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中東の杉

ナバテア王国って、どこにあったのですか?

ナバテア王国は、現在のヨルダン南部とサウジアラビア北西部にあたる地域に存在した古代国家です。その中心都市はペトラで、紀元前4世紀頃から紀元2世紀頃まで栄えました。

主な特徴は以下の通りです。

  1. 砂漠地帯に位置し、岩山を利用した都市や墓廟などを建設。

  2. 香料貿易で栄え、東西交易の中継地点として重要な役割を担った。

  3. ヘレニズム文化の影響を受けつつ、独自の文化を発展させた。

  4. 紀元106年にローマ帝国の属州となり、徐々に衰退。

  5. ペトラ遺跡は、1985年にユネスコの世界遺産に登録された。

ナバテア王国は、過酷な砂漠環境の中で高度な文明を築いた興味深い古代国家の一つとして知られています。遺跡の美しさや、東西文化が融合した独特の文化は、今なお多くの人々を魅了しています。

民族は何人でしたか?

ナバテア王国の主要な民族は、アラビア人の一派であるナバテア人でした。

ナバテア人について知られていることは以下の通りです。

  1. セム語系の言語を話していた。

  2. もともと遊牧民だったが、定住化が進んだ。

  3. 交易に長けており、香料貿易で富を築いた。

  4. ヘレニズム文化の影響を受けつつ、独自の文化を発展させた。

  5. 多神教を信仰していたが、主神はドゥシャラー(ズース・シャラ)だった。

ナバテア人は、アラビア半島北西部からヨルダン、シリア、イスラエルにかけての地域で活動していました。定住後は農業も営むようになり、灌漑技術に優れていたと考えられています。

ナバテア王国の衰退後、ナバテア人はアラブ人の一部として同化していきました。現在のアラブ人の祖先の一部となったと考えられています。

なぜ衰退したのでしょう?

ナバテア王国の衰退には、いくつかの要因が複合的に作用したと考えられています。

  1. ローマ帝国による支配

    • 紀元106年、ローマ皇帝トラヤヌスがナバテア王国を征服し、属州アラビア・ペトラエアを設置。

    • ローマの直接支配により、ナバテア人の自治権が失われた。

  2. 交易路の変化

    • ローマ帝国がインド洋貿易路を重視するようになり、陸路の重要性が低下。

    • ナバテア王国の香料貿易が打撃を受けた。

  3. 都市の衰退

    • ペトラを始めとする都市の維持が困難になり、人口が減少。

    • 551年の大地震により、ペトラが大きな被害を受けた。

  4. アラブ人勢力の台頭

    • イスラーム教の発展とアラブ人の統一により、ナバテア人の独自性が失われていった。

  5. 自然環境の変化

    • 気候の乾燥化により、農業が困難になった。

    • 水資源の枯渇も都市の維持を難しくした。

これらの要因が重なり、ナバテア王国は徐々に衰退していきました。7世紀までにはナバテア人の姿が歴史から消え、アラブ人の一部として同化したと考えられています。ナバテア王国の興亡は、地政学的な変化と自然環境の変化が文明に与える影響を示す事例の一つと言えるでしょう。

イスラエル辺りが砂漠化したのはいつくらいからでしょうか?

イスラエルを含む中東地域の砂漠化は、長い歴史の中で徐々に進行したと考えられています。数千年から数万年の時間スケールで見ると、以下のような変化があったとされています。

  1. 最終氷期の終焉(約1.2万年前)

    • 地球の気候が温暖化し、中東地域の降水量が減少し始めた。

  2. 新石器時代から青銅器時代(約1万年前~紀元前2000年頃)

    • 農耕と牧畜が始まり、人間活動による土地の劣化が進んだ。

    • 森林の伐採や過放牧により、土壌の流出や砂漠化が加速した。

  3. ローマ帝国時代(紀元前1世紀~紀元5世紀)

    • 人口増加と都市化により、土地利用が拡大した。

    • 灌漑農業の発展により、一時的に農地が拡大したが、長期的には土壌の塩類集積を招いた。

  4. イスラーム帝国時代(7世紀~13世紀)

    • 商業の発展により、都市が拡大し、農地や牧草地への圧力が増大した。

    • モンゴル帝国の侵攻により、灌漑システムが破壊され、農地の放棄が進んだ。

  5. オスマン帝国時代(16世紀~20世紀初頭)

    • 人口増加と不適切な土地利用により、砂漠化が進行した。

ただし、砂漠化の進行は一様ではなく、地域によって差があります。また、近年の研究では、気候変動と人間活動の相互作用が重要視されています。20世紀以降は、急速な人口増加と不適切な農業政策が砂漠化を加速させたとの指摘もあります。イスラエルでは、20世紀後半以降、砂漠緑化の取り組みも行われています。

ヨルダン杉?とか有名ですよね?森林もあったのでしょうね?

はい、その通りです。ヨルダン杉(Cedrus libani)は、レバノン杉とも呼ばれ、古代から中東地域で有名な樹種でした。

聖書の記述にも登場するように、古代では神聖な木として崇められ、建築材や船材として重宝されました。ソロモン王の神殿や、エジプトのファラオの棺にも使われたと言われています。

古代の中東地域には、ヨルダン杉を中心とした森林が広がっていました。特にレバノン山脈やトルコ南部のタウルス山脈には、大規模なヨルダン杉の森林があったと考えられています。

しかし、長年の伐採と気候変動により、ヨルダン杉の森林は大幅に減少しました。現在では、レバノンやトルコの一部に残るのみで、絶滅が危惧されています。

イスラエルでも、かつてはヨルダン杉の森林があったと考えられていますが、現在は残っていません。ただし、イスラエルでは、ヨルダン杉の植林や保護の取り組みが行われており、将来的な森林再生が期待されています。

ヨルダン杉の歴史は、中東地域の森林の盛衰を物語る象徴的な存在と言えるでしょう。

レバノン杉とか有名ですよね?森林もあったのでしょうね?

はい、その通りです。レバノン杉は、ヨルダン杉と同じ種類の樹木で、学名もCedrus libaniです。レバノン杉という名称の方が一般的に使われています。

古代から現代に至るまで、レバノン杉は中東地域で非常に重要な役割を果たしてきました。

  1. 古代エジプト、メソポタミア、ペルシャなどの文明では、レバノン杉は神聖な木とされ、宮殿や神殿の建築に用いられました。

  2. フェニキア人は、レバノン杉を使って船を建造し、地中海貿易を発展させました。

  3. 旧約聖書にも、ソロモン王がエルサレムの神殿を建てるためにレバノン杉を使ったという記述があります。

過去には、レバノン山脈を中心に広大なレバノン杉の森林が存在していましたが、長年の伐採と気候変動により大幅に減少しました。現在、レバノン杉の原生林は、レバノン、トルコ、シリアの一部に限られています。

レバノンでは、国旗にレバノン杉が描かれているように、レバノン杉は国家のシンボルとなっています。また、レバノン杉の保護と再生のための取り組みが行われており、将来的な森林の回復が期待されています。

レバノン杉の歴史は、人類と森林の関わりの長さと、森林保護の重要性を示す貴重な事例と言えるでしょう。

レバノン杉は、バイオリンにも使われていましたか?

はい、レバノン杉は高級バイオリンの材料としても使われてきました。

バイオリン製作において、表板(表面の板)にはトウヒ属の木材(エゾマツやヨーロッパトウヒなど)が使われることが一般的ですが、裏板や側板には硬く響きの良い木材が選ばれます。その代表的な木材の一つがレバノン杉です。

特に、17〜18世紀のイタリアで活躍したストラディバリやグァルネリなどの名工が製作したバイオリンには、レバノン杉が使われていたと言われています。レバノン杉は、音響特性に優れ、豊かな響きを生み出すことから、バイオリン製作者に重宝されてきました。

ただし、レバノン杉の森林減少により、現在ではバイオリン製作にレバノン杉を使うことは非常に難しくなっています。代替材として、ボスニア杉やヨーロッパアカマツなどが使われることもあります。

レバノン杉のバイオリンへの使用は、この樹種の材質の優れた特性を示すと同時に、森林資源の持続可能な利用の重要性も示唆していると言えるでしょう。

ストラディバリウスのバイオリンは、現存しているものは何本くらいありますか?

ストラディバリウスが製作したバイオリンの正確な現存数は明確ではありませんが、おおよその推定はされています。

アントニオ・ストラディバリ(1644年~1737年)は、生涯に1,000丁以上のバイオリンを製作したと考えられています。そのうち、現存するストラディバリウスのバイオリンは、約600丁と推定されています。

ただし、この数字には以下のような注意点があります。

  1. 真贋の問題:ストラディバリウスの名前で販売された楽器の中には、弟子や追随者が製作した楽器や、偽物も含まれている可能性があります。

  2. 改造や修復:多くのストラディバリウスのバイオリンは、長年の使用により改造や修復が施されています。オリジナルの部品が残っている割合は楽器によって異なります。

  3. 所在の把握:一部のストラディバリウスのバイオリンは、個人コレクションに収蔵されており、その所在が明らかではありません。

現存するストラディバリウスのバイオリンは、世界中の музеях музыкальных инструментов(楽器博物館)や、一流の演奏家の手に渡っています。その希少性と音質の素晴らしさから、非常に高い価値を持つ楽器として知られています。2011年には、「レディ・ブラント」と呼ばれるストラディバリウスのバイオリンが、約1,600万ドル(約16億円)で落札されたこともあります。

回答に時々ロシア語が入りますね?

すみません、ロシア語が混じってしまいました。ご指摘ありがとうございます。

正しくは、「現存するストラディバリウスのバイオリンは、世界中の楽器博物館や、一流の演奏家の手に渡っています」です。

私は、複数の言語で会話ができるように設計されているのですが、時々言語が混在してしまうことがあります。今後は、このようなミスがないように気をつけます。

改めて、ストラディバリウスのバイオリンの現存数と価値について、要点をまとめると以下のようになります。

  1. 現存数は約600丁と推定されている。

  2. 真贋の問題や改造・修復の有無により、正確な数の特定は難しい。

  3. 希少性と音質の素晴らしさから、非常に高い価値を持つ。

  4. 世界中の楽器博物館や一流の演奏家が所有している。

ストラディバリウスのバイオリンは、楽器の歴史において最も重要で価値のある楽器の一つと言えるでしょう。

バイオリンひとつひとつに愛称や呼称があるのでしょうか?

はい、多くのストラディバリウスのバイオリンには、固有の愛称や呼称が付けられています。これらの名前は、以下のようなさまざまな由来から付けられています。

  1. 所有者にちなんだ名前:

    • 「メッシア」:イタリアの収集家ルイジ・タリオーニが所有していたことから。

    • 「レディ・ブラント」:19世紀にブラント伯爵夫人が所有していたことから。

  2. 外観の特徴にちなんだ名前:

    • 「アラベラ」:表板の木目が美しいことから。

    • 「ドルフィン」:スクロール(巻き)の形状がイルカに似ていることから。

  3. 製作年にちなんだ名前:

    • 「ル・グレコ」:1580年製作。スペインの画家エル・グレコの時代に由来。

    • 「ヴァイオリン・オブ・ザ・シーズンズ」:1723年製作。ヴィヴァルディの「四季」が作曲された年に由来。

  4. その他の由来:

    • 「ダンサー」:音色が踊るように軽やかであることから。

    • 「エンペラー」:その優れた音質と美しさから、「バイオリンの皇帝」と呼ばれる。

これらの愛称は、楽器の個性を表すとともに、その来歴や特徴を反映しています。愛称は、楽器の同定や、楽器にまつわるエピソードを伝える役割も果たしています。

ストラディバリウスのバイオリンは、その希少性と価値から、一つ一つが個性を持つ存在として扱われており、愛称はそれを象徴しているとも言えるでしょう。

ストラディバリは、バイオリン以外の弦楽器も製作していたのでしょうか?

はい、アントニオ・ストラディバリは、バイオリン以外にも様々な弦楽器を製作していました。

  1. ビオラ:バイオリンよりも大きく、低音域を担当する楽器。ストラディバリ作のビオラは、その音色の美しさと音量のバランスが優れていると評価されています。現存するストラディバリのビオラは約10挺とされています。

  2. チェロ:バイオリンやビオラよりもさらに大きく、低音域を担当する楽器。ストラディバリ作のチェロは、その豊かな音色と音量で知られています。現存するストラディバリのチェロは約60挺とされています。

  3. ギター:ストラディバリは、少数ではありますがギターも製作していました。現存するストラディバリのギターは、「サブレ」と呼ばれる1679年製のギターのみとされています。

  4. マンドリン:ストラディバリは、マンドリンも製作していたと考えられていますが、現存するストラディバリのマンドリンは確認されていません。

  5. ハープ:ストラディバリがハープを製作したという記録もありますが、現存するストラディバリのハープは確認されていません。

ストラディバリは、バイオリン製作で最も知られていますが、他の弦楽器製作においても優れた技術を発揮していました。特にビオラとチェロは、バイオリンと並んでストラディバリの代表作とされ、現代でも高く評価されています。

これらの楽器は、ストラディバリの楽器製作における多彩な才能と技術的な革新性を示す貴重な例と言えるでしょう。

子や孫も同じ名称で、バイオリンを製作していたのでしょうか?

はい、ストラディバリの子孫もまた、バイオリン製作の家業を継いでいました。

アントニオ・ストラディバリには、11人の子供がいましたが、そのうち2人の息子がバイオリン製作者となりました。

  1. フランチェスコ・ストラディバリ(1671年~1743年):長男で、父アントニオの下で修行し、優れたバイオリン製作者となりました。アントニオ晩年の作品には、フランチェスコの手が加わっていたと考えられています。

  2. オモボーノ・ストラディバリ(1679年~1742年):次男で、兄フランチェスコとともにバイオリン製作に携わりました。オモボーノの作品は、父アントニオや兄フランチェスコの作品と比べると、やや品質が劣ると評価されることもあります。

アントニオの死後、フランチェスコとオモボーノがストラディバリ家のバイオリン製作を継承しました。しかし、彼らの作品は、アントニオの作品ほどの評価を得ることはありませんでした。

また、オモボーノの息子であるパオロ・ストラディバリ(1708年~1776年)も、バイオリン製作者となりました。しかし、パオロの代になると、ストラディバリ家のバイオリン製作は衰退の一途をたどり、その名声は徐々に薄れていきました。

ストラディバリ家のバイオリン製作の歴史は、アントニオ・ストラディバリの傑出した才能とともに、家業の継承と衰退の物語でもあると言えるでしょう。アントニオの子孫は、彼の技術と名声を受け継ごうと努力しましたが、アントニオの偉業に匹敵するのは難しかったのかもしれません。

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