短編小説/うつ病/曇り空の向こう
止まった時計
涼はソファに沈み込んでいた。
部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から漏れるわずかな光が、埃が舞う空気を白く照らしていた。
耳に届く音は、外を通る車のわずかなエンジン音と、自分の呼吸音だけだった。
「何もできない」
その言葉が、頭の中をぐるぐると巡っている。何度も振り払おうとしても、その言葉がすべての行動を阻んでいた。
お風呂に入ろうと思うたびに脚が動かなくなる。
キッチンの流しに積まれた皿を片付けようとするたびに、心の中で「意味がない」という声が響く。
何かをするたび、何もかもが重く感じられ、どんどん自分が小さくなっていくようだった。
記憶の罠
涼の心を捕らえているのは、あの日の記憶だった。
それは、妻を失った日——彼女の命が突然奪われた交通事故だった。
朝、いつものように「いってきます」と微笑んだ彼女。
その姿が、涼が最後に見た彼女の笑顔だった。
病院で彼女の冷たくなった手を握った瞬間の感触が、今も鮮明に蘇る。
「どうして、俺だけが残されたんだ」
その問いが何度も頭をよぎる。
彼女を失った罪悪感と、自分だけが生きているという後ろめたさが、涼を深い暗闇に引きずり込んでいた。
動かない日々
時間は流れているはずなのに、涼の世界は止まったままだった。
リビングの時計は正確に動き続けているが、彼にはそれがただの音にしか聞こえなかった。
食事は最低限。
外に出る気力もない。
家の中で、ただ時間が過ぎるのを眺めるだけの日々。
カメラは部屋の隅に置かれたまま、埃をかぶっている。
それを手に取る気力はどこにもなかった。
シャッターを切るたびに蘇る記憶——妻と過ごした日々の温かさが、今の彼には重荷だった。
どれほど美しい景色を撮っても、それが彼女に届くことはない。そんな虚しさが、彼の足を縛り付けていた。
心の中の声
ソファに沈みながら、彼は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、彼女と過ごした何気ない日常だった。
二人で料理を作ったキッチン、テレビを観ながら笑い合ったリビング、そして彼女が編み物をしていた窓辺の椅子——どの記憶も鮮明で、それが涼をさらに孤独に追い込んでいく。
「俺は、何のために生きているんだろう。」
自分に向けたその問いが、彼の胸に重くのしかかる。
答えは見つからない。
ただ、心の中には「無意味」という言葉が何度も反響するだけだった。
湖への足音
ある朝、涼は重い身体を起こし、久しぶりに外へ出ることを決意した。
部屋の中にいることさえ息苦しくなり、外の空気に触れたくなった。
それは、妻と最後に一緒に行った湖の光景がふと頭をよぎったからだ。
曇り空の下、湖に向かう道を歩く彼の足は重かった。
道端に咲く花も、木々のざわめきも、かつてはシャッターを切りたくなる瞬間だったのに、今はただ通り過ぎる風景にしか感じられなかった。
湖に着くと、涼は水面に目を向けた。
そこには曇り空がぼんやりと映り込んでいる。
穏やかに揺れる波紋が、彼の心をわずかに揺らす。
その時、視界の片隅に誰かが動いているのが見えた。
涼はそちらに目を向けた。
見知らぬ女性との出会い
湖のほとりに座り、小さなスケッチブックを広げている女性がいた。
ペンを走らせるその姿は、どこか懐かしさを感じさせた。
彼女が顔を上げると、目が合った。
少し驚いたような笑顔を浮かべながら、彼女が話しかけてきた。
「こんにちは。この湖、よく来るんですか？」
涼は少し戸惑いながらも答えた。
「……こ、こんにちは。」
短い会話が始まり、彼女の名前が千夏であることを知った。
彼女はここに来てスケッチを描くことで、心を落ち着かせているという。
「描いてるときだけは、少しだけ気持ちが軽くなるんです」
その言葉に、涼は胸の奥で何かが揺れるのを感じた。
千夏もまた、何かを抱えているのだろうと感じた。彼女の笑顔の陰に。
心に差し込む光
それから涼は、何度か湖を訪れるようになった。
千夏がいると短い会話を交わし、いない日はただ湖を眺めるだけだった。
それでも、家の中に閉じこもっている日々よりも、少しだけ心が軽くなったような気がした。
ある日、千夏がふとこんなことを口にした。
「話すだけで、楽になることってあると思います。誰かに聞いてもらえるだけでいいんです」
涼はその言葉に驚いた。
自分もずっと誰かに話したいと思っていたが、心のどこかで怖れていたことを思い出した。
傷つくのが怖い、自分を受け入れてもらえないのが怖い——そんな思いが彼を縛り付けていた。
「でも、誰かが受け止めてくれるとしたら？」
その考えが、涼の中にわずかな可能性の光を灯した。
シャッターを切る日
ある朝、涼は部屋の隅に置かれたカメラを手に取った。
久しぶりの感触に、かつての記憶が蘇る。それは苦しい記憶でもあったが、不思議と恐怖はなかった。
彼は再び湖へ向かった。カメラを構え、ファインダー越しに見える景色を静かに見つめた。
木々の間から漏れる光、水面に広がる波紋。目の前に広がる光景が、かつてのように彼を引き込んだ。
「今の自分を撮ってみたい」
その思いと共に、彼は静かにシャッターを切った。
その音は、止まっていた時間を再び動かすように感じられた。
エピローグ
涼の曇った空は、まだ完全には晴れていない。
それでも彼は、自分の中に灯った小さな光を信じて進んでいる。
その光が、いつの日か彼の空を青く染める日が来るかもしれない。
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