自選大岡信詩集

大岡信を読む(2):「静物」

冬の静物は傾き まぶたを深くとざしている
ぼくは壁の前で今日も海をひろげるが
突堤から匐いあがる十八歳のずぶ濡れの思想を
静物の眼でみつめる成熟は まだ来ない

                詩集『わが詩と真実』1962年より

この静物は、セザンヌよりもモランディの感じかな。静かな冬の午後のひととき。陽ははや傾き、世界は深い思念のまぶたに閉ざさされているが、そこには透明な光が溢れている。

「壁の前で今日も海をひろげる」とは、具象と観念がかっちりと合わさった、いかにも大岡さんらしい言葉だ。連詩のとき、あがってきた詩句を筆でしたためるために、和紙の巻物をひろげる彼の姿を思い出す。「水と河と種子のある詩」のなかの、次の一節とも響きあっている気がする。

沈め
詠ふな
ただ黙して
秋景色をたたむ紐となれ
                 詩集『悲歌と祝祷』1976年より

海であれ秋であれ、広大無辺で宇宙的なるものを、紙や紐などの、人間の手によってつくられた物に引き寄せてみせる大岡さんの手際は鮮やかだ。その点では彼は俳句的な伝統に連なる者だと言ってもいいだろう。

でもその海のなかから、「十八歳のずぶ濡れの思想が」突堤を匐いあがって現れるというイメージは、半世紀を経たいまでも新鮮な衝撃力を失わない先端的な「現代詩」だ。

それにしてもこの海はどこの海なのだろう。故郷の三島の海のような気もするが、「十八歳」という言葉から、大岡さん自身が十八歳の頃書いた「水底吹笛」の世界へと連想が飛ぶ。

みなぞこにすわればすなはほろほろくづれ
ゆきなづむみづにゆれるはきんぎよぐさ
からみあふみどりをわけてつとはしる
ひめますのかげ――
ひようひようとあららにふえをきかさうよ

あの水底で笛を吹いていた少年が、いまずぶ濡れの思想と化して突堤を匐いあがってくるのだろうか。そういえば「水底吹笛」と同時期に書かれた「懸崖」という詩には、失恋に打ちひしがれて谷底でうずくまる若者の自画像が描かれている。

黙々と懸崖をくだつてくるものの影。懸崖をのぼつてゆくものの影。かれらはやつてくる、やつてくる、谷底をなほもゑぐるために、狭めるために、黒い土に挟んで、つまり私を埋めるために。

また「一九四九・一〇・四」の日付のある「暗い夜明けに」には、こんな一節もある。

夢にみた緑の断崖――かたはらの人は
私を捨てて越えていつた

「静物」を書いた頃の大岡さんは30歳前後だと思われるが、あるいは当時の自分(と失われた恋人)を思い出していたのだろうか。思想が「ずぶ濡れ」なのは、時を経てなお消え止まぬ感情の嵐の故?だからこそ、それを「静物の眼でみつめる成熟は まだ来ない」のか。

でもただそれだけならば、海からやってくるものを「思想」と呼ぶ理由はないはずだ。「静物」には、個人的な感情を超えた、大きな世界観が暗示されている。「成熟は まだ来ない」と言うことによって、逆説的に予感されている新しい認識の地平が。

僕はその新しい世界の一端を、「静物」からさらに十数年後に書かれたもうひとつの少年像に見出す。その名もまさに「少年」という詩だ。

松林では
仲間ッぱづれの少年が
騒ぐ海を
けんめいに取押へてゐる
ただ一本の視線で
                詩集『悲歌と祝祷』1976年より

ただ一本の視線で「騒ぐ海」を「けんめいに取押へ」るというのは、「静物の眼でみつめる成熟」を獲得しつつある証ではないか。そしてこれに続く次の二行は、この「少年」が感情よりも思想的な観念の世界で、ひとり戦っていることを物語っている。

「こんな静かなレトルト世界で
蒸留なんかされてたまるか」

レトルト世界というのがどういうものなのか、よく分からないけれど蒸留され滅菌され密封された研究室とか、保存食のイメージだろう。合理性や生産性によって価値の単一化された管理社会の喩として受け取ってもいいかもしれない。

少年は一方で視線によって騒ぐ海を取り押さえながら、もう一方では陸の世界を支配する人工的な力と戦っている。海の原初的なカオスに満ちた生命力を自らに取り入れることによって、彼は息の詰まる大人の世界で生き残る術を模索しているように見える。

「静物」の語り手である「ぼく」は、壁の前で海をひろげたまま「十八歳のずぶ濡れの思想」を待ち受けるばかりだったが、「少年」の詩の語り手は「仲間ッぱずれの少年よ」と呼びかけてみせる。

きみと二人して
夜明けの荒い空気に酔ひ
露とざす街をあとに
光と石と魚の住む隣町へ
さまよつてゆかう

ここにはランボーを連れてパリの街をさまようヴェルレーヌの姿が重なる。実際、後半和歌の女神「衣通姫(そとほり)」が現れたり、少年の唇の上に「乳房よりも新鮮な/活字の母型で//「取扱注意!」」と封印が置かれるところを見ると、少年は詩人であり、詩を書くことによって世界と向かい合おうとしているらしい。語り手はその導き手である先輩詩人という感じだ。

と同時に「光と石と魚の住む隣町」には「水底吹笛」の世界に通底するものがある。案の定そこには「女」の影もちらほらしていて、たとえば冒頭には、

大気の繊い折返しに
折りたたまれて
焔の娘と波の女が
たはむれてゐる

というふたりの女の姿が置かれている。この「娘」と「女」を詩人自身の娘と妻と読むならば、「少年」は息子ということになるだろうが、このあたりは決め付けないで、重層的、多義的に読むほうがいいだろう。それにしても「大気の繊い折り返し」などと表現は、どこから出てくるのだろう。

詩の中の「女」はどこまでも水のイメージと結合していて、詩人と少年の道行きの行き先もこういう具合だ。

少年よ それから二人で
すみずみまで雨でできた
一羽の鳥を鑑賞にゆかう
そのときだけは
雨女もいつしょに連れてさ

海に失われた恋と、そこから(進化する生物のごとく)匐いあがって陸の人間界で詩を書き始める「ずぶ濡れの思想」=「少年」、その背後になおゆれ動く女性性=詩神(ミューズ)の気配。大岡さんが十八歳で書いた「水底吹笛」から、三十歳前後で書いた「静物」、そして四十台半ばで書いた「少年」へと、ひとつの物語が紡がれてゆくのがみえる。


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