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あなたの「私」は巨大ロボット派?変身派?
別に追加コメントとかツッコミとかではないのですが、先日の為末大氏の記事にインスパイアされて、ちょっと江草の私見も語ってみたくなりました。
「私とはどこにあるのか」という哲学的な問い。
確たる正解が出ようもない問いですし(なんなら人類はずっとこの問いであーやこーや言い続けてる)、人によってどう答えるか違ってくると思いますが、ともかくも捉え方は大きく二つに分かれる気がしています。
一つは、「身体も心も含めて私だ」というもの。いわゆる心身一元論というやつでしょうか。この見方では、心身は不可分で一体化されてるから「身体あってこそ私」ということになります。皮膚より内側が「私」という感じです。社会日常の一般的な認識はこちらが主流と思いますから、さほど説明は要らないでしょう。
もう一つの捉え方は、「心(あるいは頭脳)が私だ」というもの。この場合、身体はただの「私」の乗り物ということになります。心身を別扱いにするわけですね。多分、心身二元論になるのかな?デカルトの「我思う、故に我あり」はこっち系ですね。もちろん、実際には心が活動するためには身体も必要ではあるのですが、運動したり感覚器で情報を受信したりする「道具としての身体」という捉え方になります。
どちらが正しいかというのはここでは気にしません。それよりも話題として面白いんじゃないかと思うのは、「どちらの捉え方を好むか」でその人のキャラが出るという仮説です。つまり、この問いは、ある種の心理テスト的に使えちゃうんじゃないかと。
「私は身体派」にとって、身体は基本交換不能で(なにせアイデンティティの主体ですからね)、ずっと付き合っていく存在です。もし損傷したり喪失してしまうと回復不能という感覚もあります。
一方の「私は頭派」にとって、身体が重要ではないことはないのですが、「私は身体派」よりも随分柔軟に扱うことになります。基本身体は重要な「資本」として大事に扱うけれど、時と場合によってはそれを乗り換えることは十分に選択肢に入ると、そういう感覚です。
こうした傾向性に伴い、身体との向き合い方に対して次のような態度の違いが出るのではないかと。
・「私は身体派」は「身体を鍛える」「機能をフルに引き出す」を好む。
・「私は頭派」は「身体を換装する」「拡張する」を好む。
人って、身体を操作するのが得意な人と、道具や機械を扱うのが得意な人と、なんとなくあるじゃないですか。この得意の差の背景にはこうした「身体の捉え方」の違いがあるように思うんですね。
スポーツで言っても、陸上や体操のように己の身体を基本として競い合う競技もあれば、野球やゴルフのように特別な道具を駆使する競技もあります。さすがにスポーツなので確かにどちらも身体をビシバシ鍛えるのですが、道具まで含めてコントロールの対象としてるかどうかという拡張性の点ではけっこう性格が違ってくるのでは無いかと思われます。
直観的に操作できるタブレット端末(GUI)と、文字コマンドで操作するコンピュータ(CUI)の違いとかもありそうです。身体性からかけ離れた作業であるコマンド操作が得意な人はおそらく「私は頭派」の傾向があるんじゃないかと。
また、「頭派」は究極、身体は交換可能、なんなら不要と思ってるところがあるので、頭脳を電脳世界にアップロードしたら永遠に生きられるのではないか、みたいなSF発想もしがちです。
もちろん現実にはそうそう身体は交換できないのですが、「拡張した身体」である道具やガジェットについては、わりかし交換できるので、自分の身体(肉体)でなんとかするというよりも、その時とその場合に合わせた最適なアイテムを取りそろえることに関心が強い傾向があるのが「頭派」です。
こんな感じで、「変えられないからこそ己の身体を鍛える」という発想になるか、「変えられるからこそ機能拡張とカスタマイズにこだわる」という発想になるかの差が出るわけですね。
たとえるなら、巨大ロボットに乗って操作するパイロットのイメージか、自分自身が変身してスーパーヒーロー(ヒロイン)になるイメージかの違いですね。どちらもみな子ども時代(何なら大人になっても)に憧れる対象ですけれど、その「憧れの身体」を自身の一部とみなしてるかどうかの視点で見ると、対照的ではないでしょうか。(こうしてみると、同じ作品の中でどちらの体験も味わえる「戦隊もの」のコンセプトの秀逸さも分かりますね)
先にも書きはしましたが改めて強調しておきますと、もちろん「頭派」が身体を大事にしないという話ではありません。巨大ロボットに乗るパイロットも自身の愛機は大切に扱うでしょう(現実でも愛車やマイPCを大切にする人はたくさんいますよね)。しかし、たとえどれだけ大事にしていても究極的には「あくまで自分の一部ではない拡張デバイスに過ぎない」と思ってるというところが、「頭派」の自由すぎるところなんですね。
何を隠そう、江草はぶっちゃけ「私は頭派」のイメージがある方です(本稿でも明らかに「頭派」の説明の方が解像度が高いですよね)。そして、妻が対照的に「身体派」なので、お互いの感覚の違いが面白いんですよね。
江草が身体を鍛えなさすぎて日々の動きが重たい時に「自分にとって身体は頭の乗り物なんだけど、ついにガタが来始めてて困る」などとふざけたことを愚痴ってると、妻から「ちゃんと身体を大事にしなさい」と注意されるという。とほほ。
こうした話題を時々家でもするのもあって、つい為末氏の記事に相乗りさせていただいちゃいました。
皆さんはどちら派でしょうか。
しかし、書いててなんか昔も似たような話を書いた気もしないでもないなあと思ったら、書いてましたね。
話題の切り口は別ですけど、分析過程で結局、身体派と頭派で分けてるのはそっくり。
やっぱり、あーだこーだとずっと頭で考えられる、このトピックけっこう好きみたいです。
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