「ゲルマン民族の大移動」 ヨーロッパ史における重大な出来事
ローマ帝国が東西に分裂した頃にヨーロッパには重大な出来事が起きていた。それは古代後期から中世初頭にかけて起きたゲルマン民族の大移動だった。
西暦300年から700年代にかけて、起こった民族の大移動によって、ゲルマンの諸民族はヨーロッパ全体に散らばり、それぞれたどり着いた地で建国し、現在のヨーロッパの国々の元になった。
その中で西ローマ帝国は滅び、ヨーロッパの中世の歴史が始まった。
ゲルマン民族は、スカンジナビア半島南部、ドイツ北部、デンマークなどバルト海沿岸に住んでいた先住民の子孫でドイツのライン川の東側に分布していた。
もう一つの民族ケルト人は、西ヨーロッパ・中部ヨーロッパ、現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる広い地域に居住していていた。古代ローマ、カエサルの時代にその地域はガリアと呼ばれ、ローマの属州に編入されていた。
■大移動の原因
中央アジアに住んでいた遊牧騎馬民族のフン族が370年頃ヨーロッパに進入し、黒海に到来した。
その頃、ゲルマン系民族の一つであるゴート族はバルト海沿岸から南下していた。黒海北西沿岸に定着したのが東ゴート族、ドナウ川下流に定着したのが西ゴート族とよばれていた。
黒海にやってきたフン族は、375年ゲルマン系民族の一派である東ゴート族を襲撃した。東ゴート族は難民となって、西ゴート族の領内に逃げ込み、続いてフン族も西ゴート族の領土に入った。
ゴート族はフン族の攻撃から逃げ延びようとドナウ川を越えて、ローマ帝国内に避難した。ローマ帝国は西ゴート族が帝国内に定住することを認め、ローマの同盟者としました。
395年、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになった西ゴート族は、フン族アッティラ王に圧迫されたため、バルカン半島北部への移住が始まり、西401年イタリア半島へと侵入、410年ローマを略奪した。
412年にイタリアを離れ、ローマ帝国領のイベリア半島に侵入、イタリアはローマ人の手に残った。
507年、スペインに西ゴート王国を建国。トレドを首都にし、スペインの大半は西ゴート族の支配下に入った。
フン族は、さらに西へ進出し、ゲルマン民族の諸民族もまた逃げるように西へ移動しローマ帝国領に逃げこんだ。
ガリアのケルト人は征服され、ゲルマン人に同化された。
以後、ゲルマン系諸民族は、各地に散っていき、各地の領土を切り取って建国していった。
これらの移動が、ゲルマン民族の大移動と言われている。
この大移動は6世紀末、ランゴバルト族の北イタリア侵入までおよそ200年続いた。
一方、フン族は430年までにヨーロッパに広大な支配権を確立し、多くのゲルマン系民族を征服した。
そのため、征服から逃れた多くのゲルマン系民族がローマ領土へ逃亡を引き起こしました。
フン族は、アッティラ王の下で、 東ローマ帝国に頻繁に破壊的な襲撃を行った。
451年、フン族は西ローマ帝国のガリア州に侵攻し、カタラウヌムの戦いで西ローマ帝国と西ゴート王国の連合軍と戦い 、フン人のガリア征服を断念させた。
西ローマ帝国の衰退は、この民族大移動の結果とも考えられる。
フン族の侵攻を抑えたのが、ローマの支配を受けいれて傭兵となったゲルマン人だった。
しかし、帝政末期の西ローマ帝国は実質的にゲルマン人の将軍によって支えられていました。
476年、ゲルマン系人の傭兵隊長オドアケルが最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、西ローマ帝国が滅亡した。
また、しばらくフン族に支配されていた東ゴート族はフン族の支配から脱した。フン族のオドアケルは493年東ゴート族のテオドリクスに滅ぼされた。
テオドリクスは、東ローマ皇帝ゼノンから「イタリア王」の称号を許されて、イタリア半島に東ゴート王国を建国した。
西ローマ帝国に発生したゲルマン王国は、ほとんどが皇帝統治時代からのローマ系住人のままだった。
ゲルマン化が進んだとされるフランク王国においても住民の8割はローマ人だったといわれている。
フランク王国において、宮廷人事に占めるローマ人の割合が半数を下回るようになるのは、8世紀末のカール大帝の時代になってからである。
参照元: 「文明のルーツを訪ねて」Webサイト
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