村上春樹

村上春樹の作品ひいては村上という人格がミソジナスであるという主張について。

こうした話題が再燃するきっかけとなった編集者の方の発言に異論はない。真っ当な意見だと思うし、ご当人もこれは意見であると述べておられたから。むしろ、その尻馬に乗って「批評」をしていると主張して他者を駆り立てようとしている言説には、端的にアンフェアなものが多かった。そのことについて書きたいという動機でこれを書く。

結局、作品を通して垣間見える(と捉えられている)著者の内的現実がミソジニスティックなものだ、という以上の申し立てを誰かがはっきり提示するべきだろう。そして、作家の内的思考が作品の内部に向かってダイレクトに「表現」されており、さもなくばそれらは作品内で蒸留するかのごとく「現れて」いる──つまり、ある作品とはその作者の思想を直接的に反映した産物であり、そうした内的思想を他者にプロモートする商品貨幣なのだ、という小児的な想像力から一刻も早く解放されるべきだ。

なぜなら、いかなる分野においても優れた作家の誰一人としてそのようにリニアで単調な形では仕事をしないからだ。更に言えばしないのではなく、そもそもそのような類型では村上が書いたようなレベルの作品はなにひとつ形成されたことなどないのだ。そんなはずはないと思うのなら、この人はある何か──つまり著者自身の主体を差し置いて、作品それ自体が最重要となる種のコミットメントに身を投じた時、あらゆる意味での「作品」がそうした主張とは全く似つかぬ独自の強度の形態学を通して立ち現れてくることを経験として即座に理解するはずだ。

過度に翻訳調な文体を通して主体の「暗がり」の方へ、そして世界内存在の真実というケイオスの方へブレイクスルーしようとする村上の直系の先駆者として大江がいるが、彼の作品も生前からミソジニスティックだという妥当な批判を絶えず受けており、そうした状況に対する作家の内的な自己批判や検討は晩年期の作品に準-メタエッセイ的な形で登場してくる。

が、しかしこの時興味深いのは、大江の真摯な反応と作品内に刻まれている彼の思考の軌跡──あるよりよいものへと向かおうとする自我のストラグルの線は、控えめに言ってもとんちんかんで、的を外していて、思ってもみない角度から奇妙な方向へと飛んでゆく。それは、インターネットの「批評家」が望んでいる解答からほど遠く、状況をより混迷させている。果たしてこの時、大江は「より反省して」また「より女性一般の理解者になって」いるのだろうか?この時大江に求められているのは内面的なモラルの「改善」を反映した寓話としての小説であり、かつ作家本人の「改心」という更に強力な物語なのだが。そこにはある種の社会正義を啓蒙する義務があり、そしてそれは作家の義務として了解されるべき常識ではないか。

気が狂うほど馬鹿げた話だと思わないか?

大江や村上を読んだ人が即座にレイプを始めるとは言わないまでも、その作品が世代的に横断するようなミソジニーを正当化し、伝搬しているのだ という主張は、あらゆる読者という主体の知性だけでなく存在自体に疑問を投げかけている。大江然り、村上があらゆる点で頑迷かつ不機嫌で身勝手であり人格に問題のあることなど、読めばすぐわかる。しかし「人格に問題がある」と公言する時、主体は一体どのような角度から、何について話をしているのか?社会正義が問題なのではなく、私は村上のような人間が憎いのだ、彼のような男は顔も話し方も考えも嫌いだ、だから彼の作る作品もまた醜く不正義に満ちたものだと自分は証明したいのだ、と正直に言ったらどうなのだろう。それは個人の見解として100%有効であり、万人にそうする権利がある。でも決して批評ではない。

もしあくまで自分は批評をしていると言い張りたいのなら、まず批評とは何かについて真剣に考えるべきだ。全くの未経験でプロテクターもなしに薄着でスケートボードを持って多くの人々がいるパークに行ったりなどしないように。頼まれた剪定で身勝手に枝を切って樹を枯らさないように。バトラー、プレシアド、ドゥボールだろうがエーコだろうがなんでもいい、文化批評と社会とが互恵的な変化をもたらした実質的な軌跡から、一度でもいい、何かを真剣に受け取ろうとすべきだ。なぜならこれらの作家たちの仕事とは対照的に、「作者の内面の表象としての作品(の影響)vs社会正義」に終始してそれ以上歩を進めることのないタイプの「論者」は、自らが語る対象への省察も理解もそうする意志も最初から欠いており、実のところ批評という行為にさえ至っていないのだから。

所与のものを乱暴に腑分けして、何かを明るみにしたと言い張ることほどたやすいことはない。その時、何も明るみにはなっていない。個人が他者の何かをバラバラにし、細分化し、自分が何か主観を握ったような「気分」を得ただけだ。それはほとんど自涜的な暴行、漠然とした復讐心の産物であり、本質的に幼稚なサディズム以上の何かでは決してない。

そして、最初から成立していないものがなにか偶発性の要素によって突如として成立するなどということは未来永劫起こらない。

Critical Theory(明晰さの理論)という外来語が「批評」という日本語に翻訳されるとき、完全に抜け落ちたのはまさしくそうした意味での理論だった。そこには先駆者たちの前例による地層からなる、まさに破られるべきルールとしての理論群がある。ツイッターでアカデミアの有名人の名前を列挙しながら「私は正しい」と恫喝することは、批評でもなんでもないし、「アクチュアル」であるはずがない。そうした主体が永久に他の言語となって読まれることのない文章、つまり地理的にも時間的にも責任の所在がない文章を書き捨て、誰かがそれを読んで完璧に同じ内容を反復する。失礼を承知で言えば、はっきり言って病的だ。そうした営みのすべては、言説の対象にも、また自らの言説の受け取り手が個人として知性と判断能力と内的思考を持っているという事実にも、そのどれに対しても単に敬意を払わない怒号、アジテーションであるとしか思えない。論理のない怒号が論理のない怒号を呼ぶ。そうした無責任な行為は、多くの人々を強制的に動員し、いつでも更なる集団的な暴力を要請する。結局のところこうした人々は、作家と読者を批評するという名目の下に、あらゆる芸術と読者の両者に疑念と憎悪を向け、そして読者の内に含まれている自らの存在に疑念と憎悪を向けている。

モラルや倫理の本質について一度も真剣に取り組んだことのない人間が口先で語るモラルは、いつでも更なる受動的な憎悪と暴力を、集団に向かって要請する。

「村上さんのところ」を読んだ人ならおわかりだろうが、ミソジナスという言葉ひとつで実際に村上の頭を駆け巡っている連想は恐らく、ありえないほどばかげていて笑ってしまうようなものだ。「ノーベル文学賞ではなくて脳減る文学賞というのはどうでしょう。それを獲ると、もう文学賞のことなんか二度と考えなくてよくなるのです。」と述べた人間である。村上夫人が「結局あなたは本質的に吉本新喜劇なのよ」(本人談)と言ってのけたことは見事に核心を突いている。村上の文学の本質は、そうした脱臼的な肌触りのばかげたユーモアにこそある。アモラルさも、インモラルさもそこから来る。それは実質的で、現実に照応する種の切迫性を持つ。笑いは、身体と精神の主体的な自由を奪い、一時的に死のカリカチュアをもたらす。モラルも最小限の差異もないその黒い場所、巨大な虚無からすべてがやってくる。芸術の種子はすべてそこにあり、われわれがそこからよりよい世界への鍵を創造し、汲み取らなければならないのだ。それ以外のことは、ニヒリズムの仕事である。

p.s. 文芸関係者なら誰も村上春樹のことを好きと公言はできないし、それは恥ずかしいことだと理解している・蓮實や柄谷が村上をダメだと言っていたことは一般人は知らないだろうが我々は皆知っている、そこに皆の村上観の齟齬があるという趣旨の文章を読んだ。こうした人々は自身のアイデンティティも含めて常に何かの「関係者」であって、まさに作家の仕事自体に匹敵する何かに思いを馳せることなど永久にないのだということがよくわかる。かの人々は文壇のゴシップがライフワークなのであって、何かについてシリアスになることなど一生涯無いのだ。価値の評定を自分の名においてできないのなら、最初から何も言わなければいい。それは誰にも何も与えないどころか、単に世界から奪うのみの言葉なのだから。

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