自選大岡信詩集

大岡信を読む(1):「大佐とわたし」

大佐とわたし
   
   旧き悪しき戦略思想家たちに

大佐 大佐 大佐
あなたを愛しているのはわたしです
あなたはどこへいらっしゃるのですか
退屈な朝八時 学校へいらっしゃいますか
大佐 大佐 大佐
わたしがあなたを愛するのは
わたしが爆弾を愛するからである
引金の奥につまっている
可能性の精密なかたまりを
愛するからである
十万個の部品が
いっせいに連動する地震的な美しさを
愛するからである
そしてあなたが爆弾にすぎないからである
おう 大佐 大佐 大佐
雲は美しい
垂直に猛烈に地上から成層圏までさかのぼる
雲は美しい
地震計は失神せよそして壊れよ
人間は失神せよそして壊れよ
島は失神せよそして壊れよ
大佐 大佐 大佐
退避壕から学校へゆく
あなたの正確な歩幅をわたしは愛する
あなたの講義はデカルト以上に無駄がない
ラテン語にして伝単で撒きたい
クーフィク文字に刻んで祭壇にかざりたい
サンスクリットに訳して菩提樹の下で抱いて死にたい
コロンブスよりさきにアメリカ大陸を発見した男に
聞かしてやりたい聞かしてやりたい
大佐 大佐 大佐
爆弾をつくるのはなぜですか
ピッ ピッ ピッ ピ
そんなことがわからんのか諸君
爆弾をつくるのは
それを捨てるためにほかならん
平和のために爆弾を捨てる
爆弾はいつも足らんのだ
平和がいつも足らんからな
爆弾をつくれ!
ピッ ピッ ピッ ピ
おう 大佐 大佐 大佐
わたしがあなたの娘さんと
暗いホテルで抱きあったのも
彼女を捨てるためだったのか
大佐 大佐 大佐
あなたを愛しているのはわたしです
それはあなたが爆弾にすぎないからである
わたしはあなたを捨てねばならぬ
それはサンスクリットの詩にも
わたしの詩にも書いてある
命令である

              詩集『わが詩と真実』1962年より

「大佐 大佐 大佐」と、いきなり歌うように呼びかけられるこの大佐、副題には「旧き悪しき戦略思想家たちに」とあるけれど、どうも日本人だとは思えない。少なくとも昔の日本の軍人ではない。かと言ってヨーロッパ人でもないし、どこか中南米の小国の独裁者の感じ?それも現実のものではなく、マルケスの描く魔術的リアリズム小説のなかの……などと思いを巡らせているうちに気がついた。僕のなかでこの大佐に一番近いのは、大友克洋の劇画『アキラ』に登場するあの「大佐」だ。 

ではその大佐に語りかけているのは誰なのだろう?彼は二行目にしていきなり大佐への愛を告白する。その日本語は少し捩れている。

あなたを愛しているのはわたしです

まるで日本語の教科書に出てくるような人工的な口調。「わたしはあなたを愛しています」ではなく、それがひっくり返ってあくまでも「わたし」に重きがおかれている。あたかもほかの誰もが大佐を恐れ、あるいは憎んでいるなかで、「わたし」ひとりが彼を愛しているかのように。

その次に「学校」が登場するところを見ると、この詩の舞台は士官学校かなにかで、大佐はそこで軍事戦略の教鞭をとり、語り手はその講義を受ける生徒のようだ。だがそれは「退屈な朝八時」の学校である。戦争の気配はない。ただ平和な日常のなかで、爆弾の構造が説明されるだけの学校。その爆弾の「引金の奥につまっている/可能性の精密なかたまり」や「十万個の部品が/いっせいに連動する地震的な美しさ」について。この部分の大岡信の言葉は、爆弾そのもののように美しい。

だがその前に、語り手はもうひとつ重要な告白をする。

わたしがあなたを愛するのは
わたしが爆弾を愛するからである
(中略)
そしてあなたが爆弾にすぎないからである

語り手にとって大佐はひとつの記号に過ぎない。僕が彼に劇画のキャラクターの印象を重ねたのも、あながち突飛ではなかったというわけだ。けれどその次に語られる「雲」の様子から、それがただの爆弾ではなく、核兵器だということが明らかになる。この雲は明らかにキノコ雲なのだから。

雲は美しい
垂直に猛烈に地上から成層圏までさかのぼる
雲は美しい
地震計は失神せよそして壊れよ
人間は失神せよそして壊れよ
鳥は失神せよそして壊れよ

この一節も爆弾についての描写同様、「雲は美しい」などという身もふたもない言い方をしながら、ダリの絵のような戦慄的な美に溢れている。「マリリンに茨のありかをきくな」「水道管はうたえよ」「覆るとも/花にうるほへ」等々、大岡信の詩の魅力のひとつはその命令形だ。

それにしてもこの語り手は、大佐=核爆弾のどこを愛しているのだろう。

退避壕から学校へ行く
あなたの正確な歩調をわたしは愛する

大量死をもたらす精密な機構への憧れ。同時に、それほどの威力を持ちながら、ただ退避壕から学校へと移動するだけの大佐=爆弾に対する皮肉な蔑み。そこにあるのは自己消失を夢見るふりをした、倒錯したナルシシスムのようだ。大佐の講義の見事さを語ろうとして、その数行先には自らの死への願望を語ってしまうような……。

あなたの講義はデカルト以上に無駄がない
ラテン語にして伝単で撒きたい
クーフィク文字に刻んで祭壇にかざりたい
サンスクリットに訳して菩提樹の下で抱いて死にたい

ちなみに「伝単」とは、戦争時に敵国の民間人や兵士の戦意喪失を目ざしてばら撒かれるビラである。クーフィク文字はアラビア文字最古の幾何学的な書法。爆弾から出発したイメージが、平時の学校を舞台として、デカルト、ラテン語、クーフィク文字、サンスクリットといった知的で、宗教的なイメージへと向かうのは、大岡信自身が戦場を体験していないからだろうか。その点で、大岡信は荒地派の詩人たちとは決定的に違う。彼は現在の僕らと同じ側に立ってこの詩を書いている。

次に場面は教室のなかへ。誰かが大佐に質問し、大佐がそれに答える。

大佐 大佐 大佐
爆弾をつくるのはなぜですか?
ピッ ピッ ピッ ピ
そんなことがわからんのか諸君

このあたりはコントのノリだな。プレヴェールの詩の一場面でもおかしくないし、シャンソンにしてジュリエット・グレコに歌わせてみたい気もする。

さて質問に対する大佐の回答は「爆弾をつくるのは/それを捨てるためにほかならん/平和のために爆弾を捨てる」といういささかアンチクライマックスな逆説だ。この作品が書かれた1962年が、東西冷戦のさなかにあったことを想起しよう。抑止力の名のもとに核競争が行われていた時代である。だとすれば、この詩は劇画的でコントのような振りを装いながら、現実の世界と真正面から向き合っているといえる。

おう 大佐 大佐 大佐
わたしがあなたの娘さんと
暗いホテルで抱きあったのも
彼女を捨てるためだったのか

実は語り手の学生が大佐の娘と出来ていたというのも、いかにもコント的な展開だ。ただこのあたり、深読みすれば「大佐」は爆弾を介した大量死の比喩であると同時に、先行する世代の「旧き悪しき」詩的戦略家たちである、と読めないこともない。その娘と「捨てるために」抱き合うというのは、過去の詩的伝統を現代詩のなかに革新的にとりこむということか……などと思わず妄想が働いてしまうのも、伝統と時代の最先端を自由に行き来した大岡信故のことだ。

このあと「あなたを愛しているのはわたしです/それはあなたが爆弾にすぎないからである」という主題が繰り返された後、ここまでくればもはや避けようもない結論が下される。

わたしはあなたを捨てねばならぬ

大佐を捨てた「わたし」はその後どこへ行くのか?そこにはどんな展望も、カタルシスも感じられない。未来への希望もなければ、大量死を回避しようという意思もない。放課後の校舎の虚ろさ。一個の重い爆弾のような球形の閉塞。それは僕ら自身がいまこの瞬間も生きている安全で清潔で精密な絶望そのものだ。大岡信はその絶望を美しい一篇の詩にしてみせた。詩人はいつの世もそのようにして世界に対峙し、それには指一本ふれぬまま、言葉の極微な力だけで目に見えない変革を企ててきた。僕にはそれがこの現実から明日に向けての、唯一の脱出口のように見える。


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