
ルッキズムのジレンマ
ルッキズム(容姿による差別)を初めとして、人の美醜にまつわる話はよく議論になります。美男美女だけがチヤホヤされたり優遇されたり有利だったりするのはおかしい。着飾ったり化粧したりして最低限の「美」を確保しないとスタートラインにも立てない。どうしてももともと人の容姿には差異があるのだからそれは不公平だと。
実際、切実な問題ですし、容姿のことで悩んだことがない人というのもおよそ世の中には存在しないのではないでしょうか。
それで、昨今の社会ではこのルッキズムの風潮に歯止めをかけるべく、「美醜で人間の価値は決まらない」とする論調が強くなってきています。それを認めてこそ平等で公平な社会であると。
この「美醜で人間の価値は決まらない」という主張については、江草も全く共感するところです。ただ、実際にこの主張に素直に従おうとするとちょっと意外な展開が起きるんですよね。
というのも、もし「美醜で人間の価値が決まらない」と心の底から皆が思っているなら、逆に他人に対しての「カッコいい」とか「ブス」とかの容姿評が堂々と言えるようになるんはずなんじゃないかと。「美醜」が当該人物の価値と完全に無関係であるなら、それは褒め言葉にも貶し言葉にもならず、単に色を見て「今日の服は赤い」とか「今日のズボンは青い」と表現するような、その人そのものの価値評価に関係なく、ただ見たままを言っただけの言葉に近くなるはずですから。
ところが、現行の世の中ではむしろ「人に対する美醜評価は避けようね」という方向に進んでいます。もちろん「醜」の方がより強く忌避されますが、「美」の方も避けられつつあるように思われます。なんというか「美醜」についての発言自体を抑圧することでルッキズムを避けようとしてる感があるわけです。
しかしこれは、先ほど「美醜で人間の価値は決まらない」と思ってるなら美醜評価を気にせずに発言できるはずという理屈の逆になっています。となると、表向きの論調としては「美醜で人間の価値は決まらない」と言いながら、その実むしろ「美醜で人間の価値が決まるからこそ容姿評価を公言するのは避けよう」という行動を取っている。すなわち「美醜で人間の価値は決まらない」と言いながらその評を避けるのは実はその基準が重大であるとみなしている態度になるわけです(論証構造としては「AならばB」かつ「Bでない」→「Aでない」というロジックです)。
今はなんとなくそんな言行不一致の社会状況になってるわけですね。
注意していただきたいのですが、別に江草はこのことによって反ルッキズム運動を批判しようとしているわけではありません。先ほど明言したように「美醜で人間の価値は決まらない」という命題には共感していますしね。
ただ、それを認めると、大っぴらに美醜評価が飛び交う世の中も肯定しないといけない気がして、ジレンマに陥ってるわけです。やっぱりなんか堂々と他人の容姿評がなされる雰囲気は、江草的にも違和感があるがために、江草自身「なんとも困ってる」という話なんですね、これは。
一応、ジレンマを解消する方向としては、「美醜で人間の価値は決まらない」という主張を取り入れつつ、それと同時に「人の美醜を評価してはならない」という規範も成立するようなロジックを検討する道があるかと思います。
たとえば「美醜で人間の価値は決まらないけど、それでも美醜評価をされると人は傷つく可能性があるから避けるべき」とか。すごく、真っ当で妥当そうです。
しかし、これもよくよく考えると疑問点が出てきます。それは「なぜ美醜で人間の価値が決まらないのに言われたら傷つくのか」という点。すなわち、「あなたの服は赤いね」とか「あなたのズボンは青いね」とか「あなたの身体は主に水分やタンパク質で構成されてるね」などと言われるのと異なり、「あなたはカッコいいね」とか「あなたはブスだね」と言われる時に私たちは喜んだり傷ついたり、心が浮き沈みしてしまうのはなぜかと。
これはつまるところ、美醜評価を言われた対象者自身が「美醜によって人間の価値が変わりうる」と(おそらく無意識的に)考えている可能性があるでしょう。その価値観を内面化しているからこそ、人に言われると心が揺れ動くわけです。この場合、「美醜で人間の価値は決まらないけど、それでも美醜評価をされると人は傷つく可能性がある」という文の後節が前節と矛盾していることになります(前節の「美醜で人間の価値は決まらない」が実は当人にも真に納得できてない)。
こうなると、まずそう言う対象者自身が「美醜で人間の価値が決まらない」という信念を持つべき(自家ルッキズムの解消をすべき)では、という反論が出てきてしまい、ちょっと具合が悪いんですね。
あるいは、対象者当人自身は「美醜によって人間の価値が決まる」と考えていないけれど、美醜評価を発言した発言者の方はおそらく「美醜によって人間の価値が決まる」と思ってる人間であり、それならば発言者の立場に立てばその美醜評価は人の価値を勝手に判断するもので不当である、とみなす方向性のロジックもありそうです。つまり、自分は美醜と人間価値を紐付けてないけど、それらを紐付けてる他者に言われるとそれは人の尊厳を毀損するものであると。
このロジックであれば、「自家ルッキズム」を攻める反論は回避できますが、こちらはこちらで「あなたはなぜその発言者がルッキズム人間であると断定できるのか」という問いが出てきます。
先ほども言ったように、理屈の上ではその人がルッキズムから解放されてるからこそ「美醜評価を忌憚なく述べてる」という可能性があるわけで、その発言者が本当に対象者の人間価値の評価も込みで発言しているかどうかは、発言のみからは区別がつかないんですね。
にもかかわらず、「人の美醜評価をする者はすべてルッキズム人間である」とするならば、それはそれで大きなバイアスと言えますし、この場合「ルッキズムを排除しようとしてる」というよりも「人の美醜という概念そのものを社会から消滅させようとしてる」という方が近い態度となるでしょう。「美醜による差別」を無くすことと、「美醜評」を無くすことは、やはり似て非なるもののように感じます。
たとえば「美醜評」を完全に無くすとなると、おめかししてきた妻に「きれいだよ」と褒めることもダメになりますし、推しのアイドルに「カッコいい!」と熱狂することも許されなくなります。なんなら、自分自身で美容やファッションを試行錯誤して「今日の自分いけてるじゃん」とテンションを上げることも禁止です。
ここまでくるとなんだか、人間文化の何かが消え失せてしまうような寂しいものを感じます。だから、できればルッキズムの解消と、美醜感覚自体の存続は、共存させたい気がするんですよね。
(ちなみに、この辺の議論でまずいのは「美男美女には他者から美醜評価されることの不快さが分からないのだ」などと言ってしまうことですね。それは「美男美女はこうだ」と人の美醜で人を勝手に評価している態度ですから、それこそルッキズムそのものであるからです。ルッキズム憎しの勢いのあまり自身がルッキズムを実践してしまうと、ミイラ取りのミイラになってしまうので注意が必要です。)
しかし、色々語ってきたところで今さらなのですが、ここまでルッキズムの議論がややこしくなる元凶は、そもそもの「美醜」という概念自体にあるように思われます。というのも、「美醜」というのは、たとえば他では「善悪」みたいに、その言語的概念自身に「優劣感覚」を内包してしまってるところがあるんですね(なんなら「優劣」という概念自身が「優劣感覚」そのものですね)。
そうすると「美醜」を表した時点で、勝手に「対象の評価」が付きまとってしまう。「美醜判断」に「対象の優劣評価」が不可分という可能性があるわけです。この場合、「美醜判断に基づいて人間価値評価を行う」というルッキズムを完全に排除するには、結局は「美醜判断」自体を取り除かないといけなくなってしまいます。
先ほど、江草自身が、「美醜による差別」を無くすことと、「美醜評」を無くすことは似て非なるもの、と言ったばかりで何なのですが、やっぱりこれがあながち「非なるもの」でもないのかもしれないという一抹の懸念も同時に感じてしまってるところがあります。前言撤回するというよりも、どちらも成り立ちそうというアンビバレントな気持ちです。
あと、もうひとつややこしい点は、「美醜」には言うほど分かりやすい基準がないという点でしょう。
他にも差別の温床になりがちな「人種」とか「性別」とかいうジャンルがありますけれど、これらも実際には境界は曖昧ではあるものの、「美醜」に比べれば肌の色がどうとか染色体がどうとかなど区別の客観的基準が用意されやすい。
ところが、「美醜」は、その人を「美しい」ないし「醜い」と評する人自身もそれがなぜなのか具体的に説明するのが難しく、究極的には「美しいから美しいんだ」的なトートロジーに落着するところがあります。(たとえば「あの人は鼻が高いから美しい」と説明した場合に、「なぜ鼻が高いと美しいのか」と尋ねられて結局「鼻が高いと美しいから」という説明になる感じ)
実際、有名な話として、どんな容姿が「美しい」と評されるかは、時代や地域、文化によって多様というのが知られてます。あるいは、巷で美形として人気の俳優が居たとしても、必ずしもその人の容姿を万人が「美形」と感じるわけでもありません。
こんな風に、「美醜」の判断はどうにも主観的でバラつきもあってつかみどころがない。こうなると「美醜で差別するな」と言っても、「美醜」の基準そのものが曖昧なので、よく分からなくなってくるわけですね。
じゃあ、差別はないのかというと、そういうわけでもなく、非常に主観的でバラつきもあるにもかかわらず、「確かにそこに在る」と思えるのが、「美醜」の不思議なところなんですね。
万人に同意されないとしても、その時代その地域その文化において「美しい」あるいは「醜い」と評される傾向が強い容姿というのはどうにもやっぱりあるわけです。
そして、理屈では説明しにくいけど直観的には「美醜によって人が評価されてる」「有利不利がある」と多くの人が共通感覚として抱いているからこそ、ルッキズムが議論の俎上に挙がってると言えます。
しかしながら、その基準が曖昧でぼんやりしているがために、具体的にこの問題に取り組もうといざ近づくと急に姿が見えなくなってしまう、そんなつかみどころがない蜃気楼的な難しさがあるのです。
この概念的難しさゆえに扱いに困るからこそ、「じゃあもう美醜評価を公言すること自体禁止!」と、「現実行動レイヤー」での抑圧で対応しようとなるという側面もあるのでしょう。
さて、長々と続けた「ああでもないこうでもない」という抽象的な話はさておき、最後に実践面での課題にも触れておきます。それは、社会から美醜評の公言を無くすことと、ルッキズムが解消されるかは別問題という問題です。
仮に誰もが他人の容姿を評することがなくなったとしましょう。でも、社会生活を営んでいれば人は「誰と付き合うか」を選ぶ場面が必ず生じます。これは恋愛関係や婚姻関係に限らず、仕事関係や友人関係でもそうです。そうした場面において、いくら表向きは美醜評が消え去っていたとしても、各々の内心で「キレイ」「カッコいい」と思う相手を選ぶことはありえます。それも本人も意識してない無意識レベルで進行する可能性さえあります。(なお、「キレイ」「カッコいい」でなく、よりマイルドそうな表現である「清潔感がある」「真面目そう」とかでも同様に容姿で選んでることには変わりません)
その人を選んだ理由を尋ねれば「美醜以外の基準で選んだ」ぽい説明が返ってくるでしょうけれど(特に反ルッキズムが浸透した社会では)、しかしその判断に本当に内心で当人の美醜評価が影響してないという確証はないわけです(なんなら本人自身でさえ)。
欧米の企業では採用候補者の写真を見ずに選考する(履歴書に写真不要)という噂を聞いたことがありますが、これは究極的には人は内心での美醜評価による選好から逃れられないと認めてるということでもありましょう。
ここで、各々の内心での美醜選好が影響して、その結果、美形の人たちばかりが優遇されてる疑いがある場面が生じたとしましょう。しかし、それをどう指摘したらよいのでしょうか。
たとえば「ほら、見ての通り美形の人たちばかりが採用されてる!」と糾弾した場合、止めていたはずの「美醜評価」公言の口火を切るのは他でもない糾弾者自身になってしまいます。ルッキズムを防ぐために(ないし「ルッキズムが無い社会」の証拠として)美醜評価の公言を禁じていたのだとすれば、それを真っ先に公言する者こそがルッキズム人間とみなされるというパラドキシカルな状況に陥るわけです。
以前、友人の医師としゃべっていたときに、「やっぱり美容医療は硬いよ。だって自由に平等に人が人を選ぶ時代になったら、容姿がものを言うのは自然な流れだもの、ニーズがなくなることはないよ」という意見を言っていて、確かに一理あるなあと思ったことを覚えています。(昨今の医療界では美容医療への医師人材流出が議論になっているのです)
人が誰と付き合うかを選ぶのは自由で平等な社会においては尊重すべき行為ですから、それを止めようがありません(このことは「付き合いたくない人と強制的に付き合わされる社会」が自由で平等と言えるかと考えると分かると思います)。また、全ての対人選好において「写真添付無し」みたいな対策も現実的に取りようがない以上、どうしてもそこに各自の美醜評価が入り込んでくるのも止めようがありません。
そして、自由で平等な社会では、自分が選ぶだけでなく自分も選ばれなければ対人交流ができないわけですから(相互同意で初めて交流が成立することになる)、自然と「選ばれる可能性を高めよう」というインセンティブが働きます。その結果が、昨今の世の中の美容意識の高まりなのではないかと思われるわけですが、それこそ結局は「美醜で人の価値が決まる」という社会に至ってしまってると言え、ここに江草は何ともモゾモゾとした感覚を覚えるのです。
以上、長々と語ってきましたが、いやほんと「美醜」って、やはり一筋縄ではいかない問題なんですよね。万人がずっと悩み続けてる問題であるだけに、考えれば考えるほどグルグルする、なかなかな難物です。
だから、本稿でも結局は明確な結論めいたことは出せません(すみません)。ただ、「めっちゃむずいよねー」と確認するのが主旨の記事です。
とはいえ、一応考察を通して得た個人的所感を述べておくと、「美醜」を完全に排除するのも変なことになるし、全面的に肯定するのも変になるし、だから、その間のモヤモヤっとした曖昧なところに「美醜」の地位を漂わせておくのが、結果としてはバランスがいいのかなあと思いました。「美醜」の概念自体が曖昧すぎるがゆえに、曖昧な位置こそがそれにふさわしいのではないかと。なんなら「美醜」自体にあまりこだわらずに、他の価値軸の醸造にパワーを振り向けた方が結果的に社会のルッキズム感は弱まってくるのかなと。
うん、これまた非常に曖昧でポヤンとしたオチですけれど。
いいなと思ったら応援しよう!
