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ラジオDJへの憧憬

大SNS時代。
情報や言葉をアウトプットすることが安易になった昨今。
だからが故に共に考えないといけない、開示請求を伴う誹謗中傷、画面の向こう側にいる人を考えない野生的な言葉の暴力。
吐き出すことが簡単になっても、言葉の重みは昔から変わらない。
なんなら今の方がかなり慎重に発信しなければならなくなったと思う。
学生時代、持ち運ぶことを強いられた国語辞典の重みを、もう忘れてしまっているのでしょうか。

言葉を紡ぐという行為はもっと楽しく、いい刺激がされるものであって欲しいと心から願ってはいますが、自分自身の言葉の振る舞いも改めて気にかける必要があるな、と書きながら思いました。

憧れ

そんな私ですが、高校生くらいからふんわりずっと憧れているものがあります。
ラジオやりたいな、と思う気持ち。
この気持ちは、思い始めてからの年齢に二乗されつつある今時分でも変わりありません。
なんなら、30分程度一人で喋り続けている擬似ラジオが携帯のボイスメモには#70を超える。

リリースすればいいじゃん!と思われるかもしれないけど、できない事情がありそれは、BGMを乗せてしまっているというところ。
ラジオといえばOPが流れて、頭は軽いトークをし番組名コールして、ジングルに入る。
ぼっちでセオリーにこだわって、無断で使用している音楽なんて当たり前に使えない、権利的に無理だから個人で楽しむに落ち着いてしまっている。
しかも丁寧に”ラジオ”と書いたプレイリストがあり、毎度お決まりの流れを作ってる。
その曲が流れたら一人で喋り始めなきゃと思うほどに。完全にパブロフ。

また、ラジオには”3秒無音で放送事故”というボーダーがあったりで、素人の一人喋りではなかなか厳しいものがあるため、ある程度自分がアウトプットするのに時間がかかっても、無音状態にはしないという考えが働いている、のかもしれない。
そして、使用してはならない言葉の表現も、知らないだけできっと相当な数があるはず。
知らずに「素人だから許してね」ではすまされないのも事実。
公共へ肉声を届けるというのは、強い責任を伴う。自己満足だけではいけない。

そうやって、うだうだ考えて中途半端にやるだけやって世の中に見える形に何もしていない。
時期尚早という言葉があるけれど、始めるのは早い方がいいこともある。
分かってはいるけど、自分にいっぱい言い訳して結局実態がない。
早く行動すればいいのにね〜。

アウトプットの楽しさ

言い訳しながら何もしていないけれど、やっぱり言葉をアウトプットするのはとても楽しい。
仲良い人とのテンポのいい会話や、文章にして頭を整理しながらももちろん楽しい。
じゃなきゃこうやってここに文字は並ばない。
さらに、文章のいいところは使ってる文字は一緒なのに、言い回しだったり単語のチョイスで、こんなに個性が出るのはシンプルに凄すぎる。

適切な言い回しが思い浮かばなさすぎて、凄みに対してシンプル凄いしか出なかった。
なんか変に奇跡とかいうと軽く聞こえるし、世紀の大発見は違いすぎるし。
語彙力なく見えそうだけどやっぱすげぇしか出なかった。すげぇはすげぇのままで多分いいんだろうね。

アウトプットする方法

少し脱線してしまいました。
さて、言葉をアウトプットする方法として、文字と喋りあるなかでなぜ喋りを選択するのか考えてみると、言葉遣いや表現は最大限気を使うのはもちろんだけど、スピードが要求される中で一番ストレートな言葉が自分から出ていると感じるからだと思う。
文章はいくら自分から生まれてると言っても、読みやすさだったり、こういう言い回ししてやろう、とかやっぱりちょっと自我が出てくる。
しかもリアルタイムじゃないから時間をかけて何度も読み返して修正がきく。
修正する際もどこに句読点入れるかで間を考えたり、伝わって欲しいパンチラインをどうしたら前へ出せるかなど、演出されてしまってる感否めない。

喋りはいくら事前に”こんなセリフ使ってみたい”を持っていても、なかなか使用場面が訪れない。
こと会話においては、自分から話題を振って無理やり展開を作らなければならない。
相手とのラリーがどんな風に続くかによって、言いたかったフレーズから遠のくこともしばしば。
しかも厄介なのが、お互い事柄への解像度がある程度同じでないと成り立たない。
あんな話したかったな、あの返し多分間違ってたかも、一部噛み合ってないとことあったけどもしかしてお互い認識違い?とか、色々思い返すことも時たまありますよね?

究極の遊び

その点一人喋りは、自らネットで見た情報だったり、日常の中で個人的に絶対アウトプットしておきたいけど、今適切に話せる人がいないという時にかなり効いてくる。
一人喋りが自分の中で当たり前に存在し始めると、人と話せない時間があっても「まぁ後でお酒飲みながら勝手に喋るか」となんとなく消化できてしまう。
究極のひとり遊びだと思う。
ずっと一人で壁打ちしながら時間を進めるため、話している最中でも頭が常に回転して、今の流れでこういう風に展開しよう、と考え続けている。それがかなり楽しい。
当たり前に存在しているから、普段からネタをなんとなく探し続けてる。
メモ欄には会話デッキというか、人と面白おかしく会話してもいいけど、一人でも十分成立できるトピックが箇条書きされている。ラジオ番組持ってるわけでもないのに、話したいことが多すぎて自分でも異常だと感じる。なんでこんなにもおしゃべり好きなんだ、と。
しかも、冒頭の方で記載している通り、全編ボイスメモにて録音しており、録った直後と翌日、忘れた頃に再度聞き直すことが当たり前にある。
録った直後と翌日に関しては、話の流れを覚えてるが故に「ここからの流れ面白かったんだよなー」とか思いながら聞き返してる。狂人に思われても仕方ない。

日記の存在

たまたま一人喋りが自分に向いていただけで、世の中みると日記だったり備忘録を紙に書き留める人も沢山いる。そのために今日のよかった点や、なんとなくモヤモヤしたことなどを覚えておいたり、気分の上がる文房具を揃えるような部分が違っただけで。手で書くより私は喋りで残しておきたかった。リアルタイムで頭捻りながら、トーンや間、ニュアンスをダイレクトに伝えられる”声”というものに魅力を感じている、ただそれだけな気がする。

タイトル回収

ただそれだけなはずだけど、時折頭によぎる「過去の自分が話してる内容にクスクスできるのは才能では…?」と。
わずかな己への期待は、本職への憧れを抱くに十分な要素が揃ってた。
一度結構悩んだものがあり、それはふるさと納税の返礼品としてラジオの枠がもらえるというもの。
かなり悩んだ、お金出せばやりたいことができる。
でも色々考えた先には、「いや、ここふるさとでもなんでもない」とか、そんなに納税したら普通にオーバーしてるとか、根拠のない理屈から現実的な部分で結局行動せず終わった。
終わったということは、きっとそれまでなのだと思う。
でも、この憧れはそのまま取っておこうと思う。
憧れてる間はその仕事に対してポジティブな印象だけを持ったまま生きていけそうな気がするから。
今後も話したい言葉、書き綴りたい言葉を常に考えながら生きる楽しみとします。
そしてこれからは、趣味を聞かれた際究極のひとり遊びとして”喋り”です、と答える人生を歩みます。


5年も更新が開くと文体がすっかり変わってしまっていた私でした。

お疲れ様でした。

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