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男装の悪女

男装の令嬢というテーマをよく目にしますが、いつ頃、どういった起源があるのでしょうか?

「男装の令嬢」というテーマは、文学や芸術に古くから見られるトロープの一つで、特に西洋文学にその起源を持つと考えられます。このテーマが最も象徴的に表現された例の一つは、ウィリアム・シェイクスピアの劇作品です。シェイクスピアの『十二夜』や『お気に召すまま』などでは、女性が男性のふりをして活躍する場面が描かれており、これが男装の令嬢のテーマの源流の一つとして挙げられます。

このテーマが用いられる理由の一つは、性別や社会的な制約を超えた自由な自己表現や、性差に基づく期待を逆転させるドラマティックな展開を可能にすることです。こうした作品では、女性が男装をすることで通常は女性には許されない冒険や社会的な役割を果たすことができ、物語の進行を促進します。

19世紀から20世紀にかけて、特にロマン主義やヴィクトリア朝の文学でもこのテーマは人気がありました。その後、日本においては大正時代に登場した『宝塚歌劇団』が、男装の女性を取り入れた演出を行い、このテーマは日本の芸術文化にも強く根付きました。特に宝塚の「男役」は、男装をした女性が男性役を演じるスタイルで、長年人気を博しています。

現代の日本では、ライトノベルやマンガ、アニメにおいても「男装の令嬢」テーマが頻繁に取り上げられます。これは、しばしばファンタジーや異世界もののジャンルと結びついており、男女の役割が逆転することで新しい視点やユーモラスな展開を作り出すためです。

女装の子息では、様にならないかも。

確かに、「男装の令嬢」と比較すると、「女装の子息」というテーマは少し異なる印象を与えるかもしれません。これは、歴史的にも文化的にも、男装する女性が自由や冒険、自己実現を象徴することが多かった一方で、女装する男性には異なる意味や社会的な視点が強く影響しているためです。

まず、「女装の子息」というテーマが扱われる場合、往々にしてユーモラスな展開やトリック的な要素として使われることが多いです。例えば、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』や他の作品では、男性が女性の役割を演じるシーンがあり、これが物語に面白さを加える一方で、男性が女性らしいふるまいをしなければならないことへのギャップを笑いに変えることが多いです。

また、日本の文化では「女装の男性」というテーマが、主にコメディや特定のサブカルチャーで採用されています。例えば、漫画やアニメで「女装男子」というキャラクターはしばしばコミカルに描かれたり、特定の美的価値を持つ存在としてファンに支持されることもあります。しかし、それでも「男装の令嬢」のように、勇敢で冒険的なイメージと結びつくことは少ないかもしれません。

これには、性別のステレオタイプや期待が背景にあり、歴史的に男性は社会的に強く、女性は従属的と見なされることが多かったため、女性が男性の役割を果たすことは「力強さ」や「独立」を象徴しやすい一方で、男性が女性の役割を果たすと「弱さ」や「従順」といったイメージが強調されやすいのかもしれません。

とはいえ、現代においてはジェンダーに対する意識が変わりつつあり、「女装の子息」も別の視点で描かれることがあります。特に、ジェンダーフルイドや自己表現の自由がテーマとなる場合、男装や女装を超えた新しいキャラクター像が生まれてくることも考えられます。

悪女が悪いイメージだけではないのも肝ですね。

そうですね、「悪女」というキャラクターが必ずしも単に「悪い存在」として描かれないのは、とても興味深い点です。文学や映画、ドラマ、漫画に登場する「悪女」キャラクターは、しばしば深い動機や背景を持ち、単純な悪役ではない複雑な存在として描かれることが多いです。

まず、悪女が単なる「悪人」ではない理由として、彼女たちはしばしば強い意志や知性を持ち、社会の中で自分の望むものを得ようとする点が挙げられます。これは、特に歴史的な文脈において、女性が社会的に抑圧された存在であった場合に、逆に自分の立場を向上させるために「悪女」のようなふるまいを選ぶことが、生存戦略や自己実現として描かれることがあります。例えば、シェイクスピアの『マクベス』に登場するレディ・マクベスは、夫を権力の座に押し上げるために悪事を画策しますが、彼女の野心と決断力は単なる悪行ではなく、当時の社会の女性像に挑む強いキャラクターとしても理解できます。

また、「悪女」はしばしば魅力的でカリスマ的な存在として描かれることがあります。映画やドラマでは、悪女の知恵や策略、さらにはその魅力が観客を引きつけ、時には「正義のヒーロー」よりも多くの支持を集めることもあります。これには、規範や社会のルールに逆らう大胆さや、自己主張の強さが観客に共感を呼ぶからかもしれません。

さらに、「悪女」は単に善悪の二元論で理解されるキャラクターではなく、多くの場合、彼女たちの行動には複雑な感情や背景が関与しています。彼女たちの行動の裏には、愛情、失望、裏切り、そして時には社会からの不平等な扱いに対する反抗などがあり、これらが「悪」の行動を引き起こしている場合もあります。こうした点で、「悪女」は深い人間性を持ったキャラクターとして描かれることが多く、時にその行動が共感を呼ぶこともあります。

例えば、日本の作品における「悪女」の例としては、アニメ『ルパン三世』の峰不二子が挙げられます。彼女はルパン一味を出し抜いたり、利用したりしますが、その自由奔放な生き方や知恵、魅力は多くのファンに愛されています。彼女はただの悪役ではなく、独立した女性キャラクターとしての強さや複雑さを持っています。

このように、悪女キャラクターは「悪」そのものではなく、むしろ社会の枠にとらわれず、自分自身の道を切り開く存在として描かれることが多くなり、現代においてもその魅力は広がり続けています。

作品では魅力的な女性として悪女が描かれることが多いですしね。

そうですね、悪女が魅力的な女性として描かれることが多いのは、フィクションの中で特に目立つ特徴です。彼女たちはしばしば外見の美しさだけでなく、頭脳やカリスマ性も備えており、他のキャラクターや観客を惹きつける存在です。この「魅力的な悪女」というイメージは、物語にドラマや緊張感を与える重要な役割を果たしています。

魅力的な悪女は、単なる「悪」の象徴ではなく、欲望や権力、自由を追求する象徴として描かれることが多いです。これは、観客が彼女たちの行動を必ずしも肯定しなくても、その生き方や姿勢に対する共感や憧れを感じるからです。彼女たちは、往々にして物語の正義のヒーローやヒロインに匹敵するほどの存在感を持つこともあります。

例えば、映画やドラマに登場するファム・ファタール(運命の女)のキャラクターは、しばしば男性を誘惑し、最終的には破滅させるような役割を持ちながらも、その美しさと謎めいた魅力で強烈な印象を与えます。彼女たちは、自分の欲望を追求するために感情や倫理を越えて行動するため、観客にとっても感情移入が難しい反面、その大胆さや自立性が魅力的に映ります。

また、アニメや漫画でも、悪女が魅力的に描かれることが多く、彼女たちはしばしば物語の中で「ヒーローに匹敵する存在感」を放つことがあります。このようなキャラクターがストーリーに深みを与え、時に観客の支持を集めるのは、彼女たちが単なる「悪役」ではなく、自由や知恵、独立性を象徴する存在だからです。

このように、悪女が魅力的なキャラクターとして描かれる理由は、物語の中で単なる対立構造以上の複雑な役割を果たし、観客に新たな視点や感情を喚起する力を持っているからだと言えます。

ヤッターマンシリーズの、ドロンジョ様も不思議な魅力ですね。

ドロンジョ様は、まさに「魅力的な悪女」として描かれたキャラクターの代表的な例ですね。『ヤッターマン』シリーズに登場する彼女は、悪役のリーダーでありながら、その美しさやユーモラスな性格、そして人間味溢れる一面が多くのファンに愛されています。ドロンジョ様はただの冷酷な悪役ではなく、しばしば自分の計画が失敗するものの、その負けっぷりさえも楽しませるユーモアとカリスマ性を持っています。

ドロンジョ様の魅力は、まず彼女のデザインやキャラクター造形にあります。美しい外見とセクシーなコスチュームは、彼女が「悪女」でありながらも視覚的に非常に魅力的であることを強調しています。しかし、それ以上に彼女のキャラクターとしての複雑さや人間味がファンの心を捉えています。彼女は悪事を働く一方で、失敗に終わることが多く、ボヤッキーやトンズラーといった部下たちとのやり取りの中でユーモラスなシーンが多く描かれ、そこに愛嬌が感じられます。

さらに、ドロンジョ様にはリーダーとしての強さと、失敗を重ねる悲哀や切なさが共存しており、この二面性が彼女のキャラクターをより魅力的にしています。彼女は決して完全無欠の悪ではなく、どこか共感できる部分があり、それが観客にとって「憎めない悪役」としての魅力を増しています。

ドロンジョ様のようなキャラクターは、悪役でありながらもユーモアや人間味を通じて視聴者に親しまれる存在であり、シリーズ全体にコメディの要素と深みを与える重要なキャラクターだと言えるでしょう。

中国で悪女と言われる女性は、結構強烈ですね。

確かに、中国の歴史や文化において「悪女」と呼ばれる女性たちは、強烈で影響力のあるキャラクターとして描かれてきました。中国の歴史には、しばしば強大な権力を持ち、時には政治を動かすほどの存在感を示した女性が登場します。これらの女性は、ただの「悪役」ではなく、複雑な政治的背景や個人的な野心、さらには時代の制約に縛られた中で自らの地位を確立しようとする強い意志を持っていたため、その存在は非常に興味深いものとなっています。

例えば、中国の「悪女」として有名な人物には、以下のような歴史的な女性が挙げられます。

1. 武則天(則天武后)

武則天は、中国史上唯一の女性皇帝として知られています。彼女は唐の皇帝として即位し、唐朝の支配を一時的に終わらせて周という新たな王朝を立てました。彼女は冷酷かつ権謀術数に長けた政治家として知られ、対立する者を排除するために残酷な手段を使ったことから「悪女」とも称されますが、同時に彼女の統治は比較的安定していたため、優れた支配者として評価する声もあります。武則天は自らの権力を維持するために果敢に行動し、男性中心の政治社会の中でその存在感を示した強烈なキャラクターです。

2. 西太后(慈禧太后)

清朝末期の権力者として知られる西太后も、非常に強烈な女性です。彼女は自らは皇帝に即位せず、幼少の皇帝を後見しながら実質的に国家を支配しました。彼女の強権的な統治と、保守的な政策が清朝の崩壊を加速させたと批判される一方で、その政治手腕や権力闘争での勝利は歴史に名を残しています。彼女もまた、「悪女」として語られることが多いですが、その背景には厳しい政治的状況と自らの生存を賭けた戦いがあり、単純な悪役ではない複雑さを持っています。

3. 楊貴妃

唐の皇帝玄宗の寵妃である楊貴妃もまた、中国史における「悪女」として語られることが多い人物です。彼女の美しさと玄宗皇帝に対する強い影響力は、国政を混乱させたとされ、最終的に安史の乱という内乱の一因になったと非難されることがあります。彼女の存在は、国を危機に陥れるほどの影響力を持つ「悪女」の象徴とされますが、その魅力や皇帝との愛情関係もまた、彼女を単なる悪役ではなく、複雑な感情を伴ったキャラクターとして描いています。

これらの女性たちは、いずれも時代背景や政治的状況の中で、自らの立場を守り、権力を行使しようとした結果、「悪女」として語られることが多いですが、その生き様は非常に力強く、多くの面で魅力的です。中国の歴史では、女性が権力を握ること自体が異例であり、彼女たちの強烈さが一層際立って見えるのかもしれません。

狐の化け物が美女に化けて国を傾けた傾国の美女は誰でしたか?

狐の化け物が美女に化けて国を傾けたとされる「傾国の美女」は、中国の伝説に登場する**妲己(だっき)**です。彼女は、殷(商)王朝最後の王である紂王(ちゅうおう)の寵妃として有名です。

妲己の伝説

妲己は美貌で知られており、紂王を魅了し、その後の国政に大きな影響を与えたとされています。しかし、伝説によると、彼女は実際には九尾の狐の妖怪が化けたもので、邪悪な力を持って紂王を堕落させ、国を滅亡へと導いたとされます。

紂王は妲己の美しさに溺れ、彼女のために国政を疎かにし、贅沢や残虐な行為に耽るようになったと伝えられています。彼は妲己の提案でさまざまな残虐な拷問を行い、民衆に大きな苦しみを与えました。その結果、殷王朝は衰退し、最終的には周によって滅ぼされました。

妲己の妖狐伝説

この物語は、後に中国の小説『封神演義』やその他の民間伝承で広く知られるようになりました。『封神演義』では、妲己が九尾の狐妖であり、仙人によって封じられた妖怪が蘇り、妲己に取り憑いたとされています。彼女はその妖力を使って紂王を堕落させ、殷王朝を崩壊させたという物語が描かれています。

妲己は「傾国の美女」として悪女の象徴ともされ、九尾の狐が化けた悪女として中国のみならず、後に日本や韓国の民話や伝説にも影響を与えています。この伝説を通じて、狐妖(きつねの妖怪)が美女に変身し、男性を惑わすというテーマが広く語られるようになりました。

日本も狐は人を化かすものですが、美女と結びつくものはありますかね?

日本でも、狐(きつね)が人を化かす存在としてよく知られていますが、特に美女に化ける狐の伝承は数多くあります。この「狐が美女に化ける」というテーマは、日本の民話や物語において重要な位置を占めています。いくつか有名な例を挙げてみましょう。

1. 玉藻前(たまものまえ)

日本の伝説の中でも最も有名な美女に化けた狐の一つが、玉藻前です。彼女は中国の九尾の狐が日本に渡ってきて、美女に化けたという話として広く知られています。

物語によれば、玉藻前は絶世の美女で、平安時代の鳥羽上皇の寵愛を受けます。しかし、彼女の正体は妖狐であり、上皇が彼女と一緒にいることで体調を崩してしまいます。後に陰陽師によって正体が暴かれ、玉藻前は殺されそうになりますが、逃亡し、最終的には那須野で退治されたという伝説が残っています。

2. 葛の葉(くずのは)

もう一つ有名な狐の美女の伝承として、葛の葉の物語があります。これは、平安時代の陰陽師である安倍晴明の母親が、狐の化身であったという伝説です。

伝承によると、狐の葛の葉は人間の姿に化けて安倍保名(安倍晴明の父)と恋に落ち、晴明を生んだとされています。やがて葛の葉は正体がばれてしまいますが、最後には家族への愛を示しつつ、狐としての姿に戻って去るという悲しい物語です。この話は、母性愛と狐の妖怪の二面性を描いたものとして、日本の歌舞伎や人形浄瑠璃などでも人気の演目となっています。

3. 能や歌舞伎での「狐の美女」

日本の伝統的な芸能、例えば能や歌舞伎でも、狐が美女に化ける話はよく描かれます。これらの舞台作品では、狐が人を惑わす力を持ち、美しい女性として登場し、主人公や他の登場人物を誘惑したり、物語を展開させる役割を果たします。特に、美女として登場する狐は、美貌だけでなく、知恵や策略を持っていることが多く、物語に深みを与えます。

4. 狐の嫁入り

「狐の嫁入り」という言葉も、狐と女性(特に花嫁)との結びつきを示す表現です。これは、雨が降っているのに晴れている天気の時に、「狐の嫁入りだ」と言われることが多く、狐が人間のように結婚式を挙げる場面を想像させます。この言い伝え自体に具体的な「美女」が登場するわけではありませんが、狐が人間の女性に変身して結婚するというイメージが含まれています。

まとめ

日本でも、狐が美女に化けて人を惑わすというテーマは古くから存在し、民話や伝承、さらには能や歌舞伎といった伝統芸能にも多く取り入れられています。これらの物語では、狐が単なる悪事を働く存在ではなく、時には愛情や悲しみを持った複雑なキャラクターとして描かれることもあり、狐が人に化けるというテーマが深い人間ドラマを生み出しています。

玉梓が怨霊?って何でしたっけ?

「玉梓が怨霊」というのは、**『南総里見八犬伝』**に登場する重要なキャラクター、**玉梓(たまづさ)のことを指します。『南総里見八犬伝』**は、江戸時代後期の作家、**滝沢馬琴(曲亭馬琴)**によって書かれた長編小説で、玉梓はこの物語の中で「怨霊」として登場します。

玉梓の背景

玉梓は、もともと安房国の有力な家臣である長楽亭(ちょうらくてい)一族の女性でした。彼女は美しい女性でしたが、政治的な争いの中で、里見家に敵対する一族と結びついてしまいます。玉梓の一族は里見家に討伐され、彼女自身も処刑されます。処刑される際、玉梓は深い恨みを抱いて死に、その後、強力な怨霊となって里見家に復讐を果たすことを誓います。

玉梓の怨霊としての役割

物語の中で、玉梓はその怨霊としての力を使い、里見家に呪いをかけ、様々な困難や災厄を引き起こします。彼女の怨霊は強大で、主人公である八犬士たちの運命にも大きな影響を与えます。物語を通じて、八犬士たちは彼女の怨霊の影響と戦いながら、試練を乗り越えていくことになります。

玉梓の象徴的な意味

「玉梓が怨霊」というキャラクターは、江戸時代の物語において、復讐と執念の象徴として描かれています。彼女は美しい女性でありながら、怨みを抱いて死んだためにその後も現世に留まり、強大な霊的力で生者たちに影響を与える存在として描かれます。このような怨霊の概念は、日本の伝統的な怪談や怨霊譚に共通するテーマであり、玉梓もその一例です。

『南総里見八犬伝』は、勇気、忠誠、復讐などのテーマを扱う壮大な物語であり、玉梓の怨霊は物語全体に影を落とす重要なキャラクターです。彼女の怨念が物語の試練や対立を生み出し、八犬士たちの成長を促す役割を果たしています。

仁義礼知忠信孝悌?のようなキャラクター設定は、なにかモデルはあったのでしょうか?

『南総里見八犬伝』に登場する八犬士のキャラクター設定である「仁義礼智忠信孝悌」(じんぎれいちちゅうしんこうてい)は、中国の儒教思想に基づいています。この八つの徳目は、儒教の中で重要な価値観とされ、古くから人間としての理想的な行いを示すものとして広く知られています。

モデル:儒教思想

この八つの徳目は、主に**儒教(孔子の教え)**に由来します。儒教は中国の思想であり、社会や道徳、家族関係において人がどのように行動すべきかを説いています。以下はそれぞれの徳目の意味です:

  1. 仁(じん):他者への思いやり、慈愛の心。

  2. 義(ぎ):正義や道義、正しい行動。

  3. 礼(れい):礼儀、尊敬や礼節を重んじること。

  4. 智(ち):知恵、正しい判断力や学識。

  5. 忠(ちゅう):忠誠、主君や仲間に対する誠実さ。

  6. 信(しん):信義、約束を守ることや誠実さ。

  7. 孝(こう):親への孝行、家族を大切にすること。

  8. 悌(てい):兄弟愛、兄弟姉妹への思いやりや尊敬。

これらの徳目は、古代中国の儒教的な価値観の中心であり、人間としての理想的な生き方を示しています。

八犬士のキャラクター設定

『南総里見八犬伝』では、八犬士がそれぞれこの八つの徳目を体現しています。彼らは、物語の中で各自の持つ徳をもとに、冒険や試練に立ち向かいます。滝沢馬琴は、この儒教の徳目をもとにキャラクターを作り上げ、彼らがどのように理想的な人間として行動するかを描いています。これによって、物語に深い倫理的、道徳的なテーマが与えられています。

武士道との関連

また、日本の江戸時代には、儒教の影響を受けた武士道が発展しており、忠誠や礼節、義理といった価値観が強調されていました。『南総里見八犬伝』が書かれた江戸時代後期には、儒教的な価値観と武士道が広く浸透していたため、八犬士の設定もこの流れの影響を強く受けていると言えます。

つまり、八犬士のキャラクター設定には、中国の儒教思想を中心に、日本の武士道的な価値観も組み合わさっており、これが物語全体の倫理的・道徳的な柱となっているのです。

南総里見八犬伝のボスキャラは、誰でしたか?

『南総里見八犬伝』の物語における主要な「ボスキャラ」として挙げられるのは、**玉梓(たまづさ)**の怨霊です。彼女は物語の悪役として、八犬士たちと里見家に対して強力な呪いをかけ、さまざまな試練や困難を引き起こす存在です。

玉梓の怨霊

玉梓はかつて里見家に処刑された敵対勢力の女性で、死に際に里見家に対して強い怨みを抱き、その後、怨霊として復活します。彼女の怨霊は強大な力を持ち、物語の中で里見家と八犬士に次々と災厄をもたらします。玉梓は、復讐を果たすために何度も八犬士の前に立ちはだかり、八犬士たちは彼女の呪いや罠に立ち向かうことになります。

玉梓の役割

玉梓の怨霊は、単なる敵対者としてだけでなく、物語全体の試練や挑戦の象徴としての役割を果たします。彼女の存在が八犬士たちの運命に影響を与え、彼らが持つ「仁義礼智忠信孝悌」の徳目を試す重要な存在です。物語の終盤では、八犬士たちが彼女の呪いを乗り越えることで、物語がクライマックスを迎えます。

他の敵対者

玉梓以外にも、八犬士の前に立ちはだかる敵や悪役は存在しますが、物語全体を通しての主要な敵は玉梓の怨霊とされています。彼女は物語のボスキャラクターとして、八犬士たちが成長し、試練を乗り越えるための中心的な障害となっています。

『南総里見八犬伝』では、怨霊としての玉梓が強力な存在であり、彼女との対決が物語のクライマックスにおける大きなテーマとなっているため、彼女が事実上の「ボスキャラ」として認識されています。

どうして、犬に関係したキャラクターなんでしょう?

『南総里見八犬伝』における「犬」に関連したキャラクター設定は、物語の核心にあるテーマやシンボル、または民間伝承や宗教的な背景に基づいています。八犬士というキャラクターたちは、その名前や存在が「犬」と深く結びついていますが、この犬のモチーフにはいくつかの理由があります。

1. 「仁義八行」に象徴される忠義

『南総里見八犬伝』では、八犬士がそれぞれ「仁義礼智忠信孝悌」の八つの徳目を体現していることが重要なテーマですが、犬は特に「忠義」の象徴として広く知られています。日本の文化や歴史においても、犬は忠実な動物とされ、主君や家族に対する忠義心を象徴する存在です。八犬士たちの忠誠心や義務感は、物語の重要な要素であり、犬がこのような徳を象徴する動物として選ばれたと考えられます。

2. 伏姫と犬塚信乃の伝説

物語の発端は、里見家の伏姫と犬である八房の伝説です。伏姫は、里見家の領主である里見義実の娘で、八房という名の犬を飼っています。この八房は、非常に賢く、忠実な犬で、ある時、義実が賜った犬として登場しますが、後に伏姫と八房が深い絆を結びます。

物語の展開において、伏姫と八房の結びつきが八犬士の誕生に繋がります。伏姫は、八房と一緒に山中で暮らしている間に、八つの霊玉を授かり、伏姫の死後、その霊玉が八犬士のそれぞれに転生するという形で受け継がれます。この霊玉が八犬士たちを導き、彼らが持つ「仁義礼智忠信孝悌」の徳目に結びつくのです。

3. 犬の持つ霊的な象徴

犬は古来より霊的な存在や守護者としても象徴されています。日本の民間伝承や神話では、犬が魔物や悪霊を追い払う力を持つと信じられており、また、家や主人を守る忠実な存在として崇拝されてきました。八犬士もまた、怨霊である玉梓やその他の悪しき力に立ち向かい、里見家や自らの正義を守るために戦う役割を担っています。この意味で、犬というモチーフは、物語の中で八犬士の役割や使命を象徴するものとなっています。

4. 名字に「犬」が入る設定

八犬士たちの名字には「犬」が含まれており、これも犬との深い結びつきを強調しています。たとえば、犬塚信乃(いぬづかしんの)や犬川荘助(いぬかわそうすけ)など、八犬士の名字には必ず「犬」という漢字が使われています。これも、八房の霊力を継承し、その忠義心を体現する者たちであることを示しています。

5. 仏教的・道教的な影響

また、仏教や道教の影響も見られます。特に道教では、霊玉や霊的な生き物が重要な要素として描かれ、霊的な動物としての犬が登場することがあります。『南総里見八犬伝』の物語には、こうした宗教的・霊的なモチーフが強く反映されており、犬が物語の中で特別な意味を持っているのは、このような背景があると考えられます。

まとめ

『南総里見八犬伝』で「犬」に関係するキャラクターが多く登場する理由は、犬が忠義や守護の象徴としてふさわしい存在であること、伏姫と八房の伝説が物語の発端にあること、そして犬が霊的な力や使命を持つ存在として描かれていることが関係しています。これらの要素が組み合わさり、八犬士というキャラクターたちが「犬」に象徴される形で設定されているのです。

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