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小池昌代の〈詩と小説〉:『赤牛と質量』を読む その3

この詩集に収められている詩を、片っ端から網羅していこうというわけではないが、三番目の詩「香水瓶」もどうしても外せない。現代詩における〈自由〉を問いかける作品だからだ。それは僕が詩集『単調にぼたぼたと、がさつで粗暴に』で取り組んだ問題でもある。

20年前に詩の賞の副賞として貰った6本の香水瓶から詩は始まる。

それぞれの瓶にアルファベットが刻まれ
普通に並べれば poetry ぽぅえっとりぃー

こんな洒落た贈り物をくれる賞といえば、花椿賞だろうか。でも貰ってから20年経った詩人は、六つの文字を様々に並べ替えて英語の言葉遊びをしたあとで、唐突にこんな呟きを漏らす。

破壊しなさい
それが
ぽぅえっとりぃーの奥から聞こえてくる
いつもの小うるさい命令だったのだし

破壊?こないだどこかで伊藤比呂美さんが、現代詩の本質は逸脱にあると書いていたけれど、詩の本懐は壊すことだったのか。

小池さんは、詩の書き手として出発して間もなく、詩の在り方を疑い始めた。彼女自身の言葉を借りれば、雑誌の見開きに綺麗に収まる行分けの詩を「冷たい」と感じたのだそうだ。その端正さに抗って、固有名詞を導入したり、物語性や哲学を導入したり、エッセイや小説を書き始めたりもした。

それでも常に彼女の書くものの中心には詩を据えられていた。(詩のつんと気取った端正さを)破壊しなさい、という命令が、他ならぬ「ぽぅえっとりぃー」自身から発されたものだったなら、それも当然だと納得がゆく。

ところが副賞の香水の方は、20年の歳月を経て、すっかり熟成してしまっている。

調合された当初には
あったはずの よそよそしさ
カド
自意識も
後退し成熟し
つまりこれはもう
現代詩ではなくなったわけです

現代詩ではなくなって、では何になったかといえば、

この含み
この深み
ああ、うっとり
和歌のように人を酔わせる

この香水の変容には、戦後の現代詩そのものの歩みが重なる。荒地派、感受性の祝祭、ポストモダン、0年代の詩人たち、エトセトラ。いや、もっと広く見渡すならば、新体詩以降の言文一致運動や口語自由詩という形式の模索まで遡った上で、今の「現代詩」を、ひとつの成熟の結果とみなすことも出来るだろう。

でもそれはとても「うっとり/和歌のように人を酔わせる」とは言い難い、怪しく、危うい「成熟」だ。確かにいくつもの素晴らしい果実が実ったが、その内部に未来へと受け継がれてゆく種子が見えてこない。

そして だからこそ
詩には型が必要だった
のではないですか
型を放棄し
充満する自由のなかで
さらに自由をつかみとろうと
ワタクシ ゲンダイシは
ある一時代
血の流れぬ一人だけの戦争を生きた

あらら、小池さん、とうとう「ゲンダイシ」になっちゃったよ、などと軽口を叩きつつも、この一節には痛切に胸を打たれる。そしてドキリとする。もしかしたら、僕らが追いかけてきた「ゲンダイシ」は、もはやその使命を終えつつあるのではないか。

だからと言って、定型に戻るわけにはいかない。小説へと移住するのも違うと思う。僕流に言うならば、洗練や成熟に背を向けて、定型も散文も物語も批評も思想も全部ごっちゃ混ぜにして、「がさつで粗暴に」突き進むしかないんじゃないか。

それに近い思いを、小池さんはこんな言葉で表しているのだと思う。

何を惜しんでいるのか
目を見開き
ここに残る
ふてぶてしい肉体を引き受けなさい
燃え尽きるまで
塵となるまで

ふたりとも、今年は還暦(!)なのだ。引き受けるしかないよ。

追記:この項を書いた直後、古い「現代詩手帖」を捲っていたら「詩型の越境」という特集で、高橋睦郎、穂村弘、奥坂まやの三氏が、それぞれ自由詩、短歌、俳句を代表して喋っているのに出くわした。2013年9月号、司会は野村喜和夫さんだ。

穂村さんの「詩は怖いですよね。(中略)現代詩がなにを信仰しているのか、現代詩においてはなにが共有されている目に見えない本質みたいなものなのか。それに対するスタンスがぜんぜん聞こえてこないし、訊いてもうやむやにされてしまう」という発言が印象的だ。

穂村さん、現代詩の本質は、「破壊しなさい」ですよ。「逸脱しなさい」でもあります。そしてそのためには、必然的に、ある程度「長く書く」ことにもなりますね。

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