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「今、やりたいことを誰と挑戦するか」ーー MICIN原聖吾が語るキャリアの積み重ね方【起業家人生グラフ図鑑 vol.2】

起業家たちの人生をグラフで振り返りながら、選択の軌跡を追体験していく連載企画「起業家人生グラフ図鑑」。イノベーションを推進するスタートアップを表彰する、EY Innovative Startupが企画しています。

第2回に登場いただくのは、株式会社MICINの代表取締役・原聖吾氏です。

原氏は、東大医学部卒業後、医療政策をつくるシンクタンクへ就職し、スタンフォード大学ビジネススクールへ留学し、MBA取得。その後、マッキンゼーを経て、起業……まるで計算され尽くされたような、華々しいキャリアを積み重ねてこられました。

しかし、原氏はこのキャリアについて「全く計算通りではない」と振り返ります。いったいどういう思いでキャリアチェンジを繰り返し、起業に至ったのでしょうか。

原氏の経歴をたどりながら、起業までの経緯や積み上げてきたキャリアとスキル、これから先の展望についてうかがいました。

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大学時代の経験がその後のキャリア形成のきっかけに

医師だった両親が働く姿を見ていたことから、「あまり意識せずに医療に接点をもっていた」という原氏。他の進路へ進むことも頭によぎったが、患者の苦しみを解消し、その人の人生を変えられる医師はやりがいのある仕事だと思い、両親と同じ道へ進むことに決めた。

医学部に進学したら、卒業後はそのまま臨床医になるのが一般的だ。当然、原氏もそう思っていた。しかし、それとは全く違う道を歩むことになる。そのきっかけは、大学時代のいくつかの経験にあった。

一つは、医学部5年生のときに顔面麻痺を患ったこと。(アフリカ・)ケニアのHIV施設にスタディツアーで数週間訪れていた時に発症したという。都市部から離れた奥地にいて病院に行けなかったため、さらに悪化。帰国後、診察を受けると麻痺が進行していることがわかり、入院を余儀なくされた。医師からは「一生治らないかもしれない」と言われ、大きなショックを受けたという。

「当時は医師の道へと進む明るい将来が見えていた頃。でも、もし麻痺が治らなかったら、一般的な社会生活を送ることは難しいかもしれない。『今やりたいと思ったことはやらないと、もう二度とやれなくなるかもしれないんだ』と強く思いました」

幸い麻痺は残らず、再び日常生活を送れるように。しかし「自分がやりたいと思ったら今すぐやる」という考え方が芽生える大きな転機となった。

また、在学中に東京大学アントレプレナー道場に参加したのも大きな経験だった。のちに著名な企業を立ち上げることになるメンバーたちから刺激を受け、ゼロから事業を立ち上げるスタートアップに興味を持ったそうだ。

「新しい価値を産み出すことにすごくワクワクするんです。今あるものを調整して課題を解決する方法もありますが、何もないところから何かを生み出して解決するアプローチのほうがやりがいを感じると気づきました」

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より大きな課題解決のためには、仕組みを変える必要がある

そういった経験に加えて、医療を取り巻く環境の変化や、研修医として医療現場にたずさわった経験も、その後のキャリアに大きな影響を与えたという。

原氏が医学部に在籍していた当時、患者の取り違え問題や地方医療の崩壊などが取り沙汰され、医療に対する信頼が失われつつあった。

「医者はやりがいがある仕事だと思っていたし、今でも思っています。しかし、医療者が身を粉にして働いている一方で、必ずしも患者が求めている医療が提供されているわけではないとギャップを感じたんです」

自分が臨床医として良い医者になれたとしても、自分が向き合う患者には治療を提供できるが、それ以外の多くの患者には与えることができない。「医療全体の問題を解決するには、いまの仕組み自体を変えるようなアプローチが必要ではないか」と考えるようになったという。

そのとき頭に浮かんだのが「医療政策」だ。はじめて医療政策に触れたのは、大学5年生のとき。さまざまな関係者にヒアリングし、自分なりに医療政策を考えるゼミに参加した。医療者や患者以外に、実際に政策づくりをする厚生労働省、医療に必要なサービスや製品を提供する産業界と接点を持ったことで、視野が広がったという。

「それまでは医療者と患者の視点でしか医療を捉えていなかったのですが、多様なステークホルダーが関わっていて医療が成り立っていることを強く感じるようになったのです。だから、臨床医ではない道へ方向転換することも自然に考えられたのだと思います」

第一次安倍内閣で首相の内閣特別顧問をつとめた黒川清氏のカバン持ちをしないかと声をかけられたことを機に、臨床医にはならない道を選んだ。黒川氏は、医療政策を考え、提供する民間のシンクタンクである「日本医療政策機構」をつくった人物。日本医療政策機構は、霞ヶ関を中心に政策をつくるだけでなく、市民の声を反映させた政策も出していくべきだと考えて立ち上げられた組織だ。そのなかで原氏は、自分たちで政策上の重要な課題をまず設定してどうやって政策にすべきかを検討するプロセスにかかわったという。

「がん患者さんに適切な医療につなげられていないことを課題提起して、“がん難民”といった言葉を広めたり、いろいろな人達を巻き込んだりして、がん対策基本法という法律が整備されていく過程にかかわりました。課題を設定してきちんとプロセスを踏めば、市民にとって必要な制度をできるという大きな手応えを感じることができたのです」

政策づくりに携わるなかで、そのまま政策サイドへの転身も脳裏によぎったという。しかし、一方で、政策づくりにおいては、課題に対して何かしらの解決策やモデルが出発点になるため、そもそも解決策がない領域だと政策自体が十分に活かせないことに気づいたのだ。

「課題に対してそれを解決するモデルをどうつくっていくかというアプローチのほうに興味を持つようになりました。やはり私はゼロイチで生み出すほうが面白いと思うんだなと改めて実感しました」

こうして2年半勤務したシンクタンクを辞め、原氏は次のステップへと進んでいった。

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スタンフォード大学ビジネススクールで得た、「挑戦することへの価値」

原氏が次に選んだのは、スタンフォード大学のビジネススクールへの留学だ。ゼロからイチをつくるアントレプレナーシップを学びたいという思いももちろんあったが、自分の手で世界を変えようと思っている人たちが世界中から集まり、その思いを共有する場自体に魅力を感じたという。

「実際、いろいろな領域で秀でた人たちが集まっていました。起業して成功されてる人もいるし、プロスポーツ選手として活躍していた人や、クリエイティブ系で賞をもらったことがある人、もともと軍人だった人や難民で恵まれた環境じゃないところから来ている人もいました。そういう人の広がりや、常に挑戦をして新しい何かを成し遂げようとする勢いはすごく刺激になりましたね」

そして、シリコンバレーで日本では得られなかった価値観を知ることになったという。

「『失敗してもいいから挑戦することがクールである』という考え方が、シリコンバレー全体にありました。『あなたは何者なのか?』『どこに所属してるのか?』『何を成し遂げてきたのか』ということよりも、『今、あなたは何に挑戦しているんだ?』という切り口でみんな話している。過去に何回失敗していても成功していてもどっちでも良くて、何に挑戦してディスラプトしようとしているのかに興味を持つ。そういう価値観が強く印象に残っています」

日本では出会えなかった仲間たちや新たな価値観に触れ、よりいっそう何かに挑戦したいという思いが生まれた原氏。「自分が挑戦しなかったら誰がやるのか。そういう思いでチャレンジしていくべきじゃないか」と強く感じたという。

ビジネススクールを卒業する頃には、自分がずっと関わってきた医療領域で事業を立ち上げようと、構想して準備を進めた。しかし、起業にはいたらなかったという。

「自分の中で、ビジネスというものへの理解や経験が不足していると思ったんです。いま起業しても成功させる自信がないと思い、断念しました」

そこで、原氏はビジネス経験を得るために新たな道に進むことを決めた。

マッキンゼーで得た起業への自信と仲間

スタンフォード大学ビジネススクールを卒業後、就職先に選んだのはマッキンゼーだった。ビジネスへの理解を深めたいという思いもあったが、マッキンゼーという組織にもともと興味があったという。

「これまでマッキンゼー出身の方に何人も会ったのですが、皆さんすごく魅力的な方ばかりで。しかも、皆さんマッキンゼーのことをポジティブに話していたんです。どういう組織なんだろうとずっと気になっていました」

マッキンゼーではこれまでの経験を活かして医療系のコンサルティングに従事した。企業の経営課題に対してさまざまな角度からコンサルティングする仕事だ。4年働くなかで手応えを得ることができ、自分で価値を出せることも実感した。

このままコンサルの道を歩むこともできたが、やはり研修医時代に感じた課題感やゼロイチで事業を立ち上げたいという思いを拭うことはできなかったという。

「企業の経営層に近いところで働いていたため、ビジネスの営みを感覚として得られたんです。ファクトとロジックで意思決定するというコンサルならではのスキルも身につきました。自分でも事業を始めてみることができるのではないかと自信が持てるようになったのも大きかったと思います」

そんななかで出会ったのが、後にMICIN社の創業メンバーとなる草間亮一氏だ。マッキンゼーでいくつか一緒にプロジェクトに関わったことで仲が深まり、医療分野での起業を検討していることを話していたという。

「医療と健康情報がつながって、本人が病気になる前に何かしら気づくことができれば何度も通院したり入院したりして後悔することもない。草間とはデジタルと医療をかけ合わせてそういった課題が解決できないかと話していましたね。さまざまな経験とキャリアを経て、ようやくすべてがつながったような感覚でした」

そして、2015年ついに原氏は起業し、MICIN社の前身となる情報医療を立ち上げた。

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医療現場から政策まで経験したからこそ提案できるサービス展開

2018年、厚生労働省がオンライン診療を保険診療でも正式に実施できるようにしたことも追い風となり、オンライン診療サービス「curon(クロン)」を中心とした事業を展開するMICIN社は順調に成長を続けている。

ただ、起業当初はコンサルとの大きなギャップも感じたそうだ。

「オンライン診療という新しい領域でチャレンジするので、そもそも市場もないし、参考にするデータもほとんどありません。ファクトとロジックで意思決定していたコンサルとは大きく違い、ファクトがなくてもやるんだという思いが必要です。マッキンゼーではファクトとロジックで正しいと思えればチームとしてワークする構造になっていますが、それだけでは人の心を揺さぶることはできません。特にスタートアップにおいては、もっと人間くさい感情のほうがむしろ重要だということを実感しました」

クローズな業界とされる医療分野で、スタートアップのサービスを受け入れてもらうにはハードルが高いと言われる。しかし、同社は創業から5年あまりだが、スムーズに事業展開できている印象を受ける。原氏の場合、医師として医療現場にも触れ、医療政策にも関わり、医療分野でのコンサルティングに携わった経験があるからこそ、ユーザーである医師の立場や状況を理解できるのだ。これが大きなアドバンテージになっているのは間違いないだろう。

「この領域で事業するなら信頼が大事。例えば、我々が医療機関にオンライン診療の導入を促すとき、アグレッシブにセールスすれば使ってもらえるかもしれないと思っても、ユーザーである医療機関にとって理想的でないタイミングや使い方になってしまうなら無理にはすすめません。いますすめることが将来的に信頼を損なうことにつながると思ったら、信頼を損なわないことを重視して行動するようにしているのです」

信頼を積み重ねたことで、MICIN社のサービスを好きだと言ってくれる医師も増えた。コロナ禍でオンライン診療に注目が集まった際にも、他の医師に口コミでMICIN社のサービスを勧めてくれる医師もいたという。

MICIN社が掲げるのは「すべての人が、納得して生きて、最期を迎えられる世界を」というビジョンだ。このビジョンを達成するために、人々の医療や健康に関する情報がデータ化され、そのデータがどの医療機関からもアクセスできる世界を実現しようとしている。

このビジョンに対する達成度は「まだ3〜5%くらい」という原氏。ただ、医療や健康情報のデータ化が進めば、現在世界中で蔓延している新型コロナウイルスのような未知の感染症の予防や治療にも活用できるという。

「コロナでもある特定の人たちがすごく重症化していたり、感染する人の割合が多かったり少なかったり、死亡率が高かったり低かったりとばらつきがあるのに、なぜそうなっているのかがまだあまり把握されていないですよね。もちろんウイルス自体の変異や種類の違いもあるのですが、一方で人の遺伝情報や生活環境などで感染率や重症化率が変わる部分もあります。医療とか健康情報がもっとデータ化されたら、こういう感染症が発生したときにどういう人がリスクが高いかがわかるようになるし、感染を制御できるようになる。今後また新たな感染症が発生したときに、そのデータから対策が導き出せるようになっていたいです」

今までクローズな業界と見られていた医療業界も、コロナによって不可抗力的に大きな変化を迎えている。事業会社の立場から、今後どのように医療業界の構造を変えていきたいと思っているのだろうか。

「コロナを機にオンライン診療へのシフトが急速に進んでいます。我々はオンライン診療の領域において、現場のデータやファクトにすごく近いところにいるので、それを政策づくりに生かす役割を果たすべきと考えています。シンクタンクでの経験から、人々のニーズに合わせて政策は変わっていくと信じているからこそ、今後も政策形成に貢献していきたいです」

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その瞬間やりたいことに挑戦し、その時間を誰と共にするかを大事にする

大学時代から次々とキャリアをピボットさせていった原氏。経歴だけを見れば、医療という軸でうまくキャリアを積み上げていったように見える。さまざまなキャリアを経て起業した今、これまでの歩みを振り返って原氏自身はどう思っているのだろうか。

「今みたいなキャリアの作り方は最初からイメージしていたわけではありません。それぞれのキャリアにいた瞬間は私にとって一番やりたいことだったし、充実した時間を過ごしていました。私がその時々にやりたいと思ったことにチャレンジして、それらのキャリアを積み上げた先に起業があっただけで、決して計算してたどり着いたものではないです」

ただ、ここまでキャリアを変えていくとなると不安になる瞬間もありそうだが、楽観的な性格から「ネガティブサイドを深く捉えなかった」という原氏。チャレンジするフィールドを変えるとき、何を重視しているのだろうか。

「自分がやりたいことを選ぶのはもちろんですが、『誰と一緒に時間を過ごすのか』を特に重視しています。政策の仕事をするときも黒川先生たちと働きたいと思ったし、ビジネススクールも世界中から集まる刺激的な人々と共にしたいと思ったから留学した。キャリアを選ぶ時点で、それが本当に後で役に立つかとか、どのくらい成功するかは振れ幅が大きいですが、『この人と時間を一緒に過ごしたい』と思って過ごす時間にはあまり振れ幅がないと思っているんです。仮にそれが期待と異なる経験だったとしても、自分がその人から学べることがあったり、その人と一緒に何か挑戦することを面白いと思えるなら、意味のある経験になると思うんです」

そんな原氏は、現在、大きなビジョンを実現したいと思えるメンバーと共に挑戦を続けている。

「MICIN社には、ビジョンに共感し、今の医療に対して同じ思いを持つメンバーが集まっています。今、一番大事にしたいのはこのチームでこのビジョン実現に挑んでいくことです。一人ひとりが持つエネルギーを形にして事業を成長させ、ビジョン実現につなげていきたいです」

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(取材日:2021年3月)





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