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ジョン万次郎の生涯


日本開国時に大活躍した、土佐の漁師出身の男



〈目次〉
1.はじめに
2.異国との出会い
3.アメリカの暮らし 
4.帰国後の出世
5.日本開国


1.はじめに
170余年前、21世紀への道を踏み出した土佐の男がいた。日本人として初めて米国大陸に上陸した人物、ジョン万次郎について説明したい。

2.異国との出会い
1827年、万次郎は土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、2男3女の次男として生まれた。

1841年1月、万次郎14歳の時、その年の初漁で、仲間4人とともに長さ8メートルの小舟に乗って漁に出たが、3日後にシケに遭い、漂流した。

さらに6日後、土佐清水市から海上760キロ南の太平洋の孤島、鳥島に漂着した。

そこで約半年間の過酷な無人島生活を送った。143日後、またまたこの島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって発見され、万次郎たちは助けられた。ここから思わぬ方向に展開していった。

当時の日本は鎖国の時代で、外国船は日本に近づくことさえ難しく、万次郎たちは日本に帰ることができなかった。

たとえ帰国したとしても、外国人と接触したということだけで命の保証がなかった。

この船のホイットフィールド船長は、5人の漂流者たちを安全なハワイへと連れて行った。しかし、万次郎はここで1人アメリカへ渡る決心をしたのである。

万次郎の申し出を船長は快く了解し、仲間4人をハワイに残して再び出港した。

万次郎の前向きな行動力が船長らに認められ、早速、ジョン・ハウランド号からとった「ジョン・マン」という愛称をつけられました。

1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港した。

万次郎は日本人として初めてアメリカ本土の土を踏んだのである。

3.アメリカの暮らし
万次郎の訪れたアメリカは西部開拓の時代だった。ホイットフィールド船長は、誠実でたくましく、働き者のジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰った。

そこで、万次郎に英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせた。このことは、事実上、日本人で初めての留学生ということになる。

やがて、学校を卒業した万次郎は、捕鯨船に乗って海を航海した。二度目の航海を経てフェアヘーブンに寄港した万次郎を待っていたのは、カリフォルニアに起こったゴールドラッシュだった。

万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようと西部に向かい、600ドルを稼ぐと、直ちに漂流仲間のいるハワイへ向かった。

1851年2月、2人の仲間とともに、万次郎は琉球に上陸した。漂流から10年後のことだった。約半年の間、琉球に止められた後、薩摩、長崎へと護送されて取り調べを受け、翌年の夏ようやく土佐へ帰ることができた。

4.帰国後の出世
高知に帰った万次郎は、土佐藩より最下級とはいえ士分として取り立てられ、身分制度の特に厳しかったこの時代に、異例の出世を果たていった。

この時代、幕府も各藩も西欧の情報を必要としていた。この時、万次郎は名字帯刀を許され、出身地の中浜をとって中浜万次郎を名のることになった。

アメリカのペリー提督が黒船を率いて現れたのは、1853年6月、万次郎の帰国から2年後のことだった。

幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せ、老中たちにアメリカの状況の説明をしたり、通訳など、重要な任務をおこなった。

5.日本開国
その後の万次郎は、翻訳、造船、航海、測量、捕鯨などを主な仕事として勤めたが、1860年、万次郎33歳の時、大きな活躍のチャンスがやってきた。

幕府は「日米修好通商条約」批准のために初の公式海外使節団をアメリカに送ることになり、この時、万次郎は随行艦「咸臨丸」に乗って通訳として、また事実上の船長として活躍したのである。

咸臨丸の太平洋横断は鎖国の終わりを告げる出来事であり、船上には他に、歴史上重要な人物である勝海舟と福沢諭吉の姿があった。

帰国後も万次郎は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめまぐるしく働き続け、71歳でその生涯を閉じた。



以上

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