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日本的霊性について



〈目次〉
1.鈴木大拙著「日本的霊性」
2.霊性とは
3.霊性=宗教意識


1.鈴木大拙著「日本的霊性」
世界に禅を知らしめた著名な仏教学者、鈴木大拙の著書に「日本的霊性」がある。

鈴木大拙は、日本的霊性が目覚めたのは鎌倉時代だと述べている。


2.霊性とは

鈴木大拙は「霊性とは、精神の奥に潜在しているはたらき」と述べているが、それはどのようなはたらきなのか、以下、著書に具体的な記述があるので、引用する。


我らは花を紅と見る、柳を緑と見る、水を冷たく、湯を熱いと感ずる。

これは我らの感性のはたらきである。

人間はこれだけではすまないで、紅い花は美しいと言う、冷たい水は清々すると言う。

これは人間の情性である。

感性の世界がそれぞれに価値づけられる。またその上に美しいものが欲しい、清々するが好ましいということがある。客観的に、そのものから我が身を離して、それを価値づけるのでなくて、それを我が手に収めようとするのである。

これは意欲である。

さきの価値づける意欲の故であるということもできるが、とにかく情性と意欲とを分けて考えておくと便利なことがある。

それからこんなにさまざまのはたらきを分けて話すはたらきを知性と言っておく。

これらの諸的方面の研究は心理学者のやるところである。またここで言っただけでも、もっと精して話さなければならぬと思う点もあるが、今はこれを省いて霊性へと急ぐ。

霊性は、上記四種の心的作用だけでは説明できぬはたらきにつける名である。

水の冷たさや花の紅さを、その真実性において感受させるはたらきがそれである。

紅さは美しい、冷たさは清々しいと言う、その純真のところにおいて、その価値を認めるはたらきがそれである。

美しいものが欲しい、清々しいものが好ましいという意欲を、個己の上に動かさないで、かえってこれを超個己の一人の上に帰せしめるはたらきがそれである。



3.霊性=宗教意識
鈴木大拙は、霊性という言葉を宗教意識というような意味で使っている。

というのも鈴木大拙は、霊性という言葉を感性や知性と並列する形で使っているからである。

感性が感覚についての、知性が知的認識についての意識であるように、霊性は霊即ち宗教的な対象についての意識であると考えている。

この霊性というものは、民族ごと宗教ごとに違う形をとると鈴木大拙は考えていた。キリスト教的、インド仏教的霊性がある一方、日本には日本人的な独特の霊性がある。

それを鈴木大拙は日本的霊性と名づけて、その生成と本質について述べた。「日本的霊性」と題した著作がそれである。

この著作の中で鈴木大拙は、日本的な霊性が芽生えたのは鎌倉時代だったと言っている。

それ以前の日本人には深い宗教意識はなかった。仏教や神道が存在したではないかとの反論があるかもしれないが、仏教は上層階級に限定されて一般庶民とはあまり係わりがなかったし、日本古来の神道は、宗教と言うよりは、「日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れていない」。

ある民族が霊性に目覚めるためには、「ある程度の文化段階」に進む必要がある。日本人の場合、鎌倉時代に至って初めてそのような文化段階に至り、全民衆的な規模で霊性に目覚めたというのである。

鎌倉時代に目覚めた日本的霊性を鈴木大拙は、禅と浄土系思想がもっとも純粋にあらわしていると考えた。

両者とも大陸から伝えられた仏教系の思想をもとにしているが、鎌倉時代の日本人は、それを外来の思想として受け入れたのではない。 

それらを日本人独特の宗教意識とマッチさせるような形で、内面化した。

ということは、外来の思想が日本人の宗教意識を高めたというよりは、もともと日本人の中に潜在的にあった宗教意識が、これら外来の思想を触媒として花開いた、というべきである、と鈴木大拙は主張した。

また、鈴木大拙は、禅と浄土系思想の両者とも、個人の救済を目的としているところに注目した。

禅は悟りを通じて、浄土系思想は絶対者の慈悲にすがることを通じて、と言う具合に内容に多少の違いはあるが、両者とも個人の救済を目的としている点で共通している。

これらに比較すれば、平安時代の仏教は国家鎮護のほうに比重が傾いていたし、神道もまた素朴なアニミズムの域を脱していなかった。

鈴木大拙がこのように言うのには、宗教に関する彼の基本的な理解が作用している。

禅ではあまり表面化しないが、浄土系思想では仏と言う絶対者への帰依というかたちで、超越的な存在に対する信仰というものが問題にされる。

禅といえども、悟りを得て涅槃に到達するという目標は、個人が超越者と一体になるという願望を含んでいる。その点ではやはり超越者への信仰が根っこにあるのだといえる。

キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、高度な宗教とされるものは、超越者とのかかわりを問題とする。

これらの宗教にあっては、宗教の本質とは、絶対者との超越的な係わりなのである。

その超越的な係わりは、インドや中国の仏教においてはあまり問題とはならなかったが、日本では禅や浄土系思想と言う形で、それが大規模に展開した。


参照元:「Haruki Niyekawa」Webサイト、
「知の快楽」Webサイト

以上

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