仁徳天皇陵古墳
エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産
■仁徳天皇陵古墳について
今から1,700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造った。
この墓を古墳とよび、造っていた時代を古墳時代と呼ばれている。全国に16万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳である。
墳丘の大きさ486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産である。
古墳の陵域は濠を含めて約47万平方メートルと、甲子園球場が12個も入る広さです。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれている。
古墳を上空から見ると、丸と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水をたくわえた濠がめぐっている。
仁徳天皇陵古墳は、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれ、古代史を解明する上で重要な文化遺産である。
現在は、北の反正天皇陵古墳と南の履中天皇陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできない。それでも濠の外からその巨大さは十分に実感できる。
2.仁徳天皇について(民のかまど伝説)
第16代の天皇 仁徳天皇は「民のかまど伝説」が有名。夕方、宮殿から民家を眺めると、煙が出ていない事から、夕飯の支度ができないぐらい貧しいと考えた。
そこで3年間、税を課さないようにしたら、民家から煙が出るようになったという話。
この話には続きがある。
仁徳天皇は「まだ貧しい民がいるはず。さらに3年、無税とする」と言った。
宮殿は修理ができずボロボロ。雨漏りは当たり前で、夜は夜空を眺めながら寝る状態でした。衣服はボロボロ。食料は自給自足。
その一方で民は豊かになった。そして仁徳天皇のあまりの窮状ぶりに、見るに見かねた民は「税を納めさせてください」と言いだしたという。
〈参考: 昭和天皇のエピソード〉
昭和天皇は幼い頃から「仁徳天皇の民のかまど伝説」を聞かされて育ったため、戦後、実践された。戦争中、御所は空襲にあった。
戦後、昭和天皇は、国民と痛みを分かち合うという事で、防空壕で寝ていた。周囲から「お体に悪いので、御所を新しく作られては」と言われても、「住む家もない国民がいるのに、どうして自分は贅沢できるのか」と仰せになり、防空壕で寝ていた。そして昭和36年になり、国民生活が向上した事と、吹上御所が建設されたと同時に、御所で寝るようになった。
以上