20151026-顔をあらう水2

溶かす眼球 蜂飼耳『顔をあらう水』を読む

奇妙なタイトルである。飲む水でも流れる水でもなく、顔を洗う水。表題作ではそれが「顔をあらう水がほしい」となる。なぜ?「ねぼけてる」と書いてある。「ねむるための闇が軽くなり/(わたし(たち)は)薄くなる」という。ねぼけた顔を水で洗って、しゃきっとしたいのだ。飛行中の窓から見る「富士の高嶺」が「氷菓子」に見えるしい。「取り返しがつかない」ともある。なにが?分からない。

「えがかれたことのない心が/眼を持たないまま 探索をはじめる/心ほど古い来歴をもつものがいつも/なによりもあたらしい顔して」と心と顔が対比されている。ねぼけているのは、どっちなのか。醒めたがっているのは?そもそも語り手である(わたし(たち))とは、誰なのか。

詩集の最初から読み返してみよう。

冒頭に置かれた「骨格散歩」。都市を散歩する詩だが、骨が歩いているわけではない。骨格は2000万年前の「仮の構図」に過ぎない。いまやそれは「ばらけていく」。その音を聞きながら歩いてゆく。「ヒトの地図をおおっている/概念の歴史をこねる会場から」。散歩の途中で「南方熊楠」や「オリエンタリズム」を論ずる学会に立ち寄ったらしい。

そこを「抜け出すというよりも抜け落ちて」「あつまる場所から/遠ざかりながら」「血管をさかのぼる」。するとまた「構図のみじろぎ」。構図とは〈今ここ〉を規定する認識マップのようなものだろう。そこへ入って行く、「着ているものを脱ぎながら」。「道路は過剰な蛇に似て」とあるので、この仕草は蛇の脱皮を思わせる。そして「失われた眠りの/入り口へある日、踏み出す」。

ここでも「眠り」だ。「ひとつの脳に成りかける惑星が/ねむりへとたぐり寄せられ/ぼんやり夢をこねている」。その夢を締め上げているのも「蛇」である。醒めたがっているのは蛇だったのか。その顔を洗う水を求めて旅に出る、これは出発の場面であろうか?

「びょう、びょう」と「正しさ」の鳴く「視界の近く」を「迂回」して、「戦後野原、いまここの」石段を上り、「天地のすきま、次の置き場を/求めてじりじり」「そよがせながらいざるとき」、壮大な時空を貫いて散歩=テキストは進んでゆく。

語りの主体は「代えのきかないひとつのからだを/それは南方/嗅ぐ先から脱ぎながら脱ぎ捨てながら」脱皮を繰り返し、「足が動くならば足/手が動くなら手を/そよがせ天地を縫いあわせ/生きているからだを見えなくする」。ついには「もう、かたちをとどめない」「そしてなお/目にした人のからだのなかに次のからだを/烈しく生みはじめるからだです」と、変身と転生を繰り返す。

「話題」では人の姿を取り戻し、「骨拾い」や「ある死」では元特攻志願兵の「五十の時に生まれた子」として「寄る辺ない文字など/書き綴るばかり」、現実の「蜂飼耳」になるかと思いきや、次の「籠」では罠にかかった鳥に変わっている。それでいて籠のなかの自分から「揃って顔をそむける客のなかに/自分がいる紛れている眼が合う」。

仮の構図としての〈今ここ〉に係留されて固有の生をいきる個と、その構図のみじろぎの隙を抜けて時空を貫通する超越的な存在とに、「自分」=語りが分裂している。前者は人の姿を纏って台湾を訪れたり、貝塚を覗きこんだり、チャーハンを食べたりしているが、「くずおれる生」の折々に後者の気配を感じ取っているようだ。時にそれは貝塚の底に掘り当てられた「朽ちない声」として、また「遺伝子の川底に目をひらく三万年前の人」として、また時には「春」という文字に立ち現われる。一方後者は難なく籠から抜け出して、「私は運ばれる/月の光に//月を運ぶ」。鱗に覆われ、再び尻尾を生やして「真昼の道玄坂を上から下へ。」天と地のあわいをいざり、這い、羽ばたき、旅を続ける。「いま」に「敷きつめられた沈黙に」ひらめのごとく横たわったり、「荒野を」進むうち「手足はなく 転がっていた/うす明かりのなかで葉を食べていました」と芋虫になったりするが、すぐにまた糸を吐き繭を紡ぎ、飛び発ってゆく。そして「すがたよりも早く鳴き交わす」。変幻自在にして前進あるのみ。常に「爪先は前を向いている」。

全編を貫いて繰り返し現れるイメージがある。その筆頭が「目」だ。「骨格散歩」の三行目にしてもう「角膜」が登場し、その三行後には「まばたき」が現れる。船上の熊楠は「波間のくらげを両目から/からだの底に落としこみ」、「そららすべてを両目から/飲みこむひとは」「もう、かたちをとどめない、そしてなお/目にした人のからだのなかに次のからだを/烈しく生みはじめる」。これらの目は見るための器官というよりも、そこから外界が内部に侵入してくる傷口のようだ。

台湾に行っても「哺乳類/ふたつしかない目のそれぞれに/今日の目薬たらして背後に/ひろがる時間をふるわせる」。その頭上で「月は目を閉じたまま」。その月を針で刺して傷つける松は「樹脂の黄色い涙をこぼし」「軒は 空に線を引いて/仮の区切りを視界に生むが/まばたきひとつで/砕く、こともできるのです」(「パイン・ガーデン」)。

目に見える世界はあくまでも仮の区切り、「仮の構図」だという考えがここでも表明される。超存在はそれをまばたきひとつで砕くことができるという。砕いた破片の「それぞれを鳴らしながら」「手もとの世界を拡大すれば/捕食と分裂 仮死と死 誕生/生えそろう哺乳類 まるい世界」が「いっぱいに結ぶ露」に映し出される。すると「通じない言葉がねっとり枝に/からまり うごめき もみしだかれて/やがてほどけて 飛ばされる」。「内側から こぼれながら(ねえ)/烈しく時間を積んでゆく」。個々の目の奥にある、普遍的で全体的な内部から、言語が生まれ、時間が析出してゆくという世界観。それは日本の詩にはまれな思想性と呼ぶに値するものだが、(そう)(ああ)(ねえ)と挟まれる声によって生々しく、妖しげだ。

視覚と表象と言語と時間をめぐる考察は、言葉の通じない異国を訪れたことでいっそう深まったようだ。「花蓮港、花蓮」では「文字の赤みが両眼から流れこんで背骨 あばら骨/くぐりぬけて肺を ゆるく締めて」、見ることと息を吐き、声を出すことが繋ぎ合わされる。「あれはなに?/互いに まばたきしたら もういない 互いの前には」「記憶の真珠玉 つまんで繋げば/首へ掛ける前に糸は切れ散逸/音もなく散逸/探す」と、まばたきによる表象と記憶の解体が語られる。

台湾での超存在は人間の形をしているが、その「女はおぼつかない足取りで/時間と文字を編みながら 浜の道を/辿り すべての二枚貝を無理にこじ開け」てゆく。「この土地では 人語があまりにもはっきりと/切り替えられ ためらいもなく入れ替えられて/首をかしげ」ながらも、自らにこう言い聞かせる。「まだ動く唇があるならば 声帯を差し出そう/取り上げられた声の栞を拾い上げ/海と山をひろげるつづきの頁に 挟もう」。

見ることはメドゥーサよろしく世界を「石化」させ、まばたきはそれを打ち砕く。だが声には融和と再生の機能が備わっているようだ。超存在がこじ開けた二枚貝は増殖する。こどものころ親から習った桃太郎の歌を、意味を知らぬまま「胸いっぱいバリトンを響かせる」現地の人の、その「こだまの底からゆるゆると山はたちあがり/墨色を濃くしつつ かたちを 近づけてくる」。

「まばたきをまたいで 増殖する山塊」という一行は、空(くう)なる球体の表面に色(しき)が盛り上がってゆくイメージ。この詩集は旅物語であり変身譚であると同時に、眼と口、まばたきと声、解体と再生の対立を基軸とする創世神話でもあったのだ。

目と口があるのは顔である。顔のモチーフもまた全編を貫いて現れる。「振り返るときの/仕方をまちがえ/顔という顔は汚れている」(「ゆえに、そこにそらの」)

「電球はぼうっと/どの顔にも、一定の判断に似た光を下し」(「話題」)

「顔の奥からまた顔が来る、ぽかんとしている」(「骨拾い」)

「見覚えのある顔や/自分の顔が火に、潰されるのを見ている」(「鱗のある日」)

「草木物言うその昔/火を盗まれた直後の顔して、暗がりへ引き上げる」(「影を入れれば四人」)

「やさしい顔してあれこれ溶かし合い/やがてひとつの脳なのか」(「甘くて、」)

顔は時の波間に現れては沈んでゆく「くずおれる生」の個々の表象として捉えられている。顔も「仮の構図」なのだ。それはまた表面と内奥とを隔てるものであり、眼と口を経て内なる超存在へとアクセスするためのポータルでもある。だがその顔は汚れている。ぽかんとしている。ねぼけてる。自らの仮構性や脆弱さに無自覚で、超存在の存在にも気づいていない。「顔をあらう水がほしい」という言葉には、それに対する苛立ちと挑発がこめられているようだ。

ではその水は見つかったのか?元特攻隊志願の父はそれを見つけた。敗戦直後の「いちめんの焼け野原//機関車の蒸気が集まり/車体からしたたり落ちる水滴」に。それを両手で受けてすすり、「それで父は生き返った」のだ。

松園別館を取り囲む草の先にも露が宿っている。「その茎に 葉に 結ぶ露には微生物/まるい世界に生きている」。ここでも水は生と結ばれている。

一方全身に羽根をまとった超存在は、「籠」に入れられたまま「やがて水に、ひたされる」。

あるいは「むしろ誰も降りない広場へ/くっきりと、降りてみ」た超存在は、「乾かないみずたまりに飛びこむ樹」や「鳥、水の底に棲んで/嘴から漏れる、あぶくの、歌」を見つける。

あるいはまた「真水はただ、映るものに/表側でしか触れえないことには/飽きて、顔だけ残して、/沈んでいった」(「魚心」)

これらは「沈む水」であり「溶かす水」だ。井筒俊彦流に言うならば、仮の構図へと分節化された表象世界を、再び根源的絶対無分節へと混ぜ合わすための羊水だ。「溶かすことを覚えはじめるとき、/眼球は空の片隅にあろうとして/棄てられた瞼をゆるりと探す」(同右)「かたちを求めてかたちにならないもの/なるものを拒むもの/いまにも かたちになろうとするものや/ならなくなくてもいっこうに構わないもの/ほどいて 溶けてゆく」(「さまよう庭をさまよう」)

この詩集は根源的無分節世界から追放された超存在=眼球=非人称なテキストが、分節化された世界の表象をさまよいつつ(繰り返し「振り向く」所作が哀れを誘う)、覚醒と更新を求めて(顔をあらう水がほしい)、世界を再び混沌へと溶かす術を獲得する貴種流離潭としても読めるだろう。

水はときに月の光に変化し、月は白い鏡へと変化して、全篇に光の粒を散りばめている。果たして超存在は帰郷を果たすことができるだろうか。詩集の最後は、こう結ばれている。「はじめから ただそれだけが/みなもとであるような一日に/重くなり 軽くもなって/空と土は わ か れ は じ め る/るっきい、るっきい おそるおそる/いま ほどかれていく」(「懸想」)

日本の現代詩は、思想について語ることはあっても、ダンテやブレイクらの作品のように、詩が世界の成立ちや在り方を詩的言語にしかできないやり方で示すこと、即ち詩のテキストが思想そのものである場合は多くない。明治以降私たちが歩んできた道のりは、思想と感情、叙事と抒情との統合を目指すものであったかもしれないが、実際にはひとつの作品における統合というよりも、さまざまな意匠の棲み分けという形をとってきた。

蜂飼耳の『顔をあらう水』はその稀有な例外だ。ここには生硬で観念的な漢文脈の言説と、しなやかで体感的な大和言葉とが、みごとに「溶けあわされて」いる。そのテキストには生身の女の息遣いとしなやかなユーモアが籠っているが、示されているのは個人や歴史を越え、時空そのものを包括する壮大な俯瞰図だ。そこでは核の傘の下にひろがる「戦後野原」や「つばさをもたない偵察機」が飛び交う現在の政治的状況が、貝塚の底の静けさに横たえられる。

現代詩の「構図のみじろぎ」をついて、みなもとから近代を経て今日へと連なる〈日本の詩〉が、またひとつ不可逆的な脱皮を成し遂げた。本書はその記念すべき抜け殻である。

(初出:現代詩手帖2016年8月号)

http://www.shichosha.co.jp/newrelease/item_1537.html

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