起業家「カーネル・サンダース」の生涯について
ケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者
〈目次〉
1.はじめに
2.生まれと少年時代
3.青年時代
4.起業の始まり
5.ガソリンスタンドとレストランの経営
6.KFCの誕生と発展
7.おわりに
1.はじめに
カーネル・サンダース(以下、カーネル)が、ケンタッキーフライドチキン(以下、KFC)を起業したのは65歳の時でした。当時は仕事を辞めてもおかしくない年齢です。
今回は、起業家カーネルの波瀾万丈の生涯について解説いたします。
2.生まれと少年時代
1890年、アメリカのインディアナ州のヘンリービルという小さな街でカーネルは生まれました。3人きょうだいで、5歳のときに父親を亡くし、母親1人で育てられました。
家の生計が厳しかったこともあり、カーネルは10歳ごろから農場で懸命に働き始めました。
3.青年時代
やがて農場の仕事を辞めたあと、カーネルは路面電車の仕事や軍隊入隊、鍛冶師見習い、機関士、弁護士実習生、保線作業員、保険のセールスマン、フェリー運航会社の設立、商工会議所の秘書など、転々として、さまざまな仕事を経験することになりました。
カーネルは18歳の時に結婚をし、子どもにも恵まれました。
4.起業の始まり
31歳になったカーネルは、ガスライトの製造会社を起業しました。しかし、その後に電気ライトが登場して人気を博したため、カーネルのガスライトの会社は倒産してしまいました。
5.ガソリンスタンドとレストランの経営
37歳の時、カーネルはガソリンスタンドの経営
を始めました。カーネルのアイデアの良さと頑張りによって、このガソリンスタンドの事業は好調でした。ただ、1929年の世界大恐慌の影響で経営が悪化し、一旦、ガソリンスタンド事業から撤退しました。
大恐慌が静まりかけ、再び、ガソリンスタンド事業にチャレンジしました。その際に、新たなサービスを取り入れました。それはレストラン事業です。
ガソリンスタンドとレストランを同じ場所に併設したのです。ガソリンスタンドの利用者の「いっしよに食事をとりたい」という潜在ニーズを見事にとらえたました。相乗効果で事業はうまくいきました。
その後、ホテル事業も取り組んだりと、紆余曲折しましたが、カーネルは、一番繁盛していたレストラン事業に注力することにしました。
6.KFCの誕生と発展
産業の発展とともに、新しい大きな道路が完成していきました。カーネルのレストランの場所は、車の主ルートから外れていたため、客足が大幅に遠のいてしまいました。業績不振が続いたため、やむなくレストランを売却し、レストラン事業から撤退しました。
1952年。カーネルは65歳。失意のなか、ある日友人で料理人のピート・ハーマンにフライドチキンを振る舞ったところピートは大感激したそうです。ピートはフライドチキンを自分の店のメニューに加えたいとカーネルに提案し、カーネルは快諾しました。
のちに「ケンタッキーフライドチキン(KFC)」と命名されることになる、フランチャイズ店のきっかけとなりました。
カーネルは売れることを信じて、クルマで寝泊まりしながら全米のレストランにフライドチキン粘り強く売り込みました。そして1,010回目にしてようやく最初の契約を獲得できたのです。
クルマでの移動が増え、テイクアウト需要が生まれたことでKFCの人気は加速し、1955年にケンタッキーフライドチキンコーポレーションを設立した後、わずか8年で店舗数は600店に増えました。1964年、カーネルは経営を譲りましたが、最前線を退いたわけではありませんでした。
亡くなる直前までKFC親善大使を務め、世界中を走り回って普及に努めました。日本には1972年、1978年、1980年の3回訪れました。
1980年12月16日、カーネルは多くの人々に惜しまれながら、90歳でこの世を去ることになりました。
7.おわりに
カーネルの生涯。普通の人であれば、くじけてしまいそうなことに見舞われつつも、前を向き続けた人生。
「やるなら最善を尽くす」という熱い信念を感じます。いまもカーネルの起業家精神は多くの人々に勇気を与えています。
以上