台東区/ 「浅草橋」について
〈目次〉
1.浅草橋の名前の由来
2.なぜ問屋が多いのか?
1.浅草橋の名前の由来
江戸時代。浅草橋がある台東区は、江戸幕府によって開発され始めました。
開発の一環として江戸幕府は、武蔵国冨嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった江戸城の外堀に沿って見附(みつけ)を設置しました。
見附とは、見張り番所のこと。堀にかけられた橋と、一体となって設置されていることが多かったようです。
その見附がこの土地にも、寛永13年(1636年)に「浅草見附門」として設置されました。
浅草見附門は日光・奥州・水戸の諸街道への重要な拠点として、多くの人で賑わい活気のある場所になりました。
この場所の象徴である「浅草見附御門の橋」から「浅草橋」と名付けられた、というのが有力な説です。
現在では、浅草見附門は壊されてしまい跡形もないですが、橋のたもとに「浅草見附御門跡」として石碑が残っています。
また、浅草見附御門跡の近くにある『初音森神社』には、浅草見附門の門柱が展示されています。
2.なぜ問屋が多いのか?
現代とは違って江戸時代では、陸路よりも水路が重要視されていました。
主要な交通運輸機関として舟運が使われていたからです。
そのため、江戸幕府にとって重要だった米や諸国の産物の大量輸送は、船で行なわれていました。現在でも、名残りとして屋形船が運航しています。
浅草橋のすぐ近くには「神田川」が流れていて、その交通の便の良さから江戸時代に土地開発され、水運がさらに盛んになりました。
そのことによって、多くの米や産物が集められるようになり、お店が数多く並ぶようになりました。発注がしやすい環境だったからこそ、問屋さんがたくさん開かれたのです。
こうして歴史を見てみると、浅草橋に問屋さんや老舗が多いのも納得できます。
参照元:「浅草橋を歩く」Webサイト
以上