【短編小説/精神障害/アイデンティティ】
消えゆく記憶
夏の陽射しが、病棟の窓越しに差し込んでいる。
その光は柔らかく、どこか懐かしい香りがした。
「彼女、いないんですか？」
自然に出た言葉だった。
看護師の目が一瞬泳いだ後、静かに首を振る。
「それはお答えできません」
その瞬間、世界から音が消えたような気がした。
彼女がいない──その事実だけが、空気を重くし、心を締め付ける。
第一章：ボランティアの始まり
大学3年の夏、僕は偶然手にしたボランティアのチラシをきっかけに、精神科病棟の清掃に応募した。
「内定に有利だろう」その程度の軽い気持ちだった。
注意事項を長々と説明され、最初の作業に取り掛かると、病棟は僕の想像していたものとはまるで違っていた。
壁は真っ白で、ソファは淡いブルー。
どこか洗練された空間だが、空気はどこか沈んでいた。
廊下をモップで拭きながら、いくつもの静かな病室を横目で見て回る。
眠る患者たちの息遣いが聞こえてくるようで、自然と足音が小さくなった。
ふと目に入ったのは、窓際に座る一人の少女だった。
黒髪が夏の光を反射し、小説を読む姿がどこか美しかった。
視線が合うと、彼女は軽く会釈をした。
初めての会話
それから数日後、僕は再び病棟を訪れた。
彼女は同じ位置に座って本を読んでいた。
廊下で掃除をしながら、看護師の目を盗んで彼女に声をかけた。
「何を読んでいるの？」
驚いたように顔を上げた彼女は、一瞬ためらいながらも本のタイトルを教えてくれた。
その声はどこか震えていたが、僕にはそれが彼女の素直な心の声のように思えた。
それから少しずつ会話が増えた。
彼女は僕の大学生活に興味津々で、どんな授業を取っているのか、なぜこのボランティアを選んだのかを聞いてくる。
彼女自身のことはほとんど語らなかった。
ただ、長袖の袖口からちらりと見える包帯や、細すぎる腕が、彼女の過去を物語っていた。
葛藤と自分の薄っぺらさ
彼女と話すうちに、自分がどれだけ空っぽの人間かを痛感した。
平凡な家庭環境、特に苦労もなく過ごしてきた大学生活。
この先もきっと無難に就職して、当たり障りのない人生を送るだけだと思っていた。
彼女の笑顔や言葉が、そんな僕の無力さを何度も突き刺してきた。
「僕は、何のために生きているんだろう」
その言葉が手のひらから空に浮かんで消えていく。
第二章：透ける言葉、重なる影
彼女の笑顔の奥にあるもの
夏の陽射しが差し込む窓際で、彼女が微笑んでいた。
「あ、薬、ちょっと待ってね」
そう言って席を立ち、部屋の片隅にある薬棚へ向かう。
彼女の手が震えているのを見て、僕は何かを言いたい衝動に駆られた。
「で、なんだっけ？」
薬を飲み込んだ彼女が振り返り、笑顔で話を続けようとした。
その姿を見ていると、大学の心理学の講義中の友人たちとの何気ない会話が頭に蘇る。
「精神障害者ってさ、結局はメンヘラじゃない？」
「かまってちゃんだよな」
その時、僕はただ笑いながら、周りに合わせることしかできなかった。
彼女の細い腕、痩せすぎた身体、包帯で覆われた手首が、僕の中でフラッシュバックする。
「大丈夫？」
彼女が心配そうに問いかける。
その二言が、どれほどの重みを持つか、その時の僕には分からなかった。
気づきと自己嫌悪
彼女と話しているとき、僕はいつも自分の存在が薄っぺらく感じられた。
彼女の言葉が胸に刺さるたび、自分の無力さと、彼女に何もできない歯がゆさに襲われる。
それに加えて就職活動で全然面接がうまくいかない。
「僕は何者なんだろう……」
彼女の前では自然に振る舞おうとするが、その背後にある劣等感は消えない。
彼女が教えてくれたこと
「大学では何を専攻しているの？」
「心理学」
僕の返答に、彼女は少し驚いたように見えた。
「それなら、私の心も少しは分かるのかな？」
彼女がつぶやいた言葉の意味を考えながら、僕は彼女の瞳に映る自分を見つめた。
触れたい。でも、壊してしまいそうで怖い。
その日は、彼女との会話がいつもより少なかった。
帰り道、彼女の「大丈夫」という言葉が耳の中で何度も反響していた。
「僕は何がしたいんだろう」
第三章：揺れる鼓動、失われる温度
消えた温度
夏の日差しが強くなり、病棟に漂う空気も少しずつ変わりつつあった。
僕が精神科病棟を訪れる回数は減っていた。
就職活動に追われる日々、友人たちとの談笑、そして、埋め尽くされるスケジュールの中で、彼女のことが頭をよぎる瞬間は限られていた。
しかし、病棟を訪れるたびに、彼女の姿を探してしまう。
その日も、モップを持ちながら廊下を歩き、彼女の部屋を横目で覗いた。
だが、彼女の席は空っぽだった。
彼女の不在
「彼女、今日は……？」
自然と看護師に尋ねてしまった。だが、返ってきた答えは予想通りだった。
「それはお答えできません」
彼女がいない──その現実を前にして、僕はどうすることもできなかった。
モップを握りしめる手が震える。
足元の影が薄暗い床に吸い込まれていくような感覚に襲われた。
「こんな呆気なく、別れが来るなんて…」
第四章：消えた彼女、残る影
心に残る面影
掃除を終え、職員用の休憩室で一息ついていると、彼女と過ごした日々が頭の中を駆け巡る。
彼女が笑顔で「これ、読んだことある？」と小説を差し出してきた日のこと。
「私、この結末が好きじゃないんだ」と言ってページを指でなぞったときの、かすかな仕草。
それが今は、痛みを伴う記憶となって胸を締めつける。
「何かあったのかな……」
けれど、考えても答えは出ない。
僕は彼女のことをほとんど知らない。
彼女の名前、好きな本、笑顔。その断片的な記憶だけが僕の中に残っている。
友人との会話、募る葛藤
大学に戻ると、友人たちとの何気ない会話が耳に入る。
「最近、精神障害の特集とか見るとゾッとするよな」
「わかる。マジ怖い」
僕はその言葉に胸の奥がざわつくのを感じた。
でも、また何も言えなかった。
自分がボランティアで見てきた世界と、友人たちの偏見との間に立たされて、ただ俯くだけだった。
「何も言えない僕って、一体何なんだろう」
その夜、僕は久しぶりに病棟へ行く決意をした。
彼女に会いたい。
ただそれだけが胸の中に渦巻いていた。
突然の告白
病棟に着くと、彼女の部屋はやはり空っぽだった。
勇気を振り絞って彼女の浄業を看護師に尋ねると、「個人情報なのでお答えできません」と冷たく突き放された。
その瞬間、胸の奥にあった希望が砕け散る音がした。
「やっぱり、もう会えないのか……」
廊下に立ち尽くしながら、彼女の声が頭の中で反響する。
「大丈夫、大丈夫だよ」
あの言葉は、彼女が僕に向けてくれた唯一の救いだったのかもしれない。
彼女のいない病棟を後にして歩く僕の足取りは、重く、どこへ向かうのかも分からなかった。
机の上のSPI問題集、PCに映る会社概要。
ひたすら仮面に顔を埋めて、呼吸が浅く胸が窮屈に感じる。
就職活動で「僕」じゃなく会社が欲しがる「僕」を演じることがまるで出口の無いトンネルを永遠に彷徨っているようだった。
彼女といるときは----
第五章：消えた理由、響く声
夏の蒸し暑さが和らぎ、秋の風が街を包み始めた頃、僕は依然として彼女の不在を受け入れられずにいた。
大学の講義や就職活動に身を置いても、どこか心が宙ぶらりんの状態だった。
彼女と交わした言葉、見た笑顔が、ことあるごとに記憶の中でよみがえる。
病棟の片隅で
久しぶりに病棟を訪れた日のこと。
いつものように掃除道具を手に廊下を歩いていると、ふと彼女の部屋に足が向いた。
相変わらず空っぽの部屋の前で立ち尽くしていると、背後から看護師の声が聞こえた。
「彼女、転院しましたよ」
驚いて振り返ると、そこには優しそうな女性の看護師が立っていた。
「詳細はお伝えできませんけど、良くなる兆しがあったんです。彼女の意思が強くどんどん顔色が良くなっていきましたよ」
胸が冷たく、ほんのりぬくもりが広がった。
「…意思が強く」
第六章：私という存在
病院の窓から差し込む午後の日差しは柔らかく、それが彼女の細い指先に影を落としていた。
「また、同じ日が続くんだね……」
独り言をつぶやくその声は小さく、誰にも届かない。
ただ、静寂だけが彼女を包み込んでいた。
壊れた家庭
私の幼少期は、幸せとは程遠いものだった。
母親は父親と離婚した後、再婚相手を迎え入れたが、その男は無関心そのものだった。
「あなたなんて産まなければよかったのに」
母のその言葉が、彼女の心に何度も傷を刻んだ。
再婚相手も彼女に見向きもしない。
冷たい食卓で一人座っていた私を温めるものは何一つなかった。
高校でのいじめ
高校に入ると、家庭の苦しみから抜け出すどころか、私の苦難はさらに深まった。
「なんでそんな暗い顔してるの？」
笑い声と共に吐き捨てられた言葉。
ロッカーに貼られる「気持ち悪い」という落書き。
教室の隅で誰にも声をかけられない日々。
私は心の傷を埋めるように、腕にカミソリを当てた。
痛みだけが、私が生きている証明のように思えた。
「これで私の中の苦しみも消える……」
そう思いながらも、何度繰り返しても心の空洞は埋まらなかった。
彼との出会い
彼が病棟に現れた日、私はベッドの上で小説を読んでいた。
「こんにちは」
初めて交わされたその挨拶は、私の中で鈍く響いた。
「どうせ、また私を憐れむ目で見るんだろう」
そう思いながらも、彼の目はどこか違った。
私を見ているようで、彼自身も何かを探しているような目だった。
彼が廊下をモップで掃除している姿を見ながら、私はそっと声をかけた。
「ねえ、大学生なんでしょ？」
その言葉に彼が振り返ると、私の中で微かな好奇心が芽生えた。
二人の会話
彼との会話は、どれも他愛のないものだった。
大学での生活や将来の夢。彼の話を聞いていると、私は自分がいかに小さな世界に閉じ込められていたかを思い知らされた。
「君は、どうしてここにいるの？」
彼がそう尋ねることはなかった。
私が話さない限り、彼は決してその境界を越えてこなかった。
それが彼女にとって唯一の救いだった。
「君って、不思議な人だね」
私として生きる
ある日、私はふと気づいた。
「私は精神障害者としてしか存在していないと思っていた。でも、この人は私をそうじゃなく見てくれる」
彼との会話を通じて、私の中に小さな希望の種が芽を出していた。
「私も、私として生きてみたい」
それは私が初めて自分と未来を愛すことができた瞬間。
恥ずかしそうに雲に隠れた空から日差しが指先に漏れる。
手を伸ばせば届きそうな午後だった。
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「彼女が消えた後、彼の心に刻まれた言葉とは何だったのか。再び訪れた病棟の廊下で、残された足音が告げる真実とは――」
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