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ロスジェネ氷河期世代の「ドラクエ4」考察〜AI戦闘と「めいれいさせろ」の不在がもたらした当時の失望〜



1970、80年代生まれの私たち、いわゆるロストジェネレーション(ロスジェネ)世代は、ファミコンやスーパーファミコンを通してJRPGの黄金時代を体験した世代だ。特に『ドラゴンクエスト』シリーズは、我々にとって一大イベントであり、新作が出るたびに胸を高鳴らせていた。

そして1990年、『ドラゴンクエスト4』が登場した。当時私は高校生になっており、『ドラクエ3』の革新性とその完成度に圧倒されていた世代でもある。だからこそ、次なる『ドラクエ4』への期待感は尋常ではなかった。周りの友人たちも同じだった。学校での休み時間や部活後の会話は、次に登場するキャラクターや世界観に対する憶測で盛り上がり、新しい冒険が待ち遠しかった。

章仕立ての斬新さとキャラクターの魅力



『ドラクエ4』が発表された際、その大きな特徴は「章立て構成」という新たな試みだった。プレイヤーは、それぞれの章で異なるキャラクターの物語を体験し、彼らの視点から世界を見渡すことができた。これまでの「一人の主人公の冒険を追う」という形式とは大きく異なり、ゲームプレイに新鮮さを与えた。

各キャラクターにはそれぞれのバックグラウンドと個性があり、彼らのストーリーを追うことで物語が深まっていく。その中で、特にトルネコやマーニャ、ミネアの個性豊かなエピソードは当時の我々に強く刺さり、彼らが仲間になる瞬間は感慨深いものがあった。

しかし、問題は「AI戦闘」だった

ところが、この『ドラクエ4』に対する期待感は、5章に入った瞬間に大きく裏切られることになる。そう、AIによる戦闘だ。5章では主人公が登場し、これまで仲間になったキャラクターたちとともに本格的な冒険が始まるが、その戦闘システムが問題だった。

AIが戦闘を自動で行うというシステムは、当時の我々にとって非常に不満が残るものだった。『ドラクエ3』では自分で全員の行動を指示できた「めいれいさせろ」のコマンドがあったにもかかわらず、『ドラクエ4』ではそれが廃止され、仲間の行動がAIに委ねられる。これにより、思い通りに仲間を動かすことができないストレスが溜まり、「AIのバカさ加減」に対する不満が爆発した。

たとえば、重要な回復をすべき場面でAIが無駄な攻撃を繰り返したり、敵の弱点に全く気づかずに無駄な魔法を連発したりすることが頻繁に起こった。このような状況に、当時の我々は落胆し、「ドラクエ4は歴代作品の中でも残念な出来」という評価を下してしまったのだ。

「めいれいさせろ」の不在が生んだギャップ



今思えば、ストーリー自体は素晴らしいものであったし、キャラクターも魅力的だった。しかし、我々ロスジェネ世代にとって「ドラクエシリーズ」といえば、戦略的にキャラクターをコントロールし、緻密な戦闘を楽しむことが一つの醍醐味だった。そのため、「めいれいさせろ」が無いことが如何に大きな違和感を生んだかは、当時のドラクエファンでなければ理解し難いかもしれない。

もちろん、AI戦闘はシリーズの進化を象徴する新たな試みだったのかもしれない。しかし、私たちが慣れ親しんでいたシステムとのギャップはあまりにも大きかった。これにより、当時のプレイヤーたちが「ドラクエ4」に抱いた感情は、期待から失望へと大きく揺れ動いたのだ。

では、現在の視点から『ドラクエ4』を再評価するとどうだろうか。AIの未熟さやシステムの不満を一旦脇に置けば、物語やキャラクター、音楽の素晴らしさに目を向けることができる。当時は気づけなかったその深みが、今なら鮮明に感じられる。特に、各キャラクターの人生や感情が織り成す壮大な物語は、ロスジェネ世代として社会に出た今だからこそ、より共感を持って受け入れられるものだ。

さらに、現代のリメイク版では「めいれいさせろ」が復活し、当時のフラストレーションが解消されている。これにより、改めて『ドラクエ4』をプレイし直すことで、新たな発見や再評価が生まれることは間違いないだろう。

ロスジェネ世代が抱く「ドラクエ4」の特異な位置づけ

『ドラクエ4』は、シリーズの中でも特殊な立ち位置にある作品だ。当時のロスジェネ世代にとっては、AI戦闘という革新が期待を裏切る要因となり、一時的に評価が低迷した。しかし、今振り返るとその物語の魅力やキャラクターの個性、音楽の美しさが際立ち、決して「ダメな作品」ではなかったことが明らかになる。

だからこそ、ロスジェネ世代にとって『ドラクエ4』は、当時の期待と失望、そして今の再評価という二重の感情を抱かせる特別な存在であり続けるのだ。今こそ、もう一度『ドラクエ4』に戻り、その魅力を再発見してみる価値があるのではないだろうか。

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