手賀沼ディズニーランド計画、というものがあったらしい
東京に近く、自然が豊かな手賀沼周辺は、戦前から行楽地として期待されていました。
昭和34年、東京にあった後楽園の当時の社長らが、手賀沼を開発する新たな会社の設立を表明しました。「後楽園、上野動物園、船橋ヘルスセンターを合わせたような」大遊園地を手賀沼に建設しようという構想が打ち上げられました。
この会社は、地元への説明で「広域にわたる世界に冠たる観光事業を計画しているもので、ロサンゼルス郊外のディズニーランドの規模を参考として事業を進める」としました。これが「手賀沼ディズニーランド計画」と呼ばれた理由です。
新たに設立された会社には、政財界の大物が名を連ねました。
【開発会社の役員となった人の肩書き】
元東京都知事、東京都競馬株式会社会長、丸善土地社長、日本炭礦社長、後楽園社長、京成電鉄社長、東武鉄道社長
事業計画書では、次のような壮大な内容が描かれ、開園予定は東京オリンピック(昭和39年)までとされていました。
●敷地は約30万坪(購入予定地10万坪、埋め立て造成予定地20万坪)
●ヘルスセンター地区、科学の国、おとぎの国、冒険の国、体育エリアの各ブロックに分かれる
●施設は、温泉・ジェットコースター・メリーゴーラウンド・釣り堀・観覧船・野外劇場・プール・体育館・陸上競技場・野球場・テニスコート・ケーブルカー・キャンプ場・科学館・水族館など
当時、我孫子町議会が「誘致協力に関する決議」を全会一致で可決するなど、歓迎ムードが盛り上がりしました。
しかしその後、埋め立て工事が進むにつれて手賀沼の汚染が進み、昭和39年ごろから事業会社の財務状況も悪化していきました。
事業会社は、埋め立て地への住宅地の整備を希望するようになり、結果、「手賀沼ディズニーランド計画」は断念されました。
以上