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『紅葉山東照宮』について。かつて江戸城の中にも「東照宮」があった。
「紅葉山」は、江戸城西ノ丸に隣接した小山で、歴代将軍の霊廟が営まれた。
元和4年(1618)に、初代将軍徳川家康の廟所にあたる紅葉山東照宮が置かれた。
これで紅葉山は城中で、一番神聖視される場所となった。
家康の命日は4月17日であるが、正月、三月、四月、五月、六月、九月、十二月の月命日に将軍の「お宮御社参」という幕府の公式行事が行われた。
将軍は前夜から斎戒沐浴して、紫色の直垂に風折烏帽子の装束で本丸大広間玄関の駕籠台から轅の輿に乗り、紅葉山東照宮に参詣する。
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これに同行する譜代大名、老中、若年寄らは大紋、直垂、烏帽子を着用するので大紋行列と呼び、将軍の威厳を誇示する儀式の一つであった。
一ノ鳥居、二ノ鳥居、勅額御門、唐門を通り廟所で社参を終えた家光が輿で石段を下り終える姿が描かれている。
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慶長7年(1602)、家康が江戸城内の富士見亭に設けた文庫が、寛永16年(1639)に紅葉山下の将軍用の武器庫である御宝蔵に移り、御召御具足蔵2棟、御書物倉、御鉄炮倉、御屏風倉の計5棟で形成されていた。
紅葉山下の左に、家光誕生之間と乳母春日之局の化粧の間のあった二棟の西ノ丸別院御殿が見える。
この紅葉山東照宮に二代将軍以降の霊廟造築のため、二棟の別院御殿は移築となった。
寛永15年(1638)の川越大火で家康の側近であった天海僧正の川越喜多院が焼失した。
直ちに、三代将軍家光の命により川越喜多院に別院二棟が移築された。
別院御殿の跡地は、六代将軍家宣の霊廟となった。
引用元: 「大江戸歴史散歩を楽しむ会」ブログ
以上