『江戸の火事』について
〈目次〉
1.江戸で頻発した火事
(1)江戸で火事が多かった理由
(2)火事を鎮める方法
(3)江戸幕府がとった火事の対策
2.江戸三大大火について
(1)明暦の大火
(2)明和の大火
(3)文化の大火
1.江戸で頻発した火事
江戸はとても火事が多い町でした。
いつものように火事が起こっていて、江戸三大大火ほどではないものの、江戸の町を焼き払うレベルの火事は3年に1回ぐらい起こっていました。
(1)江戸で火事が多かった理由
江戸時代の家はほとんど木造でした。
そして、家々のほとんどが「長屋」でつながっていて、家密集度が高く、火事が起こると、すぐに広がってしまいました。
(2)火事を鎮める方法
江戸時代、火事を鎮める主な方法として、火が家々に燃え移らないように、自然に火を消えてなくなる方法を取っていました。
なんと、その方法は、火事があった隣の家を潰してしまうというものでした。「龍吐水(りゅうどすい)」という手押しポンプがありましたが、現在の消防ホースほどには水を飛ばせるものではありませんでした。
(3)江戸幕府がとった火事の対策
江戸幕府は、江戸で頻発する火事について、次のような対策をとりました。
①まず、上野や浅草など、特に火事が多い地域には、広い道を作って、火が家々に燃え移りにくくしました。この道のことを「広小路」と言います。
今の「上野広小路」という地名は、この「広小路」が由来となっています。
②また、「いろは組」という、火消しをする集団を47組つくり、火事の鎮火をさせました。
火消たちは、厚い布でできた半てんを着て、水をかぶって火の粉を防ぎ、「とび口」「大のこ」などの道具を使って家を壊しました。
「まとい」は火事場に近い家の屋根で振り回して、早くついて、早くから消火にあたっていることを町の人達に知らせるものです。
③また、家の素材として燃えやすい木をへらすために、屋根は瓦葺にして、壁を土壁にするなど、工夫をこらしました。
2.江戸三大大火について
江戸三大大火とは、火事の多かった江戸の中でも特に大被害を出した火事3つ『明暦の大火』『明和の大火』『文化の大火』のことです。
(1)明暦の大火
1653年に起きた大火災のことを明暦の大火と言います。
被害地域は江戸の4分の3、死者は10万人とも言われている大火災でした。
このほどの犠牲者が出た、大きな理由として、この時、江戸では、江戸幕府に対抗する敵陣が攻めずらくなるように川に橋があまりなかったのです。
特に隅田川には千住大橋しかかかっていませんでした。このため、逃げ道が少なく、人々が避難することが難しかったのです。
さらに、牢屋に入れられた犯罪者が逃げたという情報が流れて、ただでさえ少なかった逃げ場所が閉ざされてしまいました。
「明暦の大火」以降、幕府は川に橋を多く作り、避難場所を設けたりするなど、対策をとるようになりました。
なお、この明暦の大火で、江戸城の天守閣が焼失してしまいました。
現在、江戸城(皇居)には天守閣がありませんが、この「明暦の大火」以降、天守閣は再建されなかったのです。
(2)明和の大火
1772年に起きた大火災のことを「明和の大火」と言います。
「明和の大火」では、幕府の火事の対策が活かされて、「明暦の大火」ほどの被害には至りませんでした。
それでも、江戸の3分の1を焼き払い、死者数約1万4000人、行方不明者数は、約4000人という被害が出てしまいました。
(3)文化の大火
1806年に起きた大火災のことを「文化の大火」と言います。
この火事は芝(現在の東京都港区)から出火して、風によって京橋・日本橋、上野方面を焼き払い、1200人の死者を出す大火事となりました。
以上