【全文公開】文芸ムックあたらよ 第二号掲載『虎山犬飛子のままならぬ人生』/犬怪寅日子【『羊式型人間模擬機』刊行記念】
※この記事は2024/1/22〜2/12までの期間限定公開となります。期間を過ぎますと、冒頭を除いて有料記事となります。ご了承ください。
第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作『羊式型人間模擬機』刊行記念!
犬怪寅日子さんによる、第12回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作『羊式型人間模擬機』が本日・1/22に刊行となりました!
犬怪寅日子さん、改めまして受賞 & 刊行おめでとうございます!
刊行を記念して、文芸ムックあたらよ第二号に掲載の『虎山犬飛子のままならぬ人生』を全文無料で公開します!
期間限定となりますので、この機会にぜひお楽しみください。
また、文芸ムックあたらよ創刊号にも同氏のエッセイ『匂いの夜』が掲載されています。最高の執筆陣でお届けしておりますので、ぜひぜひ創刊号/第二号の本誌も手に入れて頂けますと嬉しいです!
『虎山犬飛子のままならぬ人生』/犬怪寅日子
あらすじ:二十年間小説の新人賞に落ち続けている人間が、新人賞を取った。青い話はまったく思いつかないのに? 著者自身の体験を反映した自伝的小説。
青い話がまったく思いつかない。
一体どのような理由でこうなっているのか見当もつかないが、半年も前から依頼されている小説が書き上がらない。考えていなかったわけではないのに、それどころかずっと考えていたのに、青をテーマにした話がなにも思いつかなかった。
犬飛子はもう二十年も小説の新人賞に落ち続けている。そんな何者でもない人間に、小説の依頼が来たのはとてもありがたいことだった。
それは昨年創刊された文芸誌の二号目で、創刊号にエッセイを寄稿した縁で、次は小説をと依頼があったのだ。だから犬飛子は、どうにか自分の今書ける精一杯のものを出そうと意気込んでいた。もしかするとそれが誰かの目に留まって、自著を出せるなんてこともあるかもしれない。
もうこの際、賞金はなくてもいい。賞金がなくてもいいから本を出したい。
それなのになにをどうやっても青い話が思いつかなかった。もはや犬飛子には、思いつくということがどういう事柄のどのような事態であるのかさえよくわからない。
そんな状態であるのに、もう一刻の猶予もない。今すぐ書き始めて、今日中に書き終わらなければ、人生におけるすべての大事なことを失うような気がしている。それくらい時間がない。
なにが起きたのだろう。
犬飛子はグリーン車の日のあたる少しだけ暖かい気がしないでもない窓側の席で、三日前に買ったばかりのiPadが全然思った通りに動いてくれないことに目を回しながら——なぜ「ひ」と打って、いい感じの漢字を探したいのに、丸い顔の人の表情の絵文字ばかり出てくるのだろう——こんなにぎりぎりになるまで、依頼された小説が書けないでいた理由を考えた。
本当は書いていたのだ。
それは「もうこのこはね」というタイトルの小説だった。昨日もグリーン車に乗りながら書いていたのだ。何ヶ月か前にさすがにもう取り掛かろうと思って、犬飛子は青という言葉を漢字辞書で引き、すべての項目を隈なく読んだが何も思いつかなかった。それで仕方なくインターネットの小窓に【青 単語】【青 イメージ】【短編小説 書き方】【青 別の言い方】などという言葉を入れて、どうにかこうにか素材になりそうなものを見つけた。
それが蒙古斑だった。
青という言葉には未熟とか完成されていないとかいう意味がある。犬飛子は小学校の高学年になるまで、右の太ももに鮮やかな蒙古斑があった。今ではその青は鈍く汚れているが、大人になれば消えると言われているその印が、いつまでも自分の体にあることは犬飛子に一種魔的な感慨を抱かせていた。つまり、だから自分はいつまで経っても子供のような暮らし方しかできないのだ、という。
そこで、大人になっても子供のように暮らしている主人公の生活を、蒙古斑と絡めて書こうと思いついたのだ。タイトルの「もうこのこはね」というのは、母親がいつまでも子供のような主人公に言う「もうこの子は」という小言と、蒙古斑の形が少し羽のようになっていることから「蒙古の小羽」という意味にもしたかった。
犬飛子はダブルミーニングが好きだった。それはとっても格好いいものだから。なにか、非常に頭のよい感じがするから。犬飛子は頭のよい人間になりかった。
この話を思いついた時点ではまだ二ヶ月ほど時間があったが、他の公募に出すための小説の締め切りもあるので、一ヶ月以内に書き終わる必要があった。
だから犬飛子はタイトルを思いついてすぐに話を書き始めた。
それはこんな風にして始まるのだ。
†
まいとにする、という言葉の音がした。
私は聞き取り困難症なので正しくそれを聞き取れていないような気がした。さっき外に行く前にピーマンを焦がして、換気扇を切るのを忘れたらしい。遠くでどうんどうんと脂ぎった羽が回っている音がしていて、近くの言葉の音をうまく判別できない。
「まいと?」
聞き返すと、うん、と簡単な声が返ってきた。当たってた、と思ったら声に出ていたようで、目の前は相手は、うん? と首をかしげた。
目の前の相手。
「まいとって言ったの?」
「うん」
「まいと?」
「うん」
そういうわけで、その夏の間、私はその子をまいとと呼ぶことになった。ずっと晴れていて、でも雨が三日だけ降った夏だった。
†
どういうことなのか犬飛子にはよくわからないが、書き始めたら違う話になっていた。
子供じみた生活をしている叔母と、夏休みの家族旅行を拒否している甥が、祖父母の暮らしていた日本家屋でひと夏を過ごすことになり、その間、互いに自分に別の名前を名付け、その名前を呼び合って暮らす、という話だ。
蒙古斑はどこに行ったのだろう。
書きながら犬飛子は考えていた。いつ、どのようにして蒙古斑を出せばいいのだろう。そんなことを思っているうちに、話は進んでいく。とりあえず、母親に「まったくこの子は」と言わせることには成功した。あとは蒙古斑がいい具合に出てくればいいのだ。けれど、蒙古斑がなかなかでてこない。
蒙古斑が出てこないと青い話にならない。
彼らは互いに真衣人、ニナ、という名前をつけたようだった。祖父母の住んでいた日本家屋は、そのぐるりを田んぼに囲まれていて、排水路が流れている。排水路の水は透明で、あまりに透明なので水が流れているのかいないのかわからない。けれど、蒙古斑はどこにも出てこない。
二人が小説の中で少し歩いた先にある商店へ行ってのり弁と鮭弁を買ったり、仏間の横の畳の部屋に十人は使える大きな座卓を引っ張り出してきて手作りプラネタリウムを作ったりしている間に、犬飛子はどうにか話の筋を考えようとした。
できれば真衣人が家族旅行を拒否している理由に蒙古斑を出したい。
真衣人は振る舞いが大人のようで、大人なのに子供のような行動しかしないニナに対しても、優しく微笑んで受け止めてくれる。けれど、実はもう小学六年生になるのにまだ蒙古斑があることを恥ずかしがっている、ということにしたらどうだろう。
でも、蒙古斑があるからといって、なぜ家族で旅行をしたくないのだろう。海にいく予定があって、からわれるのが嫌なのだろうか。でもそれだけで旅行そのものをやめたく思うだろうか。そもそも、三週間も家族で旅行に出かけるなんてことが一般家庭において起こり得るのだろうか。彼らは金持ちなのか? 金持ちならそんな嫌なことは言わない気がする。
どうもうまく思いつかない。
それでは、ニナの方はどうだろう。ニナに蒙古斑があるということにしてみようか。大人なのに子供じみた生活をしているニナは、自分がこんな生活をしているのは、蒙古斑が消えないからだと思っている。そして。そして?
だからなんだというのだ。
蒙古斑があって、どうして二人はそれぞれを自分たちで考えた名前で呼び合っているのだ。彼らが新しい名前で呼び合うことと、彼らのうちのどちらかが蒙古斑を持っているということ、それら二つを繋ぐなにかが必要だ。それさえ発見できれば、もうこの話を終わらせることができる。
彼らはいつの間にかプラネタリウムを作り終えて、カブトムシを捕まえる蜜を作り始めている。小説は一万文字を超えている。
それなのに、蒙古斑が出てこない。
犬飛子には自分がどうやって小説を書いているのか、いつまでもわからなかった。
二十年も公募に落ち続けているのだから、いくつも小説を書いてきているはずだ。それなのに、どれもこれも、どうやって思いつき、どうやって書き始めて、どうやって書き終わったのかがわからない。
読み返すと、こんなに複雑な話をどうやって考えたのだろうと思うが、それも今と同じように、書きながらどうにか辻褄を合わせようともがき続けた結果なのだ。だからいつまでも意味深な出来事が続く。意味が出来上がっていないのに、意味ありげなことを続けるのが犬飛子は得意だった。
常識で考えて、思いついてから話を書くべきだ。
青い話をどういったテーマにして書くのか、その素材、話の運び。それが無理ならせめて、物語の核の一端くらいは掴んでから書いた方がいい。そんなことは、でも、たぬきだってわかりそうなものだ。猫だってわかるだろう。ひょっとしたら人参にだってわかるかもしれない。
犬飛子だってわかっている。
わかっているからといって、出来るものではないから困っている。
犬飛子はシナリオの学校に通っていたことがあるのだが、それは十七歳で小説家としてデビューするはずだったのが、二十歳になってもデビューできなかったからで、この際、文を書いてお金を稼げるのならば媒体は問わない、と考えたからだった。小説よりもドラマの方をよく見ているのだから、シナリオの方がとっつきやすいだろうし、ひょっとしたら稼ぎやすいのでは、と考えたからでもある。
それに付随して、物語の構成についても勉強できるだろうと思ったのだ。確かに学校では、ドラマとはいかようなものか、人物の葛藤をいかに描くか、というようなことを教えてくれた。プロットの組み方や、企画書の書き方、あるいは書き続けるために必要な習慣など。
ところが今、犬飛子には覚えていることがひとつもない。
ほとんど、たったひとつも思い出せない。
教わってすぐのころには、その方法論でシナリオを書けていた気がする。そうしてプロットを作ってから小説を書けていた気がする。なぜ、どこでどうなって忘れてしまったのか、犬飛子には本当にまったくわからなかった。
かなり脳に問題がある。それはわかっている。それにしたって、ほんの少しくらいは残ってくれていてもいいものではないか。
方法論を忘れてしまっているだけで、血肉になっている、つまり意識しないでその方法を使えているのであれば問題はない。しかし現状、どうやって青い話をプロットに落とし込めばいいのか、とんとわからない。ということは、その方法論は血にも肉にもならずに、完全に忘れ去られたのだと判断するしかない。
当時は無頼を気取ってきたので、講義のノートも取っておらず、資料がないので振り返ることもできない。
けれど、ともかく、青い話を書かなければならない。
方法などなんでもいい。なんでもいいから、今、自分のできる最高の出来のものを書かなければいけない。
なぜなら、今や犬飛子は二十年間小説の新人賞に落ち続けている人間ではないからだ。
一ヶ月で書き上げなければならなかった青い話が二ヶ月を使っても書き上がらなかった、それどころか現状一文字も書けていないその間に、犬飛子は小説の新人賞を取った。
本が出る。
そして、その本よりも先に青い話の小説が発表される。
その事柄について、やはりまだ犬飛子はよくわかっていなかった。二十年、というのは長いような短いような、と言ってしまえば簡単だが、実際にはそのどちらでもなく二十年だった。その間、犬飛子にとってなすべきことは新人賞を取る、そのただひとつだったのだ。
小説家になりたかったわけではない。小さいころからの夢で、という話であれば少し洒落臭いが、いい話になるだろう。しかし、まったく夢ではないのでそうはならない。犬飛子の夢は大きな家を建ててたくさんの動物と一緒に暮らすことだ。そうでなければ、劇作家になること。後者は挫折した。
一方で、小説の新人賞を取らなくてはならない、というのはただの呪いであり、それ以外は正解ではない、というだけの人生の設定の話だ。不正解のまま生き続けるのは辛いから、正解を当てたいだけなのだ。
その呪いが新人賞を取って突然、祝福に変わった。
二十年の呪いが祝福に変わったとき、人にはどんなことが起きるのだろう。
犬飛子はそのことについても二十年考えて生きていた。毎日そのことについて夢想した。この、背中に大きな亀が乗っているような、亀を乗せたまま泥の中を歩いているような、また時間が経つごとにその亀が増えていくような、そんな生活に、そんな背中に、突然、羽が生える。すると、どんな景色が見えるのか。
その夢想だけが、重い亀に耐えるための術だったのだ。ともかく、明るい、軽い、晴れやかな世界が広がっているのだろう。すべてが変わり、すべてがよくなる。
実際には、羽が生えたまま青い話が思いつかないだけだった。
羽が生えているので、むろん気分はいい。しかし、羽が生えているから、人は羽が生えていると思う。けれど犬飛子はつい今しがたまで二十年間亀を背負っていたのだ。羽のことより亀のことに詳しいのだ。
でも、そんな事情を知っている人は少ない。羽が生えている人間の書く青い話とはどのようなものであるか、と考える人間が多いだろう。だから、できれば羽が生えた人間なりの青い話を書きたかった。
そうして、締め切り直前にして、書けていない。
とりあえず「もうこのこはね」が現状それに耐えうるような状態にないことだけは確かだ。それなのに、本当に時間がなかった。物理的に、やることが多すぎる。
犬飛子は新人賞を取るために生きてきたのに、新人賞を取ったあとのことを考えたことがなかった。受賞したときの言葉は毎日考えていたが、その他の一切の具体は思い描いたことがなかった。
どうやら出版社に挨拶に行く必要があるらしい。
犬飛子は自分がそのような社会的な出来事に耐えられる気が毛頭しなかった。その間に青い話を書き進める胆力があるとも思わなかった。それでもやるしかないのだ、と考えながら、出版社に向かった。向かう電車の中でも、新しい青い話は思いつかなかった。
まずは担当編集とお茶をして、そのあとにその他の受賞者と顔を合わせようということになっていた。出版社の一階のカフェがひどくお洒落だったので、犬飛子は目が回った。お茶というからなにか甘い美味しいものを食べるのだと思って、犬飛子はメニューにある美味しそうなシュークリームを頼んだ。都会では大きめのお皿にシュークリームがのっているのだ。犬飛子にとって、シュークリームは皿ではなく袋か何かに入っていて、手にとって食べるものなのに。
しかし、犬飛子がそのお洒落なシュークリームを指差したとき、担当編集はわずかばかり動揺した。それから、店員に向かってそっと手を上げた。
「できるかどうか、聞いてみますね」
どうやらカフェは今日は貸切で、夜にパーティの予約が入っているらしいのだ。
その時はじめて犬飛子は自分が間違えたことを知った。
大人にとってお茶という言葉は、お茶のことを指すのだ。少なくとも、はじめて顔を合わせる打ち合わせの時に、美味しそうなデザートは食べないのだ。店員に確認した担当編集が、柔らかく犬飛子に微笑んでくれる。
「できるみたいです。これでいいですか?」
今から断るのも変な気がして、犬飛子は皿にのったシュークリームを頼んだ。そうして、大きなお皿にのったシュークリームをナイフとフォークで食べながら、たくさんの人間と挨拶をした。みな丁寧に名刺を犬飛子に与えてくれる。犬飛子はそのたびにナイフとフォークを置いて、食べ物を食べていることを詫びて、名刺を受け取った。
出版社の人間は大人なので、勝手に甘い物を食べている犬飛子にも優しかった。何人かと挨拶を済まし、犬飛子がすっかりシュークリームを食べ終わったのを見て、担当編集がもう一人の大賞受賞者に挨拶をしに行こうといった。犬飛子は口の端にチョコレートが付いている気がして、何度もナプキンで口を拭ってから、挨拶に行った。シュークリームにはチョコレートがのっていたのだ。とても美味しいシュークリームだった。
もう一人の大賞受賞者はすぐそばのテーブルにいて、デザートは食べていなかった。うまく挨拶ができずにもぞもぞしている犬飛子に、その人は優しく微笑んでから、申し訳なさそうに言った。
「賞金、すみません」
それで犬飛子は一度気絶してしまった。
自分の本が出るならば賞金などはいらない、と言っていたのは実は嘘で、犬飛子は本当は賞金が欲しかった。とてもとても賞金が欲しかった。
二十年亀を背負い続けて、泥の中を歩いてこれたのは、その先に賞金という名の一筋の光があったからだ。だから賞を取った時に、百万円という言葉を連呼して喜んでしまっていた。それはとても嬉しかったから。そんな大金を手にしたことは犬飛子にはなかったし、仮にあったとしても、自分の功績で手に入れたものではなかったはずだ。
賞金。この甘美な響き。
百万円。なんと素晴らしい現物。
でも本当は、誰かが言っていたのだ。
大賞が二人いるけど賞金は本当に百万円なのか、と。
犬飛子はその人の言っていることの意味がわからなかった。大賞賞金百万円と書いてあるのだから、百万円だろうと思っていた。急いで応募要項を見返したが、やっぱり大賞賞金は百万円と書いてあった。だから百万円だろうと思って、たくさんの人に百万円だと言って喜び回っていた。
「大変申し上げにくいのですが」
と、担当編集から連絡が来たとき、やはり犬飛子は気絶した。
大賞が二人いる場合は賞金は折半だという。その事実はもちろん犬飛子を気絶させるのに十分であったが、そんな言い難いことをわざわざ担当編集に言わせてしまった自分が恥ずかしかった。あまりに恥ずかしいので、しばらく気絶したままでいたかった。けれど、そういうわけにもいかなかった。
意識がはっきりしてくると、怒りとも悲しみとも申し訳なさとも恥ずかしさともつかない、そのどれにも似ているし、どれでもない、ともかく何かとてつもない現実感が犬飛子を襲った。それはおそらく、大賞賞金が百万円だと思っていたのが実はそうではなく、且つそのことについて大騒ぎしている人間にしか訪れない感慨であるのに違いなかった。
そうしてそのとき——もう一人の大賞受賞者が、申し訳なさそうに賞金について謝罪をしてきたとき——犬飛子は再び気絶の感慨に襲われたのであった。まったく悪くないのに謝らせてしまった。その人だって賞金が半分になっているというのに。なんて大人なのだろう。
犬飛子は、もう元気になったと言いながら、朝、目を覚ましたときに「百万円じゃなかった」と呟いてほとんど泣いているように起きあがったり、大賞がない年があったのだから、キャリーオーバーして自分たちにも百万円をくれと、偉い人に土下座して誠意を見せようかと考えたりしていたのだ。
だから少し後退りして「いえ!」と大きく言うより他なかった。
大人の友人がいうには、予算は百万しかとっていないのだから、大賞が二人いればそれが折半になるのは当たり前、ということだった。調べたら他の賞も賞金は折半しているらしい。それなのにいつまでも騒いでいる自分が恥ずかしかった。それよりも、こんな風なことを口にしてたり、書いたりして、面倒な人間だと思われることが恐ろしかった。
気絶していたので、犬飛子はあまりその後のことを覚えていない。
もう一人優秀賞の方が来て、三人で大きな会議室のような場所に待機した。そのあと、たくさんの大人たちに会った。みんな名刺を渡してくれるので、へらへら笑いながら手汗で濡れないように注意してもらった。
ふと横を見ると、優秀賞の人が名刺をテーブルの上に七並べのように綺麗に並べているのが見えたので、犬飛子も急いで真似をした。大賞の人もそういう風に並べていたので、大人はこういう風にして名刺を並べるのだということがわかった。犬飛子が明確に覚えているのはそれしかなかった。
青い話はもちろん思いつかなかった。
出版社から帰る電車の中で、いよいよ時間がないことに犬飛子は気がついた。もう今から新しい話を書くのは物理的に不可能なような気がした。担当編集に会ってはじめて知ったが、本ができるまでには改稿作業というものがあるらしい。そして、犬飛子には直すところがたくさんありそうだった。誤字も多かった。誤用も多いだろう。
でも、その作業をする前に、なんとしてでも青い話を書き終わらなくてはならない。それも中途半端なものではなく、ものすごい傑作を。
締め切りに間に合わせるには、今あるものを直して青い話に書き直すしかない。犬飛子は家に帰って、フォルダを見返した。公募に落ちた小説は全部そのままWEBにあげているので、ほとんど何も残っていない。唯一使えそうなのは、塹壕に庭園を作って自殺してしまった軍人の話だった。これでいくしかない。これにどうにか青を入れ込んで、形にするしかない。
犬飛子は覚悟を決めた。
しかし、三日後に館林に遊びに行かなくてはならなかった。
館林は犬飛子の住んでいる町から三時間電車を乗り継いていくのだ。パソコンを持っていこうとも思ったが、犬飛子の持っているパソコンは大きいので、リュックに入れたらそれだけでリュックがおしまいになってしまう。なにか、もっと軽くて旅行につれていきやすい物書き道具があればいいのに。
それで家電量販店を試しに覗いただけなのに、iPadを買ってしまった。
犬飛子はどこかの店に入ると販売員に捕まって、物を買ってしまうように出来ているのだ。だから、極力インターネットで物を買うようにしている。それなのに、時間がなくて正しい判断ができなかった。
いいものを買った、と犬飛子は思い込むことにした。
iPadなど一度も触ったことがないし、スマホとも互換性がないけれど、ともかくこれはいい買い物だったのだ。なぜって、これを使って館林に行くまでの往復六時間、青い話を書くことができるのだから。
そうしてグリーン車に乗って、犬飛子は「もうこのこはね」の続きを書いた。
なぜなのだろう。
おそらく、先述した塹壕庭園の軍人の話は長すぎて、人間が出てきすぎて、なによりも青を差し込む隙間が少しもなかったからだと思われる。それで、もう一万字も書いているのだからと「もうこのこはね」を引っ張り出してきたのだ。蒙古斑さえうまく登場させられれば、それだけで完成させられる。間に合うには、もうそれしかない。
グリーン車は寒かった。
寒いので、寒いということしか犬飛子には考えられなかった。もちろん、蒙古斑のことは思いつかなかった。作中の二人は、夏の山の中に入って、カブトムシを捕まえようとして、クワガタしかいないので、少し残念がっていた。そんなことはどうでもいい。
館林について、昔近所に住んでいた二個下の幼馴染みと遊んだ。遊んでいる間は、当然、青い話は思いつかなかった。けれど、ホテルまで散歩がてら歩いていけば、何か浮かぶという確信が犬飛子にはあった。だから少し遠いコンビニで降ろしてもらった。
ゲリラ豪雨にあった。
犬飛子はそれまでゲリラ豪雨に遭遇したことがなかった。話に聞いたことはあったが、実感を持ってその話を聞いたことがなかった。なぜなら、ゲリラ豪雨に遭遇したことがなかったからだ。人間は知らないことを知っているようには知ることができない。
コンビニでご飯を買っているときには、確かに雨は降っていなかったのだ。それなのに、外に出て、ほんの数十秒で雨が降り、そのまま豪雨になった。豪雨というのは、ほとんど雨ではない。豪雨というのは、滝である。
道路の端がちょっとした川になっている。犬飛子は持ってきた小さな折り畳み傘が何も守っていないことを感じた。風が下から吹いている。雨が下からやってくる。川の中を歩いている。今、外を歩いている人間は一人もいない。そもそも、滝の中にいるので視界が十五センチくらいしかないから人間がいてもわからない。
犬飛子はiPadだけは守らなければならないと、体を折り曲げてリュックを抱えて歩いた。前もスマホも見えないのでホテルまでの道を間違えた。そうしてホテルの前についたとき、雨足は弱まり、少し晴れているようにさえ見え、歩くたびに靴から水が漏れる犬飛子を照らしているように思えた。
一体、大人がこんなに濡れているのを見たことのある人間がいるのだろうか。
犬飛子はホテルの前で、なんとかTシャツの水を極限までしぼった。それで少しはましになったような気がしたが、なにをしても靴からは歩くたびに中敷きから新しい水が湧き出てきて、どうにもならなかった。ホテルの入り口の玄関マットで足を踏みつけて何度か水を排出したが、フロントの人が怪訝そうな顔をしているので中に入った。
歩くたびに靴から水が出ている。
フロントの人はなぜ雨宿りをしないで、この豪雨の中、ホテルまで歩いてきたのだろうという顔をしながら、犬飛子にバスタオルを渡した。犬飛子は顔を拭きながら、歩くたびに靴から水が出ることを詫び、逃げるようにして部屋に入った。
心底体が冷えていたので、すぐにお風呂に入った。加減がわからず熱すぎるお湯加減だったが、それがとても心地よく、清潔なベッドに寝転んで、このまま眠ったらどんなに幸福だろうと思った。
けれど、青い話が出来上がっていない。
なにかこのゲリラ豪雨に着想を得て、素晴らしい話を思いつきやしないだろうか、と考えながら、すべてのものが濡れているのを確認した。明日も遊ぶ予定があるのに、犬飛子はジーンズを今履いている一本しか持っていなかった。
乾燥機がフロントの横にあったのを見たが、ズボンを乾燥機にかけに行くためのズボンがない。だから犬飛子はドライヤーをかけた。インターネットで検索をしたら、ズボンをバスタオルでぐるぐる巻きにして脱水をしてから乾かすといいと書いてあったので、そのようにした。
ホテルのドライヤーは優しい。
まるで風が吹いていないみたいだ、と犬飛子は思った。本当にこれで乾くのだろうか、とも思った。でも、インターネットが言っているから、とも思って、永遠に似た時間、ドライヤーを当て続けた。
乾かなかった。
無駄な時間を過ごしてしまったことに焦って、犬飛子はフロントに行った。
フロントは夜の人間に変わっている。乾燥機に行くためのズボンがないからズボンを貸してくれないだろうか、と思い切って犬飛子は言った。すると、フロントの人は何を言っているのかわからない、というような顔をして、犬飛子の履いているズボンを見た。
このズボンを乾燥したいのだ、だけどこのズボンを乾燥させにいくためのズボンがないのだ、となんとか伝えようとしたが、犬飛子は口語で人に何かを伝える能力が著しく低かった。なにも伝わらなかった。フロントの人は、困惑した表情で、洋服屋は近くにはないというようなことを言った。
犬飛子は悲しくなって濡れたままの重いズボンを引きずって部屋に戻った。
こんなことをしている場合ではないのだ。こんな問題はさっさと解決して、青い話を書かなければならない。そのためには、恥などは捨てなければいけない。
犬飛子はベッドに置いてあった、膝下くらいまでしかない分厚い白衣のようなホテルの備え付けの衣服を着た。そうして、すべての濡れているものたちを袋に詰め、そのまま部屋をでた。部屋を出る前に姿鏡で確認したが、とても部屋の外に出ていいような格好ではなかった。
けれど、犬飛子にはもう時間がないのだ。
一階まで降りると、どうやっても乾燥機に行くまでにはフロントの前を通らなくてはいけなかった。犬飛子は体が大きいので、できるだけ見られる面積を減らそうと前かがみになって、乾燥機まで走った。走りながら思った。
どうして、賞を取ったのに、本が出るのに、たくさん大人になったのに、いつまでもこんな馬鹿みたいな生活をしなくてはいけないのだろう!
乾燥機の前に台が置いてあって、全然使う必要なんてないのに、そこに登ってしまったことが恥ずかしくて、犬飛子はすぐその台から降りた。
降りながら考えた。
自分の生活を話にすれば、それだけですぐに青い、未熟な、どうしようもない人間の話ができあがるのに。
濡れたものをすべて乾燥機に入れてしまうと、荷物がないので、余計に犬飛子は意味のわからない存在になった。こんな格好で、何も持たずに、フロントの前を走っていいわけはない。
でも走った。
走って部屋に帰って、iPadを広げて、青い話を書こうとした。もうこのこはねと、塹壕庭園の話と、新しい話とをぐるぐるしながら、何時間か、書こうとした。当然、何も思いついていないので、何も書けずに、眠いので眠って、夢の中でも書けずに、夜中に、あっ、といって起き上がって、夢だった、と思ったけれどそれは夢ではなく、朝起きてもやはり、青い話は書けていなかった。
ベッドから起き上がる。
乾燥機で服は乾いたが、靴はまだ濡れたままだった。仕方がないのでぐちょぐちょの靴を履いて出かけた。さすがに風邪を引きそうだったので、二個下の幼馴染みにショッピングモールに連れて行ってもらい、靴屋で靴を買った。足が濡れている引け目があって、試着をしないで買ったから、その靴はありえないほどに大きかった。
見てみると、なぜか、いつもより一センチ大きい靴を買っていた。でももう、濡れた靴下でその靴を履いてしまっているので、交換することもできない。
歩くたびに、靴が脱げる。
どうして、なぜ。
新人賞を取ったのに、なぜ犬飛子の生活はこんなにも未熟で、青いままなのだろう。
幼馴染みと別れて、グリーン車に乗って、iPadを開いた。もはや、こうするしかないのだ。時間がない。技術もない。ならば、自らを切り売りするしかない。
犬飛子は新しいページを開いて、新しい小説を書き始めた。
それはこんな風にして始まるのだ。
†
青い話がまったく思いつかない。
〈了〉
著者プロフィール/掲載時コメント
犬怪寅日子(いぬかい・とらひこ)
いぬかいとらひこです。読みにくくてごめんね。COMIC MeDuにて原作を担当した『ガールズ・アット・ジ・エッジ』のコミカライズ連載中。主にカクヨムで小説とエッセイ、noteに写真日記をあげています。第12回ハヤカワSFコンテストで大賞受賞しました。一月に単行本が出る予定です。この世の全員に買って欲しいと思っています。
頑張って小説を書きました。たまたま偶然先日第12回ハヤカワSFコンテストの大賞を頂き、出版社や館林に行った形跡があるのでノンフィクションと思われるかもしれませんがフィクションです。私には蒙古斑がないので。いつまでも小説の書き方がわからず書く前には必ず【小説 書き方】で調べています。これからもそのようにして頑張って小説を書きたいと思います。単行本が出たらぜひ読んでください。必要なら土下座してもいいです。
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