京=スキルが高いとは限らない.ど
     ちらかというと,北海道よりもピンきりだぞ.」

小谷先生「それに,理学療法士の技術と能力で言えば,俺が思うに北海道は全国で
     一番高いと思う.カズは最近道外に出たばかりだからよくわからないと
     思うけど,それは俺が保証する.」

僕「そうなんですか?あんまり良くわからないですが.」

小谷先生「わかった,カズが東京に行くのはいいことだと思う。だけど,スキルを
     上げたいっていう理由だったら,もう一年だけ北海道に居たらいい。俺
     が北海道の凄さをもっと教えてやる.」

僕「わかりました。」

 そして,私はこの年,東京に行くことを留まりました.しかしながら,まだ東京に行きたいと言う思いが強かったので,今後の講習会へは道内ではなく道外の講習会に積極的に行こうと思い,秋口から積極的に道外の研修会に参加することになりました.すると,小谷先生の言っていたように北海道の凄さがすぐに分かりました.
 僕は,右も左もわからず地元の人も誰も居ない東京での講習会へ参加を続けていましたが,参加する度に受講生や講師の先生から「札幌第一病院から来た先生なんですか!?いつも,先生の上司の先生たちにお世話になっています.戻った時によろしくお伝えください.」と,事あるごとに言われたのでした.
 
 それは受講生だけではなく,講習会の講師からも言われました.北海道の講習会に参加していたときは気が付かなかったのですが,「私の病院の上司達(特にOMT)の3人」は道外ではとても顔が広い方たちで,そのこともあり私が東京での講習会に参加する度に,「3人にお世話になっている」という理由で,飲みに連れて行ってもらったり,連絡先を交換させてもらったりと普通の受講生では体験できないような経験を沢山させてもらいました.
 
 自分がすごい人間ではないのに,周りの受講生からも間違ってスタッフと思われてしまうくらい,運営の人たちと仲良くさせていただきました.
 また講習会に参加した時に,自分の能力が周囲の参加者よりも高いことに気が付きました(調子に乗ってるわけではない).
 
 それは,北海道で当たり前と思っていた基礎知識が別の県では「すごい知識」と認識されていました.自分が気が付かないうちに,「札幌第一病院」でただ働いていただけなのに,かなり理学療法士として,レベルアップしていることに「道外の研修会に出るようになって」はじめて気がついたのでした.

 そしてその時に出会ったのは,東京で理学療法士をしている【吉田篤史先生】でした.吉田先生も北海道の理学療法士の事を大好きな先生の一人でした.私よりも10歳くらい上なのですが,当時からとても良くしてくれました.そして,まさか一緒にイタリアに行くとはこのときは思ってもいませんでしたが….


❄ 苦手な英語を克服するために
 2013年春,理学療法士5年目となった僕は,やりたい事や学びたい事が徐々に明確になってきました.しかし、徐々に明確になって行く中でやはりネックとなるのは語学力と感じ始めていました.

 講習会中に外国人講師に自分の言葉で質問をしたり,自分の思いを伝えたり,今後は中堅の理学療法士として,これが大事になるんじゃないかな?ってその当時,思っていました.
 そして,徐々に道外の研修に参加するに連れて,私はあることを思いました.

「外人講師の講習会では通訳が外人が言った言葉のすべてを通訳していない」.

 まぁ,しょうがないことだとは思います.時間の限られた講習会なので,重要な事を明確に伝える事が必要だと思います.ですが,私は外国人講師の言っている事をすべて理解したかったのです.
 それに,自分が質問しても,通訳を介してしまうと,ニュアンスが変わってしまって自分の聞きたいことが聞けない.そんな経験がとても多かったので,私は【英会話】を始めよう!と決心しました.
 
 それは2013年春【PT5年目】の頃でした.

 英会話をはじめようにしても,【高校時代】のところで書いたように,英語は中学生時代から捨てていました.「なんで日本人が英語を習わなければいけないんだ?」そんなへその曲がった事を中学生の時代に言っていたくらいでした.
 
 だからこそ,英会話を学ぶ時に他の人と一緒に英会話を学ぶことはおそらく自分が置いていかれてしまう.と思ったので,集団レッスンではなく個人レッスンをお願いしました.
 
 私の英会話の先生は自分が病院で担当していた患者さんの仕事仲間(アメリカ領事館)の友人のアメリカ人の先生でした.英語ができない私に対し,親身になって教えてくれ,5年たった今でも週に一回のレッスンを受けています.そのおかげもあり,日常生活レベルであれば,英会話が可能なレベルまではなりました.

 中学生で英語を捨てた私でさえ,簡単な【英会話】ができるようになるのですから,若手の理学療法士の皆さんも是非とも英会話を始めたらよいかと思います.

 そのおかげで,私は多くの外国人講師と話をする自信がついたし,海外へ研修会に行く勇気をもらいました.英会話をする勇気が出たことで,更に視野がひろくなりました.海外には凄い文化や理論,セラピストがたくさんいます.僕は本当に英会話をはじめて良かったと心の底から思います.

 そして私は,2014年の9月にFascial Manipulation®Level3の講習会を受けにイタリアに行ってきました.


❄ 筋膜治療の本場 イタリア短期留学(2014年9月)
 2014年9月末(理学療法士6年目)イタリアのVicenzaという街で講習会に参加してきました.
 イタリアはとても解剖学の歴史が古く、大学としては世界で2番目の古さで,世界で最も古い解剖学部があるPADOVA大学もあり,とても解剖としては最先端の学習ができる国でした.そこで、筋膜マニピュレーション(Fascial Manipulation®)という治療手技の講習会の最終段階であるLevel3の【内臓器機能や恒常性システム(代謝や循環、呼吸器)、婦人科等の内科疾患に関わる筋膜調整】を実施する講習会に2週間行ってきました.
その当時は,日本人でこのコースに参加した人は自分を含めて4人とまだまだ日本には一般的に知られていない知識でした.
 内容としては筋骨格系の構造体と内臓器の解剖学的なつながりの学習とそれを治療する方法というものでした.
 内科の術後に体の痛みが出現する方であったり.ケガの代償で内臓機能の機能不全が起きる事であったり.そのような内容の評価から治療の流れを学習してきました.

 長い研修でしたがイタリアでの研修では以下の徒手治療の研修を行なってきました。
 
 ・消化器系の障害
 ・循環器系の障害
 ・呼吸器系の障害
 ・聴覚、視覚、嗅覚の障害
 ・婦人科の障害(生理痛や月経不順)
 ・リンパ
 ・皮膚の障害


画像5

左から筋膜マニピュレーション創始者 Luigi Stecco 先生
   筋膜の解剖学者第一人者    Carla Stecco先生           
   国際インストラクター     Dr Antonio Stecco先生
                  PT Andrea Pasini 先生

 Antonio Stecco Dr から実技チェックを急に言われた時は本当に緊張しました.

 2014年2月に本来行く予定だった,日本人の数名のメンバーがドタキャンしたことにより,日本人の枠が空いてしまったことで,2015年に行く予定だった私が行くことになりました.その時に,「一緒に行こう!」と声をかけてくれたのが「吉田篤史先生」でした.

 行くことが決定して,怒涛の半年間.
 仕事の空き時間でPodcastやYouTubeで英語のListeningの勉強しながら,死に物狂いで英単語や内臓臓器や筋膜の解剖の英語での勉強をしていました.

 また,家族や職場の同僚,そして数えきれない程の人たちに,迷惑をかけながら、しかも北海道・札幌だけにとどまらず,日本全国の多くの先輩たちからも助言やサポート(航空券の手配など)もして頂きました.本当に感謝でいっぱいです.
 
 この半年間の生活はとても苦しく辛い毎日でしたが,今となっては本当に自分は幸せだなとつくづく感じます.それとまた、イタリア本国の技術や知識に触れ自分の未熟さを痛感しました.

 講習会では各国のOMT DiplomaやFascial Manipulation®を何十年もやっている人やFasciaで研究を何本も出しているような人がほとんどでした.そのため、基本知識はさることながら,ディスカッションも熱く激しい毎日でした.

 しかし,英語がまだまだ上手ではなかった僕は,話を聴くのが精一杯でその中に入れず悔しくも感じました.その当時はFMに出会ってから3年目となり,ある程度治療効果なども出せてきたかなと思っていたのですが,臨床スポーツ医学会の時のように,天狗の鼻をバキッと根本から折られた気分でした.(髪の毛で言えば毛根から抜かれた感じです.)

 以前,他の講習会で,定年が近い理学療法士の先生が「何気ないことでも何十年も何十年も繰り返し使うことで,その道の一流になれる.」とおっしゃっていました.

 でも、自分はこの時,講習に行ったことに満足して,筋膜の治療をはじめてたかが2,3年で出来るようになった気持ちでいました,治療手技は出来るようになったとしても,その治療の根本(構造、生理、解剖、病理、歴史的背景 etc..) をちゃんと理解出来ていない. そして,この分野学習を「やっていない人たち」に対して,しっかりと根拠の有る内容で説得力のある説明が出来るのだろうかと感じました.
その当時の私はまだまだできてない.いや,今現在の僕もまだまだできていないはずです.

また、余談ですが.
海外の研修で一つ思ったことが有りました.いや,経験しました.
よく外国のPTに「君は何をしてる人なの?」とホントによく聞かれました.

…。なにをしてる人?

僕は何のDiplomaを持っているわけでもない.

国際認定のコースには何個か参加してるけど,ただ修了書を持っているだけの参加してた人.
「臨床だけで頑張っています!」って聞けば,かっこいい言葉かもしれない。

でも,「臨床だけで頑張っています!」ってのは,ただの自分のエゴなのかもしれない.とその時強く思いました.
 自分の言葉に説得力を持つためには,「勉強を頑張るだけ」ではなく,「社会的にも認められないとダメ」なんだなって痛感しました.例えば世に論文を示したり,修士や博士の資格を取得したり.そうすることで,社会的な信頼を持ち,自分自身の活動のエビデンスにつながる.

 でも,その当時の僕は,ただのPTの養成校を卒業したPTだった.
 しかも,研究をしているわけでもない.
 職場の後輩と僕は何が違うのか?今年,養成校を卒業した1年目と何が違うのか?おそらく社会的に見れば,違うのは年齢だけだと思う.年功序列に対して強く反感を持っていた僕には耳が痛かった.

 当時,英会話の先生と日本の文化について話をしていた時に気になる話題があった.

「海外には先輩後輩という文化はない.だから全ての人は同僚.能力がある人や仕事が出来る人が上司となるが,若い人が上司になることだって普通にある.」って.日本の年功序列の文化は「良い文化」でもあるけど「悪い文化」でもあるのかなって,その時思いました.
 
 「医療はチームアプローチ」というけど,理学療法士は美容師や大工さんと一緒で「個人仕事の技術職」だと私は思います.サボれは「錆びる」.頑張れば「磨かれる.」.
 だから,僕は頑張ってる後輩は尊敬しているし,サボってたり,遊んでたりしている先輩は尊敬できない.
 どんな若い人も年寄りでも,いち理学療法士として関わってく方が適切なのではないか?って.

「経験年数や年齢なんて関係ない.」僕はそう思う.
 経験年数や年齢なんて,寝てても増える.遊んでても増える.旅行に行ってても増える.だから,そんな数字には意味がない.大事なのは,「頭を使って考えて治療している日がどれだけあるのか?」だと思う.

 だから,僕は年齢や経験年数などどうでもいいと思ってる.
 尊敬する後輩も居るし,見下している先輩もいる.そもそも後輩とも思ってないし,先輩とも思ってない.みんな,理学療法士.

 日本ではそんな事を言っている存在は煙たがれるかもしれない.
「年長に噛みつく存在」は日本では受け入れられないかもしれない.

 でも,僕はイタリアに行った時,そんな煙たがられるような中堅になりたいって思った.
 いや,それよりも日本の理学療法を世界基準にしたいなら,まじで「年功序列」をぶっ壊して,権力にふんぞり返ってなにもしない年長者たちを引きずり降ろさないと駄目だと強く思いました.

 最近ではそんな感じで,頑張ってる後輩の話を聞くと凄い楽しくなるし,自分ももっと頑張らないとなって思うようになっている.

 少し,いろんな人と出会って色んな経験を経て,少し大人になれたのかなと思う.また次のステップに進むため,少しずつ石磨きに打ち込みたいと思っている.

 でもそうやって,無謀だとは思ったけど,イタリアに研修に行ったことは大きな財産になったと思う.自分の中では,イタリアに行って,他国のPTのと会話をしたことは,自分のPT人生を変える大きな出来事になったと思う.


❄ 日本筋膜マニピュレーション協会の理事となる
 さっき,年齢は関係ない.と言ってすぐ「年齢」の話をする僕.
 僕の年齢は現在32歳.4月には理学療法士11年目になる.
 そんな僕は,日本筋膜マニピュレーション協会(Japan Fascial Manipulation® Association)の理事をしている.

 若くして,なぜそんな立場になったか? ということだけど…

 それは,先見の明があったからだと思う.
 【筋膜マニピュレーションとの出会い】のとこで書いたけど,日本で筋膜マニピュレーションが開催されるようになって,すぐに飛びついた.

 なぜ,飛びつけたかというと,世界の研究の動向をチェックしていたからだと思う.
 「次に来るのは,筋膜だ.」僕はそう思ってた.関節や筋肉や神経など,どの分野も当時,筋膜とその組織との関係などがトピックになっていた.

 「流行り」と「廃り」には流れがある.医療業界の流れでいうと…
 
「海外での各分野のトップの研究者の論文」→「そこそこの研究者の論文」→「海外の医療業界での流行り」→「日本の医療業界での流行り」→「一般での流行り」

 この業界の流行りの流れを理解すると,日本の業界でのトップに立つことは簡単だ.
 私はよく,ホッジスやトマス・マイヤーなどの研究業界のトップランカーに位置する人たちの論文を読むようにしていた.彼らの論文を読んでいると,彼らが次にどの道を探求しているのかがわかるからである.

 コアスタビリティだって,筋膜だって日本で流行る数年も前から彼らは,その分野に行き着いている.そして,今もまたすでに日本の流行りとはずっと先に彼らは進んでいる.

 僕は好きで今,筋膜の研究や治療を行っているけど,もしこれから,筋膜が流行っているからいって,イチから勉強して流行りに便乗しようと考えている人がいたら,やめたほうがいい.

なぜって?

「もう筋膜の時代は終焉しつつあるから.」
すでに筋膜の研究家たちは次のステップに進んでいる.

次のステップとは?

せっかくの有料noteなので,書いちゃうけど,次の時代は『脳と姿勢制御』

 これから,理学療法士として集団から抜け出たい人は『脳と姿勢制御』の分野の勉強を探求することと日本で開催されていない海外の講習会を探したほうがいい.筋膜が流行る前に,筋膜を探求する先見の明を持っていた僕だから言える.必ず次に来るのは『脳と姿勢制御』だということ.

 っと,話は大きくそれましたが,私はなぜ若干32歳で『筋膜マニピュレーションの協会の理事』となり,筋膜関連の書籍の翻訳や日本語の書籍を書くことを頼まれるまでになったか?というと,日本人の誰も経験していない事を僕自身が経験したからだ.大事なのは『日本人の誰もしていないこと。』を誰よりも早く経験する事.

 簡単に言えば,Fascial Manipulation® Level3の正規のコースをイタリアに行き,日本人で最初に参加した一人だった事.そして,それをイタリアにいる間や日本に帰ってきてからも,SNSを使って広く日本の理学療法士に周知したことでした.

 当時は英語もそこまでしゃべることができなかったので,内容は理解しても5,6割でした.だけど,日本人理学療法士の中で一番最初に参加した. という結果が現在の私の立ち位置を確立させたと思います.

 そして, 日本人の誰よりも筋膜マニピュレーション(Fascial Manipulation®)を理解している自信があったからだと思う.さっきも書いたように,私は外人講師が日本に来る度にすべての講習会に復習参加していた.だからこそ, 日本の誰よりも理解している自信があったし,自分が一番治せるという自信もあった. 10歳,15歳年上の他の筋膜マニピュレーション協会のスタッフよりも自分の方が治療できる自信もあった.(スタッフがあまり臨床に出ている人がいなかったというラッキーな面もあるが.) 

 だからこそ,日本人スタッフが講習会で理論と異なることを発言していたり,間違えていたりすると,年齢など関係せず,訂正を行い続けた.

『先見の明』と『自分が納得するまで講習会に参加し続ける』ということが,自分の今の立場を作ったのだと思う.

 しかし,僕は正直,今の立場に留まることは考えていない.おそらく,もうすぐ辞めると思う.組織に所属してしまうと,『その手技しかできない人間』だと思われてしまうからだ.私はあくまでも,筋膜マニピュレーションは自分のテクニックの中の一つの手技なだけで,筋膜マニピュレーションが全てだとも思っていない.
 皮膚だって,神経だって,関節だって,靭帯だって,筋肉だって,治療できるテクニックを持っている.OMPTの取得も目指している.OMPTは臨床実習も終え残すところ,認定試験まで来ている.


❄ OMPTコースとの出会い(2014年5月)
 僕のOMPTコースとの出会いは意外と遅い,理学療法士の6年目の時だった.
 そもそも,OMPTには興味はあったけど,取るつもりはなかった.理由はというと,僕の職場にはすでにOMPTが3人在籍していたからでした.
 
 私は,「へそ曲がり」の「天の邪鬼」だったので他の人と同じレールに乗りたくないという思いがありました.
 職場に3人もOMPTが居るから,私は彼らがやっていない道に進もうと思っていました.それに,ある程度の関節の治療法などはOMPTの先生たちに学んでいたのもありました.

 そんなこともあり,OMPTの取得を考えておらず,筋膜マニピュレーションを頑張っていこうと思っていました.しかし,筋膜マニピュレーションに参加すればするほど,「この手技を使う」と選択するための評価がしたくなってきました.

 筋膜マニピュレーションは基本的にどのような障害に対しても筋膜の機能障害が問題になって,症状を起こしているという理論でした.
 私は当時から,「そんなわけない」と思っていました.だからこそ,筋膜が問題だ!という臨床診断をつけるための評価学を学びたいと思って,6年目の時に「やっぱりOMPTを取得しよう」と思い立ったのでした.

 そして,OMPTコースに参加して現在5年が経とうとしています.「ベーシックコース」→「アドバンスコース」→「マニピュレーションコース」→「筆記試験」→「実技試験」→「臨床実習」が終わり,おそらく今年にOMPTの認定試験を迎えます.この5年間OMPTの診断技術と治療技術を学んだおかげで,更に筋膜に対する治療がレベルアップしました.

 OMPTを学べば学ぶほど,また逆に「OMPTは全てではない.」この技術は「基礎であり,完璧なものではない.」と思えてきました.OMPTの技術は「評価」や試験治療の面には長けているが,2日目,3日目と時間が経過した際の治療というのはめっぽう弱い技術でした.OMPTに限らず,徒手的な治療を行っている人は耳が痛い話だと思う.
 患者を治療することができるが,生活に戻すという技術が極めて足りない.そして,OMPTに対する苦言として,非常に自分たち理論以外のものに対して非常に柔軟なものの見方ができないことだ.

 僕は今まで,日本の多くのOMPTと話をしてきたが,どのOMPTと話をしても,非常に頭が固いと感じた.OMPTの取得にかなりの年数がかかるのもあり,プライドが高いのだろう.自分たちがやっている事が全てだと思っている人が多い.柔軟なものの見方ができる人は限りなく少ない.技術としてとても正確で安全で素晴らしいものだが,長居をする分野ではないと感じた.あくまでも,OMPTは理学療法士の基礎であり,それ以上もそれ以下でもない.    

 しかし,OMPTを学ぶに連れて副産物を多く手に入れた.
 それは「学校教育」でした.
 整形外科の治療技術や触診技術が認められ,その内容を母校で教えてほしいと『非常勤講師の仕事』の依頼が来るまでになりました.


❄ 母校の専門学校で非常勤講師
 母校の専門学校とは卒業後も多くのつながりがありました.理由としては,職場と母校が近かった事が一番かと思います.そんなこともあり,卒後教育の一環として,同窓会運営をして母校の卒業生向けに講習会を企画するなどの仕事をやっていました.

 同窓会の副会長や学術局長といった仕事も任される(まわされる?笑)ようになってしまったおかげで理学療法士となってからも母校へは月に一回は行っていました.
 そんなこんなで5年くらい同窓会の仕事を続けていたのですが,同窓会の仕事で早めに仕事を終わらせ学校に行った時,教員と母校から来ている「実習生の話」になりました.
 簡単に言えば,「母校の学生が他校の学生と比べ年々能力が低くなっている」ことを私が指摘したのでした.

 そう.授業を母校で教えるようになったのはかれこれ4年くらい前の話.
 
 当時,僕は同窓会活動の一環として母校の3,4年生の臨床実習後のサマリー発表会の「理学療法士アドバイザー」として学生のサマリー発表に参加していました.
 
 当時から,母校で行われていた運動器,整形外科的な理学療法の授業に対して臨床の理学療法士として,色々と意見を言っていました.
 札幌市内に整形外科分野に努めている理学療法士も少なかったので,整形外科関連の仕事は私に舞い込んできました.

 母校の学生は,昔から〇〇筋群という言葉を多用し,詳細な筋肉の評価をしていなかったり,体表の簡単な筋肉の位置関係や触診などもできないでいた.
 
  僕の所属する病院では,多くの地域の学校から臨床実習の学生を受け入れているので,他校での授業内容やカリキュラム,そして学生の技術レベルの違いが色々とわかっていました.
  その中でも,私の母校は極端に,局所的な技術(触診,徒手療法)が備わっておらず,大雑把な技術(トランスファーや歩行介助,ADL訓練,関節可動域訓練)のみで実習を乗り越えていました.
 
 自分の学生時代も同じような授業カリキュラムが多かったので,正直私も実習を乗り越えるのが大変でした. だからこそ, 札幌第一病院に実習に行った時に学生時代の僕は徒手療法の技術に衝撃を受けたのを覚えています.
 
 そして,母校にはいくつか問題がありました。

<母校の問題点>
1.学校開設当初(ちなみに私は5期生)から,運動器に携わる教員がいなかっ
  た.
2.新任で入った,運動器の教師はスポーツ整形で働いており,徒手技術がなかっ
  た.
3.そもそも,母校の教員たちは徒手療法を「特殊な手技」と認識し,私もそう教
  わった.

 そして,最大の問題が理学療法士の基礎である触診の授業を【歯科医】が教えていたことでした.

 そうです.
 僕は学生時代,触診を【歯科医】から教わりました.その授業の内容も,触診のデモンストレーションもなく,ただ教科書を音読しながら,触ると言った【ほぼ自習】のような授業でした.

 僕も学生でしたので,その当時は不信感もなく「こんなもんなんだ.」程度にしか思っておりませんでしたが,いざ理学療法士になったときに現実を理解しました.
 

「触診が出来ないと,何もわからないじゃん!!」
 自分が患者に触れようとも,今触れている硬いものがなんなのかがわからない.〜筋が触りたいのにどう触ればいいかわからない.
 
 
 なので,理学療法士1年目となり,必死で勉強をしました.とてもとても苦労しました.幸い,僕の勤務病院は日本全国にわずかしかいないOMPT(国際運動器徒手理学療法士)が3名もいたので,良い見本がいました.
 
 その見本のおかげで,理学療法士としての基礎的な知識・技術の基準線がわかりました.
 
 そして,私もOMPTのカリキュラムに参加することとなり,さらに徒手的技術をみにつけました.理学療法士の触診の講習会等でもアシスタントとしても,関わらせていただくようにもなりました. 
 
 そんな4年前の春,例年通り臨床実習指導者として母校の実習生を受け入れていた時.僕は衝撃を受けました.学生との何気ないフィードバックの会話の中で日本の教育の悪いところが明らかになりました.

僕「君も,もうちょっと触診ができたら幅が広がるのに」
僕「ところで,触診の授業って誰が教えているの?」

学生「なんかよくわからない歯医者さんです.」

 僕は衝撃を受けました. 僕が学生の時代から何も変わっていない. これだけ学校が増えて, 学校も選択される時代になったのに, 昔の悪い伝統が今でも続いていたなんてと‥
 
 そんな事もあり,母校の後輩たちを助けてあげたい.
と,母校の教員たちに,実習生について話し合う際に必死のプレゼンをしました.
 
僕「今まで,実習生を見た来たけど,母校の後輩たちは極端に触診ができない.」
 「僕らの学生時代のときみたいに,まだ歯科医の先生が触診を教えていると聞き
  ました.」
 「僕は現在,理学療法士の講習会でも触診を教えたりしています. 僕に任せてく
  れませんか?」

教員「私達も昔から問題視はしているんだけど,昔からの付き合いもあるから‥」 
  「それなら,3年生の実習前の評価の特論として授業を組むから,そこでやっ
   てもらえる?」

 そんなこんなで,4年前から僕の触診の授業が始まりました.
 初回はわずか2コマの授業しかいただけませんでしたが,臨床家から教わる授業は学生のウケも良く.「もっと触診の授業を受けたい!」と学生から声が上がりました.
 
 そのおかげもあり,今では6コマの授業を頂いて【触診】の授業をさせていただいています.
 
 また,私の授業では【触診】だけを教えるのもつまらないので,ちょこちょこ学生相手の公開治療(痛みを抱える学生の治療)を空き時間にしているうちに,【運動器疾患の評価と治療】として【関節の評価とモビライゼーション】の講義などもさせていただくようになりました.
 
 自分が学生時代に思い描いていた,「運動器の評価から治療までを学ぶ授業を受けたい!」という夢が「母校で教員として」実現することが出来ました.

【現在の私の母校で行っている授業の流れ】
3年生秋:触診(6コマ)
3年生冬:運動器の評価と治療【モビライゼーションと運動器評価概論】(4コマ)
4年生夏:レッドコードによるトレーニング(5コマ)
 

 少し、時間はかかりましたが理学療法士の卵たちに理学療法士として世界基準を植え付けることが出来ました.
 授業の中では,私が今まで経験したこの自叙伝のような経験談や世界の理学療法士の現状.他校の様子など色々な情報を植え付けています.
 少しでも,後輩たちが世界に目を向けてもらうために.北海道の理学療法士のレベルを上げるために,僕は教育にも力を入れている.
↓無料配布中の臨床実習ガイド


❄ 私が非常勤講師や講習会で講師を続ける理由
 

 僕は北海道の理学療法士たちは特殊な人格を持った人たちが多いと感じています.閉鎖的で仲間意識が強く,よその者を排除的に扱う.
 
 そして,道内完結型であまり道外には出たがらないため【井の中の蛙大海を知らず状態】私はそんな,蝦夷産の理学療法士を作ったのは「道内のビンテージ理学療法士」の責任だと感じています.
 
「自分たちは基礎をしっかりしている.」「やっていることは世界基準だ!」と北海道のビンテージ理学療法士は口々に言います.
 
 それは,北海道の理学療法士の歴史として,海外から理学療法士文化を持ち込んだ先生が北海道の理学療法士の大学で教壇に立ち,その先生を師として学んだ30年前の理学療法士たちが,現在の北海道の理学療法士を仕切っているからです.
 
 僕も彼らのことはすごいと思います.
 
 しかし,ある一部の領域(分野:徒手療法)に関してだけです.
 
 僕は今まで,道外に出たり,イタリアに行き他国の理学療法士ともたくさん交流をしてきました.
 
今でも週に2〜3回は道外に出ています.
 
 そうやって,道外に出てみると,
【北海道の理学療法士の凄さ】もそうですが,
【北海道の理学療法士の頭の硬さ,そして視野の狭さ】も多く感じています.
 
くり返し言いますが,私は北海道のビンテージ理学療法士たちは尊敬しています.
 
しかし,時間は息をするだけでも進んでいます.
 
そうです.北海道の理学療法士達は新たなステップに進むべきだと感じています.
 
でも,私の力では現状の理学療法士たちの思考を変えるのは困難.
 
 だからこそ,学生たちに,
【古き良き歴史】と【未来】を伝えています.若い理学療法士の力で北海道はまだまだ成長します!
 
 ということで,臨床と教育の架け橋になりたい.理学療法士の可能性を「見せつけたい(公開治療などで)」ということもあり,臨床家の非常勤講師として今の仕事を続けています.

 ビンテージの思考を変えることは困難です.だからこそ,私は若い理学療法士たちに『井の中の蛙』になってはだめだと伝えたいのです.
 私の進路から,教育が消えない理由はやはり,北海道をもっと良いものにしたいという思いが強いからです.


❄ 結婚と子供
 私は2015年の29歳の時,1コ上の職場の看護師と結婚しました.
 正直言って,今だから言えるのですが,それまでは取っ替え引っ替え女の子を変えたり,毎日違う女の子と遊んだりと自由気ままな毎日を過ごしていました.

 当時から,東京に研修に行ったり,イタリアに行ったりとしていたので,SNSだけで私のことを知っている人たちは,「まさか僕が結婚してるとは!?」と驚かれる人も多かったことでしょう.
 
 しかし,私は28歳の時に将来共に寄り添えると思った方と出会い,1年後に結婚しました.

 自分が今の妻を結婚相手に選んだ理由は,後にも先にも,一緒にいると仕事を忘れさせてくれるからです.私の妻は,私の仕事をサポートしたり,共に何かを成し遂げるような仕事に対して情熱を注ぐタイプではなく,どちらかというと僕が有名になるよりも,平凡な家庭を築き,家族の時間を作って欲しいといったタイプの人間でした.

 僕的には結婚するまでは,将来,一緒に何かの起業をしたり,共に成し遂げてくれるような人と結婚するのかな?と思っていたのですが,出会って見れば,真逆の家庭的な妻に惹かれていました.皆さんもご存知の通り,私は仕事になると猪突猛進となり,周りが見えなくなってしまいます.おそらく,自分の結婚相手が共に協力して何か事業をしたいと言ってくれる女性だったら,僕は妻を置き去りにして,更に仕事に熱心になりさらに猪突猛進になっていたと思います.

 しかし,今の妻は僕がどれだけ有名になろうと,どれだけお金を稼ごうと知ったコッチャありません(応援はしてくれますが).
 だからこそ,家庭では僕は理学療法士の菅原ではなく,夫や娘のお父さんで居られるのではないかと思っています.だからこそ,家に帰ると仕事のことを忘れることができ,リラックスした日々を送れます.
 
 ですが,そんな家庭でも僕は突っ走ってしまうので,妻の気持ちを読み取れなかったり,家族を置き去りしてしまうことが度々あります.
 しかし,そんな時は僕はまるで馬のように,僕の頭が「仕事」になりすぎた時には手綱を引っ張ってくれたり,時には手綱を緩められて仕事に猛進させてもらったり,そして時には,「家庭のことも大事にしないとね!」と,私の行動のボリュームを調節してくれているように感じます.
 
 そして昨年,愛娘が生まれました.妻と娘と共に暮らしていると,「家族との時間」や「自分の時間の価値:時給」についてより考えるようになった.
 自分は何を大事にしたいか? 何を目的に仕事をしているのか? 自分は結果的にどうなりたいのか? 誰のために仕事をしているのか? 
 
 若いときは,やりたいことがたくさんあって,頼まれたことは断らずやったり,無報酬でも,何でもかんでもやっていた.しかし,家族を持ち,娘が生まれ,「時間」について考える事が多くなった.
 
僕が気がついたのは,「時間」というものは限りがあるものだということ.
1分は60秒
1日は24時間
1年は365日
新卒から働く期間は約40年
生きている時間は,多分あと47年(80歳まで生きるとして)
 
 単純に考えても,ざっとこんな感じだ.

 しかし,この自分の時間で,娘や妻と一緒に過ごす時間がどれくらいあるのか?と考えると,一緒に生活する時間や日数は限りなく短い…
 
 特に娘は1歳児なので,朝の7時に起きて夜の8時には眠る.
 私は朝の8時には出勤し,早くても夜の6時に家に帰る.

 それじゃあ,娘と一緒に遊べる時間は一日にどれくらいあるのか?
 食事や着替えの時間を抜かしてしまうと,おそらく一緒に遊べる時間は1日に夜寝る前の1時間位しか無い.
 
 そう考えていると,例えば,アフター5に自分のやりたくもないつまらない仕事に時間をとっていたら,娘との大事な時間がなくなってしまうと感じました.

 そう考えていると,妻や娘との時間を共有できる土日にワクワクのしない,見返りのない仕事に自分の時間を提供したくないと思うようになった.
 わがままなのかもしれないし,社会人としてどうなのか?とも思われるかもしれないが,それだけ僕の中では家族が仕事よりも大事な存在だということ.

  だから僕は,娘が生まれた一昨年から,娘のためにも妻のためにも,自分のためにも,1週間に2日は必ず病院勤務後の時間に何も予定を入れずに定時に帰る日を必ず作っている.週に2日は必ず.
 どんだけ忙しくても,2日は必ず家庭の時間を作っている.5日間予定が入っていて,その後に絶対外せない予定が入ってしまったら,事前に予定の入っている5日間の中で一番ワクワクしない予定をキャンセルしている.社会人としては最低な人間だと思うが,それが僕の働き方だ.

 そう,家族との時間を過ごすために.

 そして,月に1日は必ず妻が一人で自由に過ごせる時間を作っている.
 日頃の感謝のために.

 それは,ある時妻に「もしも100万円手に入ったら何欲しい?」って話になった時に,「100万円はいらないから,自由な時間が欲しい」と言ってた事がきっかけだった.思い返してみれば,結婚しても,娘ができても,僕は好きに仕事を入れたり,研修を入れたりしていた.しかし,妻がそういった時に,私が自由にしている時間に娘の世話をすべて妻がしてくれていることに気がついた.
 
 そんな事もあって,月に一回は娘と朝から二人っきりで夜まで過ごす時間を作っている.
 そして,いざ娘と1日過ごしてみると,「どんなに仕事って楽なんだ。」「娘の世話って超大変.」と感じている.
 でも,そう感じているからこそ,おそらく私は妻に感謝していて,仕事で有名になるよりも,妻を幸せにしてあげたいと思っているんだろうと思う.
 
 もし,この自叙伝を読んでいて,結婚して子供を授かっている人が居たら,是非とも奥さんには「講習会帰りのお土産」だけじゃなく,『自由な時間』をプレゼントしてあげてほしい.僕がこんなに仕事を詰め込みすぎても家族関係が円満なのは,僕が「仕事」よりも「家事,子育て」の方が大変なことを理解しているからだと思う.

 僕は思う.家庭を顧みず掴んだ栄光は何の価値も示さない.
 応援してくれる人が居るからこそ,栄光に価値があると思う.
 僕は多くの有名な理学療法士を見てきたが,結構な頻度で,有名になったタイミングで離婚している人が多い.その理由は説明をしなくともわかると思う…

 また,家族の学問を研究している者によると,年間120万の給料が増えることと毎日12分間の夫婦の会話をする幸福度が同じらしい.家族の幸せのためにお金を稼いでるんだ!と奥さんや子供に言っている人がいたら,120万以上副収入や給与の増加がなければ仕事を増やさないほうがいい.それよりも,奥さんと12分間しゃべる時間を作ってあげたほうが,家族が安泰になる.

 中途半端な稼ぎで,時間だけが無駄に取られるような仕事をやっていたら,自分の時間を奪われるだけではなく,家族も失うかもしれないことを理解しておいたほうが良い.
 
 話はそれたけど,繰り返しになるが僕は妻と娘のために,週に2日は必ず家族の日を作っている.仕事関係で色々と声がかかるようになり・忙しくなった今,あえて「今から始めた」家族サービスだ.
 
 ということは,私に残された自分の好きな仕事ができる日数は1週間に5日間.
本職の病院勤務もしているので,自ずと,空き時間の優先順位が付き,新しいことを始めるときは,時間を確保するために,「1番ワクワクしない何か」を自分の時間から削除しなければならない.そんな足りない時間の中で生活してい僕がその中で始めたことは大学院に進学することだった.


❄ 大学院
 大学院に入学したのは2017年でした.自分の人生には大学院なんて必要のないものだと,思っていました.それは,臨床家で生きると決めていたからです.
 
 しかし,それはまだまだ青二才だった理学療法士の勝手な大学院に対する固定概念が私の大学院を毛嫌いするようにもなっていました.

 それは「大学院=臨床ができない人が行くところ」という勝手な固定概念でした.
 しかし,私は臨床をすればするほど,経験が増えれば増えるほど,人前に出れば出るほど,『大学院を意識し始めた』のでした.
 明確に意識し始めたのは,イタリアに講習会を受けに行ったことがきっかけでした.

 なぜ私が大学院に進学しようと思ったか?


 2014年9月(理学療法士6年目)に筋膜治療の講習会の最終段階である,イタリアで開催された「内部機能障害に対する筋膜治療」に参加したことがきっかけでした.

 世界で初めて,正規の講習会として開かれた『筋膜と内部機能障害』の講習であったため,参加者は世界各地で筋膜治療の最前線で治療を行っている人たちばかりでした.
 日本人は4名で参加しましたが,圧倒されながらも講習会は新たな知見の宝庫で僕自身とても有意義な会でした.イタリアの講習会ではランチタイムでは受講生と講師全員でレストランを貸切にして,8人一組くらいのテーブルで一緒に食事をしました.同じテーブルには,ブラジル人,フランス人,フィンランド人,イタリア人,アメリカ人と,国籍も様々でした.

 ランチタイムでは受講生たちは目を輝かせながら,他国の理学療法士たちと「筋膜」や「自身の活動」についてについてディスカッションをしていました.

 レストランでは,私は〜〜筋膜について研究している。」「私は筋膜の〜について研究している。」「鼠径靭帯の高密度化は排尿障害と関連があると思うんだけどどう思う?」そんな感じで,ランチをしている中,他国の理学療法士から質問を受けました.

 イタリア人女性「あなたは日本で何をしているの?」

 何をしているのかって? ん〜。…強いて言えば,臨床をやってきた.
 僕はうまく答えることが出来ませんでした.

 英語が堪能でないからではなく,ストレートな海外のPTの質問に対し,胸を張った答えができなかった.
 人に話すほど特質した「”もの”や”こと”:知識や研究,技術」をもっていなかったからです.
 
 僕は,筋膜の治療については日本中の理学療法士の中でも,最前線でやってきたつもりだった.
 しかし、他国の最前線でやってきている人からしたら,「最前線でやってきた.」ということは「何かをやってきた結果」であり,「自分が何かをしている」わけではなかったのでした.

 また,世界の理学療法士達は,臨床と研究をどちらも重視しており,日々の臨床で疑問に思ったことは研究を行ない解決していた.「臨床家だからこそ研究をしている.」そんな印象でした.

 そして,指導者に立つ者(講義をしたり,講習をしたり)として,Master(修士)やDoctor(博士)を持つことが最低条件であり,それが世界の理学療法士の最低基準であることを肌で感じました.
 簡単に言えば,「研究をしていないものは理学療法士にあらず.」そんな認識でした.

 そしてイタリアの研修から帰国後‥

 筋膜治療の最新の理論を日本に持ち帰ったとき,僕は思いました.
 「筋膜治療の奥深さ,素晴らしさ,意外さ,重要さ,そして,この新しい知見や海外の理学療法士から学んだ情報を伝えていきたい!」もっと若い世代に,早いうちに世界を感じてほしい!!そう強く思いました.

 しかし,私には人に「筋膜」についての知識を伝えていくための「証明書:免許ではなく,人にものを伝えるための能力,知識,知見」がなかったのです.
 これから,日本で筋膜を語るにもそれはただのイタリアの理論を伝言ゲームしているだけ.自分で何かをしているわけではなく,人が考えた物を伝えているだけだと思った.
 
 だから私は,筋膜を語るには,筋膜をより深く探求しなければならない.
 それは,技術力だけではなく”知識量と信頼性”もつけていかなければならない.そう思いました.だからこそ,自分の臨床でやっていることを深く探求し証明するためにも,『筋膜の研究をしよう!』そう強く思ったのでした.

 しかしながら,いざ「筋膜の研究」を行なうにも,「世界に自分を出していくような論文の書き方や実験の仕方」についてのノウハウが無かったため,『よし!大学院に行って研究を1から学ぼう!』と心に決めたのでした.

2016年に「来年の大学院入学のために受験しよう!」と決めました.

 しかしながら,大学院に入学するにも壁が立ちはだかりました.

 『日本で筋膜の研究をしている人が居ない.』

 実は日本では,空前の筋膜ブームが起こっており,巷には「筋膜博士」なんて呼ばれる人も出てきて,書籍なども多く出版される様になりました.

 だから,『日本には筋膜に詳しく研究している人がたくさんいるのかな?』と思っていたのですが,見事に日本で筋膜の研究をしている人が居なかったのです.
 実は,日本の筋膜ブームは,海外の筋膜ブームに乗っかった,なんちゃって筋膜博士が横行していたのです.

 だから,僕は解剖学の医師にコンタクトを取り,筋膜の基礎研究を行いたいと思い,ゼロ0から筋膜の研究を始めたのでした.

 
 そして,2017年の春,北海道医療大学の大学院に入学しました.
 自分の貯金を切り崩して,大学院に授業料を払っていました.
 自分で授業料を払うと,『危機感と元を取らないと!』と思いが強く芽生えたため,可能な限り大学院で学びました.
 
 そして,統計や研究方法について多くの知識を得ることができました.正直言って,大学院の授業は理学療法士10年目ながら,目からウロコな知識が大変多かったです.
 大学院に対しての自分勝手な妄想が払拭されたした.声を大にしても,私は大学院の2年間の勉強生活がとても楽しかったです.
 また,人体解剖も授業でさせていただきました.今まで自分ができなかった,直接,皮切からの解剖.ゼロから解剖をすることができました.臨床の仕事後に2ケ月間の間に何十時間もかけ,実際の人体をお借りして,筋膜の解剖を詳細に詳細にすることができました.

 そして,今月に大学院を卒業となります.自分の念願だった,『筋膜の基礎研究』がなんとか形になり,研究と名前を論文として残すことができました.せっかく丹精込めた実験なので,日本人だけではなく世界中の人に見てもらいたいと思ったので,今年の5月にWCPT(理学療法士世界学会)の発表を行いにスイスに行くことにしました.
 そして,年内までには私の修士論文を英語に書き換え,投稿します.またその際に,ノートで解説したいと思いますので,乞うご期待!

 そして,僕は卒業と同時に『日本に数少ない筋膜の研究家,そして臨床家』として,今後は今までの日本の筋膜博士達のように,海外の理論をただ伝言ゲームのように日本に伝えるのではなく,自分の研究の経験などをふんだんに使い,皆さんの前に立つことでしょう.
 2019年は新たな菅原を見せる事ができるかと思います.


❄ 2019年,現在の自分
 そして2019年が始まりました.
 2019年にどんな事したいか,北海道の理学療法士_カズ_が考え中の事を文字起こししてみようかと思います.
 
 2019年は理学療法士という小さなな世界から足を出して,色々と挑戦をしようかと考えています.
 ということは,先程も述べたように,新たなことを始めるにあたって,ワクワクしない仕事はやめようとも考えています.

 今年で丸10年理学療法士として働いてきましたが,ほんとにこの10年はあっという間でした.だからこそ,次の10年もあっという間だと思います.
 今まで書いてきたように,この10年は本当に色々なことがあった.
その中で,一番感じたことといえば,やっぱり何をしても理学療法士の世界って小っさすぎる.そう感じました.

 理学療法士の世界とはほんとに小さなコミュニティだと思う.
 そんな小さなコミュニティの中で多くのルールが有り,多くのしきたりがある.

 とてもくだらない,しきたりが多い.

 どんな世界でも,閉鎖的な環境で権力を持った人がいると,周囲の人々は「権力人は正しいことを言っている!」と勘違いをしてしまう.まるでマインドコントロールかのように.

 理学療法士はいろんな技術や知識があるのにほんとにもったいないなって思う.
お互いを監視しあって,理学療法士が面白いことを始めると,周りの理学療法士が「そんな事して良いのかよ!」「理学療法士をしろよ!」ととやかく良いやつが多い.
 そのとやかくいうやつは特に年配者に多い.理学療法士の世界はそういうとこだ.
 だからこそ,これからの僕の活動は「理学療法士の世界の常識をぶっ壊していきたい」と考えている.

 僕の座右の銘は「非常識を常識に」
 10年働いて,1年目〜10年目として色々とこの世界を傍観してきたけど,やっぱり行動の起こさない権力者による束縛が横行している.強くそう感じる.
 時間の無駄なことにコツコツ‥ほんとに無駄だな〜ってことが多い.
 
 
 さっきも言ったけど,僕は自由に動ける時間はない.
 家族との時間を大切にしたいからだ.
 やりたくない仕事を愛想笑いで続けるメンタルもない.
 だから,そんな限りのある時間を「自分の家族を幸せにする」ことに直結しないことには使いたくない.やりたくないことをやっている暇はない.

 その中で,自分がやりたい事の一つとして,やはり今までイタリアにまで行ったり,大学院まで行ったりした【筋膜分野】を広く広めていきたいと考えている.
 しかし, 理事をやっている筋膜マニピュレーションで,ということではない.
 正直,筋膜マニピュレーションの団体は権力者と年功序列が横行して,技術力を判断されない.
 ここまで読んでくれた皆さんには僕の性格はわかってもらっていると思うが,僕はそんな年功序列が横行するつまらない環境には長居をしたくない.時間の無駄だ.

 正直言うと,去年のFascial Manipulation® Specialist テストにインストラクター以外のアシスタントやスタッフの全員が受けた.
 その中で,私とダントツに上位だったのは,スタッフ以外の2名だった.他のスタッフより平均点数も1割以上差をつけての上位だった.
 1000点満点なら100点差だ.とても大きな差.
 
 しかしながら,時期のアシスタントになるのは私ではないようだ.現在のアシスタントよりも高得点をおさめて,全スタッフの中でもダントツだったのにもかかわらず.年齢が一番若いという理由で,アシスタントカリキュラムは一番最後となるようだ.

 『君にはまだ時間があるからね…』

 と言われてしまったよ.

 でも,何度もいうが俺には時間がない.俺には,家族がいるからだ.
 それに,自分には目標があり,今ここで立ち止まるわけにはいかない.
 足止めされる理由が「若いから順番待ち」そんなくだらない理由であれば,私は居座る理由がない.

 人の時間軸に立って居るほど僕は暇な人間ではない.32歳が若いというのはあくまでも,32歳まで何もやってこなかったやつが言うこと.一生懸命に32歳までつっぱしっていたら,もう32歳だ.

 そして,私は決めた。
 自分伝えたいことを心置きなく伝えられる団体を作ろうと.
 そして,徒手治療で終わりだった筋膜治療を考え方を変えようと.
 しっかりとクライアントを生活に導けるように,
 <Hands-On> から <Hands-Off>へと移行できるようなシステムを作ろうと.

 それが,2019年から運営していく「Fascial Re−Actionコンセプト」を始めるきっかけでした.

 そして,並行して私は来年から,個人事業主へ独立しようと考えている.
 整体院の開業だ.
 医療の世界に10年携わり,多くの事を見てきた.
 多くを見てきた中で,自分のやりたい事は病院ではできない.
 病院で働いていては,毎日自分がワクワクできないと確信した.

 だから今年いっぱいで病院をやめようと思っているので,次のステップの準備を今年1年かけてやっていきたいと思っている. 

 その事はまだ職場の誰にも言っていない.
 今年中にOMPTの免許が取得できる予定なので,ソレをキッカケに職場をやめたいと考えている.

 正直,OMPTの試験がなければとっくに職場は辞めていたと思う.
 今の自分にはOMPTが足かせになってしまい,身動きが取れない状態になっている.試験を受けるために,今の環境が都合がいいからだ.ソレ以外の利点はもうない.

 尊敬できる先輩も居るが,職場にいなくとも関係を保てるようなチームも作ったので,自分がもう職場に残るべき理由はない.

 この職場では,これ以上自分が成長できないと感じてしまったからだ.
 だから,早くOMPTの認定を終わらせて,早く次のステップに進みたいと考えている.


❄ 未来の自分
 未来の自分というか,僕の今後のビジョンを示していきたい.
 僕の理学療法士としてのテーマは以下の通りである.

1.医者以上の確証を持った診断技術を得て,徒手治療ができる技術を付ける.
2.理学療法士に出会うことができないクライアントさんと出会うきっかけを作る
3.理学療法士の知識を一般の知識にする
4.若い子たちに良いものを伝えれるような教育の場を作る
5.徒手療法というHands-Onの治療から,クライアント自身がセルケアを心がけ
  るような思考を作る
6.年功序列や固定概念にとらわれた業界をぶっ壊していく
7.自分と同じ志を持った方と協力して,日本全国に配置し,簡単にアクセスが可
  能にできるようなシステム作りをする.
8.昭和61年生まれの理学療法士といえば?の代表となる(笑)

 こんな思いを大体理学療法士の4年目くらいから持ち始め,その思いを形にするためにいろいろな活動をしてきた.
 
 個人で町や村を回って講演をしたり,Websiteを開設してみたり,SNSをふんだん利用したり,講習会に参加したり,いろんな行動の中に色々な学びや失敗があり,トライ・アンド・エラーを繰り返してきた.
 
 みんなから,何やってんだろこの人?って思われていると思う.自覚している.
 
 だけど,今までしている行動はすべて自分のやりたい事をするための事前準備だったり,練習だったりとすべてが意味のあるものだ.
 
 例えば,Websiteで発信しマーケティングをすることで,検索サイトにどのような文字を入力して私のサイトに行き着いたか?世論は何を検索しているのか?を学ぶことができたり,個人のFacebook以外にも,芸能人のように個人名のFacebook Pageを作ることで,ファン(Fun)や自分の医学的な情報を求めている人がどれだけ業界内外に居るかを確認することができた.

 Twitterでも同様だ.自分の発言や発信に興味を持っている人がどれだけ居るのか?世の中の悩みだったりも確認することができる.

 おそらくこのnoteをご覧になっていただいている人も,少なからず僕のTwitterやFacebookをみてここにたどり着いたのかな?とおもう.

 将来の目標に向かって,その準備段階,トライ・アンド・エラーを病院に勤めながら,空いた時間を利用して行っている.

 
 僕の今現在の将来の目標をここで言っておく.


・整体院の開業
・同じ志をもつ人たちと総合的なヘルスケアを提供する合同会社の起業
・海外へ発信できるような ”事や物” を作る
・50歳で一線から退き,次世代の仲間たちに更に発展してもらい,自分はゴルフ
 場で仕事を電話で受ける仕事をする。(笑)
・家族と世界一周旅行へ
・還暦でシルバー世代を雇用する会社を起業する.
・病院,教育,自費整体院,企業を組み合わせた,社会モデルを作る

 ざっとこんな感じだ.今はこの目標に向かって,僕ははいろいろな行動を行ってきた.

 僕のSNSや行動を見ていただいた方たちは,「なるほどなー。」「だからかー。」と思っていただけたのではないか?と思う.



【ここで,テーマの詳細】
1.医者以上の確証を持った診断技術を得て,徒手治療ができる技術を付ける.
 理学療法士は法律上「診断」ができないという事をいい事として,患者さんの障害の明確な問題を評価せず治療を勧めていく人が多い.

 腰痛なら体幹トレーニング,肩痛なら腱板筋トレーニング,とりあえずモビライゼーション,とりあえずマッサージetc…腰痛で言えば,何番の椎体のどちらの椎間関節に障害が起きているか?など,臨床診断をして治療を行っている人が何人居るだろうか?

 理学療法士は患者さんに診断を下す事は許されていないが,診断技術を使用し,臨床診断(評価の結果)の実践を行うことは何の問題もない.
 何の問題もないというか,しっかりと臨床診断【結論】を示さなければいけない.

 理学療法士が整体師となって,一番の問題なのが,リスクを把握する診断技術がないこと.日本の理学療法士は理学療法士が手を下すことによって,患者さんの状態を悪化させる可能性があったり,死にいたらしめる可能性があることをわかっていないため,すぐ患者さんに触りたがるし,揉みたがる.それは,大変危険な行為なんだ.

 理学療法士が評価の中で一番に行わなければならないことは,【この人に本当に理学療法を実施していいのか?】ということを評価することである.

 病院内では,理学療法士が知らない間に医者がその安全性の確認のための診断を行ってくれたり,リハビリの指示を医者が出すことで,すでに医者に責任を転嫁している.ましてや何か問題が起きた時の責任まで負ってくれている.

 その事を知らない理学療法士がろくな評価や診断もせず,自分の得意な治療手技の評価バッテリーに載せてしまい.すぐに理学療法を実施してしまう.それは本当に危険な行為であることをわかったほうがいい.

 学生に理学療法を教える学校教員もそんな責任を追うようなリスクなある患者さんに出会ったことがない人も多いから,理学療法評価学の授業には,理学療法を本当に実施していいかを判断するための評価技術や手順を教えていない.

 日本の理学療法士は教育から変えていかなければいけない.


2.理学療法士に出会うことができないクライアントさんと出会うきっかけを作る

 病院はとても医者の能力や専門性に左右される商売であり,去年まで整形外科専門で見ていた病院が急に循環器の病院になることだってよくあることである.

 理学療法士として学んできたことは病院の経営と医者で左右されてしまう.

 せっかく学んできたことが、病院の「経営」の問題でパーになってしまう.

 それに,クライアントさんが身体に不調があると言って,病院に受診しても,心無い医者の「湿布を貼っておいてください。」や「レントゲン上には骨に異常はありません.」という言葉で,改善できるものや治せるものが理学療法士と出会う前で絶たれてしまう.

 結果的に,その症状がひどくなって,手術をするまでに至ってしまう場合もある.ましてや何の根拠もなく,「手術しなければ痛みが取れません.」とメスを振りかざす医者たちも後を絶たない.そんな手術をして,症状がスッキリ取れた患者さんが何人居るだろうか?


 理学療法士は基本的には医者の指示のもとにリハビリを行なう仕事だ.
 医者の指示がなければリハビリが出来ない.

 本当にそうか?病院に努めて10年.
 僕はその常識を変えようと心に決めた.

 患者さんが自分のリハビリを希望してくれれば,リハビリをすることが出来る.
 その流れを作ればなんとかなるんじゃないか?
 そう思って,Websiteやいろいろな活動をすることによって,障害を抱えたクライアントさんと出会うきっかけを作ってきた.

 長年の活動をしていて思ったことは,病院に行っても緊急性はないからと何の症状も改善されずに医療不信となってしまったクライアントさんがかなりいるということだ.

 いろんなクライアントさんと出会うと同時にこのような活動をすることで徐々に自分をあてにしてクライアントさんが集まってくるようになった.

 しかし,病院に勤めているとその活動はかなり制限される.だから,今は施設を借りてプライベートのコンディショニングを行っている.そして,そのクライアントは同じ悩みを抱えたクライアントを呼び,僕の休日も埋まりつつある.

 もっとたくさんのクライアントのコンディショニングをやってあげたいのだが,いかんせん僕も本職の仕事があるので,予定を合わすのも困難になってきた.

 だからこそ,自分は近い未来,整体院を開業しようと決意に至った.
 自分の技術力で救えるクライアントがたくさんいる.少なくとも,今勤めている病院の医者に出会う前に,自分に出会っていればもっと最良な選択肢を提示できると思っている.

 僕はクライアントさんが治療法を選べる.選択肢をもっと増やしてあげる.そんな常識を作っていけたらいいと思っている.


3.理学療法士の知識を一般の知識にする.
 僕のテーマの中に理学療法士の知識を「一般の人たちの常識の知識にする」というものがある.それは,理学療法士の知識があれば,みんなが障害に対してケアができたり,『情報を取捨選択する』ための知識となるからだ.
 
 日本国内だけでも多くの情報が転がっている.良い情報もあれば,間違っている情報もある.クライアント自信が取捨選択できるようになれば,もっと自分自身を見つめ直すきっかけを与えることができると思う.
 だからこそ僕は,理学療法士の知識を出し惜しみせず,発信し続けている.


4.若い子たちに良いものを伝えられるような教育の場を作る.

 そして,発信の対象はクライアントだけではなく,若いセラピストたちにも行っている.
 
 今の日本の理学療法の教育の現場は,利権争いが横行している.関節治療をしている人は筋膜治療を指摘し,徒手療法をやっている人たちは,中枢神経系の治療を指摘し,またその逆もある. 

 誰がなんと言おうと,僕はただの利権争いにしか見えない.そして,その利権争いはたちが悪く,他人を批判し,自分のやっていることを肯定しようとする.

 50歳や60歳の理学療法士にもなって,平気でそのような発言がSNSや講習会の教壇を利用して横行している.
 どう見ても,頭が固い.新しいことを受け入れる寛容な心を持ち合わせているビンテージが少ない.

 人間の体はわからないことが多い.証明されていないことが多いからだ.だからこそ,いろんなアプローチの方法があって,いろいろな見方がある.だからこそ,どの手技も完璧ではない.

 お互いを批判しているけど,まずは自分たちの欠点を見つめ直してみれば?とビンテージに言いたい.

 『クライアントを良くしたい!』という共通の目標があるのだから,お互いがいがみ合う必要はない.お互いの良い部分を統合して,悪い部分を補い合う.それに時間を避けば,更に理学療法は発展すると思う.
 だから僕は,良いものは良いと言える環境をもっと作っていきたいと考えている.

 そして,それは今の若者には必ずできると思っている.ビンテージに比べ柔軟な人が多いからだ.だから僕は彼らのために,自分の知識を出し惜しみしたくない.

5. 徒手療法というHands-Onの治療から,クライアント自身がセルケアを心がけるような思考を作る.
 日本の理学療法士の弱い部分である,トレーニングなどのHands-OffやHome-exの指導やリハビリを生活に近づけていくような作業.

 日本のリハビリは昔からHands-Onやハンドリングなどの治療が好まれ,それに伴いクライアントの医療への依存心を強めている.

 そのような事が原因で,通院中の外来リハビリを修了にできなかったり,ましてや症状が残っているのに『リハビリ期限なので修了にします。』と言われてしまったクライアントも多いのではないかと思う. 
 
 リハビリの根源は『我々理学療法士が治す』ことではなく,クライアントの治療の『手助けをする」ことだと思う.
 
 『先生がいなければ体が悪くなります。』そう言っていただける事に喜んではだめ.
 僕たちの仕事は,クライアントを心身ともに医療から引き離してあげること.だからこそ,クライアント自身が障害を受容し,自身で改善,維持できるように障害教育していく事が我々が行うべき医療の形だと思う.

 『神の手』を目指すのも大事だが,『神の教育者』であるべき.しかし,それは【知識のあるの手】を持ったものが行うべき医療だと思う.


6.年功序列や固定概念にとらわれた業界をぶっ壊していく.

 このNoteを見てくれている人たちは何度も目にしているテーマであると思う.
 
 だからこそ,僕は心の底から思っている生涯を通じたテーマだと思う.
 僕は,ヘラヘラと遊んでた時期もあったが,一年の殆どの時間を仕事に関わることに費やしてきた.
 30歳をすぎると,20代のうちに多くの体験や付き合いから自分のやりたいことが明らかになり,多くの項目を選別するようになった.そして,私は昔から1年3年5年7年10年と1つ1つに目標を設定してきた.

 周りの人には,そんな目標に対しても笑っていたけど,笑われながらも自分は達成してきた.

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なぜ達成できたかというと,目標に対してするべきアプローチをしてきたからだ.
  
 でも,みんなはこういう.
  
 「若いのに,そんなことしたの? 」
   ・若いのに,学会発表したの?
 ・若いのに,学校の先生をしたの?
 ・若いのに,代表のトレーナーになったの?
 ・若いのに,海外に研修に行ったの?
 
  目標を達成させる事は理学療法士の治療と一緒.
 目標は「ゴール」であり,ゴールを達成するためには短期目標を設定する.目標が達成できない場合はその理由を評価し,問題点を抽出し,それを改善させていく.

 そして,自分の問題点を明らかにする.
   ・自分の知識の問題なのか?
   ・自分のコミュニティの問題なのか?
   ・自分の能力の問題なのか?
   ・語学の問題なのか?
   ・他人が問題なのか?
 
 その問題をどれくらいの期間で改善できるのかを考えることで,今やらなければならないことが明確になる.
 
「目標に年齢は関係ない.」
 「未成年がタバコを吸い.未成年がお酒を飲むような法律を破っているわけではないから.」
 
僕は,目標を達成することに早いことは問題はない.
どちらかというと,遅いことに問題があると思っている.
 
 逆に言えば,「若い」から簡単に目標が達成できた.しがらみやライバルがいないからとも思っている.
 大口を叩いているかもしれないが,新卒の時はライバルがいなかったから.

 自分では何も出来ないのをわかっていたから,若い時は直ぐに先輩の近くを飛び回った.金魚のフンのように.
 
 そうしていると,自然に競う相手が同世代にいなかった.
 だから,簡単に自分のやりたいことが出来ただけ.
 
 しかし,30歳を過ぎ,自分のやりたいことがより明確になってくるそうはいかない.自分の目標や成長にブレーキを掛けたくなくとも,ブレーキを掛けなければならないからだ.

 そう.それが年功序列と権力,スピードの遅い先輩たちによる渋滞だ.
 年上を敬う事はとてもいい文化だと思う.
 しかし,何度も言うように「年齢や経験年数は息をして,寝ているだけでも増えるものだ.」だからこそ,日本には経験や実績のない権力者が横行している.

 だから僕は,そんな年功序列の腐った常識はぶち壊したいと考えている.
 頑張っている後輩には尊敬をし,腐っている先輩は軽蔑をする.僕は,大胆にも態度に示していこうと思う.先輩から嫌われたって構わないと思っている.
 
 少なくとも,僕と今後関わっていく人は僕は年功序列なんてどうでもいいと思っている人間なのでそのつもりでいてください.しつこいくらい後輩にも自分のわからないことは質問をします.
 

7.自分と同じ志を持った方と協力して,日本全国に配置し,簡単にアクセスが可能
  にできるようなシステム作りをする.

 どれだけ自分が勉強しても,どれだけ寝る間を惜しんでも,自分一人でできることには限りがある.

 そして,自分一人ではなんぼTwitterでフォロワーがいたとしても大きな権力には打ち勝つことにはできない.
 理学療法士としての常識をぶち壊していくためには【仲間】が必要だ.日本各地の仲間たちと協力して,日本中のクライアントさんを救っていきたいと思っている.お店の名前が違おうが,少し目標が違おうが, クライアントを良くしたいという目標は同じだ.

  僕はそんな同じ方向にベクトルを示す,仲間を常に集め声を掛けている.そして,Facebookの非公開ページで黙々と次の目標に向け話し合いを行っている.

 何度もいうが,それは理学療法士に出会えないクライアントや次世代の理学療法士たちを救うためにね.


8.昭和61年生まれの理学療法士といえば?の代表となる(笑)

 番外編では,自分にはばかみたいな目標もある.
 それは,同世代の中で一番の理学療法士になることだ.比較のしようがないが,【昭和61年生まれのTopになりたい.】そう思っている.詳しい説明はいらないよね.次世代を担う理学療法士を目指す.

 もうすぐ僕の病院での勤務が終わろうとしている.そして,次は自分の店を持ち,自分の名前と技術を頼りに行動していきたいと考えている.

 自分ではわかっている.
 今までは,病院の名前や先輩の名前,権力者の名前により,自分の事が認知されていただけ.決して自分だけの力ではない.

 妻がいて,子供がいて,そんな中で固定給から出ていくことはとても勇気がいることだと思う.だけど,僕は妻にも子供にもカッコいい自分を見ていてほしいから,僕は突っ走ろうと思う.

 札幌第一病院の理学療法士の菅原ではなく.
 理学療法士の菅原として世の中に認知してもらえるように頑張っていきたい.



6.終わりに
 時代が変わっても何も変化を起こさない上司に不満があるのか?
 それとも君は,年功序列のこの世の中に不満を持っているのか?
 もしかしたら,こんなに頑張ってるのに増えない給料に不満があるのか?
 それとも理学療法士として覚悟のない同僚たちに不満があるのか?
 こんな不満のせいで,君の大切にしている家族や仲間にまでしわ寄せが来る.

 そんな,環境は嫌じゃないか?
 そんな嫌な環境の中に,なぜ君は身を置いている?
 君の大切なものを苦しめている環境にいつまで身を置いているんだい?

 なぜいつまでたっても,君や君の大切にしている家族を苦しめている環境から離れようとしないんだ?

 おそらくそれは,君に覚悟がないからだ.

 口では不満を言いふらし,SNSにも不満を発信し続ける.
 何かを変えたいと文句を言い続けるくせに,君は君自身を守ろうとするあまり,その環境に身をおくことでその環境を肯定しているのではないか?

 そう.それは君が弱いからだ.
 今まで僕も同じ思いだった.

 しかし,家族の事,仕事のこと,生き方のこと,思いを巡らせていると僕の答えは明確だった.守りたい人を守るためには,自分自身が強くなるしかない.
 長いものに巻かれず,流れに振り回されず,集団を隠れ蓑にしない強い心を持てば,どんな荒波に身をおいたって,君は大事なものを守ることができる.

 そして,君が輝き続けるからこそ君自身の魅力が溢れ出てくる.
 君の今やっている活動は誰のためにやっているのか?
 人のためにじゃなくて,自分がやりたい事のために時間を割くべきだ.
 
 馬鹿なこと言ったって,ただ怒られるだけだ.
 
 怒られたって死ぬわけじゃない.年々後輩のほうが先輩よりも多くなる理学療法士の世界だ.
 先輩に干されたって,後輩が受け止めてくれるさ.
 だから君は,君が思うままの行動をするべきだと思う.

 そして,僕はこの中学校からの約20年間を赤裸々に書いてきた.
 でも実際に今,赤裸々に書いてみるとなんてつまんない人生なんだって思う.
 チャレンジもしていないし,成功だって収めていない.
 ただただ,ヒトの真似事ばかりやって,権力者の下で自分の意見を殺しているだけ.

 まだまだ,楽しくできる,家族をまだまだ幸せにできる.
 自分自身でそう感じている.

 だからこそ,自分の自叙伝にはまだまだ続きがあり,これからがもっと楽しい内容になっていくと思う.

 何度もいうが,自分の仕事の活力は「自分の帰りを待ってくれる家族」と「自分の日々の生活でのワクワクを見つける」事.

 家族とともにワクワクする毎日を過ごすために,僕はまだまだ突っ走ろうと思う.

 そして,この他愛もない僕の自叙伝を最後まで読んでくれた皆様.本当にありがとうございます.赤裸々にバカ正直にすべてを書いてきました.だからこそ皆さんは今日から僕の共犯者です.

 この先,僕の5年10年を見届けていただければと思います!そして,目標に全然届いていない自分を見たら,お尻をひっぱたいてください.

 この自叙伝はまだまだ続く

2019年3月11日
菅原 和侑

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このマガジンを購読すると、北海道の理学療法士_菅原和侑のビジネスに関する記事投稿を毎週2~3回の頻度で読むことができます。こちらの内容は、一冊100円の短編記事をお得に読むことができます! 菅原がセラピストやエステティシャン向けに行っているオンラインビジネスサロン[EzoReha Labo.]の投稿を元に作成しております。今度独立や複業を考えている方の道標になればと思っています. 更新頻度:毎週(2〜3記事

+++++++++++++++++++ (株)EzoReha 代表取締役 菅原和侑 1986年,北海道生まれ 理学療法士養成の専門学校を卒…

身体の専門家の理学療法士による障害予防&健康情報をお届け! セラピスト向けには勉強法なども紹介しています.今まで学んできた治療理論,マーケティング,トレーニングが多めです!!「北海道の理学療法士のためのWebsite」月間6万PV「EzoPT.com−蝦夷理学療法士ドットコム」