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無目的ホール、多目的note

なぞなぞ、なーんだ?

多くなればなるほど、無くなっていくもの、なーんだ?

……

みんなー、分かったかなぁ?


じゃあ、答え!

正解は「目的」です

記事のタイトルがヒントになってたから、みんなきっと分かったよね!



……と、謎の子供番組的なぞなぞノリで始めましたが、今日の話題はこれです。

いや、実際、目的って増えると無くなるから面白いなーとふと思ったんです。

多目的ホールとか多目的室とか、いろんな用途に使えますよ的な設備あるじゃないですか、でもあれって目的がいっぱいあるというよりも、特に目的はないスペースってのが正しいですよね。何にでも使えるし、何にでもなれるからこそ、そこに目的はかえって無いわけです。

分かりにくければ、逆に「目的がある状態」を考えてみるといいかもです。

たとえば、会社の志望動機とか聞かれてる面接の場面。要するに会社に入る目的を尋ねられてるわけですが、そこではある程度具体的に絞った答えが期待されてますよね。
「御社の○○業に携わってみたかった」とか、「国際的な御社に入れば成長の機会が得られる」だとか。
まあ内容はなんでもいいんですけど、そんな感じでそこそこ絞って練り上げられたイメージでの目的意識を求められてるわけです。

ここで、目的を列挙する形で「○○とかー、△△とかー、□□とかー、……とかー、××とかが志望動機です」などと延々と語っていたら、「なんやこいつ特別な目的意識はないんか」と思われること必至です。なんなら「その中で一番の目的はなんですか」と絞るように促されるかもしれません。

面接に限らず、会社のビジョンやミッションでもあんまり多すぎるとイメージが良くないのか、クリアーにドドンとクールなワンメッセージを掲げたりするものです。

社会の慣習的に、目的は1つか、多くとも2、3個まで。少数精鋭であることが求められてるんですね。

でも、目的は目的なのであって、それがたとえ多かったからといって、それらの目的を有してることは必ずしもウソと言えるものではないはずです。

先の面接の目的列挙回答でも、本当にそれだけ多数の目的を有してる志望者なのかもしれません。なのに、目的が多いとそれだけで「目的がない」として退けられる。
これって、けっこう面白い認知バイアスだと思うんですよね。


江草のnoteも、我ながら色んなジャンルの話をしてるなと思います。
その点で妻から「発信活動として何かワンイシューに絞った方がいいんじゃないか」と問われたことも過去にあるんですけど、なんかそういう感じで内容を絞るのって江草個人的にはしっくりこないんですよ。

なぜって、どの話もしたいのが江草のnote活動の目的だからです。言ってみれば、どのジャンルの話もそれぞれ江草のnote発信の目的なんですね。多目的ホールならぬ多目的noteとも言えましょうか。

それがもし人々の目に無目的に見えてしまうというのであれば、悲しいことですが、それは甘んじて受け入れるしかないでしょう。本来は多目的なのにバイアスで無目的に誤解されてるだけなのですから。


それに、そもそも無目的なのはそんなにおかしいことなのでしょうか。

いやね、先ほどからの話を逆転させると、無目的なのは多目的なのだとも考えられます。

あれもこれも何でもしたい、そんな無限の多目的性が、実は「無目的」という概念の含んでる本質なのかもしれません。

で、今の世の中何にでも目的を求めすぎてるんじゃないかなと感じるんですね。

先の面接の例もある意味そうですけど、それだけでなくもっと広い意味で、人生レベルの感覚において「あなたのやりたいことはなんですか」「あなたのなりたい者はなんですか」みたいなことを社会からずっと問われ続けてる感じがあります。

でもこれは、要するに「あなたの人生の目的を少数に絞りなさい」と言われてるのに等しいのです。無目的でも多目的でもなく「大きな(少数精鋭の)目的」を持ちなさいと。

これが必ずしもダメってことはないんですよ。「目的を持ちたい」という目的を持つことも人生にはありますからね(頭がこんがらがりそうな表現ですね)。

ただ、「(少数精鋭的な意味での)目的を持たないといけない」というのもちょっとどうなのかなと思うんですよ。

人間ってあれもしたいしこれもしたいし何でもしたいし、後からやりたいことを思いついたり、やってみたら飽きたり、そういう生き物じゃないですか。それを「確固たる目的を持たないといけない」としてしまうと、その人間らしい人生の味わいがなくなっちゃう気がするんですよね。

つまり、人、あるいは人生というのは驚くほど多目的であって、それゆえに自然と無目的なんだと思います。

ここにあって、無目的性(ひいては多目的性)を否定することは、人生の複雑性を削り取ってるところがあるんじゃないでしょうか。


こうした「目的」の確立にこだわる「有目的的志向」(これまた分かりにくい表現ですが)は、たとえば世の中でよく見かける、他人の活動を見て「どうせお金目的に違いない」とか決めつける仕草にも表れてるかと思います。

そういうのは往々にして実際にお金目的の成分もあるんじゃないかとは思います。ですが、それは必ずしも「お金のためだけ」とは限らないでしょう。なのに、そうした多目的性の可能性はいきなり無視して「お金目的だ」とワン目的に決めつける。こうした仕草が多々見られることは「目的とは少数精鋭であるはずだ」というバイアスが社会に蔓延していることの象徴ではないかと感じます。


なので、ちょっとここらで、「無目的」とか「多目的」を社会に取り戻せたらなあと思ったんですよね。

だから、それに資することがこの記事の目的です。

あ、もちろん目的がそれだけではないのは言うまでもありませんが。



そういえば、哲学者の國分功一郎氏も最近『目的への抵抗』という書籍を出されてましたね。

自由とは「目的への抵抗」である的なテーマの書籍だった記憶。講義録みたいな形式で読みやすかったです。

書きながら今急に思い出したので全然今回の記事の内容の踏み台にはしてないのですけれど(ひどい)、こういう書籍が出るのを考えても、私たちの「目的」との付き合い方は現代社会のひそかな課題なのではないかと考えさせられます。

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江草 令
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