受け入れると選択肢が広がる
ずーっと、自分の適正とか資質とかから逃げ回っていた。
私は基本的にガッチガッチの理系脳で、もう、Evidence&Reference(証拠とか根拠とか)が命だった。
それがないと色々と受け入れられないことが多かった。
というか受け入れたくなかった。
感覚的なことは、その人にしかわからないし定量的ではないので他人には分かりづらいし同じように解釈されるとは限らないからだ。
だけど、友人や知人に向いているとか上手だと言われ続けたことは、私がもっとも苦手とする「感覚的なもの」だった。
どうして、「感覚的なもの」が苦手なのか?
苦手?
いや、苦手なんかじゃない、否定していたのだ。
理由は今思えば簡単で、私の育った環境は論理的じゃないと生きづらかったから。
だから、いわゆる日本語でいうところののスピリチュアル的なものを否定はしないけれどずっと避けてきたところがある。
『日本語で…』と言ったのには訳があって、私の中で英語と日本語で解釈するスピリチュアルが違うから。
子供の頃の「どうして?」は多岐にわたる、大人が論理的に答えられることもあれば、全くもって答えが思いつかないものもある。
友人や知人に言われた私の得意とするところ。それは私が望んだものなのかどうかわからないけれど、結局、全部は子供の頃からの「どうして?」の積み重ねだった。
その「どうして?」を受け入れてもらえなくて、生きづらかった子供時代。
もちろん受け入れる方法も知らなかった。受け入れてもいいということさえしらなかった。
大人になってその「どうして?」を受け入れたら人生が楽になったし、選択肢が広がった。
そんな私だからこその得意を友人達は見つけてくれたのかもしれない。