チューリップ・バブル
サクッと解説いたします
■ チューリップ・バブルのはじまり
オスマン帝国から輸入されたチューリップの球根がオランダで人気を集め、球根の価格が上がっていくことで、今度は人々が、チューリップ投資(投機)に熱狂するようになったのが、はじまりでした。
わずか数年のうちに、チューリップ価格は跳ね上がり、ピーク時には、品種によっては、球根1個で馬車24台分の小麦、豚8頭、牛4頭、ビール大樽4樽、数トンのチーズ、バター2トンが買えるほどの高値がつくまでになったといいます。
そして、1637年 2月 3日、突然に、球根の価格がピーク時の100分の1以下にまで下がり、オランダの経済が大混乱に陥ってしまった、いう出来事です。
■チューリップ・バブルのあらまし
当時のオランダでは、スペインとの独立戦争が収束方向にあって、オランダの経済が活発になってきていたという時代背景がありました。
経済の活性化に伴って、株価や住宅価格が上昇し、だんだん豊かな生活を送ることができるようになる中、お金持ちの間で、観賞植物としてチューリップが流行していました。
チューリップは、球根にウイルスが感染することによって、突然変異しやすく、そのため美しい模様が入った花を付けることがあって、この模様をつけたチューリップは高値で取り引きされるようになりました。
しかし、当時の科学では、ウイルス感染のメカニズムは解明されておらず、人々は偶発的な突然変異種の発生に頼っていたと言われています。
つまり、模様のあるチューリップの球根を買っても、次に模様がついた花が咲くとは限らない状態だったそうです。
品種によっては1個の球根で、巨額の富を掴む可能性があったため、模様のついた花が咲くかどうかわからないというリスクがあるにもかかわらず、多くの人が球根を買い求めるようになりました。
そうして球根を買い求めたのは、もちろん、球根を植えて花を咲かせて楽しもうという愛好家ではなく、球根を転売して一儲けしようと企む一般市民でした。
その後、噂が噂を呼んで、オランダ中の都市にチューリップ・ブームが広まり、その価格は、どんどん上昇していきました。
常識的には考えられない位に高騰したチューリップの球根に、次第に「買い手がいなくなるのでは?」という不安が市場に広がり始めました。
そして、1637年 2月 3日、「隣町で買い手がいなくなった」という噂をきっかけに、球根価格は突如暴落しました。
■チューリップ・バブルのその後
経済学的な観点からのチューリップ・バブルについての検証は、まだまだ完全にされているとは言えません。
ただ、このチューリップ・バブルの場合、人々は球根を先物取引で売買していました。
つまり、まだ球根が出来ていない段階で、「春になったら球根を買いますので売ってくださいね」という「約束(=証書)」を売り買いしていたのです。
春になる前に、この「約束」が反故されても、球根を売ろうと育てていた農家の人は、球根が手元に残る訳なので、被害は少なかったと言えます。
問題は、転売目的で先物取引をしていた人たちで、債務不履行の連鎖で、ほとんどの人が代金を回収できなかったと言われています。
よく考えてみれば、そもそも市場からかけ離れたありえない値段の「約束」でした。
ですから、関係者みんなが「ごめんなさい」と権利を放棄すれば、それで問題が解決したのではないでしょうか?
バブルが崩壊した直後は、代金の取り立てで多くの人が一文無しになったようです。
ただ、実際にこのチューリップ・バブルも、崩壊の翌年に、政府が合意価格の 3.5%の支払いでチューリップの売買契約を破棄できると宣言して、混乱が収束しました。
その後は、チューリップの球根は、以前の球根の値段に戻って取引されるようになったとのことです。
以上