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小池昌代の〈詩と小説〉: 『影を歩く』を読む その2

生活から出ていかなければならない。その感覚は、小池さんの作品のなかではいつも突然の不意打ちとしてやってくる。『影を歩く』の第三章に入っている「水鏡」(短編小説)はその典型だ。

荒れている高校生の娘の部屋に『土佐日記』が投げ出されているのを「わたし」は見つける。拾い上げて、頁を捲り、貫之の「影見れば波の底なるひさかたの……」の歌を読みながら海の底を思う。「わたし」は夫を船の事故で亡くしているのだ。

「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし」

二条院讃岐の歌を思い出して、「船からこぼれた夫の最後を考える。考えるというより、想像する。そのとき一瞬だけ、平穏な気持ちになる。(中略)海底の石のことを思うたびに、ぱさぱさになったわたしの心にも、幾分の水分がもたらされるようである」。そして次の瞬間、それがやってくる。

唐突に、娘を捨てる日がいよいよ近いという感覚が降りてきた。今は何もわからない。だが当日になれば、今日がその日と、きっとわかるのだろう。

こんな風に「詩」は、各章の始めだけではなく、短編小説のなかにも入ってくる。そればかりか、詩という概念そのものが主題となっている例もある。言わば短編小説が詩を盛るための容れ物として使われているのだ。第一章に置かれた「柿の木坂」という短編がそれだ。

題名の通り、「柿の木坂」という場所が登場する。そこに「わたし」の同僚が住んでいる。同僚はわたしよりも一回りほど上だが、「純粋でお嬢さんのような人」である。それでいて、ときどき、とてつもなく激しい「性夢」を見るという。「目覚めたあとも痕跡がはっきりと肉体に刻まれているほどの、たいへん生々しい経験なのだ」。

その彼女の家に招かれる。目印は「大きな柿の木」。迷った末にようやく探し当てて中に通されると、

庭の中央に、ひときわ大きな木が一本立っている。つやつやと濡れたような濃い緑の葉っぱが、ざわざわと音をたてている。正面から眺めるそれは、幹の太い、立派な木だ。

同僚は、「そうよ、あれが柿の木よ」と誇らしげにいう。「その声には、自分の子供を自慢するような響きもあった」。

ところがこの柿の木、家の中から観ている分には立派なのだが、いざ庭に降りて間近に寄ってみるとがらっと印象が変わるのだ。

庭に立つと、不思議なことに、居間から眺めていたときの奥行きが消えた。庭はとたんに平板になった。どうしたのだろうとわたしは思った。数歩、歩けばすぐに行き止まりになる。おもちゃのような庭だった。池は暗い水たまりにすぎず、鯉が泳いでいるように見えたのはとんでもない錯覚で、池の上に上にかかる橋も石ではなく発泡スチロール。
 そして中央にシンボル、柿の木は、細い幹から細い枝をひわひわ伸ばし、わびしい姿で立っている。

この柿の木が、ぼくには〈詩〉の象徴としか思えないのである。遠くから見ていると生命力に溢れて隆々と聳え立っているのに、近づいてみるとちゃちな作り物の正体があらわになる。詩も読んだ瞬間には、意識のなかに未知の輝きを放ちながら聳え立つのに、一語一語辿ってみると、ただの変哲もない言葉の寄せ集めでしかない。いや、詩に限らず、絵画も音楽も芸術一般について言えることだろうか。でも小池昌代の場合、それはやっぱり詩以外ではありえない……。

トークの席上でぼくがそういうと、小池さんは「あら、そうかしら」なんて言っていたが、本人が自覚していなくても、いやだからこそ、生々しく作品に現れるのではないかと、ぼくはあくまで我が推論に固執するのである。だって、次の一節なんて、詩を書いている人の姿そのものではないか。

ついに実をつけない柿の木の下。緑の目に覗かれながら、深まるばかりの快楽に実を委ねていた。

(この項、さらに続く)

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