子どもの局所的最上志向
眉間にしわが寄るような固い話ばかり続いてた気がするので、今日は日常回。
うちの2歳の子どもの言動を観察してると、いつも面白い発見があります。
以前から、ここnoteで、「ママがいい!」と言われてしまいシクシクお父さんは悲しいよ的な小話は時々差し込んでたかと思います。
今でもその「ママがいい!」傾向は続いてはいるのですが、ところがどっこい「パパだーいすき!」と抱きついてきてくれる場面もかなりあるんですね(ふふふ)。
「ママがいい!」の場面では「パパきらい!」との(パパにとっては人生を悲観したくなるレベルの大変つらい)コメントも合わせて泣き叫ぶことが多いにもかかわらず、それでいて普段そこそこ「パパだーいすき!」もいただけるということは、一応は決定的にパパが嫌われてるわけではなさそうです。
では、どういうことなのか。
よくよく観察していると、どうもママがいない時に「パパだーいすき!」が出やすくって、ママがいる時は「ママがいい!(パパきらい!)」が出やすいようです。
なるほど、これはつまりすごく生々しい形での最上志向的な相対評価なんですね。
パパを絶対的に嫌っているわけではない。なんなら大好き(ふっふっふ)。でも、ママの方がパパよりも相対的には評価が上である(しょぼん)。
で、ママとパパが同時に存在している時には、ママが優位だから「(その場でベストな存在である)ママがいい!」となり、かつ「(相対的に劣位にある)パパきらい!」と言っているということなのでしょう。
要するに、その場で最も良いものにしか目がいかず、最も良いもの以外は全て「嫌い」として拒絶対象となるというわけです。
大人だったら、二番手に好きなものを、わざわざ「嫌い」とは言いませんよね。「これ(二番手)も好きだけど一番はこっちかな」みたいに、二番手も一応「好きなもの」のカテゴリーには残します。
しかし、極端に最上志向であると「ベスト以外は全部嫌い!」になりえると。子どもはある意味、ピュアに正直だから、自分が今最も欲してるものを、どストレートにまっしぐらに求める。
それで、ママがいる時には「パパ嫌い!」となって、ママがいない時には途端に「パパだーいすき!」となるのでしょう。
「二位じゃだめなんですか?」と聞かれたら「ダメ、一番がいいの!」と答えるのが子どもというものなのでしょう。
かわいいですね。
加えて、大人と異なる点は、評価に際し「目の前にあるかどうか」が強く影響する点でしょう。
大人だったら一番欲しいものがその場になくって二番手で妥協しなきゃいけない場面では「一番欲しいものじゃないけど仕方ないか……」みたいに何となく心残りができますよね。
たとえば、本当はカレーが食べたかったけど売り切れて無くなってた時に「じゃあラーメンにするか」とする時に、ちょっとばかし欲求不満感が残る、あの感じです。
でも、小さい子どもの場合は、その場にないものは評価対象ではないようなんですね。ママがいない場面では、「本当はママがいいのに」と思うわけでもなく、「(この中ならパパが一番だ!)パパだーいすき!」とさっぱりしています。
評価がすごくその場の局所的な選択肢に左右されるんですね。
だから、ちらりとでもお菓子の姿を見せてしまえばすぐに「よこせ!」と怒濤の勢いで突っ込んでくることになりますが、逆にその存在を隠し通すことができれば案外欲しがることもなく乗り切れたりもするわけです。
これが、大人だと、(なんならそこそこ恵まれた環境で生きているにもかかわらず)「もっと良いランクのあれが欲しい」「もっとあの人のように成功したい」だなどと、「その場にないもの」と頭の中で比較して悶々としていたりもします。
「その場にないもの」のことはこだわらずさっぱりしてる子どもたちと、「その場にないもの」も含めて最上でないと満足できない大人たち。いったいどっちが子どもなんだかと思わないでもないですが、ともかくもこうした「選択肢の局所性」というのも子どもの子どもらしい特徴なのだろうと思います。
まとめると「この中で一番いいのをくれ(なお君たちに拒否権はない)」と妥協を決して許さない局所的な最上志向で迫ってくるのが子どもということになります。
まあ、あくまで江草が自分の子どもを観察してアブダクション(仮説形成)した仮の解釈モデルにすぎないので、本当に一般化できるかどうかは分からないのですが、こういう風に整理すると面白いなと思った次第です。
しかし、子どもは大人に向けて着実に成長していくもの。
だから、ぶっちゃけ、さっきの「局所性」についてはそろそろ危うい感じも出てるんですよね。
その場にない物でも欲しがりつつあるといいますか。
これが進むと、その場にいないママについても思いをはせて「ママがいい!」となってしまうリスクが高まります。ワンオペ場面もそこそこ多いパパ的にはこれは大ピンチです。
なんとか同時に「まあ二番手のパパでもいいか、しゃあねえな」と割り切って妥協してくれる大人な感覚も育んで欲しいものです。(いやでもそれはそれで寂しい気もしますが)