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SNSでイキることをやめた元炎上ジャンキー

X(旧Twitter)でイキりポストをして炎上している人を目にすると、令和の時代においても果敢に炎上を狙いにいける人ってすごいな…と感心してしまう。

元SNS炎上ジャンキーだった自分からすると、炎上を狙うことのメリットは平成から令和に移り変わる頃にはほぼ無くなったと体感しており

今や
炎上=売名
ではなく
炎上=再起不能

というイメージが自分の中で定着しているため、その中であえて炎上を狙いに行ける人は、ある種「無敵の人」と呼べるのかもしれない。

Xでは、強い言葉を使ったり極論を語ったりすることで、賛否両論が集まりバズりやすいという部分があるため

その感覚に味を占め、バズりのためにあえて燃えやすいワードをチョイスして注目を集めようとするようになると、炎上ジャンキーに陥ってしまう。

自分もかつて炎上ジャンキーになり、イキリツイートを繰り返していた時期があり、その時はわざと燃えやすいワードを混ぜ込むようにしていた。

しかし、イキリ期に掘ってしまったデジタルタトゥー(ネット上に残る過去の発言や行動)は、後になって消したくなっても簡単に消えるものではない。

自分が考えを改めたとしても、アンチによって過去を蒸し返されることが何度もある。

散々炎上や万バズを経験した末に学んだのは、SNSでバズることにはメリットよりデメリットのほうが多いということだ。

注目を浴びる代わりに、要らぬ敵を増やし、面倒なユーザーを引き寄せるだけ。

そんな経験を経て、バズることに興味がなくなり、下手に目立って変な人に目をつけられたくないと思うようになってから、Xへの投稿はだんだんと減り、今ではnoteのリンクをシェアする程度になった。

その分、こうしてnoteの執筆に意識を向けられるようになったのはポジティブな変化だと思う。

イラストレーターとしてキャラクターに救われた自分


SNSで目立つ必要性を感じなくなった理由の一つには、私がイラストレーターであり、自分のキャラクターコンテンツを運用しているというのも大きいのかもしれない。

イラストレーターというのは極論、自我を出さなくてもイラストそのものが評価されればファンをつけることができる。

むしろ、描き手の自我が邪魔だと感じる人すらいるため、自分を前面に出すメリットは実際あまりないのだ。

私が描いている「メンヘラチャン」というキャラクターは、自分の鬱やネガティブな感情を投影させながら、その時感じた思いをキャプションに認めてイラストを投稿しているが

このスタイルは”私自身であり、私ではない”という絶妙な立ち位置にある。

個人アカウントで自我を晒して病みツイートを投稿するよりも、キャラクターを通して発信することで、多くの人に共感を得られることを実感している。

そして、その反応が引用やRTの形で返ってくるたびに、「自分の思いが伝わった」「共感してもらえた」と感じる事で、自分の負の感情が消化されていく。

この現在の平和なサイクルがあるからこそ、炎上してまで注目を集めようとは思わなくなったのだと思う。

もし私がメンヘラチャンを描いていなかったら、今もあの手この手で炎上を狙うネット炎上芸人を続けていた可能性は高い。

改めて、自分自身が生み出したキャラクターに救われていると感じる。

平和なSNSの運用を目指して


自分にとって1番心地の良いベストな距離感でSNSを使えるようになるまで長い年月がかかってしまったが

過去に様々な手法で炎上を焚き付けてきた経験があったからこそ今があるのだと思えば
全く無駄な事は無かったのかもしれない

今は狙った炎上で注目を集めるスタンスではなく
自分の感じた事やナチュラルな思いを綴った文章で、同じ悩みや考えを持つ人と気持ちを共有していきたいと思っている。

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江崎びす子
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