少子化対策は「お金をもらう」よりも「給食費無償化」の方がうれしいという不思議な意見
この間、珍しく紙の新聞を読んでいたら子育て支援政策についての記事があったんですね。で、それがなかなか興味深かったんです。
その記事は「異次元の少子化対策についてどう感じてますか」と巷の人にインタビューした内容です。
そこに載ってた一般的な子育て中の親御さんであろう方の回答がこちら。(文面はうろ覚えで江草が再構成したものですが趣旨はだいたいあってるはず)
いやあ、これすごく面白い回答だと思いませんか。江草は驚いて二度見しましたからね。
「お金をもらう」よりも「給食費無償化」が良いと。
一見すると対照的な項目であるかのように見えるかもですけど、よくよく見るとどっちもお金の話なんですよね。給食費分を補うぐらいのお金が給付されるならそれで全く同じ効果になるはずですが、でもなぜか「お金をもらう」のではなくって「給食費無償化」が良いと言われる。
「給食費をまかなえるぐらいの額の児童手当を給付して欲しい(その分増額して欲しい)」とも言えるはずにもかかわらず、あくまでそうではなくって「無償化の方がうれしい」なのです。
これ、「どっちにしても同じ効果だから手っ取り早く給食費無償化でもいいですよ」などと対等に並べてるわけでもなくって、無償化の方を明らかに優位に置いています。お金をもらうんじゃダメなんだ、無償化がいいんだと。
非常に不思議な回答でありますけど、それゆえに大変に興味深いと感じます。
どちらも詰まるところ同類の「金銭的支援」であるにもかかわらず、なぜ「お金をもらう」じゃなくって「給食費無償化」が良いと言われるのか。
あくまでこれは推論にすぎませんけれど、江草個人的には、ここに世の中に根深く広がっているアンコンシャスバイアスが透けて見えるように思うんですね。
それを今回は書いてみますね。
もっとも、江草の考えの主旨としてはこの過去記事で書いたものに近いです。
この記事では、巷でしばしば言われる「子育て世代が欲しいものはお金じゃなくて時間なんですよ」という言説に対して、そうした子育て世代の声は本当の意味でお金の優先順位が低いという意味ではなく、「子育て支援として政府から支給されるのがこんな端金でしかないなら、子どもを持たず自由時間を確保する方が良い」という意味にすぎないのではないかと指摘しました。
こちらはあくまで「お金」VS「時間」という別種のものの対立構図であり、今回の「お金(給付)」VS「お金(無償化)」という同種対立とは異なります。ただ、ここで見られる「政府からの支給金はどうせ端金レベルにすぎない」という潜在意識は今回でも注目に値すると思うんですね。
つまり、今回の「お金をもらう」よりも「給食費無償化がいい」という発想も、「無条件にもらえるお金はたかがしれてる」というバイアスがかかってるからではないかと推測できるわけです。「無条件にお金をもらうのはどうせ無理だから、給食費という必要支出のためなんだという理由付けで無償化してもらう方ならできるだろう」という、無意識的な思考の制約があるのではと。
これ、一見些細なことのようですが、とても広く現代の人々に行き渡っていて、そして実際に重大な影響力を持っている社会感覚だと思うんですよ。すなわち、「無条件ではお金はもらえない」「必要性を証明して初めてお金はもらえる」こういう社会感覚(コモンセンス)です。
なるほど、「お金をもらう」と「給食費無償化」は確かにどちらも同類の金銭的支援ではありますが、唯一これらが決定的に異なる点がありますよね。
それは、その用途が明確に規定されてるかどうかです。
「給食費という必要支出のためなんです」と用途を限定して要求した方が社会的に通るだろう、という暗黙の忖度がここに見えるのです。
ここで今回の話のきっかけをもう一度思い出して欲しいのですが、件のインタビューの回答者はなにも「お金をもらうのと給食費無償化と現実的に成立しそうなのはどちらか」という問いに答えようとしていたわけではありません。ただ単純に現行の子育て支援政策に対する自由な意見を問われて「自身の希望を直感的に答えた」というシーンです。
「こうなったらうれしいな」という希望を回答する。これはすなわち理想を回答しているわけです。ある程度現実の制約を離れて自由に理想を語っていいはずの場面。
そんな場面で「お金をもらうより給食費無償化の方がうれしい」という、よくよく考えると不思議な回答が出る。繰り返しになりますが、だからこそ、ここにとても示唆深いものがあるように思われるんですね。
先ほど確認したように、「お金をもらう」の方は用途の規定がありません。他方、給食費無償化は明確に給食費が用途として指定されています。
もちろん、給食費と同額だけの給付金支援を想定する場合は結局は給食費支払いで相殺されるのですから同じ結果ではあるのですが、それでも文面上で明確に用途が限定されてる方が「同格扱い」どころか「うれしい」と述べられることは、とても驚異的なことではないでしょうか。だって、より明確に不自由で、制限がかかってる方が「うれしい」んですよ?
そもそも、自由に理想を述べて良い場面なんですから、「給食費負担分を埋めて余りあるほどの多額の児童手当の増強をしてもらうのがうれしいです」と述べても別に良かったはずです。そういう意味では上限が明確に定まってる「給食費無償化」よりも、上限が定まってない「いっぱいお金をもらう」の方が「うれしい」と評価される方が本来自然と言えるでしょう。
にもかかわらず「お金をもらうよりも給食費無償化の方がうれしい」と語られる。「給食費無償化の方が現実的だからそれで仕方が無い」とかじゃなくって「うれしい」。
ここにはやっぱり「お金を用途規定もなく無条件にもらえる額はたかがしれてる」という思考の制約が暗にあると考えざるを得ないのではないかと江草は思うわけです。
先述の過去記事で紹介した、「給付金で支援すると言ったってどうせたいした額はもらえないんだから自由時間確保の方がいい」というシニカルな態度を「子育て世代はお金よりも時間を欲している」とピュアに評価してしまうのと似た構図です。
どうせお金はたいしてもらえないんだから給食費無償化の方がうれしい。最初からお金が多額注がれることは諦めてるというか、ハナから想定されてない感覚がここに垣間見えるんですね。
そもそも「自由な発想で理想像を答えてください」と言われても、意外と人って本当の意味で自由な発想は出ないものなんですよね。「自由に」と言われてるにもかかわらず、現実的な制約を潜在的に意識して「こんな感じかなあ」とそこそこ無難に答えてしまうのが人間です。思考の制約を取り払って真に自由に語るのは何気に難しいのです。(そもそも、思考の制約を取り払うのが難しいからこそ、少なくない人々が、意識的に思考を柔軟にし想像力を高めるトレーニングを試みたり、ブレインストーミングやジャーナリングのような独特のメソッドを用いたりしているわけですね)
だからこそ、ポロッと出た「理想像の縮こまり」には、人がどういう思考の制約にとらわれてるかが見えやすいとも言えます。
今回のケースで言えば、「無条件にお金はもらえない」という感覚に無意識にとらわれていることが見えるし、また、それと表裏一体の「正当な必要性を示すことでお金はもらえる」という感覚も同時に現れているでしょう。
では、これらの「無条件にお金はもらえない」「正当な必要性を示せばもらえる」という感覚が社会に広く行き渡ってるとして、それの一体何が問題なのか。
いや、広く行き渡ってるだけに「常識」とも言えるので、これを「問題」とネガティブに捉えるかは人によるかと思いますが、少なくとも、私たちの社会の思考のバイアスとして押さえておくべきとは言えるでしょう。
これ自体、何万字もかけて深掘りができそうなぐらい非常に面白い論点なのですが、既に本稿も長くなってるので、今回は至極簡単に概要だけざっくりいきますね。
まず、素朴な点から見ていくと、「どうせたいした額のお金はもらえない」と認識されてるということは、「異次元の少子化対策」の異次元性は全く期待されてない、全く信用されてないということを示唆していると言えます。
だってこれ「どうせ口だけで今までの慣習や予想の範囲を超えないんでしょ」って言われてるようなものですからね。「異次元」というワードに込めた意図は全く信じられてないわけです。政策としてかなり悲しい状況です(言い出しっぺの岸田総理ももう辞めちゃったし)。
あと、「ただ単純にお金がもらえる」ではなく「必需品の無償化」が選好されてるということは、ベーシックインカム(金銭支給)よりもベーシックサービス(現物支給)の方が一般には受け入れられやすそうという推測もできるでしょう。
江草個人的にはベーシックサービスには懐疑的で、ベーシックインカム推しなのですが、この状況は、ベーシックインカムの実現には、政治的ハードルとか財源的ハードルとか理論的ハードル以前に、こうした「現物の方がうれしい」という認知的なハードルをまず乗り越えないといけないことが示唆されるもので、ベーシックインカム派にはなかなか残念な情勢と言えましょう。
(江草がベーシックインカムの方が望ましいと考える核心的な理由までは書いてないのですが、ベーシックサービスとベーシックインカムのスタンスの違いはこの過去記事でちょこっと考察したことがあります)
そして、便宜上、ここまでずっと「無条件にお金がもらえる」と言ってきましたが、今回の件はほんというと完全に「「無条件」でもないんですよね。なぜなら少子化対策として「子どもを持つこと(育ててること)」に対してお金を給付しようという文脈ですから。
しかし、先ほどから見ているように「子育てをしている」はそのステータスのみでは多額の援助をされる十分な事由とは言えないとみなされてるのが「常識」なわけです。「子育て」という要因に加えて「給食」みたいな追加要素があって初めてお金をもらうことが正当化できると。この点は非常に重大と思います。
たとえば、他方、「仕事として働いている」なら、それだけでもって、お金をもらうことは正当とされてますよね。そう言われてもあまりに「常識」すぎて違和感がないかもしれませんが、「子育て」がそれのみでは金銭給付の事由としては不十分であるとみなされてることと比べると露骨に対照的な扱いです。
実際、仕事については、その内容を問わず最低賃金額が保障されていたり、なんなら「少子化対策のために賃金アップを」とあくまで仕事を通じた支援が叫ばれたりしてることを見れば、この社会において仕事が優位で子育てが劣位にあることは明らかでしょう。(子育てにも児童手当があるだろうと思われる方もいらっしゃるかもですが最低時給を家事育児労働の実働時間に当てはめたなら、いかに児童手当の手取りが少ないか明らかと思います)
概要説明だけで既に長くなってることからも分かる通り、この「仕事優位で育児劣位」という社会感覚の問題はちゃんと語れば数万字単位の超長文(下手したら本)になりかねないので、今日はこの辺で収めておきます。
こうした仕事優位社会の問題は、過去に書いたこれらの記事とか、
これらの書籍とか、
こうしたポストでも、
指摘されてる点です。
すなわち、近代社会は仕事のことばかり気にしすぎて、出産や育児のことをこってり忘れてしまってた。仕事には対価や賞賛の声を払うけれども、家事育児にはほとんど払わなかった。そのツケが今や世界的少子化として立ち現れてきていて「ああ、困ったどうしたものか」となってるわけです。
これは、こと今後の少子化対策を考える上では決して避けては通れない議論だと思います。
この大問題がそれこそ少子化対策についての市井のインタビュー回答から炙り出されている点、すなわち「お金をもらうよりも給食費無償化の方がうれしい」などという、少子化問題の背景たる社会感覚を反映していそうな回答を、ー市民が「望ましい少子化対策」として全く自然に答えてしまうという皮肉な状況が、とても興味深く思われた次第です。