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僕は君たちにモヤモヤを配りたい
少子化問題などの社会問題がテレビ番組やネット記事で報じられてるのを見かけたときに、夫婦でそのトピックについてディスカッションが始まる時があります。
こういうトークは好きなもので、ひとしきり盛り上がるのですけれど、妻からは「しかし令の話を聞いてると問題の重さが突きつけられてモヤッとするわ……」とよく言われます。
江草の意見について、内容的にはご評価いただいてるようなのですが、解決策が見えずに「こんなんどうすりゃええねん」ってなって困るってことみたいなんですね。
実際、江草の話は「かくかくしかじかで、これとこれが衝突して悩むジレンマがあって難しい問題なのよー」という展開になることが多いんですね。すなわち、ジレンマを提示する傾向があるんです。
ちなみに、ここnoteでもそうなので、以前そのことを白状した記事も書いてます。
ジレンマって、つまり、大事なものと大事なものがコンフリクトする状況ですから、どっちも捨てがたくって必ずモヤモヤするわけですね。大事なものと大事でないものの衝突だったら、大事なものの方を選べば済む話なので、悩みようがありません。モヤモヤしなかったらジレンマでないと言っていいでしょう。
しかし、ご存じの通りモヤモヤというのは一般に愉快な感覚ではありません。現に妻が「むぎゅー」となってるように、モヤモヤするのは心地良くなくて嫌という人は多いでしょう。
だからでしょう。「○○が大事だ!」とか「△△の原因は××だ!」とか「□□をすれば解決!」などとスパッと言い切ってくれる言説は、世の中では人気があります。それこそ自分の中のモヤモヤが晴れて、スッキリしますからね。それはやっぱり気持ちいいですよね。
なので、正直あんまり世間受けも良くないし、アレかなあと思いつつも、つい江草はモヤモヤする話をし続けてしまってます。
これは単純に結論や解決策を断言するのが江草個人的な性分に合わないってのが大きいのですけれど、一方で、モヤモヤを欲してる人たちも一定数はいるのではないか、モヤモヤを提供する意義というのもあるのではないか、という想いもあったりします。
たとえば、こちらのNHKの番組『もやモ屋』。
小学生を対象にした道徳科目系の番組です。タイトルがまんまですけれど、その名の通り「モヤモヤ」を提供してくれる内容になってます。江草自身もたまたま数回見かけただけで別に毎回欠かさず見てるというわけでもないのですが、ほんとスッキリせずモヤッとした感じで終わるので、モヤモヤジャンキーの江草として、この番組は(もちろん良い意味で)非常に印象に残ってます。
やっぱり、道徳や倫理にまつわる問題というのは、たいていがジレンマに根ざしています。大事な価値観と大事な価値観が衝突する場面。それゆえモヤモヤの宝庫なんですね。
でもだからといって「モヤモヤして気分が悪いからこういう問題を扱うのはやめとこう」ってのが良いかというと、そういうことはないわけでしょう。そうして臭いものに蓋をするように無視することは、それはそれで別種のモヤモヤが生じると思うんです。
事実、まさに「モヤモヤ」を提供しているこうした番組が存在しているということは、一般に心地良くない感覚とされている「モヤモヤ」にも意義があると考えられてるし、そして、「モヤモヤ」を求めてる人も居るということを示しているのではないでしょうか。
さきほど、「臭いものに蓋」と言いましたけれど、この慣用句はほんと言い得て妙で、「たとえ見ないようにしても匂いだけは漂ってくる」という様をよく言い表してると思います。
どうしていいか分からないジレンマだけ突きつけられる「モヤモヤ」する話よりも、結論を断言してもらってスッキリする話の方が人気を博しているとはいえ、おそらくなんですけど、そうしたスッキリする話を聞いて腹落ちした人の中でも、実は「モヤモヤ」はどこかに残り続けてるのではないでしょうか。
いくら見えないように「モヤモヤ」を奥底に追いやっても、どうにもそこから「モヤモヤ」の匂いが漂って来ていることに薄々気づいてる人がいる。わざわざ見えないようにしたのに常にその存在感だけがあり続ける気持ち悪さ。そのこと自体がむしろ「モヤモヤ」しうるわけです。
ここに、いっそのこと「モヤモヤ」を直視した方が「スッキリする」というパラドックスが起こりうるんじゃないかなと。「モヤモヤ」を隠しきろうとするよりも、「モヤモヤ」を露わにした方がマシという段階はありうるんです。全ての人ではないにしても、個々の感性の違いによって、一部の人にはそうした理由で「モヤモヤ」を積極的に明らかにして欲しいというニーズがあるように思われるわけです。
だから、広く一般受けはしないにしても、「モヤモヤ」を提供し続けることにも意味はあるのかなあと思ってます。それに、「スッキリ」するタイプの話は既に大量に提供されてて供給過剰のような気がしますから、たまにはニッチに「モヤモヤ」を配る者がいてもいいんじゃないかと。
あと、「モヤモヤ」をあえて提供するということは、皆さんを信じてるということでもあるんです。
わりと一般にも普及してると思うので非医療系の皆さんのご存じかもしれませんが、医療の世界の有名な概念として「インフォームドコンセント」というものがあります。患者さん自身に病状の情報を伝えて、どう対応するかの同意を得るというプロセスですね。(最近では「シェアードディシジョンメーキング」などにも発展してます)
かつて、ガンなどが診断された時に、それを患者さん自身に知らせない(告知しない)というのが一般的だった時代があるんですね。治らない病気(もしくは治りにくい病気)を知らされても本人が辛いだけだから、と。
その後、医学の進歩で治療法が増えてきたというのとともに、患者個人も正確な自分の情報を知る権利があるという感覚が広がり、たとえ辛い情報でも(心理的サポートはもちろんしながらですが)本人にできるだけ伝えていこうという流れに変わっていきました。
こうした時代の変遷の象徴が「インフォームドコンセント」なわけですね。これはすなわち、人は辛い情報でも受け止める力があると信じてるということでもあります。
だから、愉快になりえない「モヤモヤ」な話をあえて提供するというのは、確かにそれで心地は悪くなってしまうかもしれないけど、それでもそれを皆で受け止める力があるはずだと信じてるからこそというところがあるんですね。
それに、解決策がパッと見思い当たらないような「モヤモヤ」も、皆で共有することで解決策(あるいは緩和策)が思いつくかもしれません。
「モヤモヤ」を指摘するのが好きだったり得意だったりする者は、あくまで「モヤモヤ指摘屋」なのであって、「モヤモヤ」を解消するのが得意とは限りません。
しかし、皆でともに不快感を受け止める覚悟をした上で「モヤモヤ」を広めれば、それを見た「モヤモヤ」を解決するのが得意な人(「モヤモヤ解決屋」)が良い策を出してくれる可能性があるわけです。
これぞ社会のコラボレーションだと思うんですね。
このように、皆が「モヤモヤ」を受け止める力はあるし、そして「モヤモヤ」を解消する力も持っていると、そう信じてるからこそ「モヤモヤ」を積極的に指摘できるわけです。
こう考えると、「モヤモヤ」を配るというのは、その語句から来るイメージと対照的に、むしろ楽観的で前向きな態度であるとさえ言えましょう。
なので、江草は多分これからも空気を読まず「モヤモヤ」を提供していく所存です。江草はなんだかんだ人類みんなを信じているのです。
……まあ、「令は世の中の問題を見つけるとめっちゃ嬉しそうだよね」って妻に指摘されるぐらいのモヤモヤジャンキーなので、ただの個人的な趣味趣向が強いことは否定しませんが。えへへ。
余談
なお、本稿タイトルの元ネタはこちらの瀧本哲史『僕は君たちに武器を配りたい』です。
また、「モヤモヤを受け止める力」については、実際「ネガティヴ・ケイパビリティ」としてその重要性が注目されてきてたりします。
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