見出し画像

他人事の少子高齢化問題、人口問題

最近、色んな言説の枕詞として「昨今の少子高齢化、人口減少の進行があり……」という文句がよく使われるようになってきた気がします。

我らが医療界でもそうで、こないだの学会でも「少子高齢化と人口減少に適応するためにうんたらかんたら」みたいな話がありました。少子高齢化と人口減少社会に我らの業界も備えないといけないぞ、的な。

確かに、間違ってはないと思うんです。少子高齢化と人口減少が各業界に影響を与えることは必至ですし、それに対応してこれまでとやり方を変えないといけないぞ、というのは理にかなった態度です。

ただ、ちょっと気になるのが、その枕詞を使う言説の大抵がなんだか他人事のような言い方な点です。少子高齢化や人口減少は「外部から勝手に訪れた危機」、言ってみれば「災難」みたいな風な語り口なんですね。自分たちに関係なく気づいたら降って湧いてた問題であるという感触で語られる。ここになんとも「他人事感」が見えてしまうんですね。

実際、枕詞の続きは基本的に「少子高齢化や人口減少の社会をどう切り抜けるか」の話に終始していて、「少子高齢化や人口減少そのものをどう対策するのか」とか「少子高齢化や人口減少の責任は私たちにもあるのではないか」という方向性の話はまずありません。もちろん、業界単位での言説でそれらの方向に深く切り込むことは難しいとは思いますが、そのニュアンスすら皆無というのはやはりその「他人事感」を表しているように思います。

たとえば、対照的なのは環境問題でしょう。もはやSDGsの筆頭かのように扱われてる環境問題。こちらの方は、意識の強さが十分かどうかはさておき、一応は「みんなの責任で温暖化が進んでるよね」という認識は得られてるように思います。だから、(その有効性の有無はさておき)ビニル袋の有料化や紙ストローに不便を感じつつも、「まあでも皆で対策しないとだしなあ」と納得されてるところがあるわけです。環境問題については「自分事感」が生まれてると言えます。

もちろん、環境問題においても「地球温暖化が進んだ時に適応するための社会のあり方」を考えるべきではありますけれど、まずもって「それだけしか考えない」ということはありません。誰もが当事者として温暖化を食い止めるための対策を検討したり、その原因や責任を内省する感じがあります。しかし、少子高齢化や人口減少においては、言わば皆が「温暖化が進んだ時の適応策」だけ注目してるような、そんな他人事感があるんですね。「なんか知らんけど温暖化が進んでるみたいだから地球が暖かくなっても生きられるようにしようぜ(CO2は気にせず引き続きガンガン排出するつもり)」的な。

なにも環境問題を甘く見てるというわけではないのですけれど、こうした当事者感の有無の差を見ると、少子化問題や人口問題の行く末は環境問題以上に厄介なのではないかと考えてしまいます。

確かに、「少子高齢化や人口減少の原因はどこにあるのか」は色々と意見が分かれるものがありますが、それでも社会全体のトレンドとして生じている時に、それが「どこかの誰かの他人のせい」ということはありえないのではないでしょうか。温暖化がそうであるように、皆が無意識に少しずつ見落としてきたことが蓄積して現れた問題であると考えるのが妥当でしょう。

だから、冒頭の枕詞に象徴されるように、自分たちがやってること、やってきたことは少子高齢化現象の発生とまるで関係ないかのような態度は、どうにも無責任さや不誠実さを感じてしまうんですね。(特に、それこそ人命そのものを扱ってる医療界は人口構成と人口ボリュームに無関係であろうはずがないですし)

しまいには、「この人口減少で人手不足になるからもっと働いてお金を稼ごう(経済を回そう)」とか「生産性や効率性を追求しよう」みたいな論調もしばしば見受けられます。これこそ意見が人によって分かれる論点であり、あくまで江草の私見ではあるのですが、つい「そういうとこでは……」って思ってしまいます。むしろ、その考え方こそが少子化につながってるんじゃないのかと。

ともかくも、同じく難題である環境問題と比べても他人事感が強く見えるという点が、少子高齢化や人口減少問題において個人的に気がかりなんですね。知らず知らずのうちに私たちが「人口問題版CO2」みたいなものを排出してないのか、もう少し省みられてもいいのではないかなあと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

江草 令
江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。