三つの石原吉郎像:細見和之、野村喜和夫、三宅勇介(その3)
さて今回は歌人にして歌論家でもある三宅勇介による石原論だ。『短歌における石原吉郎の位置と姿勢について』。タイトルからいきなり「位置」が登場することに注目しよう。副題に「歌集『北鎌倉』詩論」とあるが、その論は短歌だけに関わるものではなく、むしろ詩と短歌の関係性そのものを探っている。「一、はじめに」で三宅は云う、
「私の興味は詩、短歌、俳句という詩形式を比較して、そのおのおのの詩形について理解を深めたいというところにあるのだが、もし仮に石原の詩のバックボーンであるシベリア体験が、短歌や俳句においてよりもバックボーンを為すのであれば、テーマが同じだけに、それぞれの詩形に対する石原の方法論というものが、よりくっきりと浮かび上がるのではないか」
三宅勇介の石原論の第二章は「二、まず位置をさぐる」。当然前項でも引用した第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』の巻頭詩「位置」が出てくるかと思いきや、三宅は同じ詩集から別の詩を取り上げてみせる。「馬と暴動」という作品だ。
馬と暴動
われらのうちを
二頭の馬がはしるとき
二頭の間隙を
一頭の馬がはしる
われらが暴動におもむくとき
われらは その
一頭の馬とともにはしる
われらと暴動におもむくのは
その一頭の馬であって
その両側の
二頭の馬ではない
(以下略)
三宅はこの詩における「一頭の馬」の「位置」に注目する。それは「二頭の馬の間隙」を走っている。
「じつはこの、『ふたつの何かにはさまれる、一つの何かというサンドイッチ構造は、たびたび石原の詩において見出される構造なのである」と指摘した上で、三宅は次の短歌を引用する。
わが佇つは双基立てる樹のごとき墓碑の剛毅の間とぞ知れ 「北鎌倉」
ちなみに「北鎌倉」は石原の最晩年の歌集である。最初期の詩と最晩年の短歌が「位置」というキーワードで貫かれているという事実。その「位置」が、じつは「姿勢」という概念から生まれていることを、三宅はやはり石原自身の発言から導き出しているのだが、ここでは割愛して次の章へ進もう。「三、次にゆっくりと立ち上がる」だ。
ここでも三宅は石原の詩と短歌の両方に「立ち上がる」という動作を見出す。「しずかな敵」と題された詩は「おれにむかってしずかなとき/しずかな中間へ/何が立ち上がるのだ」と始まるが、「北鎌倉」の短歌には、
鎌倉の北の大路の行く果てを直に白刃の立つをば見たり
を初めとして「立つ」が頻出するようだ。三宅は次のようにいう。
「『うずくまった姿勢』から、『立ち上がる』には、そして強制収容所という地獄の中で、『立ち上がる』ということには人間の非常なる意志が必要だ。石原はとにかく、『立とう』と決めたのであり、その意思だけが石原の自由を意味したはずだ」
さらに三宅は前出の短歌において、「白刃」が「北」を向いていることに着目する。そしてただちに石原短歌を「北」というキーワードで走査する。すると出てくるわ出てくるわ、たちまち十首ばかりの石原短歌が並び立つ。たとえば、
鎌倉は鎌倉ならじ鎌倉の北の剛毅のいたみともせむ
鎌倉に在りてやとほき北の空 星の降る夜を清しとみるや
遠景はとほきにありて北を呼ぶ 北よりとほき北ありやさらに
これらの短歌は、石原の次の発言(細見和之も野村喜和夫もそれぞれの評論において言及している有名な発言だ)と恐ろしいばかりに響きあっている。
「シベリアの環境にいた時に、日本の位置が南ですから、当然南の海に魅かれるのですが、北に対する幻想があったということは、私自身にとって不思議でした。日本に帰ってきましたら南への志向というのは全くなくなってしまいました。それで北への志向と言いますか、北へ遡ろうとする姿勢が強くなりました。(中略)自分の考えをたてるにしても自分の姿勢をたてるにしても、一回北の方向へ遡らないと、それができない精神構造になってしまったわけです」(ゴチックは四元)
「位置」「姿勢」「たてる」「北」。三宅の論法はこれらのキーワードを、詩と短歌、初期と晩年の両端に見出しながら、石原自身のテキストに己を語らせるように展開する。そして「五、終わりに」では、そのように「まず自分の位置がどこにあるのかを探り、そこからゆっくり立ち上がり、つづいて北を向くという『行為』」に拘り続けた石原吉郎が、「なぜ、最晩年において、短歌という詩形を石原が選びとったのか」という問題に向かい合う。
三宅勇介はその直接の契機を、石原が「ある精神的ショックを原因」として急性アルコール中毒によって入院していたとき、同じ病院内の患者を見て、自分もああなってはいけないという気持ちになったという体験に置く。
「それはいわば、シベリアから帰って来た後に、石原を詩にかりたてたものと同じではないだろうか。つまり、ある精神的ショックから、自らが立ち直るために、強烈な意思のもと、自分の自由のために詩を必要としたのと同じように、短歌を必要としたのである」
この指摘は、現代詩の内野にいる細見と野村が拾い損ねた「詩の先」の石原を、短歌という外野から走ってきて見事に掬い上げた印象がある。だが三宅の読みが凄みを発するのは、その次だ。「ではなぜ短歌のなのか」と彼は畳みかける。
「俳句から詩に入ったという石原は、しかし、その最晩年の危機においては、俳句も詩も採用しなかった。それは石原自身が先述の『短詩形文学と私』でのべているように、『俳句による発想の瞬間的な決定』や、『現代詩型による発想の無制限な拡散』でもない、短歌という中間性を欲したからではなかったか。(中略)石原は短歌を書き始めて、三日間で三十首を必死で一気に書き上げたという。これは私の推測にすぎないのだが、『位置をさぐり、立ち上がり、北を向く』という内容を持った短歌を最初に書き上げたのではないだろうか。つまりそれこそが、石原が原点から始める作業であるはずだからである」
「さらに言えば、短歌というものがあるスペースは、(それは、『敵』である、片側の馬と、『鹿野』であるもう片側の馬の間に、石原がいたスペースと同じく、)『詩』と『俳句』の間にあるスペースではなかったか。また、石原が必要とした短歌の形とは、文字通りの『形』であり、つまり、一行のある長さをもった『形』の事であり、(石原の初期の作品に顕著であるが、石原の詩は一行が短く、俳句よりも細かく行を変えていくのが、一つの特徴だと思う)、それは言うなれば、『墓標』のように縦長に立っているように見える『形』の事ではないだろうか。石原の短歌は墓標のように立ち並び、暗い北側にむけて立っているのである」
三宅勇介の短い、淡々とテキストに即して語り進む石原吉郎論は、細見和之と野村喜和夫の情熱に満ちた「詩人論」の末尾に置かれた美しいエピローグのようだ。それは「現代詩」の川をはるかな「詩」の海に注ぎ入れ、時代を超えた水平線へと解き放つ。
三宅勇介『歌論』(詩集『亀霊』とのセットとして)http://shirobeeshobo.wixsite.com/home1/hon