新型「共有地の悲劇」
新型と言いつつ、別に全然新しい現象でもない気はしますけれど、あえて新しいタイプという立て付けで提案してみようという試みで。
「共有地の悲劇」という有名な小話がありますね。
みんなで使う共有地を設置したところ、みんな好き勝手に利己的に使うことで環境は荒れ放題、資源がついには枯れ果てて、共有地そのものが持続不可能になってしまうという現象を「悲劇」と称してるお話です。
「コモンズの悲劇」とも呼ばれます。
すごく「あるある」な腑に落ちる話の反面、人間そんなに利己的じゃないので案外「共有地の悲劇」は起きそうで実際には起きてないものだよという批判もあったりします。
そんな賛否はありつつも、社会資源の公共性のあり方を考える時の足がかりにはなる興味深いお話であることには違いありません。
で、今日はこの一般的な「共有地の悲劇」ではなく、また別のパターンでの「共有地の悲劇」もあるよねえ、という話をしてみたいと思います。
先の一般的な「共有地の悲劇」はみんなが好き勝手利己的に共有地を使おうとして起こった悲劇なわけですが、今度は「みんなが共有地をみんなにとって最大限有効に使おうとすること」で起きる悲劇です。特段、利己的ではないのに起きる悲劇ですね。
どういうことか。
共有地をみんなの共有資源として有効活用しようとした時、どういう話になるでしょう。自然と、みんなの資源なんだからみんながうれしいように使うのがいいよねとなりますよね。
そこで出てくる有力な発想が功利主義です。「最大多数の最大幸福」という例のあれです。
みんなのものだから、みんなにとって「最大多数の最大幸福」が実現できる活用方法が最も望ましいだろうとなるわけです。
すごく理にかなっていて真っ当な考えなんですが、実際にこれを徹底して行うと何が起こるでしょう。
それは「多数派の専制」です。
たとえば、ここに共有地としての広場があるとします。この広場をどう使おうかと考えたときに、野球場にする案とサッカー場にする案が出たとします。それらが同時に成り立つことがないので、決を採ったら、野球好きの方が多数派だったので野球場になりました。この場合、野球場にすることは「最大多数の最大幸福」として確かに合理的であるのですが、一方でサッカーが好きな少数派は涙を飲んで諦めることになります。
つまり、「みんなのものだからみんなにとって最大限有効活用しよう」という方針を採ると、その使い道は多数派の好みに流されていくということになるわけです。全員の立場が平等であるからこそ、少数派が少数派の好みで共有地を使うことは「利己的である」として退けられて、最大多数の最大幸福が実現できる使い道が「最も非利己的である」として正当化されるのです。
要するに、公共性のある共有地の使い道が、みんなの人気投票の結果で決まるということです。
これ「別におかしくないんじゃない?」と思われるかもしれませんが、これがまた現実に起こるとけっこうなグロテスクな状況になるんですよね。
たとえば、こちら、先日見かけた匿名ブログ記事ですけれども。
NHK-FMの番組改編で、一部にマニアックな需要があったクラシック音楽が聴ける貴重なラジオ番組が追いやられてるという訴えです。再放送だらけになって、如実に予算が減らされてることも垣間見えると。
これ、けっこうクリティカルな問題提起だと思うんですよね。
この方もおっしゃってるように、NHKが公共放送としての名目を保ってるのって、CMを打たずスポンサーをつけないからこそ、お金が儲かるかどうかにかかわらず多様なコンテンツを制作、放送できるという理屈があったはずです。
ところが、NHK受信料として皆から広く平等に金銭負担はもらってる以上、最大かつ唯一のスポンサーと言ってもいい「受信者たち」からの評判は無視できないのでしょう。つまり、「受信者たち」からの「俺らのお金を最大限有効活用しろ」という圧力はもろに受けるわけです。そしてこの「最大限有効活用しろ」という要望は、先に見たように「最大多数の最大幸福」に地続きです。
だから、多数派の支持を得る人気のある番組ばかり作って、少数派にしか人気のないマニアックな番組は打ち切っていくことになる。
実際、大河ドラマなり朝ドラなりも視聴率が上がった下がったで一喜一憂してますでしょ。「NHKなんだから視聴率なんて気にするな」という意見はもちろんあるものの、これは実のところ「受信者たちの支持を得ているか」を評価される圧力がNHKに強くかかってることの証左と思われるわけです。
で、いくら非営利の公的組織であって、CMを打つスポンサー企業が付いてなかったとしても、結局「みんなにとっての最大限有効活用」を追求すると、視聴率に象徴される人気投票ゲームに乗っかることになるんですよね。視聴率が高く、大衆に人気を博すコンテンツを志向するというのは、結局は営利企業である民放とやってることが変わらなくなってしまうわけです。
つまり、非営利の意義を謳っている共有地なのに、その実は、営利で活用するのとさほど変わらない利用方法になる。営利でやるのと変わらず多数派の支持におもねる活用方法に至るインセンティブが強くついてしまう。
こうした悲劇が起きてるよねというのが、今回江草が言ってる新型「共有地の悲劇」の内容です。
だから、営利(私的利益の追求)か非営利(公共性の追求)かの違いというのは、実は言うほど決定的要因ではなくって、その最終目的を得るための過程で共通して現状の人々の「最大多数のニーズ」を満たそうとするなら結局どちらも似たものになってしまうというわけです。
この悲劇を避けるには、大きく分けて二つの方向性が考えられます。
一つは、「共有地を最大限活用しなくてはならない」という前提からの脱却です。そうした「効率」や「効用の最大化」みたいな発想は、営利でも担える性質(というよりむしろ得意とするところ)なのであえて無視するということです。人気が無い少数派好みの利用法が反映される多様性の余地も残してこその共有地、と発想を改めるわけですね。
もっとも、さきほど例に挙げたNHKで言えば、やっぱり受信料は高く、みなの負担感が強いです。その上で、NHK職員の待遇がなかなかいいことも知られていると「俺たちの金を有効活用しろ」と圧力が出てくるのは無理もない話なのかもしれません。ついには「反NHK」を掲げるNHK党みたいなポピュリズム政党がまさに「NHKに対する人気投票ゲーム」の結果として現れてきたのも、この新型「共有地の悲劇」の象徴的な現象であると言えましょう。(NHK党に象徴されるような受信料への不満感が増してきているからこそ、NHKも不満を和らげるために大衆受けを狙うようになってるとも見ることが出来ます)
もう一つは、現状の「最大多数のニーズ」をただ単純に肯定せず、むしろ批判的にとらえる方向性です。
先ほどのブログにも含意されてますが、「プロジェクトX」みたいな番組をありがたがるのは低俗であり、クラシック音楽のような格調高い文化を大事にしろという考え方ですね。ジョン・スチュアート・ミルの言う「満足な豚より不満足なソクラテスである方が良い」のような質的功利主義的な発想です。
つまり、たとえ功利主義に沿うとしても、単純に「最大多数の最大幸福だー」と計算するのではなく、その質的な良し悪しも含めて総合的に判断しましょうという立場ですね。多数派の意見(人気)と食い違っていようとも、それがより質が高いものなのであれば少数派のものを保護するべきというわけです。
こうすると、ただ単純に多数決で決まるみたいなことがなくなるので、共有地の活用用途に複雑さと深みは出てきます。
ただまあ、すでにみなさんも思われたと思いますが、なんというかちょっと鼻につきますよね。「君たち庶民は高尚な文化をわかっとらんのだ」と、小馬鹿にされたような気持ちになる面は否めません。逆にそのことに人々がカチンときて、より大衆人気が高い活用方法を求める反動が強まる可能性さえありそうな気もします。
とはいえ、質的な側面を検討材料に含めることで、結局はみんなで共有地の適切な使い道をしっかりと考える機運にはなりえるということで、一定の評価はできると思われます。
というわけで、こんな感じでまた別パターンの「共有地の悲劇」もあるよねえ、と思いついた話を書いてみました。
こうした「共有地の悲劇」を避ける知恵が社会の中で成立しないと、結局は「みんな別々に何もかも私有して分けましょう」という社会になります。
それをいいと思うかどうかは人それぞれではあると思いますが、もし「それはいやだなー」と思われるなら、これらの「共有地の悲劇」の防止は、避けては通れない課題なのだろうと思います。