スノーランナー日記#1~これって僕の感想ですよね?
いま、スノーランナー という、途方もないボリュームのゲームを語るにあたって、どこから手をつけたらいいものか、苦慮している。
以下、余談ながら、
筆者の住む生駒には山がある。
その生駒山に登るにはいくつかの坂があり、最も古い坂は古事記にも記されている孔舎衛坂(くさかざか)である。
筆者は幼少期にこの土地に住んでいた頃があった。
ウイキペディアによると、かつて孔舎衛坂駅という駅があり、近畿日本生駒(現・生駒)間の生駒トンネル大阪方坑口に位置していたが、新生駒トンネル開通により1964年(昭和39年)に廃止された。
したがって、筆者が通勤に利用している近鉄電車は新しい方のトンネルを通っていることになる。
この坂は現在は高速道路となり、大阪と奈良をつなぐ阪奈有料道路となっている。
現在は第二阪奈道路もでき、筆者はその二つの道路をつなぐ道の近くに居を構えている。
司馬遼太郎氏は、蛇行する阪奈道路の峠から振り返る展望が日本のどこよりも好きであると『城塞』の冒頭で語っている。
それに続けて、おそらく徳川家康も大和(奈良)から大坂(大阪)に入るべくこの展望を経験したに違いないとあり、大坂の野を眼下に天下を夢想したのであろうと述べている。
ここまでの件は、筆者がこれから語るスノーランナーというゲームには直接関わりはない。
ただ、最近学生時代に読んだ歴史小説が再燃し、毎日読んでいるうちに感化され、それっぽい書き出しをしてみたかっただけである。
あえて関連づけるとすれば、「坂」であろうか。
スノーランナーというゲームは、前作をマッドランナーという。
MUD(マッド)とは「泥」のことである。ちなみに桑田真澄氏の息子はマットであり、これもまた無関係である。
マッドランナーというのはタイトルの通り、泥道を走る車のゲームである。
より正確に記すならば、泥と戯れるお使いゲームである。
お使いとは、ある地点からある地点へ資材を運搬するということであり、悪路の地形を的確に読み、何度も横転しながら苦しさに耐え、
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている心境を保ちつつ、ひたすら仕事をこなす苦行のゲームである。
電流イライラ棒に似た緊張感を強いられると言えば、読者の中には伝わる者もいるかもしれない。
さて、スノーランナーは。
その名の通り、雪の道を走るゲームである。
前作からグラフィックが格段に向上し、視覚だけでなく、土煙や地面から沸き立つ臭いまでをも画面の向こうから伝わってきそうなプレイ感覚に陥る不思議なゲームである。
坂、であった。
道から外れるのが筆者の悪い癖である。
だから名を「はずれスライム」という。
どこにでもいる平凡で弱い生き物ながら、世間から外れているこの生物はnoteに限らずYouTubeにまで手を伸ばし、ダラダラと雑談しながらゲーム実況にハマり、
普段は自分が見る程度の視聴回数しかないチャンネルではあるが、偶然にもSwitch版のスノーランナーを実況する動画が初の1万回を超えたのだから、世の中分からないものである。
もちろん、この動画の他は大して普段と変わらない視聴回数ではあるものの、少しずつ登録者も増え、この度スノーランナーのプレイ日記でも書いてみようかと思った次第である。
坂の話であった。
スノーランナーにも坂がある。
いわゆるオープンワールド系のゲームであるこの作品には山も存在し、ポツンと一軒家のような険峻の中を、車幅ギリギリの道を自らの経験を基に切り抜けていくのである。
余談ながら(余談しかしていないが)、ローグライクというゲームのジャンルがある。その起源はパソコンの黎明期に記号をプレイヤーや敵などに見立て探索するダンジョン型の探索ゲームである。
このゲームの特徴は、毎回構造が変化するMAPを数々のアイテムを駆使しながら更に深く潜っていくもので、瞬時に状況を分析する経験はゲームキャラクターではなく、プレイヤーの側に蓄積する。
スノーランナー にもまたその要素がある。
橋は壊れ、道路には水が溢れ返り、そこらじゅうに岩が転がっている道とは言えぬ状態の道を重い荷物を積載した車両のハンドルに身を預けながら、
「どうしたものか」
と思案に暮れるのである。
秀吉から湿地帯だらけの江戸という未開の地を賜った家康の気持ちもまた似たものであっただろう。もし関ヶ原の結果が別のものであったなら、日本の首都は大阪にあったのかもしれぬ。
しかし、苦難を超えるからこそこの世に生を受けた愉悦がある。
死地から見出した活路が癒しとなる経験を筆者はこのゲームから感じたのである。
このゲームはスルメゲーである。
噛めば噛めば噛むほど、やめられないとまらない魅力がある。
車のゲームと聞いて、あるいはオフロードのレースゲーム、たとえば、Forzaのようなものを想像するかもしれない。
そうすると、見事にその期待は打ち砕かれる。
マリオカートのような爽快でコミカルなレースゲームとは全く違う。
ゆるゆると、秀頼の周りを少しずつ切り崩す家康の調略のようにじっくりと攻略するのがこのゲームの魅力なのである。
Switch版は最も後発の作品であり、他にはPC,PS4,Xbox版が発売されている。
つまり、幅広いプラットフォームで遊べる隠れた人気作品なのである。
もちろん、全て同じ内容であるが、筆者はあまりに好きすぎて全てを揃えてしまった変態でもある。
中でもSwitch版にはケータイモードがあるのでおすすめである。
単調な作業が多く、同じ道を何度も往復することが多いこのゲームにおいて、リラックスした姿勢で、時にテレビを見ながら、オーディオブックを聞きながら、ちょっとした時間にプレイできるというのは随分と相性がいい。
あまりの心地良さに、筆者のプレイ時間はすでに130時間を超えてしまった程だ。
「スノーランナー、おそろしい子」
と思わず白目でつぶやいてしまう程にすっかりドハマりしているゲームなのである。
おそらく、プレイ動画を見てもこの作品の本当の面白さは伝わっていないと思われる。むしろ、遅々として進まぬ退屈なゲームにしか見えないであろう。
スポーツに興味のない人がオリンピックを見ても、実際にその種目を経験した者の感動が分からぬように、やってみなければ分からないのがこのゲームの厄介なところでもある。
特に序盤は思うように運転できず、文字通り拘泥する気持ちに捉われながら、コントローラーに怒りをぶつけ、買ったことを後悔するかもしれない。
パッケージ版なら売り飛ばしたい衝動に駆られるだろう。
しばし、待たれよ。
そこもとの気持ちは分からぬでもないが、オープンワールド系のゲームというのは、序盤ほど飽きやすい。
自由すぎるがゆえにかえって束縛されるのである。
以下も余談ながら、
児童向けの寓話として『モモ』や『はてしない物語』の著者として有名なミヒャエル・エンデの作品に『自由の牢獄』という作品がある。
筆者はこの作品を受験生時代に『MD現代文・小論文』の「もうひとつの自由」という大澤真幸氏の文章で知り、原文を読んだのであるが、
この寓話の中の主人公はある場所に閉じ込められており、目の前にはたくさんのドアが存在する。しかしながら、どこにでも行ける自由があるがゆえにどこへも行けないという、ある意味で拘束された状態にあるという話で、これは、人生における選択肢が多すぎて、何を選んでいいか分からないという寓話である。
たとえば、スカイリムやゼルダの伝説ブレスオブザワイルドに代表されるようなオープンワールドと呼ばれるゲームは、見渡す限りの景色に向かって自由に行動できる。
もちろんゲームとしての制約はあるが、いきなり強いボスに向かう事さえも可能である寛容さがウリである。
ところが、この自由さこそが束縛を生む原因になるのである。序盤の弱装備で立ち向かうには行動範囲におのずと制限があり、一定の学力も無い者が自覚なく難問に挑むような現象も起こりうる。
わずか1時間程度のプレイヤーと130時間を超えた筆者とでは見ている景色が違う。
天守閣から望む眺望は、積み重ねてきた戦歴の上に成り立つのであり、現在のようにエレベーターで上がる大阪城の眺望は太閤様のそれとは違うのである。
何の話だ?
すでにここまで読み進めている読者には無用の問いかけかもしれない。
スノーランナーをプレイする時、ふと自分は今何をやっているのだろう?という虚無感が訪れることがある。
ただでさえ、仕事で疲れている体に、かすむ目をこすりつつ小さい画面を見つめながら、黙々と運搬作業に没頭する姿に自問する。
苦しい、しんどい、疲れた。
次々と浮かぶ弱音に眠気も加わり、やっとの思いで運んだ資材が目標地点の寸前で横転し、またやり直しかと絶望する。
その分、達成した時の高揚感は他のゲームでは味わえないものがある。
そして、かつてあんなに難しかった悪路が、何なくこなせている自分に気づいた時、成長を実感し、今日もまたコントローラーのボタンに力をこめるのである。
命を運んで運命という。ゲームの中の命を運ぶのは私であり、道を突き進むのもまた運命なのかもしれない。
おそらく私はこれから先もこのゲームをプレイし続けるだろう。
未来の私が見ている景色はどんなものなのか。
道なき未知の世界をこれからも楽しんでいこう。そんな悪戦苦闘する様をたまに動画で確認してもらえたら嬉しい限りである。