
なぜあなたは文章がきちんと読めないのか?
今回紹介するのは以前、本を紹介した事もある
受験界のカリスマ、出口汪(ひろし)さんです。
出口先生と言えば、最近noteを始められたのですが、言わずと知れた入試現代文のカリスマ講師。
参考書だけではなく、ビジネスマン向けにも書かれた本が多数あり、累計著作数はなんと1300万部。現代文のコーナーに行けば、どんな小さな本屋さんでもお名前を見かけるくらいの超がつく有名人です。
先生との出会い
僕が出口先生と(間接的に)出会ったのは、大学受験の頃でした。
先生の講義に出会って、僕の世界は色を変えました。それまで黒だったものが白に一変するオセロのように。目から鱗が落ちまくり、涙でコンタクトが剥がれました。
すいません、コンタクトは水分がでると逆にくっつくので嘘です。
盛りました。
でもでも決して大げさではなく、ヘレンケラーが全身を震わせてウォータ〜と叫ぶような衝撃がありました。
いや、ホンマですよ(笑)
模試の結果
学生時代、僕の得意教科は国語だけでした。
だから受験に直面した時、国語ーとりわけ現代文に関しては何の勉強もする必要がないと思っていました。何となくフィーリングで読んで解けるものだと軽く見ていました。
というのも、僕は本来読書が好きで、国語の授業では先生に褒められることも多く、作文は得意。学校のテストも国語だけはいつもいい生徒だったからです。
ところが、大学入試に直面し、現代文の模試を受けた僕は愕然としました。
今までの国語のテストで見たこともないくらい低い低い点数だったのです。
そもそも進学校に行っているわけでもなく、ごく普通の公立高校に通って全く勉強して来なかった僕は、今から思えばあまりにも受験というものに対して無知でした。
無知であることをソクラテス並みに意識することもできない、井の中の蛙でした。
現代は個人が情報を発信することが手軽になり、ググれば出てくるのが当たり前の時代になりました。
手軽に情報が入る一方で、受け身ではなく、積極的に学ぶ勉強の大切さや読書の重要性を耳にするようにもなりました。
今このnoteを読んでいるあなたは、きっと文章を書いたり、読んだりすることが好きなのではないでしょうか?
でも、かつての僕のように、本は読むけれど、いまいち頭に入ってこない。読んでもすぐに忘れるから、ちょっと忘れないように要約したいけど、断片的な感想文になってしまうのはなぜだろう?と考えたことはないでしょうか。
国語とはどういう科目なのか
またさらに進めて、僕たちが受けてきた国語教育とは何なのか?
なぜ学校の授業と模試の間に点数の差が生まれるのか?
国語の授業は一体何の役に立つのか?
そう考えたことはないでしょうか。
この問いに対して、出口先生は本の中でこう書かれています。
国語が役に立たない科目となったのには、明確な理由があります。国語の中に、相反する二つの方向性のベクトルが、教える側にも教えられる側にも無自覚なままに混在してしまっているからなのです。その二つとは、
①正解を探す問題
②正解がない問題 です。
①は外国人が日本語を学ぶときのような「日本語の能力」ではなく、「日本語で文章を論理的に読み取り、論理的に考え、論理的に表現する能力」です。
国語が論理の教科である限り、一人一人の感受性や価値観に関わらず、誰もが正しいとする答えがあり、それを正しい方法で探し出すことができます。
②は文学や哲学など、西洋の教養的なものです。人生や世の中を深く思考する能力を思春期に鍛え、正解のないものを追求することの大切さ、面白さを教えなければなりません。
多くの国語教師は論理の問題を文学鑑賞と同様の教え方をしてしまい、そのために子どもたちに必要な論理的な学力を養成することができなくなってしまったのです。
私は、国語を論理と教養とに分解し、論理は日本語を論理的に使う訓練、教養は文学・哲学で、それぞれ別の教師が教えればより効果的だと考えています。
そして、大切なことは、①を前提として、初めて②が成り立つということです。
文章を恣意的に読むということ
それまでの自分は、文章を読みたいように読み、意見や感想を述べて評価されることが国語教育の全てだと思っていました。それが文章を読むことだと錯覚していたのです。
また、残念ながらそれを錯覚だと気づかせてくれる先生にも出会えませんでした。つまり①の土台無しに②が国語教育の全てだと混同していたのです。
そうして、模試を受けるたびに自分の点数の低さに傷つき、どう勉強していいかも分からず、もどかしさでいっぱいになり、問題文を読むのさえ苦痛になって、鉛筆を置き、ただただ試験時間が過ぎるのを待っていたこともありました。
そんな時、たまたま耳にしたラジオから流れる先生の講義の言葉がガツンと心に響いたのです。
心に響く講義録
先生はある時、こうおっしゃいました。
いいかい、不正解だからと言って、君の人格にバツをつけているわけではないんだ。バツがついたのは君が出した解答なんだ。
じゃあなぜバツがついたかと言えば、正解を導き出す方法を学んでないからなんだ。この講義でそれを一緒に学べばいいんだよ。
出口先生はある時、こうも言われました。
問いには何て書いてあるかよく見てごらん。何て書いてある?
「次の問題文を読んで、後の問いに答えよ」
それしか書いてないよ。
ということは、問題文に全ての根拠があるんだ。考えてごらん。もしも、一人一人の考えにマルかバツをつけて採点するとなったら、採点官の主観的な判断で選ぶしかないよ。
公平性が重視される試験において、一人の人間の思想に採点をすることなんて誰もできないんだよ。
といった内容でした。
これを聞いた時の僕の気持ちが想像できるでしょうか?
もがいてもがいても抜け出すことのできない蟻地獄の中に、まるで一本の蜘蛛の糸がさしのべられたような瞬間でした。
そうか、そうなんだ。僕が文章を読んで思ったことが間違っているんではないんだ。問題には解答があり、出題者の意図に沿った解答を導き出す解法を僕は知らなかっただけなんだ。
だったら学べばいい。簡単じゃないか。そう思いました。
こうして現代文の勉強を始めた僕は、一気に点数が上がり、安定するようになったのです。
とは言え、そこまで受験に燃え尽きたわけでもなく、いわゆる中堅私大に入った程度なので、ある程度までは、ですが。
勉強は楽しい!
勉強というのはゼロから始めた時が一番楽しい。いつも新しいことを学ぶたびにそう思います。
知らないことだらけの時は、虫食いで覚えても元々ゼロだから楽しくて仕方がない。しかし、ある程度全体像が見えてくると、底知れぬ奥深さにおののき、しりごみさえしてしまう。
本当はここからが勉強のスタート地点であり、真の楽しさが始まる段階でもあると思うのですが、そこまで行くのは並大抵のことではありません。そこから踏み出すには勇気が要ります。
勇気を出すのは嫌われる時だけではないのです。
受験勉強において、全くできなかった劣等生の自分が、やっと人並み程度にテストで点数が取れ、頑張れば報われるという学びの楽しさを知りました。
noteを始めた時、あなたはとてもワクワクしたのではないでしょうか?
初めて誰かにスキをもらえた時、飛び上がらんばかりに喜び、のけぞってイスから転げ落ちたのではないでしょうか(笑)
僕はnoteを始めて半年ほどになりますが、その間に更新が止まっていく人達を見てきました。続けるというのは苦しいものです。そこに楽しさが見出せなければ、モチベーションは維持できません。
誰に強制されることもない世界だからこそ難しいのです。
勉強も同じです。
自分のためにする勉強が何の役に立つのか?
目標が定まっていない段階では、努力をしても空回りして、無駄になるだけです。
なまじ努力をしているから、徒労感と比例しない結果に凹んでやめるという選択を取ることになります。
いつもながら余談が多いのが僕の悪い癖(杉下右京風)
話を受験勉強に戻しますね。
受験勉強とは何か?
今では恥ずかしい話ですが、現代文を勉強するよりも以前、初めて本格的に受験勉強をしようと思い立った頃の僕は、勉強法が書かれた本を読みあさっていました。
参考書と言えば、選択肢の見分け方が書かれたようなテクニック重視の本ばかり。
しかし、そういった本をいくら読んでも、一向に身につきませんでした。
勉強をしていないわけですから当たり前です。
でも、勉強の仕方さえも分からない自分にとっては、全てが手探りであり、幻でした。焦るだけの暗い日々。
ネットも無い時代には、本が唯一の情報源であり、ワラにもすがる思いだったのです。
受験には確かにテクニックが存在します。
それについては、以前の記事でも書きました。
受験は情報戦線です。選抜試験である以上、情報が無い者は競争の中では不利です。そこで測られる能力はある程度のAI知能と同視されるものであるのも確かです。
しかし、AIができない「思考力」は人間が学ぶしかありません。いやむしろ、それこそが人間に恵まれた能力であり、その蓄積で人類史が築かれたと言ってもいいでしょう。
人間が残してきた知恵は文字となり、連なったものが文章となります。
文章に書かれたことを正確に読み取る力、つまり読解力の上に進化する思想の礎があります。
試験問題とは実施する大学の募集要項であり、学校の威信をかけた看板です。どんな学生を求めているのか、どんな能力があれば学ぶことができるのか。どんな学生に学んでもらいたいのか。
その大学を代表する頭の尖った出題者が厳選した文章の集まりが現代文で題材とされる問題文とも言えます。
そう考えると、現代文が得点源となった僕には、かつてあれほど苦痛だった問題文を読むことが楽しくて仕方ありませんでした。
今日はどんな文章を切り取って僕を驚かせてくれるのだろう?
その中にはきっと何かのヒントを与えてくれる文章があるに違いありません。
問題文の選定は、出題者が何を読み、そして何を考えたか、言わば個性を示すことができる唯一の見せ場です。
時に斬新な問題提起を投げかけ、選択肢を使って誘導し、読む者の頭の中をかき乱します(笑)
そこに問われているのは単なる知識ではなく、思考です。
いや、実際に問われているのは単なる解法に過ぎず、思考は試されていたとしても決して得点としては表面化しません。
しかしながら、問題文という文章を目にした以上、心の片隅に生まれ出る思考の断片のようなものは止めようもなく、試験時間に押しやっていたその思念を僕は明らかに楽しんでいました。
みなさんの中には、英語の問題文を訳してみたらおとぎ話かよっ!とガッカリしたことはないでしょうか?
せっかく読まされる文章。僕はそこに何らかのユニークさを毎回期待して読んでいたのです。論理を追いかけ、思考を深める行為。まさに読書ですね。
ところで文章を読んでいると、専門用語ではないのに、分からない言葉が出てくることがしばしばあります。
個人言語とは
ある時講義で取り上げられた文章に「個人言語」というワードがありました。出口先生は好んでこの言葉を使われるように記憶しますが、これは筆者が特別な意味で使っている個人特有の言語です。いわゆるキーワードですね。
特に評論文においては、この「個人言語」を論理構造を意識しながら、つかまえていく作業になります。
ここで評論文なんて読まないよ!というあなたにお伝えしたいことがあります。
めっちゃ関係あるよ!と(笑)
文章を読むという行為は、鑑賞を主とする小説などを除いて、主旨をいち早くつかみとる必要があります。
筆者は何が言いたいのか?です。
長い文章には大事なところとそうでないところがあります。
まるで主役と脇役のような関係ですね。
現代文の勉強とは、おおざっぱに言えば、この主役をつかまえる訓練です。
文章の全てが大事なわけではない。大事なところには線を引きたくなると思いますが、全てが大事なら文章全体に線を引くことになり、主役だらけで舞台があふれかえります。これでは演劇どころではありませんね。
でも、大事そうな文章はうじゃうじゃあります。だから、僕のこのnoteのような長文は、漫然と読めば読むほど主旨がぼやけてくるのです(と言い訳してみた)
論理を追うとは
では、論理を追うとは何かについて先生の本から引用します。
文章を人間の体にたとえます。人間の体には骨がある。でも骨といってもいろんな骨がある。中心は頭蓋骨と背骨。これが主旨と道筋です。頭蓋骨は一つしかないけれど、骨には手の骨もあれば、足の骨もある。
だけど骸骨だけじゃ生きられません。生きているものは必ず肉がついています。それが具体例、エピソード、引用です。背骨には全体に大きな肉がついている。
また、人間というのは、人の目を意識するから恥ずかしい。だから飾ります。それと同じように、文章も人の目を意識するから飾る。そう考えれば、長い文章は太っているだけ。骸骨にすれば全部一緒です。あるいは厚化粧で、着飾った文章も、骸骨にしてしまえば、難しいことは一つもなくなる。
だから論理を追うということは、衣装をはがし、肉を削り、骨だけに線を引っ張ることなんです。
つまり、論理を追いかけるということは、余計な文章を排除し、個人言語を文脈の中で特定して、ひたすら主旨を追いかけていく作業なのです。
僕はもう受験を離れてかなりの時を経ていますが、試験の解答術は忘れてしまっても、本を読む時には、未だに論理の型を意識して読んでいます。忘れたくても論理を追いかける以上、そうならざるを得ないのです。
文章は自分の好きなように読んでいいと言う意見もたくさん聞きます。
作者が解いても正解に至らない現代文の問題なんておかしいという意見は、
文章を自分が好きなように恣意的に読む
のか
問題作成者の解答にたどりつくために、その根拠を本文の中から全て見つけ出して、文章を客観的に読む
のかを混同した考え方です。
読書家で現代文が元々得意な人は、無意識に論理を追いかけるロジック脳なるものができているため、この違いに気づきにくい。
国語の先生ってまず間違いなく文章を読むのが好きな人です。だから、人一倍文章に対して自負がある。
僕は理論的に説明できる作家さんが国語の先生であればいいのにとさえ思っていますが、そういう人はそもそも人に教えるよりも文章を書くことに夢中だから作家なのですね。
文章の主旨がうまくつかめなくて悩まれている方は、ぜひ現代文で客観的に文章を読む訓練をしてみてください。
現代文の講義でそれなりに名を馳せている方なら、どの先生で学んでもいいです。なぜなら説明の仕方には違いがあっても、論理を追いかける道筋は同じにならざるを得ないからです。
ただもし、どの先生で学んでいいのか分からないのなら、多くの人に支持されている出口先生の参考書で学ばれてはいかがでしょうか。
そうすれば、主語と述語の押さえ方、論理を導く接続詞の重要性、主張と具体例の意識、要約力など、文章を客観的に読む上で大切なポイントが効率よく学べます。
現代文を学ぶとは
繰り返しになりますが、現代文を学ぶことは、文章を論理的に読む訓練です。日本人にとって、母国語で学ぶ以上、全ての教科の土台にあるのは日本語であり、我々が日常目にする文章もまた日本語だらけです。
そういう意味において、受験生であるかどうかに関わらず、言語を操る全ての人が、論理について学ぶ必要があります。
そして一度、論理的な日本語の扱い方を学べば、あなたの思考は整理され、論理を重視する英語や数学が実は日本語を別の言語に変えたものだと気づき、その後の考え方に大きく影響を与えます。プログラミング言語だって余計な行があれば処理動作が遅くなり、停止しかねません。
論理と言えば、1+1が2にならない文章だってあります。
えっ?3になるの?なぜ?と思わせてくれる文章が面白いと感じられるのは、文章の根底を支えている論理を裏切らせてくれるからです。逆に言えば、書いている人は論理を意識しているということになります。
作者の主張は必ず繰り返されます。大切だと思うからこそ繰り返すのです。
僕の主張は、
「文章を読む上で論理を意識するって大事だよね。それができない人は現代文で学びましょう」です。
それをいろんな例え話で、手を変え、品を変え、繰り返しているだけに過ぎません。
その主張を把握した人は、頭の中に大きな見出しとして、ドーンと置かれているので、もう分かったよ、いつまで書いてるんだ?とイライラするはずです。それこそが論理的に読めている証拠なのです。
主張がつかめない人は、肉の方ばかり見て大事な部分が見えていないのですね。
速読とは
主旨をつかまえると、読むスピードが上がります。というと速読のようですが、厳密には文章に対する理解力が増え、より深く読む文章とそうでない文章の区別が明確になるから速く読めるのです。
また関連する本を読んでいると重複箇所も多く、既知の部分は丸々省けるので本を読む箇所が少なくなり、一冊にかける時間が減ります。
これが本当の意味での「速読」です。
いわゆる「速読」といえば、眼球のスピードや文章を塊として視野範囲を広げる訓練ととらえがちです。それ自体は悪くないとは思いますが、あくまでそれは、読んでいる本が熟読に値するか、そうでないかを選別する手段としてしか使えません。
思考の題材となる読み方には熟読が不可欠であり、一般的な速読のイメージとは相反します。
文章をダラダラと読んでいる人は、たとえ速読ができるようになっても、目が文章をなぞっているだけであり、倍速で動画を垂れ流しているのと変わりありません。
論理的な読書体験を積み重ねることで、文章に対する理解力が増した結果、読み方は自然に速くなり、人と比べて速く読める。
それが「頭に残る速読」ではないでしょうか。
僕の個人言語はちゃんと届いていますか?(笑)
僕が日々、本を読み考え、noteで文章を書いたり、YouTubeで本を紹介するのは間違いなく、現代文で学んだ思考訓練が大きく影響しています。
そのきっかけを与えてくれたのが出口先生だったのです。
出口先生の著書案内
出口先生が単に現代文の解説者だけでなく、変わられたなぁと思ったのは、自ら予備校を主宰され、「論理エンジン」というものを考案された頃でした。
その時はもうすでに僕は社会人でしたが、そこでの講義の内容を6冊の本にまとめられたのが、先ほども引用したこちらの本です。
この頃から先生の思いは日本語教育に波及し、言語を扱う思考力の育成により情熱を傾けられたように思います。これまでの講義で培った集大成とも言える転換期だったのではないでしょうか。
その思いは大学生から下の全ての学生にまで及び、今では低学年向けの教材も数多く出されています。
また、ビジネスマン向けにも様々な本を執筆されていますが、入試問題文の面白さを大人向けに書かれた本には、
があります。
帯に推薦文を書かれている佐藤優さんと言えば、とんでもない読書家です。献本を月平均100冊、新刊本を70〜80冊、古本を120〜130冊くらい購入し、一ヶ月に300冊、時には500冊を超える本を読むそうです。スゴイですよね、しかも洋書も含めてですから、もう超人レベル。
その読書家の佐藤さんが書かれた
の中でも出口先生の参考書の
を薦めておられました。
参考書が苦手だという人には、
という本もあります。
さらに出口先生は全ての年齢の方を対象とした月額3000円で受けられるオンライン講義を始めたそうです。
人気講師としては破格の値段だと思いますが、そこには日本語教育に残りの人生をかける、先生の熱き思いを感じます。
リモート教育が当たり前になり始めた今だからこそ、一度授業を受けてみられてはいかがでしょうか?
ちなみに私は一切出ておりません(アンジャッシュ渡部風)
出口先生のnote
先生のnoteには、人生に悩む受験生に必読の記事がありオススメです。
特にカリスマ講師になるまでの舞台裏は、ファンにとっては先生のこれまでのイメージを覆すものであり、知らない人にとっては私小説として読めます↓
https://note.com/deguhiro/n/nc64961405fc6
どこの予備校にも属していない今だからこそ語れる内容です↓
長い浪人生活を振りかえったその文章はまるで私小説のような文学性があり、どんどん続きが気になります。
一応の社会性を身につけた今、振り返ってみると私の青春時代はめちゃくちゃでした。あの頃は自分なりに考え、それなりに必死で生きてきたつもりでしたが、きっと周囲の人の目には滑稽に映ったに違いありません。そんなどうしようもない人間がいったいどうやって予備校の講師になったのか、その軌跡を辿ってみるのも、それなりに意味があると思うのです。今なら、あの頃の自分をそれなりに俯瞰してみることもできるのではないでしょうか。
私の目の前には暗闇が広がり、私は前に足を一歩踏み出すよりも、その場で立ちすくみ、途方にくれるばかりでした。高校生でも大学生でもなく、何一つ生産するでもなく、将来の保証もないまま、今を生きるしかありませんでした。しかし、時間だけは刻一刻と過ぎていったのです。
中には事情によりカットされた幻の原稿もnoteに掲載されています。そこにはカリスマ講師ではなく、一人の親として子どもに苦悩する姿が書かれています↓
https://note.com/deguhiro/n/nd4450cd69192
そして、そして先生の創作小説が無料で読めたりもします↓
https://note.com/deguhiro/n/n08f32afa9e57
今日はずいぶんと長くなってしまいましたね。
読んで頂いてありがとうございました。あなたの気づきとなれば幸いです。
いいなと思ったら応援しよう!
